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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

美しいだけの世界なら

美しいだけの世界なら祈りはいらない

作者: あおい

 

 揺らめく息吹に、謳が。

 たゆたう聖歌に、律が。

 交ざり合って空へ昇るのは、祈りの祝詞。

 あまいあまい、砂糖菓子のような女の子は、恍惚の表情で立ち尽くしていた。



 ▼美しいだけの世界なら祈りはいらない▼



 それは少女然とした、異邦の砂糖菓子。

 濡れ羽色の長い髪、紅い唇、夢見がちに潤んだ漆黒の瞳。肌は蜂蜜色でなんとも甘やか。その身に清らかな白を纏うのは、祈りのものに選ばれた乙女である。彼女の傍には星舟の神官であるハーヴィ。


「歓迎の宴は如何でしたか、ガウトさま」

「とても素敵でした! あの、でも、あたしの名前は」

「ガウトは清らなる巫女を指すいにしえの言葉なのですよ。ここではそう呼ばせて頂きたいのですが、よろしいですか?」


 ハーヴィの微笑みに彼女の白い肌が色づく。ガウトさまが可憐な花ならば、ハーヴィの美貌は女神が創りたもうた彫刻である。というのは、この場にいない謳うたいの言葉である。

 確かに。ハーヴィの曹柱石(マリアライト)の瞳は、きれい。

 ひとの美醜があまりわからないわたしにも、宝石の美しさは解せる。

 その双眸がわたしを捉えると、常と変わらない柔らかさでこちらへ微笑みを向けた。おや、と思う。ハーヴィの表情の変化は些末だが、嫌悪に似たそれがうっすら透けている。


「ヨル、湯浴みの用意を。隅々まで洗うんだよ。それから、ガウトさまはお疲れのようだから、香をたっぷり入れておあげ」


 うん、と首肯する。

 いつの間にやらいたわたしを不審がっているのか、寄り添うようにしてハーヴィを見上げる彼女。なるほど。匂いか。ハーヴィはガウトさまの纏う香りが気に入らないのだろう。外へは出さないが、存外子供っぽい男である。

 ただ、ひとつ問題が。ガウトさまの香、彼女にも選んでもらうべきなのだろうか。

 ところが、わたしの杞憂もなんのその。

 問題はすぐさま解決した。ぶるぶると小動物のように震え、なんでもいいです、と声高に彼女が叫んだのである。ならばと蜂蜜色の肌に合わせて調合した香を浴場へと持参する。湯着を剥ごうとすると驚くほど暴れられたが、ちからづくで押し進めた。ハーヴィが隅々までと言ったのだ、わたしはそれを果たさねばならない。

 頭のさきから爪のさきまで、ぴかぴかに洗い終えたところで、ガウトさまが恐々とわたしを窺っている視線を感じた。居心地が悪い。彼女の瞳は真っ黒で、今宵の空よりも暗いだろうから。


「なんでしょうか」

「あ、えと、その……さっきのハーヴィさんとどういう関係なのかなあって」

「どういう、とは?」

「だから、その、恋人とか」


 なんと。ハーヴィはあれだけの会話でガウトさまをたらし込んだらしい。おそろしい男である。


「わたしとハーヴィは、ただ、お仕えする(ぬし)さまが同じというだけです」

「あなたも神官なの?」

「いいえ、わたしは管理者ではありません。うたいませんし奏でもしません。ですが、同じ神の膝元にいます」

「んと、よくわからないけど、ハーヴィさんの恋人ではないのよね?」


 深く頷くと、湯で赤らんだ顔がほころぶ。巫女の衣装を用意せねばならないのに、ハーヴィについての質問攻めにあってしまった。知らないことばかりで有益なものは渡せなかったが、それはそれで満足したらしい。よくわからない反応である。

 そののち。件のハーヴィが待つ食堂に着いた頃には、謳うたいも星舟に帰還していた。わたしとガウトさまを認め、気障に片目を瞑ってみせる。


「ヨル、久しぶり。そしてはじめまして、お美しいガウトさま。私は語るもの、謳うたいのフロプトと申します」


 編み込んだ長い金髪を揺らし、紳士であれとガウトさまの椅子を引くフロプト。だが彼女はすでにハーヴィに惚れている。優しくしても無駄なのである。しかし放っておいたらこの男、わたしまで恭しく扱うので、さっさと座ってしまうに限る。ひとり足りないが、しばらく戻ってこれないと言っていたから晩餐には間に合わないのだろう。残念。

 食卓に並ぶのは、目にも鮮やかな料理たちである。

 ハーヴィの挨拶で食事は開始された。喋る役はこのふたりと決まっているので、わたしはただ腹を満たすことだけを考えていればいい。


「ガウトさまは異邦の方とお聞きしておりますが、ここの居心地はどうでしょう。不自由はしていらっしゃいませんか?」

「お気遣いありがとう、フロプトさん。はじめはいきなり巫女だなんて言われて不安だったけど、城の騎士のヒルドールヴさんというひとが星舟がいいだろうって案内してくれて……あんなに素敵な歓迎の宴も開いてもらえて……あたし幸せものだわ。見ず知らずのひとにこんなに優しくしてもらえてるんだもの」

「そうですか、それはよかった。巫女たる方に不手際があっては一大事ですからね」


 お喋りのフロプトと気が合うのか、食事の合間によく話すひとだ。微笑を浮かべるハーヴィと笑顔を崩さないフロプトは、まったく笑みの質が違う。ハーヴィのそれはこころ奪われる類いのものであり、吊られて笑顔にさせられるのがフロプト。らしい。以前フロプトが自身でそう言っていたと記憶している。


「ガウトさま、巫女たる貴女はこの国に触れてなにを思われましたか?」


 ハーヴィが静かに問う。

 その双眸は、おそろしいほどに凪いでいる。


「そうね……。美しい、かな。澄んだ空、豊かな大地、そしてあたたかなひと。なんだか夢を見てるみたいで。こんなにも美しい国知らないわ。あたしの故郷より、ずっときれい」

「光栄です」


 そのあとは、フロプトの独壇場だった。

 フロプトの語りにガウトさまが笑う。それだけ。わたしもガウトさまも、料理はたくさん食べた。男ふたりよりも。恥ずかしそうにしているガウトさまのフォローも、フロプトの目指す紳士の役目であるらしい。ご苦労さまである。

 儀式の日まで、あと七夜。

 わたしは主さまの膝元で、夜が過ぎるのを待つのみだ。


 そう思っていたのだけれど。

 たった七夜。だが、されど七夜。

 ようやく儀式の日を迎え、わたしは萎えた気持ちを奮い立たせる。主さまへの祈りを。それだけで動けているといっても過言ではないくらいに、わたしは疲れ果てていた。

 原因はひとりしかいない。ガウトさまだ。

 星舟の巫女――その触れ込みを自分の権力だと解釈したのだろう。そしてわたしは使ってもよいものだと。彼女のわがままはわたしに苦行を強いた。ハーヴィのところへ連れて行けだの、フロプトと散歩がしたいだの、そういう類いのものばかりだ。

 もはやガウトさまの世話を焼くだけで生気が吸いとられてゆくような気さえする。「美しい星舟をもっと知りたい」その一言でわたしがどれほどちからを行使したか。星舟は主さまの砦。主さまの恩恵なくして彷徨けないというのに。


「ヨル、ねえ、ヨル!」


 そうしてこころを砕いてなお、みなが呼ぶ愛称でしか記憶されていない程度の存在である。七夜前に、ハーヴィと同じく名乗ってはいるのに。別にいいけれど。


「あなたの主さまってどんなひとなの? 今日の儀式で会えるかしら」


 挙げ句これだ。

 このひとは主さまをなんだと……いや、なにも言うまい。沈黙は金だ。というわけで、無言で衣装を着せてゆく。はじめは抵抗をみせていたが、慣れたのだろう、いまではされるがまま。化粧はしない。髪も結わない。儀式には飾るものは不要。


「行きましょうガウトさま」


 肌と同じ、甘い蜂蜜の香りを纏っていれば、それでいい。

 向かうのは聖堂。儀式の際に開く、赤の間である。磨き上げられているものの、がらんどうの印象が強い。しかしそれは普段のみ。有事には壁に赤の布を巡らせ、祭壇には大きな宝玉が掲げられる。たったそれだけだが、神聖なる場ということに疑いも持てぬほどに様変わりするのである。


「さあ、これですべて揃ったね」


 そう言って。聖堂を見渡す紫。

 儀式を取り仕切るハーヴィである。

 謳うたいのフロプトは聖歌隊に混じっている。

 わたしはガウトさまが立つ祭壇の傍に控える。全身へと渡る静かな高揚は、やはり主さまに祈りを捧げることができるゆえか。自然と笑んでいたわたしを、目敏くハーヴィが見つけた。その唇には淡い喜色。それに嬉しくなるわたしは、いつか言われたようにどこかおかしいのだろうか。


「これを、ガウトさまに」

「うん。――きれいな剣だ」


 その刀身は赤に土を混ぜたような暗い赤錆色なのに、煌めきは柘榴石(ガーネット)を思わせる。刃渡りはわたしの手首から肘まで。長くはないが、軽く触れただけで指から血の雫が垂れた。儀式にこれ以上のものはない。

 聖歌隊がうたう。

 律を紡ぐ奏者がいなくとも、フロプトがいるだけで声は重厚な音楽になる。穢れを削ぐ、そのための禊。たっぷり一刻、うたい終わればフロプトを除く聖歌隊は儀式の間を退室する。主さまにお目見えできるのは、主さまへの懐へ入るものだけ。ふと、胸が掴まれたように熱くなる。わたしはふらりと一歩踏み出した。


「ヨル、あたし祈るわ。その剣を貸してちょうだい」


 ああ、星舟の巫女。

 ――主さまのための、ガウト。


「ヨル? ねえ、ちょっと……剣にあたしの血を垂らして祈ることで儀式になるんでしょ? だからそれを――」

「あなたはなにもしなくていい。わたしがやるから」

「は?」


 笑う。にこりと。漆黒の瞳が驚きに見開かれるのを眺めながら、わたしは剣を閃かせた。

 ぱちん。果実が弾けるように血飛沫が上がる。

 わたしの振るった剣は、右肩から腰へと袈裟懸けに赤い線を引いている。仰向けに倒れ込む乙女の身体。祭壇へ豊潤な血潮が流れ込む。主さまは、それでようやくこちらへ出てきて下さる気になったようだ。


「どうしたよ、フィヨルニル」

「主さま、七夜前にお伝えしたでしょう。ガウトです。あなたのための、砂糖菓子」


 大きな霰石(アラゴナイト)の瞳が、猛禽のそれでこちらを見下ろしていた。倒れた彼女から悲鳴。殺さぬように薄く裂いたのだ、立ち上がろうとすることは予測済み。足払いで再び転がし、俯せたところに馬乗りになって顔を上げさせた。

 祭壇の向こう、天鵞絨(ビロード)の垂れ幕から半身を覗かせる巨躯。金の双眸はどこか眠たげで。しなやかな全身を剣と同じ材質の鱗で覆い、その下では太い筋肉が蠢いている。のそりと這い出してくる際に下ろされた五本の爪は、硬い床に亀裂を生み、静寂を引き裂いてゆく。巨大な顎と剣の如き牙。それらを内包する頭部は、ため息がでるほど美しい。

 ――隻翼の竜。

 それがわたしの敬愛する主さま。

 漆黒の瞳にはどう映るのか。覗き込んだが、その黒は恐怖と混乱に虚ろですらある。ぱくぱくと唇が声にならない言葉を紡ぐ。


「え……あ、なに、どういう」

「あなたは星舟の巫女。主さまのために祈るもの。ガウトとは――、すなわち生贄」


 狼狽する彼女に教えてあげる。あまいあまい、砂糖菓子のお嬢さんにもわかるよう、優しく囁いて。


「この国へ迷い込んだ異邦の輩は、ほんとうの苦しみを知らない。戦争を、飢えを知らない。主さまが大地を潤すには、そういう贄でなくてはだめなの。だから異邦の輩は、巫女として大事に大事に、生贄としての価値を磨かれる。あなたはこの国に大切にされた。ひとに優しくされた。だから今度はあなたの番」


 ひたり。

 仰け反らせた喉に、刃を添える。

 どれほど美しくても、世界は無情だ。施しには裏があり、それが己の命を脅かすことなどいくらでもある。砂糖菓子はそれを知らない。ああ、けれど。無知は命を繋がないこと、最期に学べてよかったね。


「あなたの命で――わたしたちに優しくして?」



 ▼▼



「主さま、主さま」

「あん? フィヨルニル、どうした。寝れないか。まだまだ餓鬼だなあ」


 主さまの口から牙が零れる。笑った。

 夜の帳に包まれた私室に鍵はない。巨躯をうねらせ、わたしのために懐を開いてくれる。

 主さまを体現する鱗の柘榴石(ガーネット)は、愛情と絆の色。だからわたしは主さまのフィヨルニル。蜜酒を隠すもの、守るもの。ガウトはいままでにも数えきれないほど存在した。みな、主さまの慈悲がほしいから、保護した異邦の輩を献上するのだ。わたしのお役目は、砂糖菓子を穢さないよう、溶かさないよう、捧げるその日まで守ること。そして隠していたその濃密な命の贄を、最後にわたしが抉じ開ける。

 それこそ、わたしと主さまを繋ぐもの。

 けれど、燻り続ける不安に襲われる夜も、ある。


「主さま、わたしはいつまでフィヨルニルでいてもいいのですか?」

「ばあーか。好きなだけやれ。誰かに奪われたら取り返せ。死ぬまで、いや、死んでもやってみせろ。そうしたら、俺もお前を一生愛でてやれる。なあ、フィヨルニル?」


 けれどわたしのちっぽけな不安など、主さまの一声で容易く溶解する。だからわたしは主さまのものなのだ。


「――はい。主さま」


 わたしはフィヨルニル。

 主さまのための、隠すもの。守るもの。

 きっと、これからもわたしはフィヨルニルだろう。

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