会長の思い出(1)
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会長の思い出(1)
西口店は大手雀荘チェーンの系列だったが、その中でも唯一最低レートの店だった。
すぐそばに同じ系列店があり、そちらを〝本店〟と呼んでいたことから察するに、恐らくはレートによる差別化を図ってビギナーを呼び込み、やがて本店へ誘導するための〝登竜門〟的な位置付けを考えていたのではないかと思う。
しかしピン雀(千点=100円の店)以内の一般的なレートの差というのは大した違いとは言えず、他のギャンブルのように一攫千金を当て込んで麻雀を打つ奴などいない。
つまりその範囲のレートなら、少ない持ち金でより長くゲームを楽しめる方がいいと考える人間が集まるのだ。
例えば勝ったり負けたりでゲーム上の収支がトントンだとしても、店に支払われるテラ銭(ゲーム代)の分はマイナスになる。
1ゲーム500円なら10ゲームで5000円となるところを、ゲーム代300円なら3000円で済む訳である。
だからその分、西口の常連は数を打つ人間が多く、損得抜きでとにかく麻雀が好きな連中が殆どだった。
もちろん初心者が多いのも事実だが、常連の中には若い頃に〝キツい麻雀〟を打ってブイブイ言わせていたようなオジサン達が、すっかり丸くなって軽い遊びの麻雀を楽しみに来ている人も少なくなかった。
片や、学生や若いフリーターなど、文字通り「金はないけど暇はある」奴らに至っては、まるで西口店に住んでいるかのごとく居ついている連中もいて、そのまま店のメンバーになってしまう奴もいた。
そんな面子がゴロゴロいるのだから、西口店のレベルは決して低くはなく、たまに本店に足を延ばしてもなんら劣るところはない。
ただ、マスティー仕込みの西口麻雀に慣れてしまうと、他店のマナーの悪さや麻雀自体のセコさに馴染めないというのが、常連達の本音でもあった。
この西口麻雀を好んで足繁く通って来る〝往年の麻雀打ち〟の一人に、サイトウさん(仮名)という五十前後の人がいた。
オイラが三十代の頃だから、サイトウさんが麻雀でブイブイ言わせていたのは昭和40~50年あたり、雀荘がもっと怪しくてダーティーだった時代ではないかと思う。
「昔は先ヅモ先切り何でもありでね。俺も若かったから、掴み合いの喧嘩なんてしょっちゅうでしたよ」
サイトウさんは若い奴らに対しても柔らかい口調で敬語を使う温和な人だが、麻雀だけは手加減してくれなかった。
その強さもさることながら、勝負に対するスタンスというか、美学や哲学を持ったスタイルに憧れて、当初はサイトウさんのことを勝手に「師匠」と呼ばせてもらった。
ところが「その呼び方、やめて下さいよぉ~」と拒絶されてしまったので、「会長」に改めた(笑)。
麻雀ファンなら知らない者はない、雀鬼・桜井章一のことを弟子達がそう呼んでいることに習ったのだ。
柔和なサイトウさんとは正反対に、普段乱暴な口調のオイラが「会長、おはよう御座います!」とやるものだから、オイラより新しい常連達は「あの人、偉い人なんですか?」と聞いてくる。
「俺の師匠だ。万が一、お前が会長より強くなったら、俺のことパシりにしてもいいぜ」
と冗談混じりに答えていたが、実際 オイラは誰のパシりにもならずに済んだ。
そのうちみんながサイトウさんのことを「会長、会長」と呼ぶようになり、内心迷惑がっていたサイトウさんも、諦めて受け入れざるを得なくなっていった。
★ ★ ★
麻雀は、4人が4人ともトップを目指すゲームである。
オーラスの段階であまりにも点差が開き過ぎて逆転が見込めない場合は、せめて2着をキープしようとするし、それすら無理ならラスだけは免れようとする。
その妥協点というのは人によって違うが、会長の麻雀はどんな不利な態勢からでも可能な限りトップを狙う。
それは当然リスクを伴うから、下手をすると勝ちも大きいが負けも大きい、いわゆる「トップ・ラス麻雀」になりがちだが、会長のアベレージ成績は当時の西口常連の中でも群を抜いていた。
つまり上手さと強さの両方を持った人だったのだ。
上手い麻雀と強い麻雀の違いは、説明がなかなか難しい。
例えばよくあるパターンとして、3着目のオーラスで2着目に1000点差、トップ目には1万点差だとする。捲るにはトップ目の親から5200点以上を直撃するか、満貫以上をツモ上がらなければならない。
99①②③③④⑤⑥⑦⑧四五
中級レベル以上の打ち手なら、ドラのないこんな平和をテンパってリーチはしない。この手がトップ条件を満たすのは、9索もしくは③筒が裏ドラとなるか、一発ツモ、若しくは親が一発で振り込んだ上で裏ドラが乗った場合のみだ。
まずこの牌姿なら、裏ドラ1枚に望みを託すとしても、2枚ダブりを期待するのは都合良すぎるし、一発を条件とするのも同じである。
つまりこれでリーチするということは、言い換えれば「9割方、2着終了で妥協する」ことを意味する。
この手は殆どの場合、⑨筒を引いてイッツウ(一気通貫)を完成させてからのリーチを考えるのが一般的だ。
そこへ先に三-六萬をツモ上がってしまっても、400・700点の上がりで2位は確保出来る。
ここまでは平均点の麻雀。
それでもさらにトップを諦めず、③筒切りのフリテンリーチにいく(⑨筒が残っている場合)かとなると、半々に別れる。
リスクを負って前に出る強さを持てるか? その上で上がりきる勝負強さがあるか? という場面だ。
では、フリテンリーチして一発で⑥筒をツモ上がったとしたら?
ここは裏ドラ1枚を期待して上がり、結果的にドラなしで2着終了しても、「なるほど、残念だったね」と、誰もが納得してくれるだろう。
ところが会長の場合はこれをノータイムで切り飛ばし、最終的に⑨筒を引き上がって裏ドラ1枚の跳満にしてしまう。
「だって③⑥筒で上がったらストーリーが成り立たないでしょ?」
と微笑んだ会長の言葉は、改めてオイラを痺れさせた。
牌効率や統計データを重視するデジタル派は、数学的・論理的根拠を持たない麻雀を〝オカルト派〟と嘲笑するが、百歩譲ってそれで勝率が上がったとしても、それによって何が得られるのか? というのがオイラの疑問だった。
デジタル麻雀で2割5分の勝率が3割になったところで、大衆店のレートで一儲け出来る訳ではないのだ。
オイラのような麻雀打ちが標榜するのは、デジタル派でもオカルト派でもない、言うなれば「ドラマ派」である。
野村克也の野球よりも、長嶋茂雄が熱烈に支持されるのは何故か?
中田英寿よりもキング・カズがファンタジスタであり続けるのは何故か?
ドラマのない人生などつまらないし、人生はデジタルであってはならない。
ドラマのない麻雀などつまらないし、麻雀はデジタルであってはならない…のである。
オイラのこの思いを、図らずも会長は「ストーリー」という言葉で表現してくれたのだった。