最終話 キノとマコ、永遠にと
1
自宅で療養中のキノのもとに、一通の招待状が届いていた。差し出し人は、『花宗院家』と『佐伯家』からだ。
ベッドから起きあがって、キノは如月と話している。今日は、千秋と如月が見舞いに来ていた。
「もう起きても大丈夫なのか、鈴美麗」
彼は訊ねた。
「うん。もう歩けるよ」
キノは微笑む。
「よかった。海原来たか?」
「来た来た。一人じゃ女の子の家に行けないからって、石井と一緒に来た」
キノはケタケタ笑った。
「そうか。今あいつ、真下先輩と特訓しているよ。おまえを越えるため、って」
「そう。海原なら、出来るよ」
「鈴美麗、あのさ……」
如月は言い出して、言葉に詰まる。
「これでしょ」
キノは枕元にあった招待状を見せた。如月は受け取る。
「来ていたのか、こんなものが。中身を見てもいいのか?」
「構わないよ」
彼は豪華な装飾の招待状を取り出して、広げた。キノは口を閉ざして、外の景色を見ている。
「今度の日曜日にか」
「そうみたい」
端正な顔の瞳は、屋外を全く意識していないことに、如月は気づく。
「鈴美麗、この佐伯という奴に俺は会った。なんだか、嫌みな男だった」
「そう。でも、マコは選んだ」
それでもキノは、振り向かない。
「……鈴美麗、俺らに何か出来るか?」
ようやく、如月を見た。
「みんなには、迷惑掛けられないよ。こんな怪我もしちゃったし」
「鈴美麗、おまえ、まだそんなこと言っているのか」
如月は、キノを睨んだ。
「今度は違う」
キノの目は据わっている。何かを貫き通すような、鋭く荒い瞳。彼は緊張した。
「それでも、言え。必ずおまえたちを、助けるから」
その時扉が開いて、千秋と亜紀那が入ってきた。
「キノちゃん、クッキー焼いてきたの、食べよう」
「いい匂いだね」
キノは微笑んだ。千秋はテーブルに置く。
「みなさん、キノ様、飲物をお入れしましょう」
しばらくの間、心和む時間が過ぎていく。
「千秋。メガネ変わったよね」
突然の質問に、彼女は驚いた。
「見せてよ」
「うん……」
キノはメガネを受け取る。メガネのレンズ越しに、千秋を見た。可愛く、優しい笑顔がある。
「千秋、いいね。これ」
キノは如月に顔を向けた。
「うん」
「もう、いいだろ」
如月が少々赤ら顔で、我慢できず言う。
「如月には関係ない、こともないか」
キノは千秋にメガネを返して、苦笑する。普段からクールな奴をいじるのは、キノの趣味だ。
「お二人とも、仲がよろしいでのすね」
亜紀那が付け加えた。千秋と如月は黙り込む。
「そう言えば、先程、お電話がありました」
「誰?」
「緒方空様です」
「空ちゃん? そうだ、あの子退院したんだ」
キノの顔が明るくなる。
「空さんって?」
千秋が訊ねた。亜紀那は一礼して、部屋から出ていった。
「緒方の妹だよ」
「ああ、緒方君の」
「鈴美麗、まだ緒方とは……」
如月は問いかけようとした。
「邦彦」
千秋が如月の言葉を制止させる。
「いいんだよ」
キノは言った。布団を握りしめる。
「あの日以来、連絡してないし、何もないよ」
「キノちゃん、あの……」
千秋は如月に目配せした。彼はひと息ついて、部屋を出る。千秋はキノに向き直った。
「キノちゃん、あの日、緒方君に言ったことって……」
「何故?」
「あの日緒方君、病室から出てきた時、複雑な顔していたから」
千秋はメガネを掛け直す。
「……そうか」
キノは外を見た。鳥が数羽、飛んでいく。
「本当にいいの? 緒方君のこと」
「千秋、心配してくれるのはいいけど、僕は緒方にちゃんと言ったよ」
「……そう。それならいいけど」
千秋はキノの真摯な顔が、正直な態度を現れている。端正な美しい顔立ちに似合わないほど、凛々しい。千秋の瞳が動きが止まって、ため息が漏れた。
「キノちゃん!」
目が虚ろになって、抱きつく。
「あう!? ち、千秋!」
「もう全く! やっぱり王子だわ!」
「はあ?」
「どうしてキノちゃん、そんなに男らしいの!」
抱きつかれた挙げ句に、頬にキスされる。
「ち、千秋、背中に手が当たってるって!」
千秋の手が緩む。
「ごっ、ごめん、つい」
「つい、じゃないよ。もう、相変わらずだな」
キノは痛みで顔が、しかめっ面になった。
「こんなことは、もう一人の王子にでもやってあげて」
みるみるうちに、千秋の顔が赤らむ。抱きついたまま彼女は、そのままじっとしていた。
「千秋、くっつけた張本人として聞きたい。前のメガネは、もう大丈夫なのか?」
「うん……、まだわからない」
千秋のメガネをキノは横目で見る。
「だって、あのメガネの時間が多すぎちゃって」
「千秋……」
「時間は戻せない。いなくなった人のことを考えても、しょうがないことはわかってる。だけど……」
千秋の肩が少し震えていた。
「ごめんね、千秋。もう、いいよ」
「違うの、キノちゃん。私怖いの」
キノは彼女の肩にそっと両手を置く。
「邦彦に、私の全部を背負わせることなんて、出来ない。だから、忘れる努力している。でも、彼と邦彦がだぶってきて、いつかまた、私の目の前からいなくなるんじゃないかって……」
肩の震えが少し大きくなる。
「おかしいよね、こんなこと考えているのって」
「……そうか」
「二人を考えることなんて出来ないし、それって私のわがままだし」
「それ、王子には言ったの?」
「言えないよ」
「あのさ千秋。男って強くて、健気だよ」
「え?」
「いいんだよ。好きな女の子のためだったら、自分が傷ついても前を進むんだ」
置いた手に力が入る。
「キノちゃん」
「メガネの彼は、何か言ってなかった?」
「そんなこと……」
今度はキノが千秋を抱きしめた。
「何か言ってたんじゃない。好きな子を泣かせるなんて、する奴はいない」
彼女は目を閉じて、記憶を辿った。体の震えが続いている。暫くの間、キノはそのままで、千秋を抱いていた。
突然、千秋は声を上げる。
「あの人、病院のベッド上で、ずっと言ってた」
「そう」
「ずっと、言ってたんだ、ずっと……。『おまえを好きになって良かった』って、『おまえと必ず前を向いていく』って……」
千秋の目から、涙がこぼれ落ちていった。
「キノちゃん、あの人、振り向いちゃダメだって」
千秋は再びキノに抱きつく。
「だから、俺のメガネ、取れって言ってた……」
千秋はメガネを取って、涙を拭いた。
「でも、私が出来なかったの、その勇気がなかった……」
「本当に好きな子のためだったら、男は健気になるよ」
キノは言葉を噛みしめながら言う。
「邦彦もそう思っているのかな」
「ばか。そうじゃなかったら、あんなクールな奴が舞台で告白なんてしないよ」
千秋はキノから離れる。
「如月言ってたじゃない、メガネの彼の思い出も全部くれって。千秋も前を向かないと。それが彼の願いなんだ、と思う」
「うん」
千秋とキノは顔を見合わせて、笑った。
「やっぱり、私の王子ぃー!」
「痛てて! 背中、背中!」
またしてもキノは悶絶した。
2
「じゃあ、今度は私」
キノは身構える。
「キノちゃんは、マコさんとどうなっているの。ずっと、気になっているの。病院に運ばれたときも、マコさん来なかったじゃない。最近、二人がおかしいなぁ、って」
「あのね、千秋……」
「邦彦が言ってた、マコさんの婚約が関係しているの? 二人の関係からは、まさかって思ったけど」
千秋はキノの顔を覗き込む。思い詰めたキノの顔があった。
「あの……、千秋、聴いてくれる? 僕が秘密にしていること」
千秋は興味深い顔で見つめる。
「じっ、実は、僕は男なんだ……」
「うん。そうよね、『攻め』だもんね」
千秋は前から勘違いしていて、疑わない。
「いや、そうじゃなくて、最初は男だったんだ」
思考回路が止まったように、彼女は沈黙した。
キノは苦笑いをした。話しても通じない現実がある。
「いいや、いいんだよ。でも僕は、その『攻め』に変わりないな」
キノは目を伏せて、握り拳を作った。千秋は大きく頷く。
「でもどうして、マコさん、キノちゃんに何も言わずに、婚約決めたの?」
「別に、僕に言わなくてもいいさ」
キノは千秋の視線を離れて、再び窓の方を向く。
「キノちゃんよりも、いい人なのかしら。私思うんだけど、無理してないかな、マコさん」
相変わらず、キノは窓からの景色を見つめていて、聞かない振りをしていた。
「キノちゃん!」
「なっ、何?」
「キノちゃん!!」
千秋は、声を上げる。
「なによ!」
「男なら、好きな子のためには、強く健気になるんでしょ!」
「ああ!?」
「さっき言ったじゃない! 僕は男って!」
「本気にしたの?」
キノは、躊躇った。
「本気よ、本気! 何とかしなくちゃ!」
「どういう風に?」
「前を向くんでしょ! 男は突撃よ! 『スカイスターの王子』のレイズ王子は、悪の宮殿から、捕らえられた姫を助けに行くの。悪の化身『ゴルザ』との結婚式の日にね」
「はあ? またアニメか」
「何言ってんの! レイズ王子、ぶっ飛ばして来なよ、その婚約者!」
千秋は興奮して、拳を上げる。鼻息が荒い。
「ぶっ飛ばしてもいいのか?」
「王子が、男ならね」
千秋は親指を立てた。
3
キノの背中の抜糸は、マコの婚約発表会の二日前だった。リビングに、キノは後藤と亜紀那を呼んでいる。
「キノ様、何事ですか?」
初老の後藤は、静かに言った。
「うん、その……、話があります」
背筋をピンと伸ばして、ソファーに座っている。
「キノ様」
今度は亜紀那が訊ねた。二人の顔を見てキノは咳払いをする。
「今日限りで、お二人は鈴美麗家の仕事を、辞めていただきます」
眼前の二人は、呆気に取られていた。
「退職金をお支払しますから、いくらでもおっしゃって下さい」
「キノ様、一体何を考えておられる」
腰を擦りながら、白髪の後藤は問いただす。亜紀那はキノの近くに寄った。
「キノ様」
「亜紀那さん。ごめんね、こんなこと言って」
「あなたにお仕えすることが、私の仕事でした。あなたが辞めろと言われれば、言い返すことは出来ません……」
亜紀那の目は寂しげだ。
「僕の代で、ここは終わりです。ここもいずれはなくなります」
「そんな、どうして」
亜紀那は困惑する表情を、キノに見せた。
「無くなってからでは、遅い。あなた方に、迷惑が掛かってしまいます」
「ほほぅ」
後藤は背を伸ばした。
「キノ様、正直に申されよ」
「……」
キノは何も言えない。
「捨て身じゃの」
「捨て身?」
亜紀那は後藤の方を振り返る。後藤はキノを凝視している。
「この鈴美麗家の存続すら潰して、相まみえる相手は、誰じゃね」
「まっ、まさか! そんなこと!?」
亜紀那はキノを見る。キノは動かない。
「答えるこはできません。それは僕の問題です、ここと無関係になれば、あなた方には被害はない。明日早く出ていくだけです」
「でも……、突然すぎます」
「亜紀那さん、僕は決めたんです」
キノはそう言うとリビングを出ていった。急に室内に静寂が訪れる。まるで、火が消えた暖炉のように、冷たさも忍び寄ってきた。
亜紀那は扉の向こう側に行けずにいた。
「かなり悩まれたな、キノ様は」
後藤は呟く。
「後藤さん、一体、捨て身って」
「わからんか、亜紀那」
後藤はソファーに座った。
「取引だよ。キノ様は何かと引き替えに、この鈴美麗家を手放されるつもりじゃ」
「そんな」
亜紀那は口に手を当てて、はっとする。
「マコ様……を」
「そうじゃろう」
後藤の言葉に、亜紀那は両手を握りしめた。
「相手は花宗院家。その昔から陰と陽と言われ続けた両家は、敵対することを避けてきた。それが、互いの利益でもあったのだ」
「キノ様は、マコ様を取り返すと」
「ただでは済まん。二度と日の当たる場所に立つことなど、出来ぬかも知れん。キノ様にとって苦渋の決断じゃたろう。不憫じゃ、実に不憫じゃ」
「でも、どうするんですか。これから」
「主がそう申される以上、わしらには何も言えまい」
「このまま、黙って出ていくのですか!」
「それを望んでおいでだ」
「後藤さん、本気で、そんなことを言っているのですか」
「わしらに何が出来る。儂らが手を出すべき問題ではない。また出したとしても、解決できん」
力が抜けたように、亜紀那は床に座り込む。
「ずっと、続くことはないと思っていました。でもこんなに突然に来るとは、思いも寄りませんでした……」
涙が彼女の頬を伝った。
「亜紀那、明日の支度をしておきなさい」
後藤の声に、亜紀那は反応しない。冬の冷たい風が、強く窓を揺らしていた。
4
次の朝、ダイニングには朝食がひとつ置いてあった。亜紀那の最後のキノへの給仕だった。キノはひとり椅子に座り、箸を持った。
「いつもひとりで食べていたのに、本当にひとりっきりになるなんて」
キノは辺りを見渡し、静かすぎる室内の様子を感じる。そして亜紀那の作った最後の料理を、夢中で食べた。
「……ありがとう、亜紀那さん」
道場へ移動する。祖父が建てたものだ。ここから様々な者が修行、稽古し旅立っていった。キノも幼い頃から、色々なことを経験してきた場所。
「今思うと、この日のために僕は稽古を積んできたのだろうか」
上座を前に正座し、目を閉じた。何も聞こえなくなる。
精神統一。
指先から心臓に向かって、震えながらも力が少しずつ、増してくる。
実はマコとキスを交わしたあの夜から、体の芯から何かが沸き起こってくる感覚を覚えた。
そう、男に戻っていったとでもいうか。
それまで、女の子の体になっていく自分に、不安があった。
半分諦めようとしていた。このまま、女の子のまま生きていくことも考えた。
つまり、男なのか女なのかという、心がどちらで目覚めるかによって、この力の行方が決まってしまうのかもしれない。
ならば男に戻るためには、マコと心の底から通じ合うことが重要なことなのだろう。
ひとりよがりかもしれない。ひょっとしたら、マコや僕やその周りの人たちを、不幸にするかもしれない。
でも、もう、自分の気持ちに嘘をつくことは出来ない。
男とか女とか、どっちでもいい。
それよりも、今やるべきことは、ひとつだけだ。
マコが好きだ。たまらなく、好きだ。
僕はマコを守る。生涯かけてずっと守っていく。
正直になること。それだけ。
『ガンバれ』
そう、全てはあの池に落ちた時、男から女になったことも含めて、最初からこうなることと決まっていたのだ。
「もう、迷わないさ。僕は僕を信じる。そして、マコを信じる」
キノは目を見開き、立ち上がる。胸一杯に深呼吸する。
両手から体の中心へ。壁が出来る。空気の壁。
5
「何をされようと、しているのです」
キノは眼光鋭く、振り向いた。
「いえ、わかっています」
「亜紀那さん」
「キノ様」
「もう、そんな呼びかけはしなくてもいいよ」
「私はもうあなた様に雇われている者ではありません。けれど……」
亜紀那はキノの前に立つ。
「私は、古くお付き合いしている友人でもあります」
思わず抱きしめたキノの顔は、亜紀那の豊満な胸に埋まった。その匂いも、物心ついた日から、ずっと変わらない。
「ああ、ダメです」
キノの足が浮いた。
「あっ、亜紀那さん、苦しい」
「ダメ、キノ様だけ行かせない」
彼女は駄々をこねる子供のように、掴んだものを放さない。
「マコ様ですよね」
「それは……」
「私も行きます。一緒に連れていって下さい」
亜紀那はキノを離すと、じっと見つめた。
「そう言うことなら、儂からも、お願いしますよ、キノ様」
気が付くと後藤も背後にいる。さすが、鈴美麗家の隠密を極めた者だ。気配をキノは感じなかった。
「最後のお務めは、悔いの無いようにしたいんじゃ」
「キノ様、あなたが不幸だったら、私たちも不幸です。それだけあなたのことを思っています。どうか最後まで、お付き合いさせて下さい」
「二人とも……、ダメだよ……」
キノはその手を放す。
「ほっ、ほっ、ほっ。こう見えても、大旦那様とは、肩を並べていた程じゃよ」
後藤は杖をまるで槍に様に、振り回した。
「ほ! は! て!」
鮮やかな棒裁き。
「はいぃ!! とう!」
飛び上がり、着地、決めポーズ。
「うごぅぉ!」
後藤の目が丸くなり、汗が垂れていく。
「後藤さん?」
「こっ、腰がぁぁぁぁ」
「全く、困った人たち」
後藤はもんどり打って、床に転んでいた。
「もう、本当に後には引けないよ。花宗院家に恨まれるかもしれない。そうなったら、みんな無くなる」
「ええ、ご一緒なら喜んで」
キノは口を真一文字に閉める。亜紀那は微笑んだ。
6
花宗院家では、明日の準備に向けて慌ただしい。マコは、必要以外には自分の部屋から出てこない日が続いていた。
「お嬢様、この頃お顔をお見せにならないわね。あなた、いつもお部屋に入るけど、どんなご様子なの?」
あの時手紙を渡した彼女だけは、出入りしていた。
「そうですね……、いつも通りお元気ですよ。今からお飲物をお持ちしてきますので、様子を見てきます」
彼女は飲物を差し入れに、歩いていく。歩きながら呟いた。
「嘘……。違う……、全然違う……」
彼女の胸も苦しかった。
「あの手紙を渡しに行った時の、お嬢様の荒々しく乱れた態度は忘れることが出来ない……」
扉をノックして、入る。
「今日はご機嫌いかがですか、お嬢様?」
椅子に座って、窓の外をぼんやりとマコは見ていた。
「今日はいいお天気ですよ。少し、外にでも出ましょうか? 私、お供しますわ」
マコはようやく彼女の存在に気づいたように、顔を向ける。
「昨晩も寝てらっしゃらないのですね……」
彼女はマコに近寄る。力なさ気な目が、虚ろになっていた。
「お嬢様、どうしてなんですか? 私、あの夜、もう屋敷には戻っていらしゃらないと思っていましたのに」
窓を開けて喚起をしはじめる彼女は、振り向く。
「お嬢様?」
マコは机で寝てしまっていた。彼女はそっと、薄い毛布を肩に掛ける。
「まだ、想ってらしゃるのね、その方のこと」
テープで繋ぎ止められた手紙が、マコの手にある。彼女は、暫くそのままで、誰も部屋に入らないようにしていた。
「……そこまでご無理する必要はありませんよ、お嬢様。あなたが想う一番の幸せになって下さい」
突然、ドアが開く。
「ダメです。今は静かにして下さい」
彼女は慌てて、駆け寄った。
「なんだね、君は。私が真琴に用事があるんだ。君には関係ない。真琴、明日の話があるんだ、いいかな?」
「佐伯様! 今はもう暫く、お嬢様をお休みにさせてください」
「うるさいなあ、君は」
佐伯は彼女を睨む。彼女は怯んだ。
「私に口答えする気か?」
「でっ、でも……」
「どうかしましたか? 私はいつでもいいですよ。あなたは下がっていなさい」
「……お嬢様」
マコは彼女をかばう。
「なんだね、あの給仕人は。教育がなっていない。今後は君の付き人は違う者にやらせるぞ」
「どうかお許し下さい。それで、何のご用で?」
マコは佐伯と出ていく。扉を閉める瞬間、マコは彼女を見て、「あとで」と口だけ動かした。彼女は頭を下げた。
7
キノは制服に着替えると、鈴美麗家の大きな門を出た。振り返る。
「みんな見ていて、僕は闘ってくるよ」
「キノ先輩」
「空ちゃん!」
空が門構えの隅から、出てきた。キノは笑みを浮かべる。
「キノ先輩、体いいんですか?」
「大丈夫、ほら!」
左右に体を捻って、痛みがないことをアピールする。最後にガッツポーズ。
「それなら、良かった……」
「空ちゃんこそ、どうしたの? 体の具合は?」
「……あの、その」
「緒方のこと?」
「周が、先輩に怪我を負わせてしまって」
「空ちゃん、気にしないで。あれは、僕のミス」
「そっ、そんな!」
空は、叫んだ。
「緒方が、周が怪我したら、空ちゃんが悲しむでしょ。それが防げたから、よい、よい。もういいから」
キノは微笑む。
「緒方。どうしてる?」
空の顔を見ずに、キノは言った。
「普段と変わりません。ただ少し、優しくなりました」
「優しくなったか……」
キノの顔が明るくなった。
「いいね」
「先輩」
「何?」
「もう、周のことは……」
「空ちゃんもか」
キノは空を見た。
「全然大丈夫。しっかり振ってやった」
「え? それじゃあ、失恋状態の人と?」
「うん。今から、奪ってくるんだ」
キノは空にウィンクする。彼女は何のことだか解らず、呆然となった。
「空ちゃん。周のこと、大事にね。それと、イヤリング、よく似合うよ」
キノは自分の耳を触り、ジェスチャーした。
「キノ先輩!」
キノは歩きだす。後ろ姿のまま手を振っている。
「絶対に! ですよ!」
手を振る。
「先輩!」
8
「先ほどはありがとうござました、お嬢様」
「いいの」
マコは椅子に座ったまま言った。
「あっ、あの……」
「言いたいことはわかってる」
「でしたら……」
彼女は戸惑いながら、言い掛けた。
「そう、私、本当はね……」
マコがそう言いかけた時、廊下から大きな声が聞こえてくる。
「おお! 真琴、ここにいたか!」
大介が大声で、飛び込んできた。
「お父様、いきなりなんですか? ノックもなしに」
「真琴! おお、真琴じゃないか!」
顔が真っ赤だ。千鳥足で部屋に入ってくる。
「酔ってる……」
「旦那様! 大丈夫ですか! すぐ、お冷やを持ってきます!」
給仕人は走って出ていった。
「いやいや、すまんすまん!」
彼の足元はふらついていた。顔が赤い。
「随分、酔ってる」
「いやいや、ちょっと、ちょっとだけだよ。ちょっとだけ」
彼は指でその少しを表現した。
「危ない!」
マコは叫ぶ。大介はよろけて、花瓶台にぶつかる。花や水が大介に飛び散り、挙げ句の果てに花瓶が割れた。
「お父様! 大丈夫ですか!」
マコは駆け寄った。水浸しになった、絨毯の上に大介は座り込む。
「ははは、真琴。転んでしまった」
何故か、大介は笑っている。
「もう。花瓶が割れてますから、危ないですよ。早くこちらに」
マコは手を差し伸べた。
「大丈夫、大丈夫だよ」
大介はマコの手を払う。
「もう! 早くこっちに!」
マコは大介の手を掴んだ。
「大丈夫だ!」
マコは驚いて、手を引いた。
「大丈夫だ……。おまえがいなくなっても、大丈夫だ」
「お父様」
マコは手を差し出した。赤い顔の大介は、今度はその手を握り、ゆっくりと立ち上がる。彼女はポケットからハンカチを取り出し、濡れた部分を拭いた。
「大きくなったなぁ、大きくなった」
大介は、マコの頭の撫でた。
「お父様……」
「ははは、大きく、大きくなった……」
大介の目頭に、光るものがあった。
「あの……」
大介は窓の方に進む。
「おまえが、佐伯君と婚約すると言った時、正直驚いたよ。先を見通せと言ったのは、私だ。当然そのようにしていかねばならない」
大介はマコの椅子に、思いっきり座った。
「でも何故かな……、いつまでも子供思っていた。そんな子供から、将来の花宗院を背負わせて良かったのか……」
「私はもう子供じゃないですよ」
大介はマコの顔を見る。
「真琴、いいのか?」
「何をいまさら」
マコは、窓へ向かう。
「真琴、おまえの本心が聞きたい。本当に佐伯君と一緒になるのか?」
「……もう明日ですよ」
大介は机の引き出しから飛び出している手紙を、見つけた。その手紙の端はテープが付いている。文字が見えた。
「何故あの晩、何処に行って来たんだ」
「え?」
「私も知っていたよ、夜遅く出ていったのを」
「それは……」
大介はマコを見つめる。
「おまえに好きな男ぐらい、いることは知っている。ただ、いくら好きな男でも、この花宗院にふさわしいかどうかとは別だ」
「だから、佐伯様なんですよね」
マコはずっと窓の外を眺めている。
「真琴……」
大介は、複雑な顔でマコを見た。
「大丈夫、みんなを幸せにしますから」
彼女は努めて明るく、微笑む。
「そうか、そうか、ははは」
大介は、ゆっくり立ち上がり、扉へ歩きだした。
「君はまだここにいたのか! 持ち場を変えるって言っただろ!」
佐伯の声が聞こえた。
「何の騒ぎだね」
大介は廊下に出る。
「旦那様!」
「なんだ佐伯君、大声だして」
「あっ、いえ、この給仕に躾を」
「大丈夫だよ、彼女はマコ専属だ。全てを心得ている。この仕事は彼女しかできないんだ。変えることは出来ないな。はっはっはっ」
「はぁ……」
「ここにまだ何か、用だったかね?」
「いえ、また後にします」
佐伯はしぶしぶ、やり過ごして行った。
「旦那様、お冷やです」
入り口で、先ほど部屋から出ていった給仕人から、手渡しされる。
「ああ、ありがとう」
「旦那様、お嬢様は嘘をついておいでです」
彼女は渡す時に、小声で言った。
「わかっている。しかし、これはもう、真琴が解決すべき問題だ。手出しは無用だ。あいつも綾子に似て、意地っ張りだからな」
お尻を濡らしたまま、大介は笑って出ていく。残された給仕人は、小さい後ろ姿を見つめた。
「旦那様……」
9
花宗院家の大きな正門の前に、キノと亜紀那はいた。後藤は腰が悪化したため、家で寝ている。
正門から遙か彼方に屋敷がある。とてつもなく広大だ。
「キノ様、どのように?」
「正々堂々と表から行く」
監視カメラに向かって、キノは手を振った。ロックを外す音が聞こえ、ゆっくりと門は開いていく。キノの顔は、花宗院家では知られている。
「キノさん、僕たちも一緒に連れていってくれないスか?」
海原と如月、千秋が、キノの目の前に立っていた。
「おまえら……」
キノは呟く。
「どけ! 関係ない!」
「キノさん!」
海原はキノを凝視する。目が細い。
「あなたはいつもそうだ。自分ばかりを追い込む。自分だけで解決しようとする」
キノも海原を睨み返した。
「いても巻き込まれるだけ。損するだけだ」
「いいんですよ、それでも。キノさん、あなたを支えたい」
海原の細い目が少し開く。
「海原、何、簡単に言ってる。大変な事になるんだぞ」
「軽々しく言ってません。僕もみんなも怖いです。恐ろしくてたまりません。こんな想像できない所に乗り込むなんて」
海原の目が屋敷に移った。
「でも、仲間です。傷ついても、僕たちは、仲間です」
海原は叫んだ。
「最強で、最高のな」
如月は口元を吊り上げて言う。
「俺ら仲間だろ。だったら、頼れよ鈴美麗」
キノの鋭い目が緩む。
「キノちゃん、私も前を向ける。向いていけるよ」
「千秋」
「『フレンス王子とレイズ王子』は二人でセットよ。今日はもうひとりの王子、『微笑天使』も含めるから」
千秋は真剣な眼差しで言った。
「おまえら、みんなバカだ」
「バカでいいさ。今回は鈴美麗、足手まといになるかもしれんが、おまえのために加勢したい」
「本当にバカだ……」
「全く、愉快なお友達ですね、キノ様」
亜紀那は暖かく、優しい瞳で言う。
「……亜紀那さんも含めてね」
キノは少しだけ笑みを浮かべた。
10
「誰が来た?」
モニター越しに、佐伯は訊いた。
「鈴美麗様以下、お嬢様の御友人たちみたいです」
「鈴美麗? おい、ズームアップしろ」
「はい」
中央の大きなモニター画面に、五人が映る。
「あいつら……」
佐伯は如月を見つけ、顔が引き吊った。
「どうかされましたか?」
監視係の男は、答える。
「何しに来たんだ」
「御友人ですから、あなた様の御婚礼のお祝いじゃないですか」
男は笑顔で佐伯を振り返る。しかし、彼は険しい顔をしていた。
「うむ……」
佐伯は腕を組む。
「……あの鈴美麗とか言う、女」
「鈴美麗様ですか。全く、お美しいお方だ。しかし、随分久しぶりだな」
「そうだ、君。真琴を驚かせたいから、別室に彼らを迎え入れることは出来るか?」
「出来ます、どちらにお迎えしますか?」
「そうだな、屋敷の離れに別館があったな。そこはどうだ?」
「そうですね。あちらは、明日の式には関係ありませんから、大丈夫だと思います」
「それと、接待は私の方でやろう。幸い数人こちらに来ているから。花宗院家の方は本館へ移って頂いて結構だ。真琴やお父上には内密にな」
「わかりました」
監視人は、給仕人へ連絡を取る。
佐伯は部屋の外に出た。佐伯の側近が控えていた。
「武井」
「はい」
佐伯は歩きだした。武井は男の背後から付いてくる。
「あれ、用意できるか?」
佐伯は指で丸を作り、くるくると指を回した。
「早速」
「用意しておけ。いいものが手に入るぞ」
「わかりました」
そのまま武井は、佐伯の背後からいなくなる。
五人を迎え入れるために、男は別館へ向った。
別館は本館から少し離れたところに建てられている。本来、客人の寝室と食事の接待に使われていた。
「計画は邪魔させん……」
佐伯は、ゆっくり廊下を歩いていく。
11
別館の扉が開いた先には、五人がいた。
「ようこそ、ようこそ」
笑顔の佐伯がいる。
「あっ、あいつだ」
如月は呟いた。
「これは、真琴のご友人たち。ようこそ私の花宗院家に」
満面の笑みだ。
「まだだろ。それに、真琴って……」
キノは佐伯を睨む。
「あれあれ、皆さん怖い顔だな。笑って、ほら」
佐伯は手を大きく振り上げ、ジェスチャーする。
「皆さんから、私と真琴の婚約を祝ってもらえるなんて、最高のサプライズです」
佐伯はキノに近寄ってきた。キノは直立のままだ。
「しかも、真琴の親友の鈴美麗紀乃さんまでとは。実に嬉しい。一度お会いしたかったんですよ、あなたには」
佐伯が更にキノに近づく。海原がその間に入った。佐伯の体が、その厚い胸板に弾かれる。
「何ですか、君は」
海原は佐伯を見降ろす。
「マコさんに会いに来ました」
「無礼だな、君は。どきなさい。君とは話していない。それにいきなり会話に入ろうとしてはいけません。私は君が誰かも知らないのに」
「佐伯様、無礼をお許し下さい。この者には、言っておきます」
キノは海原を押し退けて、小声で言った。
「海原、どけ。話をややこしくするな」
「真琴に早く会いたい気持ちもわからんではないが、ひとつどうだろう。彼女へも私と同様にサプライズさせたいのだが、協力してくれまいか?」
「どういう?」
キノは言う。
「簡単だよ、明日の式に登場してして頂きたい。お祝いの言葉を述べていただけたら、実に最高だ」
佐伯は微笑んだ。
「だから、それまでここで、君たちをもてなしたい。もちろん、泊まっていい。この別館は客人用だ」
彼は手を広げて、室内をアピールする。
「今日、ここに泊まれと?」
キノは訊ねる。
「特にあなたとは、ゆっくり話をしたい。親友として真琴の話をもっと聞きたいのです。もっと真琴のことを解っておきたい」
佐伯は振り向き、手で合図する。佐伯の部下が五人を取り巻いた。
「さあ、みなさんをお部屋にご案内して」
「マコさんには会えないのですか!?」
海原は叫んだ。
「そうだ! 俺らは会いに来たんだ!」
如月も言う。
「会えますよ、明日の式には。それまでゆっくりすればいいのですよ」
佐伯は腕を組んで、睨んだ。
「今だ! 今すぐだ! 鈴美麗、おまえも言え!」
「全く、口の聞き方も知らない人たちですね」
彼の気配が変わったのをキノは悟った。
「みんな、この人の言うとおりにして」
キノは如月に目配せした。
「鈴美麗……」
「みなさま、キノ様のおしゃる通りに」
亜紀那は宥める。
「キノ様」
「亜紀那さん、迂かつだった。この部屋に入った時点で、動けなくなった。もう、あいつの手に僕らは落ちている」
キノの額に汗が滲んでいた。改めて窮地に追い込まれたことに気づく亜紀那だ。
「それでは、みなさんは速やかに部屋に行って下さい。鈴美麗紀乃さん、あなたはこちらに来て、私と話をして下さいな」
「嫌といったら?」
キノは動かなかった。
「面白いことを言いますね。きっと、嫌とは言えませんよ。後ろのお仲間が、酷いことになってしまいます」
佐伯は薄笑う。キノは男を見据えた。
「あなたは、何者ですか」
「ただの真琴の婚約者ですよ」
「キノ様」
「亜紀那さん。みんなを頼みます」
亜紀那は付いていこうとして、キノに止められる。
「物わかりがよい。さっ、どうぞこちらに」
佐伯は奥の部屋に手招きする。キノは行かざるを得なかった。
「うぬぅ!」
海原の目の前には、細いが一切の隙がない男が仁王立ちしている。その立ちはだかる男の威圧感に、ひれ伏していた。それは如月においても一緒だった。
「それでは、こちらのみなさんは、私に付いてきて下さい」
長身な武井が、皮肉くったように言った。
12
「お嬢様」
マコは自分の部屋にいる。
「飲物をお持ちしました」
彼女はテーブルに紅茶を置いた。
「ありがとう。お父様は?」
「旦那様は、今寝室で寝ておられます」
「もう、昼間から酔ってるなんて」
「旦那様は、お嬢様のことで、寂しさをお酒で紛らせておられるのだと思います」
「私のこと……でね。でもあれだけ話を進めといて、いざとなったら、寂しくなるなんて、勝手だわ」
マコは、俯く。
「……あの、お嬢様」
「はい」
彼女は、絡めていた指を握った。意を決したように言う。
「本当に手紙のお方とは」
彼女はマコの顔を見る。マコは視線を机の引き出しに移し、目を伏せた。
「……いいのよ。もう、別れてる。私がいいと思っていればいい」
「でも……」
彼女はまだ不安気な表情だ。
「心配しないで、……ね」
マコは紅茶を飲んだ。もの寂しげな表情は、隠しきれていない。
「ひとつだけいいですか?」
マコは顔を向けなかった。
「お嬢様には大変、恐縮なのですが……。私、佐伯様のこと、その……、お嬢様を幸せにして下さるとは思えません」
マコは彼女の方を向き、顔を見つめる。
「その言葉はここだけにしていてね。あなたを失いたくない」
「すみません。でも……」
「おしまいにしましょう」
マコは話しを打ち切った。
「それにしても……」
しばらくしてマコが口を開いた。
「お母様はいつ頃お帰りになるの? 私、携帯にかけても繋がらないから。明日には間に会うのかしら」
「さあ、こちらにも連絡がなかなかつかないご様子です。旦那様からつけておくと、言う話ですが」
「そう。お父様が……」
13
ある一室に、キノと佐伯はいた。キノはソファーに腰掛けている。
「しかし、君は美しく、綺麗だね」
佐伯は執拗な目で、キノの体をなめ回した。キノは睨み返す。
「おいおい、そんな怖い目で見ないで欲しい。私は紳士的に話を進めたいだけだよ」
「だったら、他の四人を今すぐ、解放して」
キノは、懇願した。
「それは、君次第だ」
佐伯はキノと向き合って、ソファーに座る。
「どうしたい」
「私の愛人になりなさい」
キノの目が、丸くなった。
「そうすれば、いつでも真琴に会えるし、ずっと友人のまま居られる。君の仲間もずっとつき合える」
「何をバカなことを!」
「紀乃、私は本気で言っているのだよ」
「あなたに、紀乃と呼び捨てにされる筋合いはない」
佐伯の目は、キノを凝視している。悪意さえ感じる、鋭い目だった。
「大丈夫だよ、友人たちには一切手出しはしない。約束しよう。但し、君の返事次第だ」
キノは困惑する。
「心配するな。君たちの面倒はしっかり見させてもらうよ、最後までね」
佐伯は、高笑いをした。
「本当に手を出さないんだな」
「男に二言はないよ。承知するなら、私のキスを受けたまえ」
佐伯は静かに近づいてくる。後ずさりするも、壁に当たりキノは逃げられなくなった。
「くっ……」
佐伯はキノの両手を捕まえ、壁に押し当てる。彼の鼻先がキノの鼻に付こうとした瞬間、思わず顔を背けた。息が顔の近くで荒く吹きかけられる。
「強い女の、いい匂いだ」
佐伯は今の状況に酔いしれていた。
「おまえ、マコにもこんなことしたのか?」
目だけを動かして、キノは言った。
「いいや。本妻は優しく接しなければね。私にも立場があるからね。でもこの記念すべき日の画像はしっかり撮影してあるから、後で一緒に見よう。君さえ良ければ、真琴も呼んで、三人ベッドの上でもいい」
舌を出して、キノの頬を舐める。
「このぉ!!」
両手に力を込める。
「おっと、紀乃、お友達がどうなってもいいのか?」
再び力が抜ける。
「そうそう、大人しくしていれば、いいんだよ。乱暴はしない」
未だに横顔のキノは呟いた。
「……何故マコに近づいた」
「ははは、もちろん、花宗院家の発展だよ。もっともっと巨大な組織にするのだ。花宗院グループは、私と手を組んで、世界のサイバーネットの中枢の一部として君臨する」
「それが、どうなる?」
「わからんか。世界の情報機密を含め、ほぼ全ての世界の中心部分が、デジタルネット社会の中に生きている。それを牛耳れば、この世の操作なぞ造作もないことだ、政治、軍事、金融、全てが思いのままだ。この手の中に収まってしまう」
「世界征服ってか。バカらしい」
「ははは、そうかな? 君たちの生活なんて、ちょっとキーボードで数字を叩けば、たちまち景気になったり、不況になったりする」
「でも、キーボードでもどうにもならないものもある」
佐伯の顔が更に近づく。思わずキノは目を閉じた。
「一体、それりゃなんだ?」
「人の心だ」
佐伯は高笑いをした。
「紀乃、おまえ、もう少し頭がいいと思っていたがな。そういう点では、真琴の方が周りをわかっているようだ」
キノは力を入れた。しかし、佐伯が壁に押し戻す。
「金で動かないものなどないんだよ。例え心でもな」
佐伯は横顔のキノの頬を再びなめた。
「残念ながら、私は両方とも頂くつもりだ。全てを奪う」
「どうして、そこまでして」
一瞬、佐伯の目がキノから逸れた。
「よくある話さ。ある中小企業が不況の煽りを受けて倒産した。挙げ句の果てに、借金に首が回らず経営者が自殺した。私はたまたまその息子だった」
「不幸な話だが、花宗院とは関係ないだろ」
「大ありだ。その最後に父が泣きついたのはここだった。しかし、花宗院は父を突き放した」
「これはおまえの恨みか?」
キノは睨む。
「そうかもな。けれど、そればかりではない。見たくなったのさ、人が傷つき、崩壊していく過程を」
佐伯はキノの手をきつく握りしめた。
「花宗院の力を持ってすれば、たやすくそれが手に入る。愉快だ。人を思いのままに動かすことが出来る」
「……マコを巻き込むな」
キノは睨む。
「おまえこそ、何故そこまで真琴にこだわる?」
「僕は……、僕は、マコを守るから」
佐伯は少し驚いた顔をした。
「紀乃、おまえ、まさか……」
「なんだ?」
「そうか。あの時の小学生だったか」
佐伯はキノを再び見つめる。
「あの時?」
「いやいや、本当にまた会えるとは、つくづく私はついている」
「一体どうした?」
「いいこと、教えてやる。真琴が池に落ちたことがあったな」
キノはまだ理解できない。
14
キノと佐伯のやりとりは、別室の四人の部屋でモニター画面で映し出されていた。
「一体、あの男は何のつもりだ! 鈴美麗に何をしている!」
如月は怒鳴る。
「ぬううう!」
海原の鼻息が荒くなった。
「キノ様……」
亜紀那は眉間に皺を寄せる。
「これは、おまえらへの警告だ。黙って見とけ」
武井は笑った。部屋に五人の黒衣装の男共が立って成り行きを見守っている。
「なんだと!」
如月は武井に向かって勢いよく拳を振りかざす。が、武井はそれを軽く避け、反対に回し蹴りで如月の腹部にダメージを与えた。彼の体は跳ばされて、壁に当たる。
「邦彦!」
千秋は駆け寄った。
「うう……」
如月は両手で腹を押さえて唸る。
「何するの!」
千秋は叫んだ。
「ははは、勇敢なナイト様だが、手を出したのは、おまえたちだ」
武井はまたしても笑った。
「まただ……」
如月は、痛みを堪えて、ゆっくり起きあがる。
「ほう! 立ち上がったか。おもしろい」
「邦彦! 大丈夫!」
如月は千秋の手を振り払った。彼女は立ち止まる。
「俺たちは、いつまで鈴美麗の足かせになってるんだ……」
「邦彦……」
「どれだけ、あいつを苦しめたらいいんだ!」
如月は拳を壁に向かって放った。
「全くだよ、君たち。いい加減にあの子を解放してやれ」
武井は言う。亜紀那は三人を見渡した。
「みなさんは、キノ様を信じないのですか?」
仁王立ちの海原の目が見開く。
「信じていないのですか!」
亜紀那の口調は強かった。
「どの人も傷つけたくありません。キノ様はいつもそう考えています。でもどうすることも出来ずに、あなた方を頼ってるのです。あなた方を信じているんです!」
「信じる……」
海原の目が細く、口を閉ざした。大きな体が更に大きく見える。
「キノさん!」
拳を振り上げた。そしてその拳は、液晶モニター画面を貫く。そのまま回転して高く跳ね上がり、天井に突き刺さった。
「僕は、信じる。そして、どいつにも負けない」
「海原!」
ふらつきながら立っている如月は叫ぶ。
「なんだと! まだわからんらしいな、小僧!」
武井は蹴りを入れた。海原の脇腹にめり込む。もの凄い風圧とともに海原の体は横に飛んだ。壁にぶち当たる。埃が落ちてきた。
「海原君!」
千秋は叫ぶ。海原は壁から離れ、仁王立ちになる。
「キノさん……、あなたは僕を信じていた。倉庫の時、あなたは僕が殴打されている理由を知っていた。僕は思いました。信頼されていると……」
海原は腰に手を当てる。大きく息を吸った。
「何を今更! このバカが!」
武井の次の蹴りが飛ぶ。大きな音が鳴った。
「くぅ!」
武井の蹴りは途中で止まっていた。海原の大きな腕が、その足を制止させていたのだ。
「おまえ、一体」
武井は苦痛の表情となる。
「許しません、絶対に」
海原は武井の足を持ったまま振り飛ばす。男は壁に当たった。
「げふぅ!」
男のメガネが歪んでいた。近づいて胸ぐらを掴み、持ち上げる。
「キノさんに、あの人に寂しい思いはさせません!」
海原は振り被って、背負い投げをした。武井の体は一瞬で床に叩きつけられる。武井の動きは止まっていた。
「武井さん! おまえらかかれ!」
五人の男共がかかってくる。
「私も鈴美麗家派のもと門下生の一人。少しは武道を知っているわ」
亜紀那は、二人を相手に同時に殴り飛ばした。
「千秋! 俺の後に付いてこい!」
千秋は如月の背中に付いていく。彼も男に蹴りで対抗する。
「俺だって、あいつを信じているさ! なあ、千秋!」
「うん!」
千秋は如月の上着の端を握り締めながら、大きく頷く。
「この部屋から出ますよ、みなさん!」
海原が男を扉に向かって投げ飛ばす。亜紀那と如月は、集中し扉を蹴り破った。外で待機していた佐伯の部下も一緒に飛んだ。
「キノさんを助けます!」
海原は鼻から大きく息をした。
15
「自分で落ちたのか? 何故落ちたんだ?」
「マコは僕を支えていて、一緒に落ちた……」
「果たしてそうか」
キノは記憶を戻った時のことを思い出した。最後にすれ違った高校生。
「おまえ、……あの場所にいた高校生か?」
「覚えていたか。花宗院の所へ行ったのはその時だからな。父が一生懸命に頭下げていたよ。額が床に付くぐらいな。そんな姿は見たくなかった。一人で庭をうろついていたら、池のほとりに二人の子供が居た。何かを取ろうとしてた」
「……」
「何も知らない。何も悩みがない。そんなおまえ等を見ていたら、無償に腹が立ってきた」
「おまえ……」
「そしたら、思わず手が出ていた。背中を押していた……」
キノの手が震えた。
「まさか、ああなるとは思わなかった。でも助かって良かった。おかげで、今日の日を迎えることが出来たからな」
「この……やろう……」
拳に力が猛烈に入る。
「そこから、始まったんだ……。僕はそうさ、おまえからマコを守るために約束したんだ。キノにね」
キノの目に涙が滲む。
「でも、もうどうでもいいことだ。全て手に入る」
佐伯の口元が引き吊った。
「嫌だ……」
「何?」
「おまえみたいな身勝手な奴、人の気持ちを分からない奴の、言うことなんか聞かない!」
「紀乃、本気か? おまえが拒めば、みんながどうなるかわかっているのか」
「……負けない」
「おまえは、わかっていないな!」
佐伯は興奮して叫ぶ。
「例え、ここで難を逃れても、いつかおまえは私に膝間付くことになる。そういう世の中なんだよ!」
「くそ! まだ、力が」
手を振り解こうとするが、勝てない。
「さあ、大人しく私の言う通りにしろ!」
佐伯はキノの頬から、唇に向かって、顔を押しつける。キノは口を遠ざけながら、必死に抵抗した。
「みんな! 助けにきてぇー!!!」
キノは力の限り叫ぶ。
心の底から、信じている仲間を呼んだ。
鈍い轟音が鳴り、重厚な扉が二つに割れて、吹っ飛ぶ。同時に室内に、男が二人転がってきた。
「なっ、なんだ!?」
扉を踏みつぶして、大男が現れる。
「おっ、おまえたちは!?」
「ああ……、みんな」
キノの顔に安堵が浮かぶ。
「聞こえましたよ、キノさん。しっかりと受け止めました」
海原はその細く小さい目を、キノに向けた。
「おまえら、どうなっても知らんぞ」
佐伯の顎が震えている。
「おい、いつまで押さえてるんだよ」
キノは佐伯の腹部に、膝蹴りを喰らわした。
「がぁっ!」
息が止まった男は、床に俯せに倒れ込み、床を舐めながら、転げ回る。
「力が戻ってきた……」
16
「た、の、し、そ、うね」
キノの背中に悪寒が走った。声質は違うが、アクセントは同じもの。
「おっ、奥様!」
亜紀那は叫んだ。駆け寄り深々と頭を下げ、挨拶する。
「あら、亜紀那さん。お久しぶり。一体何のお祭り事?」
彼女は部屋の様子を見渡して言った。飛び散った扉の残骸と失神した男を見つめる。
「奥様?」
千秋は亜紀那に訊ねる。
「花宗院綾子様です。マコ様のお母様です」
「ええっ!?」
「こちらの方々は?」
綾子は三人を見つめた。
「真琴様の御友人です」
「真琴ちゃんの?」
頷きながら、綾子は前方に目を移す。
「紀乃ちゃん!」
キノの背筋が伸び、肩が吊り上がった。
「紀乃ちゃん!」
その場に立ち尽くして、動けない。ゆっくりと振り向き、罰の悪そうな顔をする。
綾子は一直線に、キノに近づいて来た。キノの目が恐怖する。
「何してるの?」
綾子の平手が、キノの頬を襲った。
「奥様!」
亜希那は、叫ぶ。
「亜紀那さんは黙っていて。何しているの、紀乃ちゃん」
「いや、その……」
ぶたれた頬を押さえながら、キノは答えられない。
「約束、してるでしょ。真琴ちゃんの面倒みれるのは、あなたしかいないのよ」
綾子は腰に手を当てて、キノを見据えた。
「う、うん」
「わかったなら、早くこんな茶番、やめさせて」
「おばさん……」
キノは初めて綾子の顔を見る。
「彼女も、そう思っている」
先ほどの釣り上がった眉が、次第に下がっていった。綾子はキノを抱きしめる。
「いいの? 壊しちゃうよ……」
「バカね。こんなことぐらいで、倒れる花宗院家じゃないわ」
「おい! あいつがいないぞ!」
如月は叫ぶ。
「まさか!」
キノは綾子から抜け出ると、走り出した。
「奥様がお戻りになられました」
執事は言った。
「えっ!? もう?」
書斎で大介は驚いて、ペンが落ちる。
「綾子の奴ちょっと、早いんじゃないか」
「はい?」
「いっ、いや、何でもない」
大介は少々、焦ったように言った。
「佐伯君は何処にいる? 綾子に紹介せねば」
「はぁ、それが、別館で何やら」
「何やらって?」
「いえ、クローズドにして欲しいと」
「そんなこといいから、早く呼んでくれ。綾子が来るから」
大介はぶるっと体を震えさせた。
「はい、では連絡いたします」
「さてと、どう言い訳するかな……」
大介は立ち上がり、窓の外を見た。庭を疾走する者が見える。
「何? 駆けっこ、五人?」
「旦那様! 大変です!」
執事は叫ぶ。
「どうした? 綾子が来たか?」
「いえ! 佐伯様が真琴様の部屋で!」
「はい?」
17
マコの部屋は、物が散乱していた。
「どうして。光さん」
「お嬢様、離れないで!」
マコの前に給仕人の彼女が立っていた。
「どうしたって? ははは、どうこうもないよ。真琴、早く結婚しよう。もう何もかもおしまいだから」
佐伯の目は明らかに、正気を失っている。
「何故?」
「私は最初から、君の父上に近づいて、この花宗院家を乗っ取ることが目的だった。私の父の復讐も兼ねてね」
「そっ、そんな!」
「もう少しだったのにな」
佐伯は笑う。
「おまえのお仲間がな」
「えっ!」
「あいつら、おまえを連れ戻しに来やがった」
「……」
「紀乃が来たよ。愛人にしてやるって言ったのに、断りやがった」
佐伯は唾を吐く。
「どうしても、おまえを守るんだとよ」
「ああ!」
マコは叫んだ。唇を、噛みしめる。
「だったら、あいつの守るべきものを無くしてやるだけだ!」
完全に狂った佐伯が、そこに居た。
「おまえ、どけ!」
「どきません! お嬢様には指一本触れさせません!」
彼女はそう言うと、両腕を広げて、マコの前に立つ。
「そうか……」
男はポケットからナイフを取り出した。
「これでもか」
「あなた、私から離れて!」
マコは彼女を押しやる。
「ダメです。お嬢様を無くしたりしません。キノ様のためにも」
「ダメ、離れて。私のために傷ついたらダメ!」
「バカが!」
男は走り込んで、ナイフを振った。血飛沫がカーテンに付く。
「きゃああ!」
マコは叫んだ。彼女が腕を押さえて、震えている。血が絨毯に滴り落ちていた。
「そんな……」
「言ったろ、どけって」
佐伯は口を吊り上げて笑う。マコはスカートの裾を破いて、彼女の怪我をした腕にきつく巻いた。
「……お嬢様、私」
彼女の精一杯の勇気をマコは受け取る。
「もういいから、じっとしていて」
「さあ、真琴。こっちにおいで。君さえ来れば誰も傷つかない」
「おっ、お嬢様、ダメです」
「そうだ、こっちに来い」
マコは彼女を置いて、歩いていく。
「お嬢様!」
「真琴、私と死んでくれ。せめてもの願いだ」
マコはゆっくりと歩み寄った。
「おまえは、一度は池の中で死んだのだ」
「ええ、そうよ。私はあなたに突き落とされた」
マコは男を見据える。
「知っていたのか。愉快だ」
男は乾いたような、高笑いした。室内に空しさだけが残る。
「……そうよ、キノ。あなたがいたから、私は生きている。やっぱり私はあなたのもの」
マコは呟き、目を閉じた。
「そうだ、言い訳なしだ」
男はナイフを振り被る。
「死んでくれ、真琴」
次の瞬間、男の気配が消えた。
マコが、薄く目を開けると、男の姿はなかった。ただ室内をまるで白い紙切れが舞うものがある。
それは白いスーツだった。それを身に纏った物体が一回転して、鈍い音を室内に響かせて落ちた。
18
「そんな! あの佐伯君がか!」
大介はマコの部屋に、走っていた。
「あの男の息子とは……」
「旦那様! 真琴様のお部屋で、佐伯様が乱心です!」
「真琴!」
辺りは、騒然とした場から、静けさを取り戻す。
マコはゆっくりと、目を開けた。キノが立って、微笑んでいる。
「マコ」
「キノ……」
マコの瞳が、潤んだ。
「守るって、言ったろ」
「うん……」
「僕は、生涯君を守っていく。そう子供の時、キノと約束したんだ」
「うん」
キノは、足元のふらつくマコの肩を掴む。
「マコ、僕のこと好きか?」
彼女は強く抱きついた。キノはそれを優しく受け止める。
「ずっと、逢いたかった。ずっと、ずっと。大好きよ、キノ」
二人は互いの温もりを感じあう。
「キノは、私のこと」
マコの頭を撫でる。
「僕は花宗院真琴が、世界中で一番、好きだ」
「離れたくない……」
互いに抱き合う力が、一段と強くなった。
「もうキノと、絶対離れたくない」
投げ飛ばされた男は、警護員に取り押さえらた。腕に怪我をした彼女も、すぐさま治療にあたる。
「ついに逢えたね、キノちゃんとマコさん」
「そうだな、良かった」
千秋は如月に寄り掛かる。
「キノちゃん、男だって」
「えっ?」
如月は驚いたが、次には納得していた。千秋は如月の手を握る。彼も握り返した。
「そうかもしれん。あいつは男っぽい」
「そうよ、『攻め』だしね……」
千秋は、メガネのズレを直す。
「真琴!」
「お父様!」
マコはキノから父のもとへ駆け寄った。
「大丈夫だったか」
「キノが助けてくれたから」
大介はキノを見て、そして頷く。
「真琴、すまない。あんな男とは知らずに、おまえに酷いことをした。申し訳ない」
大介はマコの手を取ると、頭を下げた。
「そうですよ。全く、あなたは私のいないところで何してるんですか? 先走りしすぎる」
「あっ、綾子!」
仁王立ちする彼女の鼻息は荒い。
「お母様!」
大介は少々目が泳ぎながら言った。
「大介さんとは、今回の件について、後でしっかり話しますから」
綾子は腰に手を当てる。
「……はい」
大介は肩を、がくりと落とした。
「真琴ちゃん」
綾子はマコと向き合う。
「はい」
「あなたは、自分の事を大事にしなさい。花宗院のことなど気にしないで、あなたが思う気持ちに正直にね」
「はい」
「わかってる?」
綾子はじっとマコを見つめる。
「紀乃ちゃん! さあ!」
綾子はキノに手を振る。
「真琴ちゃん、行きなさい。あなたが思う道へ」
「はい」
マコはキノのもとへ、走りだした。
「キノ、私、キノと一緒に歩きたい。ずっとこれからも」
「マコ」
キノはマコをじっと見つめる。
「何?」
「僕に力をくれ」
そう言うと、キノはマコにキスをした。
呼応するように、マコはキノの頸に手を回して抱きつき、もっと強く唇を当てる。
キノの体が、光る。
白い霧状のものが、辺りに立ちこめた。キノの体全体が、包まれる。
顔立ちは綺麗だが、長い髪の毛は短く、細い四肢は逞しさを増した。
「何? 男?」
如月は腕で光を遮り、目を細める。
「あっ……、レイズ王子。レイズ王子がいる……」
千秋は呟いて、如月に抱きついた。
「ああ、キノ。キノなの……」
彼女は目を潤ませながら、キノの顔を触り、頬を撫でる。
「マコ、僕と一緒に来て欲しい」
キノはマコを見つめた。彼女はキノの頬を、撫でている。
「うん。ずっと、あなたについて行く」
キノは大介と綾子の方を向く。
「花宗院家のお父様、お母様」
キノはマコの肩を抱いて、自分の胸に引き寄せた。か細い肩を持つ手に、力が入る。
『ガンバれ』
「僕に……、僕に真琴をください。必ず守り通します」
「キノ……」
マコはキノの胸越しに見上げた。綺麗な横顔が、凛々しい。
「紀乃ちゃん……、凛々しいわ」
綾子は呟き、大介の手を取った。
「私、紀乃と一緒になりたい。私も彼を守っていきたい」
マコの瞳も未来を見つめるかのように、生き生きとした輝きを見せる。
「そうだな。百人いれば、百通りの幸せがある」
大介は目頭を、押さえた。
「それが、真琴、おまえの幸せならば、反対はしない。紀乃くんと伴に歩きなさい」
隣の綾子は、頷く。
「紀乃ちゃん、真琴ちゃんを幸せにしてね」
その大男は、仁王立ちのまま、その場に立ちすくむ。肩を震わせて、小さい目を擦った。その前の二人の眩しさに、目が開けられない。
海原は両手で拳を作った。意を決して開いた眼は、今までで一番大きい。そして、大粒の涙が頬を伝った。
「ありがとう、キノさん」
19
それから、一週間が過ぎた。無事、鈴美麗家は存続し、後藤と亜紀那は仕事に戻っている。またいつもの日が戻っていた。
「キノ様、早くお支度しないと、学校に遅れますよ」
亜紀那は扉を開けて声をかける。
「亜紀那さん、おはよう」
髪の毛が、大きく絡んでいた。
「キノ様、早く早く。すぐには絡んだものはとけませんよ」
「はいはい」
キノは、頭を掻く。
「亜紀那さん、おはようございます。私も寝坊しました」
マコも布団から、髪の毛が絡んだまま出てきた。
「はいはいって、マコ様! どうして同じベッドにいるんですか。マコ様は隣でしょ」
彼女は少々興奮気味で、声を荒げる。マコは腹部をパジャマで隠した。
「キノが来い、って言うから」
逆立った黒髪を、片手で押さえる。
「マコは、僕のものだから」
亜紀那は二人の顔を見比べて、呆れた顔をした。
「キノ様、マコ様! お二人とも高貴なお方なんですから、わきまえて下さい! 早く起きて下さい、朝食ですよ」
「キノ、髪の毛といてあげるよ」
マコはキノの頭にそっと手を当てる。
「相変わらず、髪が細長く、艶があって綺麗ね。また一段と美しくなったみたい」
「ありがと」
鏡台の前で、マコは鏡に映ったキノを見た。
「へへへ」
顔を赤らめてキノは照れる。
「ちょっと、褒められることに、快感になってない?」
クリーム色の柔らかい髪質の頭を、ポンと叩く。
「マコも綺麗で可愛いよ」
彼女は櫛を持つ手を止めた。
「でもなぜ、また女の子に戻ったのかしら」
「まだまだ、僕たちの気持ちが足りないのかな」
キノは呟き、鏡のマコを見る。
「でも、ゆっくりでいいよ」
「なぜ」
「こんな美しくて、可愛い子と一緒にいるの、滅多にないから」
マコは続けて言う。
「それにキノは女の体でも男でしょ。私をお嫁さんにしてくれるんだよね」
鏡越しに彼女は、顔を赤らめた。
「まっ、まあ。でも……体ね、まだ女だし。コントロールは女方向になっちゃう」
はにかみ、目を泳がせて、キノは答える。
「どうしたの?」
「……いっ、いや」
「もう、男でしょ」
マコはキノの背中を叩いた。咳き込んだキノは振り向いて、微笑む。
「今日から、女の子の日なの」
美しいクリーム色の長い髪、色白の顔、長いまつげに大きな瞳、四肢が細く、端正だ。
『鈴美麗 紀乃』、『花宗院 真琴』との互いを想いやる、真のキスによって僅かな時間だけ男に戻り、再び女に変化した運命の持ち主。
『キノはーふ』。
彼の苦悩はまだまだ続くのであった。
おしまい