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キノは〜ふ!  作者: 七月 夏喜
8/9

第8話 キノとマコと手紙と一夜

 寒い日が続いていた。マコの靴箱は閉まったまま、一週間開いていない。キノはいつも、じっとそこで立ち止まる。如月は、その寂しげな表情になっている場面を何回も見かけていた。

「マコさんとどうなっているんですか、キノさん!」

 昼休みになるとともに、海原は叫んだ。キノは机に額をつけている。

「何が?」

 顔も向けないで、キノは答える。

「だから、マコさん、全然学校に来ないじゃないですか」

「騒ぐなよ、海原。うるさい」

「キノさんもキノさんだ。あの一年と何してるんスすか。マコさんのこと心配じゃないんですか」

 いきなりキノは、立ち上がった。だが海原は仰け反らない。キノの額がいつも通り、赤くなっていた。握り拳を作るが、次第にそれは下がっていく。そして、そのままキノは黙り込んだ。

「何、怒ってるんだよ、海原」

 如月は声を掛け、興奮している海原の背後から、肩を叩く。

「だって、キノさん」

 キノは教室から出ていった。

「鈴美麗が、俺ら以上に一番気に掛けているさ。今はそっとしてやれ」

 如月は千秋に目配せする。


「キノちゃん」

「千秋。おまえも僕にマコのこと言いたいのか」

 淀んだ瞳は、声を掛けた彼女の行動を一瞬止めた。

「違うわ。お昼、一緒に食べよう」

 千秋はキノの腕を取る。

「ごめん。最近、あまり食べたくないんだ」

「ダメだよ。食べるの」

 彼女はキノの顔の前に立って、きつく言った。細い両手を握る。

「ね」

「う、うん」

 キノの手に力が入っていなことに、千秋は気づいていた。

「千秋、ごめんね。心配掛けてるね、僕」

 千秋は握っている手をもっと強く握った。

「今まで、私や如月君、海原君、喫茶の時のみんな、ずっと気に掛けてくれたよね。助けてくれたよね」

「……」

「頼っていいから」

「千秋……」

「頼っていいんだからね」

「……」

「キノちゃん、ねっ」

「うん……」

 キノはコクリと頷く。

「さあ、お昼食べよう。今日ね、お弁当二つ持ってきたの」

 千秋は微笑んだ。


「先輩、空の奴、今週の日曜日に、一時退院出来るようになったんです」

 キノと緒方は二人屋上にいた。

「本当。そうか、良かったね」

 キノは努めて嬉しそうに、声を上げる。唯一の拠り所は、ここだった。

「先輩、一緒に来てくれますか? 空が呼んで欲しいって、言うんです」

「へぇ」

「あいつ最初、先輩に失礼なこと言ったのに、最近は何かと話題にするんです」

「そっか」

 キノは頷いて、微笑んだ。

「人見知りするほうだったのになぁ」

 緒方は知らないが、もう、空のところには三回ほど面会に行っていた。二人の秘密だ。

「一時退院って、また入院するの?」

「そのまま経過が良ければ、通院になるかもしれません」

「うまくいくといいね。そして、学校に通えるといいのに」

「はい」

 笑顔の緒方はキノを見た。彼の前に、優しい顔がそこにある。気づいたキノは、瞳を泳がせて、空を見上げた。

「今日は、太陽が差すかな」

「……先輩」

 冷たい風が吹き、キノは乱れる髪を押さえる。

「その……、空が退院しても……」

 キノは振り向かず、顔を空に向けていた。緒方はキノの顔の前に詰め寄り、口を真一文字に引き締める。

「退院した後も、僕と……」


「緒方くーん!!」

 大きな怒りに満ちた声と足音が、屋上への階段から聞こえてきた。

「なっ、なにか来る?」

「勝負しなさいー!!!」

「海原?」

 キノはその声から呟く。屋上にその巨漢は、降り立った。緒方を凝視し、なおも前進してくる。緒方は状況がわからず、呆然と立ち尽していた。突進する海原は、緒方とキノの間に入り込んだ。彼の眼前に直立し、ぬうと出た太い腕で胸ぐらを掴む。

「緒方くん、僕と勝負しなさい」

「なっ、何を?」

 掴んだ太い腕は、ゆっくりと緒方を持ち上げていく。きりきりと彼の喉を締めていた。

「おっ、おい! 海原! やめろ! 何の勝負なんだ!?」

 キノはその腕に手を掛ける。

「キノさんは、今日は黙っていて下さい」

 海原は、その手を振り払った。キノはよろけ、尻餅を突く。

「海原……」

 海原は横目でキノを見て、緒方の耳元で大きな声を張り上げた。

「緒方くん、僕と勝負しなさい!!」

 


 道場には、胴着に着替えた二人がいた。大きな海原は、どっしりと場内に鎮座している。背は低くはないが、細身の緒方との明らかに体格の差が、胴着を不格好にしていた。

「大体なんだよ、こいつ。部外者がなんでいんだよ」

 真下は道内の椅子に腰掛けて、鼻をほじりながら言った。

「真下先輩、審判お願いします」

「おい、海原! おまえ知ってるだろうが、あの一体の板が腐って剥げ掛けて補修中だってこと。あれを見ろ、中身が見えてんだぞ。やめとけ、海原!」

 真下が指差す方向の板は、確かに破損し剥げている。一息入れて、彼は腕を組んだ。

「幾ら俺が無茶苦茶だっても、危険なことわかっててさせるか。一応これでも、部長だぞ」

「真下先輩、真剣勝負っス」

 海原は、真下を睨む。鋭い眼孔が彼を貫いた。

「おっ、おおぅ!」

 真下は思わず、異常なまでの威圧感に押される。緊張して、正座をした緒方が訊ねた。

「海原先輩、何故こんなことするんですか? 先輩と勝負したって、僕には勝ち目ないです」

「緒方くん、僕も君が勝つとは、寸分も思っていません」

「じゃあ、なぜ、先輩と勝負しなくちゃいけないんですか!?」

「君の本気を見たいのです」

 海原の小さい目が細くなる。

「それは、鈴美麗先輩のことですか?」

 負けない緒方の目が、今度は海原を捉える。

「そうです」

 大男は、見返した。

「先輩に、僕らのことが関係あるんですか?」

「大いにあります」

 細い目が更に細くなる。

「それは、何ですか?」

「キノさんが、寂しそうだからです」

「えっ」

「君は気づいていないのですか」

 海原は大腿の上に置かれた両手を、握りしめた。

「君は今、誰よりも」

 彼は口を噛み絞める。

「誰よりも、キノさんの一番近くにいる。そんな大事な人のことに、気が付いていないのですか」

「鈴美麗先輩が、寂しい……」

「勝負です。緒方くん」


 キノはまだ屋上にいた。ペタリと床に座ったまま、じっと両手を見つめている。

「あんな海原の払いに、耐えられなかった……」

 握り拳が震えていた。

「今までと違う。だんだん力が抜けていく」

 キノは両手を床に叩きつける。はらりと髪が乱れた。

「女の子になっているんだ……」

 体の隅ずみにその感覚が、染みていくような思いに囚われる。両手で今度は自分の体を抱きしめた。その恐怖に、体は次第に震えてくる。

「……僕は、僕でなくなるのか」

 胸に針で刺したような痛みが襲った。細い体は、まだ震えている。

「でも……、行かなくちゃ」

 キノは立ち上がり、屋上から駆け降りた。


「まだまだです。緒方くん」

 海原は、投げる。床に伏せる緒方に歩み寄り、また持ち上げて投げる。

「おっ、おい、海原」

 真下は気が気でなかった。海原の異常なまでの容赦ない姿勢に、悪意さえ感じられてたからだ。

「もう、やめろ」

「まだです、緒方くん。見えません!」

 鋭い技の切れがあった。床に叩きつけられて、緒方は数回転がる。肩で息をする彼は、立ち上がることすら、出来なくなっていた。

「海原! その辺にしておけ! いくらなんでも無理だ!」

 真下は叫ぶ。しかし海原には、その声は届いていなかった。

「緒方くん、何故ですか? 何故キノさんなんですか?」

「……」

 緒方の言葉は空気に勝てない。何も聞こえない。

「緒方くん、教えて下さい。キノさんは幸せなんですか? 緒方くん!」

 海原の怒濤の声が場内に響いた。

「海原!」

 何処からか聞きつけた如月が、道場に飛び込んでくる。

「海原、やめろ! やめるんだ!」

 背後から羽交い締めするが、止められなかった

「海原くん! もう、やめて! お願い!」

 一緒に付いてきた千秋が、懇願するように叫ぶ。

 如月を振り払い、海原は緒方に近づいて胴着を持ち上げた。力の抜けた緒方が、一緒になって付いてくる。

「教えて下さい、緒方くん!」

 海原は振りかぶった。

「海原! そっちに投げるな!!」

 真下は悲鳴を上げる。

 大きな背負い投げが海原から放たれた。緒方の体は、空を切って床ではなく、壁に向かって飛んでいく。


「周!」

 キノは道場内に一回転して跳び入り、投げ飛ばされた緒方の体を抱き止める。

「キノちゃん!?」

「力が! このぉ!」

 しかし、その勢いに負けて一緒に飛ばされ、壁にぶつかった。如月は急いで、駆けつける。

「鈴美麗!」

 一つ咳をして、壁に持たれたキノは緒方の体の上に重なり合った。

「緒方が大怪我になることを防いだのか」

 最後の投げは、キノがクッションとなって緒方を庇っていた。

 如月はキノから緒方を引き離し、別な場所に移す。我を忘れた海原を、真下は押さえ込んでいた。


「キノちゃん!」

 千秋は駆け寄る。キノに声を掛けるが返事がなかった。肩を軽く揺するが、表情一つ変わらない。

「キノちゃん?」

 千秋はキノを抱き起こした。彼女の手に、ぬめりとした感触が襲う。

「何?」

 千秋はおそるおそる、その手を見た。

「赤い……、血」

 彼女はゆっくりと、キノを壁から放す。壁からパイプが飛び出していた。そしてその先にはキノの背中がある。突き刺さっている背中が、真っ赤な血に染まっていた。

「きゃああ!」

 千秋は恐怖して叫んだ。

「どうした!? 千秋!」

 緒方を介抱していた如月が、振り返り千秋を見た。

「だめ! キノちゃん!!」

「なっ、なんてことだ! おい! 救急車だ! 早く! 海原!」

 キノの顔が次第に、蒼白になっていく。

「目を開けて、キノちゃん!!」

 千秋がキノの背中を押さえた。頬を叩く。

「鈴美麗は、これから緒方を守ったのか! くそ!」

 如月はパイプを蹴る。

「きっ、キノさん……」

 呆然と立ち尽くす海原がいた。脂汗が垂れていく。

「おい! 救急車呼んだぞ!」

 真下が叫んだ十分後に、救急車のサイレンが学校に鳴り響いた。

 その頃、教室のキノの携帯電話が鳴り続けている。発信元は『花宗院 真琴』だった。


「どこに?」

 佐伯は訊ねた。

「いっ、いえ……、別に」

 マコは電話の受話器を置いた。

「随分、長く呼び出していましたね」

「本当に何も」

「大事な方ですね」

 マコの手が止まる。佐伯の顔を見た。彼は微笑む。

「さあ、お食事にしましょうか」

 マコは立ち上がった。

「真琴さん、ドライブに行きませんか」

「これから、ですか?」

 佐伯はコートを持ってくる。

「あなたの高校を見てみたいのです。あなたが是非とも行きたいと言った学校へ」

「え?」

「さあ、早く」

 佐伯はマコの手を取った。


 学校では、担架で運ばれていくキノがいる。白い顔がより白く、桃色だった唇は紫色に変化していた。

「私、付き添っていくから」

 千秋はそう言うと、救急車に乗り込む。

「鈴美麗の自宅には連絡したから、安心しろ」

 保健室の瀬尾は言った。救急車が来るまで、応急処置を瀬尾にしてもらっていたのだ。

「邦彦、マコさんに連絡は?」

「だめだ。携帯はつながらない。自宅は?」

「マコさんの自宅はわかんない」

 心配そうな千秋の顔を見た。

「いいから、もう行け。頼むぞ」

「うん。海原くんと緒方くんをよろしく」

「わかった」


 海原と緒方は、道場で正座していた。真下はブツクサ言っている。

「全く、おまえら……。いい加減にしろよ。海原!」

「おっ、押ス……」

 目の回りに、真下に殴られた跡がある。

「おまえ、やりすぎだ! 鈴美麗を怪我させて、どうするんだ! わかってんのか!」

「押ス……」

「それと……、緒方」

 真下は指さす。

「はい……」

 緒方は青い顔をしている。

「あれだ、海原に少しでも、向かうことは出来たのか」

「……いえ」

「だろうな。でも、本気で惚れてるのか、その……、鈴美麗を」

 海原の耳が動く。

「……本気、でした」

「でした? なんで、過去形か」

「今は、……わからなくなっています。僕は、海原先輩の言っていたことを、知りませんでした。僕は近くにいて気づきませんでした」

 真下は腰に手をあてた。

「ぼ、僕は、鈴美麗先輩の気持ちを、考えたことがなかったかも知れません。自分のことばかりで……」

 海原は緒方を見ずに、正面の掛け軸にを凝視している。

「鈴美麗先輩は、僕の代わりに怪我してしまった」

 腫れている顔が、一層歪んだ。

「キノさんは、とても強い人で、優しい人です」

「……はい」

「そして、弱い人です」

「……」

「緒方くん、君に出来ますか。あの人を支えるのは、あの人以上に強くないといけない、優しくなければいけません」

 海原は立ち上がった。緒方に背を向ける。

「それが出来ないと……、あの人は寂しがります」

 緒方も足下をふらつかせながら、立ち上がった。

「緒方くん」

 海原は、如月がへし折った道場のパイプを、見つめる。

「……わかってます。病院へ行きます」

 彼は、体を引きずるように、柔道部道場から出ていった。

「けっ、海原。ダセーこと、よく言うな。さすが、投げられただけある」

 真下は頷く。

「海原! キノちゃんが大変だったてぇ!」

「睦さん!」

 海原は声に反応した。

「あーあ、またややこしいのが増えた」

 真下は毒つく。


 白いスポーツカーは、救急車とすれ違った。

「ここかい?」

 星白高校の正門に車は停車する。

「ええ」

 小さい声でマコは返事した。

「ふーん」

 佐伯はフロントガラス越しに、見上げる。彼には、興味はなさそうだ。

「まだ、荷物がそのままだったらしいね」

「ええ」

「何なら、僕の執事に言って、処分させようか?」

「やめて」

 マコは強く返答した。

「自分でやるからいい」

「そうかい」

 マコは何故か、そわそわしている。佐伯は笑い放った。

「出ようか」

「うっ、うん」

 マコの顔が明るくなる。車から出たマコは校舎へ歩いていくが、直に小走りになった。


 大きく深呼吸する。

「一週間しか経っていないのに、なんだか懐かしい感じ」

 校舎へ入ると、途端にいつもの朝の状態が甦った。

「あ……」

「うわぁ、懐かしいなあ。私の時も、こんなところあったな」

 佐伯はわざと声を張り上げて、言葉を漏らす。マコは自然と自分の靴箱を開ける。

「……これ」

 上履き靴の上に、手紙が乗っているのを見つけた。

「どうした?」

「なっ、なんでもない」

 蓋を閉める。彼女は右手に手紙を、握りしめていた。

「それ、何?」

「やーねー、ラブレターかしら」

 マコは少しはにかんで、とぼける。

「ここに来たら、君の笑顔が見れた。よかったよ」

 満足気な表情を浮かべて、佐伯は頷いた。

「ありがとう、佐伯様」

「ちょっと、そんな呼び方はやめなよ」

 佐伯は頭を掻いた。

「なんて呼べばいいの?」

「光でいいよ」

「じゃ、じゃあ光さん」

「いいね、堅くなくて。私はもっと君の近くに寄りたいんだ」

 佐伯は指さした。

「なんでも、話してほしい。いいね真琴」

「……はい」

 マコは、佐伯が自分を『真琴』に変えたことに気づいた。同時にベランダで聞いた『マコ』と言う言葉が、不自然に思えた。

「光さん、ちょっと一人で教室まで行ってきていいですか?」

「わかった、私は車に戻っておくよ」

 マコは急ぎ足で、教室に行く。誰もいなかった。もう放課後で、皆がいないのは当たり前だ。自分の机に近づき、指で表面を滑らせた。しばらく、マコは佇む。そこから、横を見た。海原の席の隣。いつも額を付けられている席を。

 マコの目に涙が浮かんだ。その涙は頬を伝っていく。溢れてくる。

「もう……、逢えないんだね」

 マコはポケットの中に慌てて入れ込んだ手紙を思い出した。取り出すとくちゃくちゃになっている。丁寧に、しわを伸ばした。

「ああ」

 マコの手が震える。震えが自分で押さえられなかった。手紙の封が開けられない。

「花宗院か、よかった」

 驚いてマコは振り返った。手紙を隠し、顔を手で拭く。

「如月くん」

「花宗院……、泣いていたのか」

 取り繕う彼女の顔には、涙の後が付いていた。頭を振って、後ろを向く。

「まだ、学校いたの?」

「君には、早く伝えたかったんだ。けれど、どうしても連絡が取れなかった」

「え」

「鈴美麗が……」

 振り向いてみた如月の顔は、曇っていた。

「キノが、どうかしたの」

 その只ならぬ雰囲気に、マコノ表情も硬くなる。

「海原と緒方の試合の最中に、大怪我を追った」

「え」

「ちょっと前に救急車で運ばれたんだ」

 マコに、再び体の震えが襲った。

「花宗院、病院に行ってくれないか。今の鈴美麗には、君の存在が必要だ」

「如月くん、私……行けない」

「花宗院!」

 如月は耳を疑うように、驚いた表情になる。

「ごめん、如月くん……。私は、もうキノには、逢わないと決めたの」

「どうして!?」

 如月はマコの机に近寄る。

「私、……婚約するの。もう、この学校もやめるのよ」

「それは鈴美麗も、知っているのか?」

「……知らない」

 マコの肩を、思わず如月は掴んだ。

「おまえ、それでいいのか! 鈴美麗は、あいつは、ずっと待っているんだぞ!」

「如月くん、私ね……」


「それで、いいんだよ」

 如月は振り向く。佐伯が立っていた。

「遅いと思ったら、こんな男に捕まっていたのか。私の真琴から離れてくれないか」

「光さん、ごめんなさい。私の友人なの」

 マコは急いで取り繕う。二人は眼光を散らした。

「花宗院、君の婚約者か?」

「そうだ」

 佐伯が答える。

「と、言ってもまだ、正式には決まっていないがね。近々、君たちにも発表するよ」

 如月は、佐伯よりもマコの顔を見る。

「真琴の親友が怪我を負ったのは、私にとっても非常に心が痛い」

 佐伯はマコの手を取って、如月から引き離し自分に寄せる。

「後ほど二人で、寄らせてもらうよ。見舞いの花は、何がいいかな」

 そのままマコを引き連れて、佐伯は教室を出た。マコは振り向いて、その場に立ち留まったままの如月に、引きつった笑いを浮かべる。

「どいつもこいつも、自分勝手だ。鈴美麗は……」


 真っ白な世界。景色も音も何もない。あの時、緒方から抱きしめられた屋上で感じた世界。その中をまるで、風船の様にふわふわと漂っている。

(ここは、一体、何処?)

 幾分か漂った後、視界の中に、霧のような靄が立ちこめてきた。何なのかはわからないが、大きな円が見えてくる。体はゆっくりと、それに向かって導かれていた。やがて、景色が見えてくる。キノはようやく自分が空を飛んでいることに気づいた。

(飛んでる? 夢? これは夢なのか?)

 円に近づくにつれ、次第に何だったのかわかってくる。

(池?)

 大きな屋敷の中の池。キノはその池のほとりに、降り立った。多様な鯉が泳いでいる。

 辺りを見回すと、洋風の大きな屋敷だ。屋敷の中で、数人が談笑している。

(この屋敷……。ここは、見たことがある……)

 何歩か歩き出す。足元はふわふわしている。手入れされた芝生は、体重が架かっても、折れない。

 池から離れようとした時、声がした。

(子供の声)

 池の何処からか、聞こえてくる。キノはその声のする方へ向かった。無邪気な笑い声。男の子と女の子。

(あ……)

 池の淵に二人はいた。並んで話しをしている。

(まっ、マコとぼく)

 キノは周囲をもう一度見回す。

(マコの屋敷だ……。じゃあ、この池)

 二人は立ち上がって、何かをしようとしている。マコが指を差していた。その先には、光る物がある。宙に浮いている。

(何?)

 キノは目を凝らす。幼いマコは手を伸ばしていた。幼いキノが声を掛け、何かを話し交代する。今度はキノが右手を伸ばす。マコが左手を一生懸命に引っ張っている。でも、なかなか届かない。


(あれ?)

 いつの間にか、二人の目の前にキノは浮かんでいた。幼いキノが必死に手を伸ばしてくる。

(何を? 何を取ろうとしている?)

 キノは頭を振って辺りを見回す。幼いキノの目は真っ直ぐに、正面を見ている。

(僕に向かって、キノが手を伸ばしている)

 小さな指が、動いていた。

(あんなに必死に、ひとつのことに夢中で、真剣で……、迷いがなくて……)

 幼いキノの手が、空間に浮かんでいるキノのもとに近づいてくる。

(僕はなぜ、こんなにも迷っている? なぜ、自分の気持ちに正直になれない?)

 キノの目から涙が出てきた。

(キノ! 頑張れ!)

 いつの間にか、キノは手を伸ばしていた。幼いキノの手と浮かんでいるキノの手が触れようとした刹那だった。急に幼いキノが顔を上げた。

(えっ?)

 キノは驚く。幼いキノは微笑んだ。何かを言った。

(見えないはず、どうして? 何か言った? キノ!)

 キノははっとした。記憶の彼方にあるこの出来事。

 あの時言った一言。


 『カンバれ』


 想いが、こみ上げてきた。


 幼いキノと触れる前に、彼の手の中には光る物があった。そのまま、池に落ちる。同時に左手を引っ張っていたマコも落ちた。

「落ちた!?」

 瞬間、キノも池の中にいた。光る物が、幼いキノの手から離れ、やがて池の底へと沈んでいく。

(あれは一体?)

 二人の子供の体が、池の中でもがく。幼いキノは必死で水面へはい上がろうとしている。しかし、マコは力尽きて、キノとは逆の池底へ沈んでいく。

(マコ!!)

 キノはとっさに手が出た。

(掴まえられるのか?)

 落ちていくマコの足に、キノは触れる。

(触れる!)

 幼いマコの上腕は、キノに掴まえられ、引き上げられた。マコの体は上を向く。水の中、マコは気を失っている。フワリと浮かんだキノの体は、池の淵まで飛び上がった。先に上がった幼いキノの体が横たわっている。

「お嬢様! どうされた!?」

 お目付け役がマコを見つけた。キノは隠れようとしたが、見えるはずなどなかった。キノは幼いキノのそばに近寄った。

「お姉ちゃん、助けてくれたの?」

「僕が見えるの?」

 キノは頷く。

「そうか……」

「ありがとう」

 幼いキノの目は潤んでいた。

「キノちゃん、約束して」

「何を?」 

「これから、君がマコちゃんを守るんだよ」

「マコちゃんを?」

 キノは頷く。

「そう。生涯通して、必ず守っていくの。どんなことがあっても」

 その後、数人の大人たちが、マコを介抱していた。

「わかった?」

「うっ、うん……」

「わかった!!」

 キノの目には涙があった。

「はっ、はい!」

「よし!」

 キノは後ろを向き、顎に手を当てる。

(自分で自分に言ったのか……?)

「お姉ちゃん」

 幼いキノは、声を掛けた。

「僕、お姉ちゃんみたいになる! 絶対、強くなる!  絶対に! そして、マコちゃんを守る!」

 振り向いて、キノは微笑む。

「キノ様ー!」

 亜紀那の声が聞こえてきた。

「なれるよ、なってね」

 その時、すれ違う男が舌打ちをする。キノはその男を見た。端正な顔立ちの高校生だった。


 前に顔を戻した途端に、最初の白い空間になる。また漂い始めた。

「……僕だったのか。マコを助けたのも、マコを守れと言ったのも」

 キノは呟いた。

「もし、神様がいて、幼いキノとマコを助けた僕の行動を許してくれるなら、その代償がこれかもしれない。強い女の子になること。幼いキノはそう願ったんだもの……」

 空間をキノは漂う。

「やっぱり戻れないのか、僕は男に戻れないのか……。力も出なくなってきている。緒方を守るどころか、自分自身も出来なかった」

 キノは大の字になった。

「マコに……」


『ガンバれ』


 幼いキノの声がした。


「キノ様、キノ様!」

 明るい照明が、天井にある。

「あっ、あき、亜紀那さん……」

「キノちゃん!」

「……ち、千秋」

「よかったぁ」

 亜紀那の安堵の表情が見えた。咄嗟にキノは、起きようとする。

「だめです、キノ様!」

 亜紀那に制止された。

「キノちゃん、背中のところ少し縫ったから、起きちゃダメだよ」

 千秋が優しく、体を押さえる。

「全く、無茶過ぎます」

 亜紀那は、不安げな真顔で言った。

「今日はここで泊まって、明日、屋敷に戻りましょう」

 彼女は持ってきた替えの服を、取り出す。千秋は、屈んでキノの耳元で囁いた。

「キノちゃん、緒方くんが外にいるんだけど、どうする?」

「緒方……」

「今日無理だったら、断るよ」

「いや、呼んで」

 千秋は扉を開けて、緒方を呼び入れた。

「キノちゃん、外に出てるね」

 千秋と亜紀那は部屋から出ていく。

「先輩……、あっ、あの……、ぼっ……ぼく」

「緒方、怪我なかった?」

「そんな、先輩が怪我してしまって、僕……」

 キノは明るく微笑んだ。

「大丈夫、僕は強いだろ」

「先輩は、何故そんなに優しいんですか? みんな僕のせいなのに」

 おどけるキノの仕草が、緒方には辛かった。

「先輩、僕、海原先輩に言われました」

 緒方は俯く。

「海原に、何言われたの?」

「先輩が寂しそうになっていることを、知っているかって……」

「あのバカ……」

 キノは怒った顔になった。

「海原先輩の言うことは正しいです。僕は今まで、先輩に……、先輩の優しさに甘えていました」

「……」

「空が喜ぶことが出来ればいいなって、最初はそう思って、先輩にあんな頼み事したりして」

 キノは笑ったが、痛みで眉間にしわが寄る。

「緒方、実は隠していたこと、ある」

「なっ、何ですか?」

 緒方は身を乗り出した。

「本当は、僕と空ちゃんは緒方の知らない日に逢ってたんだよ」

「ええっ!?」

 緒方の目が丸くなる。

「色々、話をした」

「それで、空は先輩のことを……」

 緒方は考え込んだ。

「緒方、もう少しこっち来て、起きられないから」

 キノは手招きする。

「はい」

 緒方は前屈みになった。

「もうちょっと、大事なことだから」

 キノの顔が、彼の耳元近くまで寄っていく。

「緒方、僕には好きな人がいる。ずっと守らなきゃいけない、人なんだ」

「はい」

「だから、おまえは、空ちゃんをしっかり守れ。僕には色々変な奴らがいるけど、空ちゃんにはおまえだけが頼りだ」

「はい」

「絶対に、だぞ」

 顔が赤くなっている緒方がいた。キノは緒方の頬に、キスをする。

「先輩、僕、強くなります。先輩に負けないくらいに」

 キノは布団を顔に掛けた。緒方は急いでベッドから離れる。

「うん……」

 布団から細い手だけが出てきて、振っていた。緒方は頬を押さえながら、微笑む。

「……なんで、……涙出るかな」

 布団の中で、すすり泣くキノがいた。


「何か落ち着かない様だが」

 佐伯はソファーで、コーヒーを飲みながら言うと、マコははっとする。

「えっ、そんなこと……」

「だったら、いいが」

 佐伯はマコの顔を、じっと見た。

「光さんは、今日お帰りは何時になさいますか?」

「なんだか、早く追い返したいようだね」

「いっ、いえ、別に」

 マコは困った顔になる。

「今日は是非とも、お父様と夜まで話をしたいんだがね」

「どうでしょう、今日は」

 ドアが開き、使用人が入ってくる。

「お嬢様、ちょっとよろしいですか?」

「はい」

 マコは使用人の傍に寄った。

「良いタイミングだったわ。あった?」

「申し訳ありません、お嬢様。方々捜したのですが、それらしきものは、見つかりませんでした」

「ちゃんと、探した?」

「ええ、おっしゃった通り、外出着や鞄、身の回り全てを調べましたが、手紙のようなものはありません」

「そんな……」

 マコは肩を落とす。

「お話中すまないね。真琴。この屋敷では、使用人との節度が甘いようですね」

 扉から佐伯が、まるでずっと覗き見していたかのように言った。

「彼女は、私の専属の使用人なのです。少しくらいは羽目を外します」

「それはいけません。身分相応というものがあります。一線を引くことが、我々と下級庶民を区別する大事なことなのです」

 佐伯は、マコの専属使用人を睨む。マコはその間に入った。

「光さん、中に入りましょう」

「そうそう、君の探しているものは、これかな?」

「え」

 佐伯は、右手を振っている。その手には、学校の靴箱にあった、しわくしゃになった手紙が持たれていた。

「そこに落ちていたから、拾ったんだが、大事なものだったかな」

「で、でも、それは私の部屋にしかないはず」

 さすがにマコは、怒った口調になる。

「いや、失礼だと思ったが、君の部屋を拝見させてもらった」

「そんな! いくら光さんでも、プライバシーの侵害です!」

「いやー、本当に済まない。少しやりすぎた」

 佐伯は頭を下げた。

「ただ、将来の妻の生活スタイルを見ておきたかったんだ。何なら今度、私の部屋を散策してみてもいい」

 佐伯はマコのところまで歩いていく。

「互いに隠し事を無くしておきたい」

「まだ、妻ではありません。返して下さい」

「ああ、これか? でも確か君は、これを他愛もないラブレターだと言ったね」

 マコの目の前に、手紙を見せる。

「え、ええ……」

「じゃ」

「え?」

 佐伯は、手紙を半分に引き裂いた。

「君も花宗院家を背負う人間だと、自覚しなければいけない。これからの振る舞いを、しっかりと考えなくてはならない。それに君ひとりだけの問題じゃないだよ。君を含むここにいる使用人全てに、責任を持たなくてはならないんだ。もう、こんなじゃれ事につき合っている時間はない」

 佐伯は、もう半分引き裂く。マコは口を噛みしめる。

「おい! 使用人!」

「は、はい」

「ゴミだ。処分しろ」

「で、でも、これはお嬢様の」

「処分だ!」

「はい……」

 横目でマコを見ながら、彼女は手で受け取った。マコは目が開いたまま、動かない。

「しっかり焼却しておけ」

 佐伯はほくそ笑んだ。

「お嬢様……」

 マコは、使用人の手に触れる。

「焼いておいてて」

 佐伯は大きく笑った。マコは部屋に入り、ソファーまで歩いていく。

「使用人、君がここで仕事が出来ることを、真琴に感謝するんだな」

 マコはテーブルに置かれたコーヒーを、一気に飲んだ。

「そうですね、私には背負うものがある、やらなければならないことがある」

 扉にもたれながら、佐伯は腕を組む。

「強い人だ。実にいい。我が妻として、物事を見極めることが出来る」

 佐伯は、使用人からコートを剥ぎ取ると、歩きだした。

「まあ、いい。今日はもう帰るとするよ」



10

 マコは玄関前で、佐伯を見送った。車が正門から出たことを確認すると、その足で自分の部屋へ戻る。クローゼットに掛けてある服を、毟り取って、床やベッドに投げつける。机の上にある物はみんな払って落とした。照明スタンドの蛍光灯が割れる。

 そのまま力を無くしたマコは椅子に座って、机に覆い被さった。彼女は唇を噛む。机の上に大きな粒が落ちた。

「お嬢様、お嬢様」

 扉を叩く音がする。

「一人にさせて!」

「お願いです。どうか、お開け下さい。お願いします」

 マコは袖で、涙を拭いた。ゆっくりと扉を開ける。

「……何」

 使用人は、部屋の中が荒れているのを、扉の隙間から見て驚いた。

「あっ、あの、先ほどの……」

 彼女は袋をマコに押しつけて、渡した。

「それと、お友達から聞きましたメモも入っています。失礼します」

「ねえ……」

「はい。お嬢様」

「ありがとう」

 使用人は頭を下げた。マコはゆっくりとした足取りで、机に袋を置き、暫くベッドで横になる。置き時計の音が、その部屋だけの時間だけ置いていくかのように響いていた。

 何分が経ったのか。決心したようにマコは起き上がる。マコは机に置いた紙袋を開けて、中身を出した。破れた手紙とメモ用紙が飛び出す。

「あ……」

 机の上に並べて、テープできれいに張り合わせていく。封筒の中には、一枚の手紙があった。

「……ああ、……ああ」

 マコの手が震える。どうしようもない想いと涙が溢れ出てくる。

 文章は一行だけ。

 キノの精一杯のマコへの想い。


『大好きなマコへ  ずっと守るから  キノ』


 部屋に嗚咽が響いた。

 涙が止まらない。押さえても押さえても、キノの記憶が頭の中を駆け巡る。

 マコはついに大声で泣いた。机に頭を付けて、涙が枯れるまで……。


 マコは机の上のもう一枚のメモを見た。病院の名前と病室の番号だった。

「キノ……、今、行くから」

 マコは立ち上がって、コートを無造作に羽織る。そして力一杯、扉を開け放った。

「お嬢様」

「あなた……」

 紙袋を渡してくれた使用人だ。

「ここいたの?」

「扉が開くのをずっと待っておりました」

 マコの乱れた髪や衣類、コートの襟や裾を正す。

「裏門に車を用意してございます。さあ」

 彼女はマコの手を取った。

「どうして、ここまで」

 マコと使用人は走る。

「お嬢様。私は、あのお方にお仕えしているわけではありません。お嬢様にお仕えしています」

 二人は裏口を飛び出した。

「私、お嬢様のお幸せが、一番です」

「うん」

 裏門に停車していた車は、マコが乗り込むと同時に発車した。

「お嬢様、お気を付けて」

 彼女は深く頭を下げる。マコは車の窓ガラス越しに彼女を見続けていた。



11

 亜紀那は物音に気づき、扉の向こうに人影を見つける。時刻は、十一時を過ぎていた。キノは眠っている。

「どなた?」

「真琴です。どうか開けて下さい」

 亜紀那は静かに扉を開けた。照明が落ちた廊下に、マコがじっと立っている。

「マコ様、どうしてこんな遅くに」

「あの……、入っても……いいですか」

「どうぞ」

 亜紀那はドアを静かに開け広げ、マコの誘導した。

「キノ様は今、鎮静剤の注射で眠っておいでです」

「具合はどうですか?」

 マコの顔は、不安気だ。

「安心なさって、マコ様。キノ様は相変わらず、丈夫ですよ」

 亜紀那は、少し笑った。彼女はマコの目が赤く、そして顔が腫れているのに気づく。昼間、付き添って来た級友が話していた、最近のマコとの関係は、キノを見ていればわかることだった。このところ、まともに食事せず、部屋にずっと閉じ隠りだったのだ。

「さて、マコ様。私、屋敷での用事が、キノ様の騒動で、お昼からずっと止まっていますの」

 亜紀那はバックに荷物を入れながら、言った。

「明日、キノ様を屋敷に連れて帰ります。その準備もありますので、失礼いたします。お構いしませんで申し訳ありません。何分にも病院ですので」

「……」

「マコ様、大変わがままなお願いなのですが、聞いていただけますか」

 亜紀那はマコを見た。

「一晩キノ様のご調子を、見ていて下さりませんか」

「亜紀那さん……」

「なあに、心配するようなことは、ありませんから大丈夫ですよ。今でもよく寝ておいでです」

 彼女は深く頭を下げる。

「キノ様、よろしくお願いします」

 彼女はバックに、血の付いた制服を入れた。

「亜紀那さん」

「はい」

「キノのこと、心配ですか」

「そのお方は、お優しすぎます。全て自分で背負われる」

 マコはキノの方を見る。

「でもそれが、キノ様ですけどね」

 亜紀那は微笑む。

「マコ様、あなたも強い人。でも、キノ様には素直になっていいのですよ」

 亜紀那は、バッグを持つと部屋を出ていった。

「亜紀那さん……」


 マコはゆっくりとキノのもとへ歩いていく。ベッドに横たわる起伏が、キノがそこに現実にいるという証だ。

 マコは顔を覗き込む。

「ああ……」

 キノは軽い寝息を立てていた。疲れたように、ぐったりとしている。

「キノ……」

 マコはキノの頭を撫でる。艶のある細長い髪は、美しかった。

「痛かったでしょ……」

 キノの乱れた髪をすくい上げて、整える。

「キノ、ごめんね。すぐに来れなくて」

 マコの目に再び涙が滲んできた。

「私、自分のことしか考えてなくて、キノに酷いことした」

 布団から出ている指に触る。

「いっぱい、いっぱい、心配掛けてる」

 頬に手を置く。

「キノ……」

 マコはキノの頬に近づき、自分の頬を合わせた。

「靴箱の手紙、読んだよ。……ずっと変わらないんだね。ずっと……」

 マコの涙の一筋がキノの肌に触れる。

「ねえ、キノ……、守ってよ……」

 さっきよりも強く頬に押しつけた。

「キノ、私を守って……」

 静かにマコは、瞳を閉じる。

「守るさ」

 マコの体を、優しい両腕が包んだ。

 彼女は顔を上げる。キノの大きな瞳が彼女を見ていた。

「泣いてた?」

 キノの頬に涙の滴が残っている。

「うん」

「逢いたかった?」

「うん」

 キノはマコの頬を撫でた。

「キノは?」

「一緒」

 キノは微笑む。マコは頬を撫でるキノの手に自分の手を重ねる。

 マコはキノの顔に、覆い被るように近づく。互い瞳は閉じられた。

 触れた二つの唇は、とろけるように柔らかい。キノは強く、マコを抱きしめた。唇は更に刺激しあう。

「……キノ、お願い」

 マコはブラウスのボタンをゆっくり外した。

「キノのものにして……」

 マコはキノの右手をそっと握った。その手をゆっくりと胸に導き、素肌に触れさせる。

「じゃないと、私、これから、強くなれない……」

「……マコ」

 キノは呟く。

「柔らかくて、暖かい」

 キノの指が、マコの胸の感触を敏感に感じ取っていた。マコはその身をキノに任せていた。小刻みに体が震えている。

 キノはマコの胸に手を残したまま、ベッドに引き入れる。それから二人は、じっと顔を合わせた。

「……あ」

 キノの顔が、これまで以上に真っ赤になって、口が開いたままになった。マコは目を逸らした。

「……キノ、私のものになってくれる?」

 マコの手が、キノの手と交差している。

「う、うん」

「キノの胸も柔らかく、暖かいよ……」

 キノは抱きしめる。マコはもう一度、キスをした。

「……いっ、痛いててて。背中、背中」

 キノは何回か小声で叫んでいた。


 明方、キノが目を開けた時、隣にマコは居なかった。空間をキノの手が何かを掴もうとする。やがて、その手は止まり、マットレスの上に落ちた。

 キノは右手で胸を触り、目を閉じる。互いが触れていたものに、まだ温もりを感じようとするかのようにじっとしていた。

「キノ様」

「亜紀那さん」

 目を開けると、亜紀那がいた。

「お顔色は、良いですね。ゆっくりお休みになれましたか」

「えっ、ええ、まあ……、なんとなく」

 亜紀那はじっとキノを見つめ、傍に寄る。キノは鼻まで布団を持ち上げた。顔は当然、赤面している。

「なっ、なに?」

「それぇ!」

 彼女は布団を持って、広げた。

「わああああぁ!」

 キノは病衣の乱れを隠す。

「もう、マコ様の香りがつき過ぎです」

 亜紀那は横目でキノを見た。赤い顔のまま、体を丸めている。

「さあ、先生の回診が終わったら、帰りますよ。そんなに元気なんだから、自分で支度して下さい」

「はい……」

「キノ様、久しぶりの笑顔が見れましたわ」

 亜紀那は笑った。キノも苦笑いする。


 テレビ台の上に、封筒が置かれてあった。亜紀那はそれを取って渡す。キノは封を明け、中身をじっと読んで頷いた。

「キノ様、マコ様からですか?」

「うん」

「なんと?」

「何でもないよ」

 亜紀那は、キノの顔の表情の変化を見逃さない。それを問いだしても、答えは予測できた。

「そうですか」

 キノは手紙を手の中で、潰す。

「亜紀那さん、僕は、これからやる僕を信じるよ」

「キノ様……」

「さあ、僕の大事なものを、力ずくで取り返しに行くよ」


 潰した手紙には一行。


『大好きなキノへ  ありがとう、そして さようなら  真琴』

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