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キノは〜ふ!  作者: 七月 夏喜
7/9

第7話 キノと年下の男の子と白い雪とキス

「寒い! これだから冬は嫌いだ」

 茶色のコートを羽織ったキノは、靴箱で毒付いた。扉を開けると、シューズの上に手紙が束になって積み重なっている。

「またか……」

 キノにとっては、毎朝のいつもの事だ。

「キノ、早く! ホームルーム始まるよ」

 マコが声を掛ける。

「うっ、うん」

 そのまま鞄に入れて、足早に教室へ急いだ。


 その日の昼休みも例の如く、キノは額を机に付けている。

「おーい、鈴美麗ー! 面会ー! 男子ー!」

「ふあっ?」

 上体を上げた。額が赤い。

「う?」

 海原は机を上下に震えさせた。石井も彼とほぼ同時に、振り返る。

「睦?」

 山本は驚いて、その行動を不審がった。

「キノちゃんに?」

 千秋は、BL原稿を描く手が止まる。彼女の目が輝いた。

「はいはい」

 キノは立ち上がって、出入口の方へ歩いていく。名前に反応した三人は、視線が釘付けになった。

「あれ? どこ?」

 キノは辺りを見渡した。

「さっきそこに……、いない? 一年だったぞ」

 机に腰掛けている窓際の男子が言う。

「一年。ん?」

 廊下の曲がり角に、人影が見えた。キノは歩いていく。角からそろりと覗くと、顔が見えた。

「君、呼んだ?」

 角から出た顔に向かって、キノは視線を合わせる。

「わあああぁ!」

 後輩男子は悲鳴とともに、ひっくり返った。そのまま後退する。

「ちょっと、どこ行くの?」

 キノは手招きをして、指差した。

「君ですか? 僕を呼んだのは?」

「あっ、あっ……」

 緊張し、慌てているせいか、彼は視線を合わせられない。

「何か用ですか?」

 キノは微笑むと、一年生の顔が赤らんだ。

「あのぉ! すっ、すずびれい先輩!」

 立ち上がる。丁度、マコぐらいな背の高さで、幼さが残る小顔だった。

「ぼっ、僕、緒方周って言います」

「はいはい、そう。で、誰か、ぶっ飛ばす?」

 袖をまくり、拳を見せる。

「いっ、いえ。そうじゃなくて、手紙読んでくれましたか?」

 キノは一瞬何のことか分からなかった。鞄の中の手紙の束が、まだそのままなのを思い出した。目が泳ぐ。

「あっ、ああ、あれね」

「やっ、やっぱり、ダ、ダメですよね……」

「ははは」

 キノは腕を組んだ。手紙の内容を、彼にここで聞くわけにもいかない。

「いっ、いや! い、いいんです。先輩、そんなに悩まないで下さい。無理だとわかっていますから……」

 緒方は、ちょっと寂しそうな顔になって、後ろを向いた。ひやかしに一緒に付いてきたと思われる男子たちが、指をさして笑っている。

「おい! 男がすぐに諦めたらダメだ。そんなすぐに諦めつくようなことだったら、最初からするな」

 緒方は止まる。

「ぼっ、僕、先輩に……、あっ、憧れているんです」

「え?」

「すっ、凄く綺麗な人なのに、それを誇示しない。それでいて強い。真っ直ぐな気持ちで、何事にも立ち向かう……、その姿が僕は、憧れるんです」

 キノは照れる。

「そっ、そお? そうかぁ」

 小恥ずかしそうにしているキノだが、まんざらではない。武道の精神をくすぐる台詞が、キノを高揚させる。

「あっ、こんなこと話すつもりでは……。ごっ、ご迷惑なら、いいんです。潔く諦めます」

 『潔く』という言葉がキノを更に舞い上がらせた。

「いや! やり通すのが、武道だ!」

「じゃあ、ほっ、本当にいいんですか!」

 拳を上げて返事したキノは、我に返った。

「あっ、あ、う、うん?」

 その約束の内容がわからず、曖昧な返事をする。

「じゃあ、先輩、今度の日曜日なんで、よろしくお願いいします!」

「あっ、ああ、そっ、それで……」

 緒方は嬉しそうに走り去って行った。

「おーい、日曜日に何だよー」

 キノはその場に立ち尽くす。


「ほおおぉ。今度は年下ですか? しかも男子!」

 キノの動きが止まって、またしても両肩が上がった。そして、千秋の時と同じ様な、背筋に凍りつくような視線を感じる。額に汗が滲んだ。

 振り向くとマコと如月が、階段を登り終えたことこだった。

「おっ、お二人ともご苦労様です、ははは。じゃ」

 教室へ戻ろうとした時、如月は言う。

「今の子、一年の緒方くんだね。彼、いい子だよ」

 彼は眼鏡を掛け直した。

「きっ、如月くん、話を広げないで」

 キノは焦る。

「一体、何の約束したの? 一年のその子と?」

 マコは唇を尖らせて、尋ねた。

「さっ、さあ?」

 教室から廊下に顔を出していた、千秋。その背後に汗を流しながら見ている海原。二人に悟られないように石井がいる。キノが振り向くと、三人は素早く、教室に身を隠した。

「全く、あいつら……」


 手紙を読むと、冷汗が出てきた。

「どうやら、デートの申し込みらしい」

 切々とキノのことについて、書かれてある内容は、実に気恥ずかしい限りだった。

「本当、男の子って可愛いのね」

 マコは言う。

「なっ、なんていうか、その、男からこんな事を書かれて、変な気分」

 キノが焦って呟いた。

「結局、お昼には、あの子はキノとお付き合いしたいって言ったの?」

 マコは尋ねる。

「違うよ! いや、日曜日につきあって欲しいと……」

 手紙をクルクルと回し始める。

「キノ、本当に日曜日出かけるの?」

「うっ、うん。あいつとも約束したし。まあ、可愛がってやるさ」

「でも……」

 マコはいつもより、何故か不安気だ。キノはマコの耳元で呟く。

「……僕は、男には興味はないよ」

「そうは思うけど。フェイル先生の時は、本気でキスしようとした癖に」

「あ、あれは、ちょっと……気持ちが、ね」

 顔を赤くして、照れる。

「あなたの中の女の子の部分が、出なきゃいいけど。そうやって、たまに出ちゃうじゃない」

「そう、だっけ?」

 キノは考え込む。

「僕の中に、女の子の部分ってあるの?」

「最近、話言葉は女の子らしいよ。仕草も随分、最初よりもしおらしくなった。ねえキノ。最近、鏡をちゃんと見てるでしょ。髪の毛、綺麗に揃ってる」

 マコは真剣な目でキノを見つめる。

「そう」

「キノは気づいてないかも知れないけど。あなた、女の子の日を経験してから、少しづつ変化している」

「え?」

 キノは赤面した。

「女の子の日は、大変だった。マコにも色々とお世話になった」

「そうなの。体はどんどん、あなたに女の子を強要している。前よりもずっと綺麗になってるし……」

 キノは、無口になっていく。

「でも精神だけは同期しない。それでも、やらなければならない。このままこれじゃあ、そのうちどうにかなっちゃうかも」

「まっ、まさか、本当に女の子になる?」

 冷や汗が落ちた。

「なっちゃうかも?」

「そっ、そうなると思う?」

「少なくとも、このままの分離した状態ではいられないと思う。だって、おかしいもの。それに……」

「それに?」

「いえ、なっ、何でもない」

「どうしたの?」

 キノは顔を覗き込む。

「何でもないよ」

 マコはキノから視線を逸らした。


 日曜日。いつもより何故かキノは、早く起きている。

「実際、デートなんてしたことないしな」

 鏡台の前で、キノは呟いた。じっと自分の顔を眺めて、左右を顔を振りながら、見る。ふと、髪のほつれが気になって、櫛でとき始めた。

「もう少し切り揃えたら、良かったかな」

 そう言った後、キノは首を横に振った。

「そっ、そんな髪なんて! 男と会うのにどうでもいいじゃんか!」

 キノはマコが言った、『キノの中の女の子』を思い出していた。

「これも、女の子が出てる? いや、ばかだな、男同士でデートなんて。考えるだけ、気持ちが悪い、」

「殿方とデートですか……」

「わあああ!」

「それは、しっかりと、おめかししなければなりません」

「亜紀那さん! いつの間に入ってきたの!?」

「さっきから、ずっと居ました。髪を気にされていたので、つい見とれてしまいました」

 亜紀那はキノの髪を、撫でる。この行動にもキノは、もう慣れていた。

「こんなに早くから、気にされているとは、良い方なのですね」

「あの、亜紀那さん」

「はい」

「今日は確かに、男子と会いますけど、別に好きとか嫌いとかじゃなくて……」

「わかってますよ」

 亜紀那は、キノの髪をアレンジし始める。

「キノ様がマコ様とどうなるのか、心配しましたわ」

 亜紀那は髪をすくい上げた。

「べっ、別にマコとどうって」

「キノ様は素敵な方と、一番の結婚なさることが大切です」

「素敵な方……」

 キノは呟く。

「そのためには、色々と恋の経験が、必要です」

「はあ……」

 いつの間にか、キノの髪は亜紀那によって、綺麗にまとめられていた。

「亜紀那さん」

 鏡越しにキノは質問する。

「はい」

「あの……、亜紀那さん、恋はしたこと?」

 ピタリと亜紀那の手が止まった。

「ありません」

「でも……」

「キノ様、私のことなど気に掛けないで下さい。私はただの、お世話係なのですから」

 亜紀那の声のトーンが下がる。

「亜紀那さん、僕は一度もそんな風に、あなたを見たことないよ」

「キノ様、ダメですよ。そう言うものでいいのです」

 くるりとキノは亜紀那の方を向いた。彼女は手を、止またままだった。キノは真っ直ぐに亜紀那を見ている。

「亜紀那さん、祖父が亡くなった時、ずっと一緒にいてくれたよね。寂しかった時にあなたは、いつも居てくれた。単なる使用人とは思いたくない」

「キノ様。私は、あなたのお世話をすることを目的に雇われているだけに過ぎません。それ以外に、お役に立てることなどありません」

「亜紀那さん……」

「さあ、どんなお洋服が似合うかしら?」

 亜紀那はキノの言葉を遮り、立ち上がって、クローゼットの方に向かった。鏡台の前で、キノは再び自分を見る。

「僕の幸せが、亜紀那さんの幸せなの」

 亜紀那は何も言わない。クローゼットの中から衣装を幾つも取り出しては、品定めをしていた。

「キノ様、キノ様。こんなのは派手ですか?」

「ドッ、ドレスはいらないよぉ!」


 キノは衣装選びが長引いたおかげで、約束の時間に大幅に遅れてしまっていた。

 駅前広場の時計塔下で、緒方は周囲を気にしながら立っている。随分待っているせいで、皆からは同情に似た目が向けられていた。

「あいつ、まだ待ってるぞ。なんでまた、花なんか持ってんだ」

 向かいの喫茶店のウエイターは、ぼんやりと窓越しに、ひたすら待ち続けている緒方を見ている。

「今時やんないよ、花なんか」

 男たちは苦笑した。

「けどよもう、結構経つぞ」

 もうひとりのウエイターが言う。

「かわいそー、っていうか、あいつ凄くダセーよ」

「しかし、そこまで男を待たせる奴は、俺は嫌いだね。完全パス。射程範囲大幅ズレ」

「あれ、そこまで言っちゃう?」

「大体、そんな女って、どうしようもないくらい高飛車な奴か、スゲエ性格ブス」

 男は唾を吐きそうな感じで、言った。

「ちょっと! サボってないで、コーヒー! お客さんに!」

 奥からマスターが怒鳴る。

「はいはい、すんません」

「あっ!」

 一人のウェイターは、窓越しに叫んだ。緒方が誰かに手を振っているのを見つけたからだ。

「なに! ついに来やがったか! 性格ブス!」

「なんで、そうなってるんだよ」


「緒方ー!」

 キノは息を切らして、駅の改札口から走ってきた。透き通った白い肌と、流れる細長い髪、淡い桃色の小さな唇は、遠くに佇んでいる者に声を掛ける。しなやかな四肢は、華麗にコートの裾を靡かせていた。その華やかさが、周囲の道行く人々を振り向かせ、時計塔の広場の雰囲気を一変させる。

「せっ、せんぱい……」

 抱えていた花束が、手から摺り落ちた。

「ちょっと、ていうか随分待たせて、ごめんね」

 吐く息が白い。キノは愛想笑いをする。

「せ……」

「どうした、緒方」

「いっ、いえ! なっ、何でもないです!」

 緒方は急いで花束を拾い上げると、形を整えて差し出した。

「ちょっと、これって……」

「先輩が何の花がいいか、わからなかったのでこんなものしか」

 申し訳なさそうに、緒方は頭に手を当てて言った。

「花……か」

 キノは花をじっと見つめる。

「あの……、ダメですか?」

「いっ、いや」

 緒方は両手で花束を差し出した。いっぱいの白いかすみ草。

「あっ、ありがとう」

 キノは受け取る。白い花に囲まれて、その小さな顔は微笑んだ。

「あ……」

 緒方は赤面する。

「せっ、先輩、怒らないで下さいよ。言ってもいいですか?」

「何を?」

 キノは花から緒方に視線を移す。彼は驚いて、直視に耐えきれず俯いた。

「そっ、その……、先輩、かっ、可愛いです」

 キノは緒方に視線を向けたまま止まる。みるみるうちに顔が赤くなる。キノも緒方と逆の方向を向いた。

「どっ、どういたしまして」

 その場の繕いが、キノにはわからない。

「お、緒方! 寒かっただろ。すぐ近くの、あ、あの喫茶店に入ろう!」

 キノは緒方の袖を引っ張った。

「えっ、はっ、はい!」


 お盆が男の手から落ちた。

「ああ……いい、花いい」

「う、うん。俺、あの子が来てくれるんだったら、何時間でも待っている」

 二人のウエイターも朗らかな顔をして、次にはため息をつく。

「凄く、可愛くて、綺麗でいい女の子だ」

「うん、いい」

「ちょっと! コーヒーまだぁ!」

 男たちは煙草を吹かしながら机を叩き、足を組んでいる女を見た。派手な化粧だ。似合っていない妙な口紅の色が目立つ。

「君たち! 早くお客さんに!」

 マスターは叫ぶ。

「俺たちには、巡り会うのかな、あんな子」

「無理だろ……」

 二人は苦笑する。

「ちょっと! 早く持ってきなさいよ!」女が叫んだ。

「うるせえ!」

 二人は声を揃えて、言った。マスターが血相を変える。

「き、君たち、クビぃ!」

「おっ、おい! あの子たちこっち来るぞ!」

「マジか!」

 二人は騒ぎ立てる。

「おいおまえら、クビにしたんだから、さっさと出ていけ!」

 店長は言い放った。

「てっ、店長! もう少しだけ、居させて下さい!」

「はあ?」

 と言った先に店の鈴が鳴り響いた。キノが先が入ってくる。

「いらっしゃい」

「いらっしゃいませ!」

 男は二人声を会わせて、言った。

「天使キター!!」


 マコは一人で、四十畳もある大きな部屋に居た。父親の書斎である。革のソファーに腰掛けて、コーヒーを飲んでいた。

「お母様は、いつ頃お戻りになりますか?」

「うむ。まだ、ニューヨークでの話が、まとまってないらしい」

 煙草の煙が立ち昇る。

「まだ、暫くはあちらですか……」

「まあな」

 父親の花宗院大介は、ちらりとマコを見た。

「で、考えてくれたかい、真琴」

 大介は大手ネットサイバー企業『花宗院グループ』の会長だ。世界からも注目される有数の企業の一つだった。総資産は計り知れない。彼は政界にも顔が利く程の権力者だ。

 彼は机上での書類の整理を終えると、マコが座っているソファーまで来た。

「いえ、まっ、まだ、なんとも……」

 マコは俯いている。

「はっ、はっ、は。まあ、良いが、先方もお前に逢いたがっていてな」

 大介はマコと向かい合うように座った。煙草を灰皿に押しつける。

「継がせる男子がいない私たちにとっても、良い話だ」

「……わ、わかっています」

 マコは手を握りしめる。

「お前さえ良ければ、話を進めたいんだが」

「あの、お父様、もう少しお時間を頂きたいのですが」

「真琴、後でも今でも、結果が同じであるならば、時は早い方がよい。時間が経てば、迷いも出てくる」

「でも……、私はまだ若すぎます……」

 マコは父親を見た。

「そんなことはない。今からでも、将来我が企業のトップに立つ男の側にいて、しっかりと花宗院家の生きざまを見ておくのも良い」

「……」

「皆とは仲良くやっているそうだな。鈴美麗殿とは良い友達とか聞いておるぞ。あそこの御父祖には大変世話になった」

「……」

「雄一朗も良き、友人だった」

 大介は遠くを見た。

「しかし、いずれは高校はやめなければならん。お前が行きたいと言いだした時に約束したことだ」

 マコは肩を落とす。

「今度の週末にここへ招待した。真琴、おまえがしっかり、もてなしてくれ」

「えっ!? そんな急に言われても!」

「大丈夫、安心しなさい。多少の粗相があっても、許してくれる人だ」

 マコは唇を噛んだ。顔は青ざめていた。


「で、僕に用事って何?」

 紅茶を前に、キノは言った。スプーンをカップの中でクルクルと回す。

「えっ、はっ、はい」

 面と向かっているだけで、緒方はじっとして動けていなかった。

「理由もなく、先輩呼びつけないでしょ」

「よっ、呼びつけるなんて」

「冗談。で、何?」

 緒方は意を決したように訊ねる。

「あの……、先輩。女の子って何をもらうと嬉しいですか?」

「あう?」

 キノが持つスプーンが、止まった。緒方はじっと見つめている。

「……そっ、そんなこと何で、僕に聞くの?」

「だって、男だし。女の子の趣味ってわかりませんから、何かなぁって」

 緒方は照れていた。

「そんな、僕だって……」

「は?」

「いや、そんなことは、同級生の女子にでも聞けば」

「いえ! 先輩から聞きたいんです!」

 緒方は思わず立ち上がる。店内の客やウエイターが驚いて、振り向いた。

「おっ、おい、緒方! 座って!」

「教え下さい!」

「わかったから、座れ!」

 キノは焦りながら、手で合図する。

「もう……、何だって僕なのさ?」

「そっ、それは……」

 緒方の声が小さくなった。沈黙が続く。

「先輩が学祭の演劇部の舞台で、相原部長とアトラクションしたでしょ」

「あっ、ああ。あれね」

 キノは、慌てて紅茶を飲んだ。

「先輩、マジでしたね?」

 悪戯っぽい顔で、緒方は言う。

「えっ! さっ、さあ……」

「嘘ついても、わかりますよ。花宗院先輩を守ってた」

 上目遣いに緒方を確認すると、彼はじっと見つめていた。

「本当にそうだったら?」

「いいと思います。僕、女性なのに強くて優しい先輩の、そんな姿に憧れているんです」

 緒方は言った後に、後悔したように呟く。

「なんか、おかしいですよね。男じゃなく女の人に憧れるなんて……」

「緒方、僕は」

「先輩、いいんです。おかしい奴だと思われても」

「いや、思わないよ」

 キノは窓の方を向いた。

「鈴美麗先輩……」

「武道には真っ直ぐな気持ちだけでいい。己の信じた道を進むのみだ」

「はい」

「ぼちぼち、本題を聞かせて」

 キノは話題を変える。緒方のさっきまでの元気が無くなっていく。

「僕の妹、……病気なんです」

「えっ?」

「妹、病気がちで、入退院を繰り返してて……。今、入院しているんです。なかなか学校に行けてなくて」

 緒方は少し冷めかけたコーヒーを啜った。

 キノの目が真剣になる。

「先輩に……、元気付けて欲しいんです」

「ふーん」

 キノは頬杖ついていた。

「僕なんかでいいの?」

「先輩の武道を教えて、鍛えてやって下さい」

「本気で言ってんの?」

「出来れば」

 緒方はキノを見据える。キノは笑った。

「……いいよ」


「女の子の喜ぶ物って、ね」

 アクセサリーショップ店内で、キノは腕組みして、ぶつぶつ呟いている。

「あの、先輩?」

 緒方はキノに声を掛けるが、反応しない。

「女の子の選ぶもの、選ぶもの、喜ぶもの……」

「先輩?」

 キノの目は血走しっていた。固まったまま、独り言を言い続けている。

「……無理だ、やっぱり僕は男だよ」


「せんぱーい、聞こえてますー?」


 病院は駅からすぐのところにあった。八階建ての総合病院である。病室には『緒方 空』とあった。緒方はノックして中に入る。キノも彼からドアを引き継ぎ、入室した。ベッドに近づくと、空は起きあがったまま、ぼんやりと窓の外を見いている。

「空、どうだ具合は?」

「別に」

「おい」

「なんともないよ。いつもと一緒」

 空は相変わらず、外を眺めながら、周の方を振り向きもせずに言った。

「空」

 彼女はいまだ、外を見ている。

「おい、ってば」

「もう何よ! なんとも無いって言ってるでしょ!」

 振り向いた空は、周を睨む。

「そっ、空……」

「おーす」

 周の背後から、キノは手を上げて出てきた。空の動きが止まる。

「誰?」

 訝しげな表情だ。

「高校の先輩だよ。お見舞い来てくれたんだ」

「はーい。空ちゃん」

 オーバーなほど、手を振る。冷ややかな目をして、空は視線をそらせた。

「先輩が、私に何の用?」

 周に向き直る。

「ほら、おまえ、高校の事聞きたいって、言ったことあったじゃん」

「別に」

 彼女は視線を緒方に少しだけ残したまま、再び窓外に移した。

「空ちゃん、これこれ」

 キノは二人の間に入って、紙袋を差し出す。振り向かせ、無理矢理白い手に持たせた。

「ど、どうも」

 空がテーブルの上に置こうとした時、キノが言った。

「まあ、開けて見てよ」

「……」

「ほら、空」

 周からも促されて、もう一度紙袋を手に取る。開けてみると、中から小さなイヤリングが出てきた。

「どう、どう?」

 キノは興味津々だ。かなり悩んだ末の、結果の品だ。

「バカみたい」

「あう?」

「いつも入院ばっかしてるのに、いつ着ける暇があるのよ。外にも出ないのに」

 袋をごみ箱に投げ捨てる。空は窓の方を向いた。

「おい、空! なんてことするんだ、先輩に失礼だぞ!」

「誰も買ってきてなんて、言ってないから」

「おまえ、いつもどうして」

 周は立ち尽くす。

「大体、先輩が何よ。関係ないでしょ、私には」

「ごめんね、勝手について来ちゃって」

 キノは何だか場違いな空気に、堪らず言った。

「先輩は謝らなくていいです。頼んだのは僕ですから」

 空は横になり、布団を頭まで覆った。

「周、私のことは放っといて」

「空……」

「先輩って、言う人」

 わずかに震える声が聞こえる。

「はい」

 キノは布団を見つめた。

「周から何を頼まれているんだか知りませんけど、もう来なくてもいいですから」

「空! おまえ、言っていいことと悪いことがあるぞ!」

 荒々しく周は、布団に手を掛ける。

「ちょ、ちょっと、緒方やめろ」

 キノはそれを止めさせた。

「先輩……、すみません」

「謝らないでよ。初対面だからね。いいよ、気にしないで。今日は帰るから。緒方はもう少しここいろ」

 キノは微笑む。周は力無く頭を下げた。

「じゃあ、空ちゃん。また来るね」

「ふん」

 キノは静かに出ていった。寒くなってきた屋外に、震えながら歩き出す。くしゃみが出た。

 空は窓越しにその姿を見ていた。周は疲れたように、腰掛け椅子に座って、じっと空が捨てたイヤリングを見ている。

「周……」

「なんだ」

 周は布団を見た。

「さっきの先輩」

「鈴美麗先輩か。謝る気になったか」

 イヤリングをオーバーテーブルの上に置く。

「『鈴美麗』って言うの。下の名前は?」

「えっ? なんでそんなこと聞く?」

「いいから、教えてよ」

「キノ。『鈴美麗キノ』……、先輩」

 周はイヤリングを手に取りながら答えた。空は向き直って、周を見ている。

「だって、周が女の人を連れてくるなんて。しかも年上。そんなこと今までなかった」

「年上って言っても、一年上なだけだよ」

「周、好きなの?」

「ばっ、ばか! 違うよ!」

「ふーん。じゃあ、誰でも良かったじゃない。イヤリング買うぐらい」

「そっ、それは……」

「やっぱり、鈴美麗先輩が良かったんだ」

 空は再び布団を覆った。


「緒方ー!」

 教室で、緒方は声がした方を向く。

「鈴美麗先輩が、お前に用だとー」

 窓のからキノは微笑んで、小さく手を振った。

「なに!? キノ先輩が!」

「緒方! 一体キノ先輩に何したんだよ!」

 男子たちがざわめく。

「鈴美麗先輩、やっぱ、綺麗だよなぁ。俺も知り合いたい」

「俺もお話出来るように、今後頼むよ」

 両手を合わせて懇願する者がいる。

「やめろって」

 緒方はその手を払って、教室の出入口まで小走りした。

「周は、鈴美麗先輩がいいんだよね」

 男たちは次々と緒方に言い寄ってくる。

「先輩には、手伝ってもらってるだけだよ」

「何をだよ」

「どけって!」

 廊下に出るとキノが待っていた。誰もが通り過ぎる度に振り向いたり、陰から囁かれたりしている。

「先輩……、どう思っているんだろう」


「花宗院、緒方はいい奴だぞ」

 如月が、生徒会の会議の休憩時に言った。

「別に気にしてないわよ」

「そうか。最近、緒方がよく休憩時間に来るから」

「何故そんなこと言うの? キノはキノ。やりたいことをしているだけでしょ。二人が何してようと、関係ないわ」

「そっ、そうだが……」

 如月はそっけ無い返答に、違和感を覚えた。

「花宗院、君は……」

「もう、キノの話は終わり。始まるよ」

「わかった、もうしない」

 くるりと向きを変えた。

「如月くん、私、……大丈夫だから」

「何か言ったか?」

 如月は真っ直ぐ向いて言った。

「別に」


 キノは一人廊下から、グランドを見ていた。サッカー部が練習している。海原が歩いていくのが見えた。柔道部の方向を向いている。

「あっ! かぁ! い、ば……ら」

 キノは手を振り挙げようとしたが止める。海原の後ろから、石井が走ってきた。

「ふーん」

 海原はたどたどしい態度だ。石井が隣に並んで歩いていく。

「そっ、かぁー」

 廊下の窓に顎を付けながら、キノはため息をついた。髪がはらりと肩から落ちていく。

「……いいなぁ」

「キノ、ちょっといい」

 キノは振り向く。マコが立っていた。

「マコぉ!」

「その……、最近、あまり話してないね」

 マコは微笑んだ。しかし、その顔は深く沈んでいる。

「僕もごめんね」

 キノは優しく言った。

「キノ、緒方君とつき合ってるんでしょ」

「えぅ!」

 キノは驚く。

「……女の子になったんだ。おめでと」

「ちょっと、マコ! 何言ってんの。僕はずっと男だよ!」

「ダメ! キノは女の子なの! 女の子!」

「マコ、一体どうした?」

 キノはマコの手を取ろうとする。

「いや!」

 マコはキノの手を払った。

「まっ、マコ?」

 手がゆっくりと下がる。マコは後ろを向いた。

「ごめん、ごめん、キノ」

 キノは手を胸に、持っていった。

「……キノ、あのね、あのね……」

 キノはマコの背中を見ている。肩が震えていた。

「何、マコ」

「私、もうすぐここをね……」

「マコ」

 キノはマコの肩を持って、無理に振り向かせる。キノはマコの思い詰めた顔を見た。心臓が鳴る。

「もう、キノと逢えない……」

 マコの唇が震えていた。

「えっ?」

「さよなら……」

 マコはそう言うと、走り出す。

「マコ! おい、マコ! どうゆうこと!?」

 キノは叫んだが、振り返らなかった。マコが走り去った廊下を見る。

「マコ……、一体、どうした」

 キノにはマコの言った言葉が、頭から離れなかった。


 キノと緒方は校舎の屋上にいた。

「先輩、今度の日曜日に来れませんか?」

「えっ、ああ」

 キノはぼんやりしている。

「先輩?」

「あっ、はい、いいよ」

「先輩、どうしたんですか。今日変ですよ」

 緒方はキノの顔を覗き込んだ。キノは立ち上がる。

「ごめん、今日帰る」

「本当にどうかしたんですか?」

「ごめん」

 去ろうした瞬間、緒方はキノの手を掴んだ。キノは抵抗する。彼は力任せに引っ張った。

「先輩!」

 キノは緒方に身を預けることになった。制服同士が触れ合っている。

「緒方」

「どうしたんですか」

「……」

「先輩が、狼狽えている姿は見たくありません」

 緒方はまだキノの手を掴んでいる。

「……」

 キノの抵抗していた腕は、次第に脱力した。

「先輩、僕は」

 緒方の鼓動が聞こえる。

「緒方、離せ」

「嫌です」

 キノは直立したまま、動かない。

「僕じゃ、ダメですか。先輩を支えるのは、僕じゃダメですか!」

「言うな」

 緒方の力が強まった。キノの体は、緒方の腕の中に包まれる。

「どうして? なぜ……」


 キノの頭の中が、真っ白になっていく。

 まるで男も女もなくしていくかのように、体はその白い空間に沈んでいく。

 何もわからない。性別を通り越していく。肉体と精神の狭間にキノという個は、悲鳴を上げた。

 何かがキノの中で弾ける。


「自分は何者なのか。これから、どうなってしまうのか。女の子になって、誰かとつき合っていくのか」

 

「軽蔑しますか、こんなことして」

 やがて、キノの震える瞳が開いた。緒方の手がまだ、キノを包んでいる。

「緒方……、僕は君が思っている程、強くないかもしれない」

 キノは緒方の腕を抜けた。そして走って行く。屋上には緒方だけが取り残された。

「先輩……」


 それ以来、マコとは逢えなくなった。ずっと学校を休んでいる。

 携帯電話へもつながらなくなった。


10

 その日は寒かった。雪が降ってきそうなくらい、冷えている。花宗院家には、一台の高級スポーツカーが停車していた。

「ようこそ、佐伯様」

 青いドレスに身を包んだマコは、頭を深々と下げた。隣には父大介が煙草を吹かして立っている。

「お招き頂き、ありがとうございます。本日はどうぞよろしくお願いいたします」

 白いスーツの出で立ちの『佐伯 光』は言った。

「まあ、楽にして、楽しんで行って下さい。これがお相手します」

「真琴です。よろしくお願いいたします」

 マコはもう一度、頭を下げる。

「うん、私が思っていた通りの人だ。今はあどけなさが残るが、将来美しいファーストレディになれる人だ」

 佐伯は執事が用意していた赤い薔薇の花束を、マコに渡した。

「お褒めに預かり、ありがとうございます、佐伯様」

 花束を受け取ったマコは、微笑む。

「お食事の前に、何かお飲物でもいかがです?」

「そうですね、コーヒーをお願いできますか」

 佐伯光は優しい口調で言った。

「はい」

 マコは立ち上がって部屋を出ていく。その後ろ姿をじっと見ていた佐伯は、ソファーに座った。

「真琴さんか……」

「お気に召されたかな、わしの自慢の愛娘は」

 大介は向かいのソファーに腰掛けた。

「負けました。私の想像の遙か以上です」

 佐伯も大介に向き直った。膝の前で両手を組む。

「これは、これは、お上手で」

「花宗院様、是非ともこのお話進めて頂きたい。双方ともに、良い関係が取れそうです」

「まあまあ、そう性急になさるな。あれも大分迷っているようだから」

 大介は言った。


 カップにコーヒーを注いでいる間、マコはぼんやりしていた。焦点がどこかずれたように、視線の先は何もない。

「お嬢様、お気を付けて、溢れますよ」

 使用人は言う。

「あっ、ちょっと、考え事していました」

 カップをトレイに置き、向きを直した。

「あの、お嬢様」

「はい」

 振り向く。

「どこか、具合でもお悪いのでは?」

「心配してくれてありがとう、でも大丈夫よ」

 マコは努めて明るく言う。

 使用人が扉が開けた。ゆっくりとマコは入る。

「お待たせ致しました」

「おお、来た」

 マコは、佐伯の前にコーヒーを置いた。カップを持ち上げると匂いを嗅ぐ。

「うーん。良い香りだ」

 一口飲む。

「じゃあ、私はちょっと失礼するよ」

 大介は立ち上がって部屋から出ていった。その部屋には、マコと佐伯しかいない。

「真琴さん、少しお話しても良いかな」

「はい」

「この部屋から外へは出られる?」

 佐伯はソファーから立ち上がり、マコ訊ねた。

「それなら、こちらへどうぞ」

 マコは鍵を開けて、バルコニーへ出た。佐伯も続く。

「雪が降りそうな天気ですね」

 空を見上げて、彼は言った。

「そうですね」

 努めて明るく振る舞うマコがいる。

「真琴さん、幾つか質問してもいいかな」

「どうぞ」

「君の私への第一印象はどうかな?」

「もの静かな、優しい方だと思います」

「私の仕事は知っていますか?」

「詳しくは知りませんが、コンピューター関連事業と聞いております」

 マコは淡々と答える。

「うむ。じゃあ、最後の質問です」

「はい」

 冷気がバルコニーに漂っていた。

「君は、今好きな人はいますか?」

 マコの顔が強ばった。佐伯はじっと見ている。マコは視線を逸らした。

「……好きな人は、いません」

「ははは、失礼。そりゃ、あなたのような方だとボーイフレンドのひとりやふたりぐらいはいるのが、常識だよね」

「あっ、あの」

「忘れて下さい、今の質問は」

「……」

「佐伯様、お嬢様。お食事の用意が出来ました」

 使用人が、窓越しに声を掛けた。

「わかりました、今行きます。では、佐伯様」

 マコは誘導する。佐伯はマコの隣に付く。

「真琴さん、今、君に好きな人がいても、私は構わないよ」

「えっ?」

「じっくり考えるといい。どの選択肢が、この先みんなを幸せに出来るのか。ねえ、『マコ』」

 佐伯は先を歩いていく。

 マコは立ち止まった。顔が青ざめていく。顔に冷たい物がついた。それは次第に多くなってくる。

「佐伯様は、きっ、キノを……」

「さあ、誰?」

 佐伯は振り向かなかった。マコは立ち尽くす。

 雪が降ってきた。


11

「そーらちゃん」

 キノは部屋の扉をゆくっり開けながら、声を掛けた。空は布団を掛けて、横たわっている。

「また、来たの」

 相変わらず、素っ気なく空は答えた。

「えへへ、相変わらずだね」

「周は?」

 彼女はキノの背後を見回す。

「今日は僕だけ」

「えっ? 嘘?」

 空は布団を払った。

「本当」

 空は起きあがって、もう一度辺りを確認する。

「ふーん、じゃ」

 再び、横たわった。

「こらこら」

 キノは布団を持ち上げる。

「何よ」

 キノよりも白い顔の空が睨んだ。

「せっかく来たんだから、話そうよ」

「なんで、あなたと話さないといけないのよ」

「いや、たまにはいいんじゃない? 緒方……、周以外の友達でも」

「あなた、私の友達でも何でもない」

 空は相変わらずだ。

「ははは」

 暫し沈黙が流れる。キノは空をじっと見ていた。

「じゃあ、お互いがわかり和えるように、質問コーナー! 『わかりません』は、なしよ」

「はあ?」

「はい、僕からいくよ。空ちゃんは、幾つですか?」

「? ……十五」

「そうよねぇ。今度は、空ちゃん」

 空は、キノをじっと見る。

「わかった。じゃあ、どうしてそんなに綺麗で可愛い?」

「はう? それは、わかんない」

「はあ? ダメじゃない。それ、なしじゃん」

 空は指摘する。

「ご、ごめん。気がついたら、こうなっていた」

「何それ、自慢?」

「いっ、いや、本当にそうだもん。突然、なった」

 キノと空は顔を見合わせた。

「バカみたい」

 空の口もとが緩んだ。

「笑った?」

 逃さず見ていたキノは言った。

「笑ってない」

「笑ったでしょ」

「笑ってない。バカみたい」

 空は窓の方をじっと見る。白い雪が降っていた。

「雪……」

 キノも窓の外の雪を見る。窓枠いっぱいに雪が流れていた。

「はい、続き。今日、なぜ一人なんですか? 『わかんない』は、なしだからね」

「うーん……」

「うーん、じゃなくて」

「ただ、なんとなく来た」

「なんとなくって……。その答え、ずるくない?」

「『わかんない』って言ってないから、いい」

 キノは空から視線を外す。

「周と、喧嘩した?」

「……喧嘩はしていないと、思う」

 キノの目が下を向く。

「じゃあ……」

「空ちゃん、もう、答えたよ」

「……そうだね」

 再び沈黙が流れる。雪が降り積もっていく。

「空ちゃんは、学校の楽しいこと聞きたい?」

「学校の楽しいこと……」

「入院が長いから、なかなか行けてないでしょ」

「別に。周がいつも話してくれるし」

 悲しい顔。キノは初めて、空のそんな顔を見た。

「空ちゃんって、さあ」

「あの、周とは……、周とは……」

 空は右手で胸を押さえる。

「空ちゃん?」

「……キスした?」

「はうぅ? 誰と?」

「誰って、いっぱい、いる?」

「いっ、いやいや」

 キノは焦った表情を隠した。しそう、されそうはあるが、実際はない。頬には千秋だけだ。空はじっとキノを見つめている。

「……周とは」

 キノはへの字口になった。

「ないよ」

「そっ、そう……」

 空の表情の変化に、キノは気づく。

「なるほどねー。空ちゃんは、キスしたことある?」

「え?」

「……キスしてあげようか」

「ええっ!?」

 キノは髪を掻き上げて、ベッド上に腰掛ける。空の両腕を掴んで、正面を向かせた。

「え、え、えっ」

「大丈夫、ちょっとだけだから」

 両手で、空の白く柔らかい頬を捕まえる。

「え、え、え」

 真っ赤になった空の顔に、キノの顔が迫ってくる。

「あっ……」

 キノの艶のある唇は、顔を覆った彼女の両手を突いた。顔を隠したまま、震えている。キノは頬から手を放し、ゆっくり立ち上がる。少し笑った。

「空ちゃん」

 彼女はまだ、両手で顔を覆っている。

「……周のこと好きでしょ」

「……」

「『わかんない』は、ダメだよ」

「あなたは、周のこと好きじゃないの?」

「こら、質問はこっち」

 キノは自分を指さす。

「兄妹なのに、おかしいかな……」

 空は、指を絡ませた。

「さあね」

 キノは天井を見る。

「周のこと、好きなの?」

「嫌いではない。でも……」

「でも?」

「僕ね……」

 キノは真剣な表情で、空の方を向く。

「もっと、好きな人がいるんだ」

 空は目を伏せて、口元を緩ませる。

「だけど、今、失恋しちゃったような感じの状態」

 空は苦笑した。

「笑うか、普通。マジでヘコんでるんだよ」

 キノは腕を組む。

「失恋しても、まだ好きなの、その人」

「……うん」

「周があなたをここに連れてきたのも、何かわかるような気がする。バカみたいに前向きだし」

 キノは思わず吹き出すと、つられて空も笑った。

「あなただったら、反対しないかも」

「何か言った?」

「何も」


「空ちゃん、少し元気出た?」

 キノは鞄を持ち、帰り仕度をする。

「また、しつこく来る?」

「来て欲しい?」

「べ、別に……」

 空の顔を見て、キノは頷いた。扉が閉まるまで、空はキノの後ろ姿をずっと見ている。


 暗くなった窓の外は、まだ冷たい雪が降っていた。

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