第2話 マコとキノと亜紀那さん
1
河原の小道を、キノはマコに手を引かれながら歩いていた。マコは秋の空の美しい夕焼けを楽しんでいる。ただキノは進まぬ足取りの中、不安が募るばかりでそれどころじゃなかった。
「家に帰ったら、絶対びっくりされるよ、これじゃ」
「後藤さんと亜紀那さんなら多分、大丈夫よ」
マコは自信ありげに言う。
「どうしてさ? 男が女に変化したあり得ない出来事に、気づかないはずはないよ二人とも。幾ら何でも」
「普通はこんな変化なんて、あり得ない。突然に変わるって」
「そりゃそうさ。僕は今まで絶対、『男』だった。いや今でも僕は『男』だ」
言い直すキノだ。マコは振り向いて、じっと見つめる。
「でも今は、とびきり美人で、可愛い女の子が私の前にいる。絶対『男』じゃない」
「マコまでそんなこと言うの」
彼女は思わず吹き出した。
「昨日も今日の朝の記憶も、確かに僕は『男』だ。学制服もズボンだった」
スカートの端を、摘み上げながらキノは言う。マコは立ち止まった。
「夢を見たの。キノがこうなってしまう、女の子になってしまう夢を」
後を歩くキノの袖を引っ張る。
「でも、現実になっているよ、こんな風に」
「何かのサインじゃ、ないかと思うの。将来の私たちに関係する」
「サイン? 男が女に変わることが? 訳がわからない」
キノは頭を捻った。
「キノ、あの池で私と子供の時、約束したこと覚えている?」
「池……、僕がマコを助けた時の池で」
「そう。あの時に何か約束しなかった?」
キノは腕組みして考えるが、一向に出てきそうにもなかった。マコは肩を落ちして、小さくため息をつく。
「まあ、いいわ。今日は取りあえず、家に帰って様子を見ないとね」
2
キノは三歳の頃に、両親を交通事故で亡くした。唯一の肉親だった武道家の祖父『鈴美麗 雄山』へ引き取られる。武道家でありながら、政界にも顔の効く存在であった。また道場から排出された逸材は、その世界のエキスパートとして、現在も活躍している。しかし祖父との家庭生活は決して楽しいものではなく、朝から夕刻までの稽古に明け暮れることが日課だった。遊びざかりのキノにとっては、精神的な苦痛を伴う毎日であったのだ。マコとは、彼女の所有する池のほとりで小学二年生の時に知り合い、幼なじみとして遊んでいた。
花宗院家と鈴美麗家は、日本の行く末を動かすことの出来る資産家である。二つは陰と陽であり、世界の表舞台に立ちリーダーシップ発揮する花宗院家と、隠密に事象を行う鈴美麗家との間違わぬ関係だった。しかし両家の息子たちは、同じ大学で過ごした学友であり、親友であった。キノの父『鈴美麗雄一郎』は、代々につながる鈴美麗家のやり方に反発し、家を飛び出し、身を潜めて暮らしていた。雄一郎は、キノの母となる『仲間 雛美』と出逢い、結婚する。翌年キノが生まれた。ひとつのケジメをつけるため、キノが三歳になると、雄一郎と雛美は父の元に車を走らせるが、その途中に交通事故に遭うのだった。キノが中学生になるのと同時に祖父が病に倒れ、亡くなる。推定資産約数十億を残して、キノに相続された。
現在この屋敷には主人のキノの他に、永年勤続を自負している執事の『後藤 喜一』、世話係の『三月 亜紀那』が従事している。どちらも亡き祖父が認めた、キノを守るための強者である。
キノはおそるおそる正門に立った。厳格な祖父がこだわりを見せた、瓦葺きの屋根と門構えは、威厳を放っている。この時点で監視カメラからは、気が付かれているはずだった。なんなく電子扉が開く。キノはマコと顔を見合わせた。ゆっくりと中に入る。ここでも監視され、防犯用の赤外線が張り巡らされているはずだった。玄関までの飛び石を歩く。何も起こらないので、キノは両手を上げて振った。監視カメラの方向はわかっているからだ。
しかし何も起こらない。ためしに小石を拾ってカメラの方向に投げた。ビッと赤外線が反応する。
「なんだ、しっかり見てるじゃん」
キノがもう一回石を投げようとしたとき、腕を掴まれた。
「これこれ」
振り返ると、竹箒を持ち、青地の服に白いエプロン姿の亜紀那がいた。
「亜紀那さん! これ、これ見て!」
キノはスカートを端っこを持って、一回転する。彼女は動きを止め、じっと見つめる。
「まあ……」
虚ろな目、口元が緩む。
「だろ!」
「とっても、可愛くてらっしゃる」
「え?」
亜紀那はがっつりとキノの両肩を掴んだ。じたばたするが、さすが見込まれている女性だ。
「ちょっと亜紀那さん!」
身動きがとれない。海原の時と違って、まるで赤子のように動きを封じ込められていた。
「こんなに美しくて、可愛いくていらっしゃるのに、どうして気がつかなかったのでしょう?」
亜紀那はため息をつく。
「は?」
そう言うと彼女は、キノをしっかり抱きしめた。
「あぶぅ!」
亜紀那の方が背が高いために、キノの顔が彼女の大きな胸に埋もれる。マコは間に割り込んで、二人を引き離した。
「あっ、亜紀那さん!」
「あら、マコ様。いらしてたのですか」
「ずっと隣にいました!」
マコは膨れて、少々怒り気味に言う。
「冗談ですよ」
亜紀那の鋭い切れ目が、笑った。
「もう!」
キノはマコの場合とはまた違って、色香のある大人の女性の包容に目を回していた。顔が火照っている。
「キノも、しっかりしてよ!」
「キノ様の愛くるしいお姿を見たら、つい抱きしめてしまいました。だって、クルリンと一回転されるんですもの」
亜紀那はうっすらと頬を赤らめ、恍惚の表情を浮かべて微笑んだ。
「マコ様も今日も、お可愛いですわ」
「もう、いいの」
マコは相変わらず、膨れっ面だ。
「亜紀那さん、僕の様子は朝と変わってる?」
彼女は頷いた。
「やっぱり!」
「朝よりも、憂いに満ちてお美しい」
「そっ、そんなんじゃなくて!」
「はて?」
亜紀那は困った顔になる。
「キノ、亜紀那さんが抱きしめた時点で、あなたは本当のキノなのよ」
「何か、おっしゃてる意味がわかりませんが」
「亜紀那さんご免なさい。この子初登校だったでしょ、疲れているみたい」
マコが取り繕った。
「では、すぐにお食事を用意いたします。それともご入浴されますか」
「はい?」
「お背中を流しましょうか、キノ様」
キノは焦った顔になる。
「あっ、亜紀那さん。今日、私泊まりますから。キノと宿題があって」
「とっ、泊まるぅ!?」
キノは驚いて、マコを振り返った。
「……」
亜紀那はじっとマコを凝視する。マコも負け地と見返した。二人の間に何かあるように、緊張が走る。
「わかりました。花宗院様へのお泊まりのご連絡は、わたくしがやっておきます。しかし……」
何か府に落ちない様子だ。
「なっ、なに?」
マコは構える。
「キノ様を独り占めは、いけませんよ」
亜紀那はにっこり笑った。
「なっ、なにをそんな!」
マコの顔が赤らむ。
3
長く広い廊下を進むとキノの部屋がある。ベッドやクローゼットの位置など、レイアウトは全て朝と同じだ。違うのは全てのものが、女子ものに変わっていることだ。
「何なんだ、これは?」
呆気に取られ、鞄が落ちた。クローゼットを開けると、多彩な衣装や靴が整然と並んでいる。今朝まで男の部屋だったとは信じられない状況だ。
「まっ、まさか!」
キノは慌てて、クローゼットの奥へ入った。
「何、何?」
マコもついていく。キノは立ち止まった。
「いっ、いや。マコはいいから、何でもない」
「変なもの、隠しているでしょ」
マコは訝しげな顔をする。
「違う違う。さあ、戻ろう」
マコの視線を体で遮りながら、素知らぬ顔で戻るキノだが、ちょっと後ろを気にしていた。マコの背中を押してクローゼットから出る。
クローゼットから出た振りをして、マコは体を反転し中に入ろうとした。キノは慌てて、扉を押さえる。
「キノ。あなた、相当、変なもの、隠しているわね」
「だっ、だから、何でもないって!」
鼻息荒くキノは、扉の前から動かない。
「わかった、わかった」
マコは諦めた。
「でもマコ、どうするんだ。泊まるなんて嘘言って」
「嘘じゃない、本気だけれど」
目を丸くしてキノは驚く。
「今日は泊まっていくわ」
マコは言う。
「ど、どうして?」
「これからのことを知っておかなくちゃ」
「何の?」
「ばかね。キノ、女の子のこと学校の保健体育程度しか知らないでしょ」
「そっ、そんなことないよ!」
「本当?」
マコは疑いの眼差しだ。
「例えば…」
「例えば?」
「そう、子供の作り方とか」
マコからパンチが飛ぶ。
「なっ、なんだよ!」
「だから、男ってだめなのよ! すぐそんなことしか、思いつかないなんて!」
「なんでだよ! しようがないさ! 僕は男なんだから!」
胸に手を当ててキノは叫んだ。
「男って何よ! キノは女の子よ!」
二人とも睨んだままだ。そのまましばらく時間が過ぎていく。
「男をなめるなよ」
キノは一端目を伏せて、真顔になった。海原の時と同じように、真一直線にマコを見つめる。
「男だったら、どうするのよ」
マコも強気だ。キノの視線を受けても反らさない。キノはマコに近づいた。あまりの接近に、彼女は後ずさりする。キノは一歩前進する。またマコは後ろに下がる。ゆっくりとキノは、間合いを詰めた。背後にはキングサイズのベッドがあり、マコに行き場がない。
と、ベッドのフレームに足を引っかけて、マコはふんわりとした羽毛の肌掛け布団へ倒れた。キノはマコの両手を押さえ、四這いになって覆い被さる。マコは抵抗するが、身動きがとれなくなった。キノの長く細いしなやかな髪が、マコの顔や髪に落ちていく。マコの乱れた黒髪とキノのクリーム色の髪が、ベッドの上で混ざりあう。
「僕の姿がどうであれ、中身は今までと同じ男だ。男だったら、目の前にこんな可愛い女の子がいて」
「……」
「しかも、ずっと想っていた子がいたらどうする」
「……」
「僕は、マコを守りたい。ずっと、ずっと守っていきたい」
マコの抵抗していた力が抜ける。
「ずっと……、守ってくれるの?」
キノは目を閉じて、ゆっくり頷いた。口元を引き締めた色白の顔は、赤く火照っている。
「男として」
キノの押さえている力も抜けた。
「何か……、したい……?」
ゆっくりとマコは、押さえられていた手を抜く。そしてキノの細長い髪を、両手でかき上げた。
「キスする?」
そのまま両手は顔を包み込む。その紅潮している頬は、次第にマコに近づいていった。堪らずキノが薄目を開くと、マコの淡いピンク色の、艶のある小さな唇が、その仕草を待っている。キノの心臓が次第に高鳴った。キノは触れたと思った。
触れた感触が違う。指?
「はい、そこまでぇ」
マコとキノの唇の間に、手が挟み込まれていた。
「乙女の唇は、素敵な殿方のために取っておくものですよ」
「わああああぁぁぁ!!」
キノは叫んで、仰け反って、ベッドから落ち、化粧台で頭を打った。
「亜紀那さん!?」
マコはベッドから飛び起きる。ベッドの側に亜紀那は正座していた。
「亜紀那さん! なっ、何してるの!」
「それは、こちらの台詞です、キノ様。随分ノックしましたが、お返事がないので、お具合でも悪いかと失礼ながら入室いたしました」
「そっ、そう」
キノの髪はくしゃくしゃだ。マコは手櫛で乱れた髪を元に戻している。
「もう、マコ様もご一緒なのに」
「すみません……」
「とにかく、お二人とも高貴な方でらっしゃるのだから、節度をわきまえて行動していただきませんと」
亜紀那は二人を見つめながら言った。
「では、お食事がご用意できていますので、お着替えになったらおいで下さい」
亜紀那は立ち上がり際に、マコに囁いた。
「だから、キノ様の独り占めはいけませんよ」
マコは亜紀那が通り過ぎて行くのを見つめていた。
パタリと扉が閉まり、部屋の中が静かになった。
キノとマコはベッドの端に少し離れて座っていた。二人とも言葉が出ない。そのまま少し時間が過ぎた。
「嘘じゃ、ないよ……」
キノが口火を切った。
「わかってる。でも……」
マコは口元を引き締める。
「でも?」
「こういうことは、やっぱりよくないかも」
彼女は窓の外を揺れる木々の枝を、眺めていた。
「あり得ないから?」
「そう。キノを男だと見る人は、いないわ…」
困った顔に、キノはなった。
「信じたくないけど、今はそうだね」
「今だけならいいけど……。やっぱり、今日帰るね」
「うん……」
扉を開けた時、マコは振り返る。キノはずっとベッドの脇に座っていた。マコに手を振る手は、幾分か力無く見えた。
4
翌日からキノとマコは一緒に登校はするが、話をしている様子ではない。互いが遠慮しているようだ。しかも、マコは副委員長なので如月と行動することも多かった。そういうときは、決まってキノは机に頭を付けて座っている。海原は何か不自然さを悟っていた。
「キノさん、マコさんと何かあったんですか?」
「何もない」
キノは額を付けたまま動かない。
「最近、二人で話しているところ見ないから」
「海原には関係ない」
顔が少し動いて、キノの目が海原を睨む。
昔の海原だったら、ここで引き下がったかもしれない。けれど今は違う。
「この海原、キノさんのためだったら、ひと肌脱ぎます!」
海原は上着を脱いで、袖をまくり上腕二頭筋を見せる。精一杯の彼なりのパフォーマンスだったに違いない。マッチョな体と過緊張が災いしてか、服が裂けた。机が倒れる。クラスの目が海原に集中した。
「男の裸なんて見たくない」
キノはあっさり斬り捨てる。本心だ。立ち上がった。
「きっ、キノさん何処に?」
「もう! トイレだよ!」
廊下を歩きながら、ぶつぶつキノは呟いている。
「マコとは、女友達として付き合ったらいいのか……?」
腕組みしながらトイレに入った。すれ違う男子が目を丸くして、股間を押さえる。
「どわぁ! おっ、おい! ここは男子トイレだぞ!」
トイレの中は、騒然となった。慌ててズボンのチャックを挙げる始末だ。女子でもキノだから更に仕方がない。
「ああ、ゴメン、ゴメン。つい、うっかり」
キノは微笑んだ。そして素知らぬ顔で出ていく。
「つい、うっかりするか? 普通」
側にいた男子は、呟いた。
キノは女子トイレが苦手である。何か見てはいけない、知ってはいけないものがあるからだ。匂いのきつい化粧もそうだが、特に洗面所の前で井戸端会議が始まってしまうのは、時間の無駄だ。何よりもその内容が、聞くに絶えない時がある。
まずはトイレの周囲に誰もいないことを確認して、素早く駆け込む。スカートは簡単だが、男のように気軽ではない。さて、用を済ませるとまた大変だ。ドアをゆっくりと開け、ハンカチを口にくわえて、ダッシュで洗面所まで行く。
手早く洗い、振り返った時、運悪く女子に遭遇してしまった。
「あっ、鈴美麗さん」
同じクラスの山本だった。
「やっ、やあ」
やや顔が引き吊っている。
「さっき海原くん、変だったね」
「変?」
「そうそう、何脱ぎ出してんだか」
山本の友人の石井も来た。
「ばっかだよねぇ。あれ変態だよ」
「変態? 海原が?」
キノは呆気に取られる。確かに海原の行動は変だが、その訳は知っている。
「あまり、関わらない方がいいよ鈴美麗さん。あいつ、柔道部でしょ。あそこの人たち、たち悪し」
山本は、怪訝な顔をした。
「この間、キノさん、海原くん投げ飛ばしたって? 凄いよね。足かなんか引っかけたの?」
石井はケタケタと笑う。
「キノさんとなんか、絶対合うはずないのにね。頑張っちゃって、おかしい。全然つり合わないよ」
彼女は更に言葉を付け足した。手を洗いながら、山本は確認する。
「でも、しつこく付きまとうんだったら、私たち言ってあげるよ」
「そうそう。ウザイってね」
石井の嘲笑めいた声が、洗面所に響いた。
鈍く鋭い音がして、洗面器が砕け落ちる。途端に壊れた蛇口から水道水が勢いよく飛び出した。山本や石井の顔を直撃する。
「きゃあ!」
女子トイレ全体に噴水のように、水が吹き出す。辺り一面水浸しだ。キノは濡れながら、握った拳を元に戻すことは出来なかった。
「故障したみたいね」
キノは努めて女らしく、ニッコリする。
「なんで、急に、洗面器が落ちるの?!」
山本と石井は頭から水浸しになり、騒いでいた。
「何、これぇー!」
トイレに入ってきた他の女子も、ずぶ濡れになっている二人を見て驚く。
トイレからキノが一人で出てくると、マコが入り口で待っていた。
「随分、怒ってるわね」
「別に」
マコはハンカチでキノの髪を拭く。キノはそのままじっとしている。マコはキノの右手に痣が出来ているのに気づいた。ため息を付く。
「海原くんのことでしょ」
「海原なんて、関係ない」
歩き出すキノを後ろから付いていくマコ。
「うそ。聞こえてたんだ。話」
キノは立ち止まって、振り返る。
「マコは海原が変な奴だと思う?」
「そうね、変かもね」
「はう?」
「でもいい変かな。キノのことを心配してくれてる」
マコは微笑む。
「そんな! 男に心配してもらわなくていい!」
「でも、そんな男のために壊したんだよね、洗面器」
キノがマコの方を向いた。
「何がいいたいの?」
「キノ、一歩前進よ。それは海原くんに好意がある証拠よ」
「はあ?!」
あまりの突拍子もない言葉に驚く。
「何で、海原なんかに好意を持つんだよ! 男の友情だ!」
「恋の始まりなんて、そんなものよ」
マコは腕組みして、頷いた。
「ええぇ!?」
「私、キノがあの時、本当に男に戻ちゃったかと思った」
「いっ、いや、あれは本気で…」
「海原くん!」
マコは海原を見つけて、声を掛ける。海原はすぐに振り向いた。
「おっ、おい! マコ!」
キノは手を振るマコの腕を、掴んで降ろす。
「何か用スか?」
海原が近づいて来た。
「海原くん、キノがね」
「マコ!」
キノはマコが、今話していたことを言うのではないか、と焦っている。
「キノさんが……」
ぽっと海原の頬が赤らむ。
「キノが、海原くんが慰めてくれて、ありがとうって」
「うむ」
海原は頷いた。キノの顔は真っ青だ。
「もうひと肌脱ぎますか?」
ぬうと胸を突き出す海原。
「あほぅ!」
キノの慌てた姿を見て、マコは大笑いする。
「キノさんとマコさんは、二人でいる方がずっといい」
海原は二人がはしゃいでいる姿を見て、安堵した。
「キノ。私、キノを独り占めしないわ」
「何のこと?」
「私は自分がしなくちゃいけないことをするだけ」
「自分のことって?」
「それは、教えない」
マコは微笑むと走って、キノから離れていった。キノはマコの残したハンカチを握りしめていた。
「マコ……、おまえ何か変だよ」
5
キノはマコの言ったことをずっと考えていた。リビングのソファーにもたれて、紅茶を飲む。
「キノ様」
亜紀那が声を掛けた。
「紅茶のおかわりはいりませんか?」
彼女は支度をする。
「亜紀那さん、マコのことどう思う?」
お湯を注ぐ手が一瞬止まったが、また動き出した。
「マコ様は、いい方ですよ」
「その……、この間、こと……」
キノはカップを見つめる。恥ずかしくて、赤くなった。
「仕方がありませんわ。マコ様は可愛くてらっしゃる」
亜紀那は微笑む。
「ほっ、ほら、あんなこと女の子同士で……」
「女の子同士……、そういえばそうでした。でも、そんな風には見えませんでしたね」
「え?」
「そう、キノ様は殿方のように、荒々しく見えました」
キノは手を握りしめる。
「私、一瞬、キノ様が男だと感じました」
キノは亜紀那の方を向いた。
「それに……」
「それに?」
「キノ様は、マコ様がお好きなんでしょう?」
キノは肩を震わす。亜紀那には目を合わさない。
「マコ様もおそらく、キノ様を」
「……」
「お二人の間に何の秘密があるのかは、私の知るところではありません。ただ……」
紅茶のほのかな匂いが、室内に漂う。
「あの時のお約束を、お忘れになってはいけません」
「約束?」
「そうです。マコ様が池に落ちて、それをお助けになった時に、キノ様ご自身が叫ばれていた言葉」
カチャリとカップと机が接触する音が響いた。
キノは目の前に並んだクッキーに手を伸ばし、一口囓る。
「丁度私が、この屋敷にご厄介にさせていただくようになった時、キノ様はまだ三歳でした」
カップに新しく紅茶を入れて、亜紀那はキノに近づいてきた。
「あの時はまだ、キノ様は幼く、私の後ばかりをついてこられていました。思えばあの時が一番私にとっても、楽しいお時間でした」
「その頃はね。大きくなると僕には、稽古地獄が待ってたよ」
キノは苦笑いする。
「小学二年生のキノ様は、池からマコ様救い上げて、というか正確にはキノ様も溺れかかっていましたが。幸いに近くにいた方が池から引き上げてくれました」
「はは」
何だか恥ずかしく思い、愛想笑いで誤魔化した。
「その時キノ様は、マコ様を抱き、泣きながらおしゃってました」
「……」
「強くなって、マコ様を生涯守っていくと」
「マコを生涯守ると言った…」
「真剣でした。真一直線な視線、あの時からキノ様は稽古も休まずなさるようになった」
愛想笑いをしていた表情は、やがて何かを思い詰めるように真顔に戻る。
「マコ様を思う気持ちは正直でいいのです。それはマコ様をどんな形であれ、守ることに、キノ様は選ばれたのですから」
「うん」
キノの顔は赤らんでいた。細い指を絡ませて、照れている。さっきの不安気な顔から明るくなっていた。亜紀那はじっとその仕草を見つめる。
「でも……」
亜紀那はカップをテーブルに置いた。
「ん?」
キノは殺気を感じ、受け身を取ろうとする。亜紀那は間合いがなく素早かった。キノを立ち上がらせて、絡ませいた指を外し、両手を取る。
「あああ!」
そして、思いっきり抱きしめた。亜紀那の胸にキノの顔が、またしても埋まる。
「でも、こんな可愛く愛くるしいお人。やっぱりマコ様だけのものも嫌かも……」
6
「海原、部活行くのか?」
キノは海原が、胴着を持って立ち上がるのを見て言った。
「はい。一緒にきますか? また手合わせが出来ると嬉しいのですが」
海原ははにかむ。あまり海原をおどけさせると、クラスの女子が気味悪がるから、キノは無視した。
「やめとく。それとおまえとは手合わせはしないよ」
「なぜですか?」
「自分でやれ。僕は先生じゃない」
「惜しいな。絶対に強いですよ、キノさんは」
「おまえ、女に負けてんだぞ。しっかりしろよ」
言った後に、後悔してキノは机に額を付けた。
「女かぁ……」
海原はキノの目線まで腰を落とす。
「ぼくは、キノさんに投げられた時、女だということは、気にもしませんでしたよ」
海原の目は真剣だった。少しだけ頭が海原の方を向き、キノの大きな瞳が見つめる。同時に口元のしっかりした、ピンク色の唇が何か言おうとしていた。
「投げようとした時は、女を感じた」
「うっ!」
海原は言葉に詰まる。机が上下に動いた。キノは否応なしに上体を起こされる。
「思い出した? ここの感触」
キノは両手で胸を押さえて、なおも目と唇で海原を襲う。
「きっ、キノさん?」
海原の顔からは汗が吹き出していた。
「海原、僕は……、キノは可愛いの?」
「え?」
海原の小さい目が見開く。充血する。
「キノが彼女だったら、嬉しいのか?」
海原の思考は止まっているらしく、返事がなかった。ただまたしても鼻からは赤いものが流れ落ちてくる。キノは無視して、机に頬杖した。
「そりゃ、僕だって、同じだよ。僕だって、あの時のマコの胸の……」
キノの鼻下にも赤いものが筋を作る。その空間に二人が鼻血を出している光景は、不思議だ。
「何ぶつぶつ、言ってんの? 私の胸がどうしたの」
机がひっくり返った。ほぼ失神状態の海原も転がる。
「相変わらずね、海原くん」
クラスの女子が悲鳴を上げて、遠退いた。またしても海原は変態扱いされる。
「こっ、この変態!」
石井が蹴りを入れていた。
「マコ、あのさ……」
「海原くんに何か言ったでしょ、キノ」
「マコ、あの」
「だから、キノ。海原くんと話するときは、彼の性格を見なくちゃ。彼、どんどん変態扱いになっていっちゃう」
「マコ」
「わかってるの、キノ」
「マコ!!」
キノはマコの両肩を持とうとしたが、やめた。
「なに?」
マコはキノを上目使いに見る。キノの両手が下がっていくのを横目で見ていた。
「その…」
マコの目がキノをじっと捕らえる。流れていた目が、真っ直ぐにマコの目を見つめ返した。
「あっ、その……」
「花宗院くん!」
如月が声を掛ける。
「これから生徒会の役員会があるんだけど、一緒に出てもらえないか? 君には色々覚えてほしいことがあるんだ」
キノは困った顔になった。如月とマコの顔を交互に見る。
「生徒会だって、キノ。私行かなくちゃ」
マコがキノの前から離れようとした。体が動いた時、キノはマコの制服の端を掴み、そして引き寄せる。
「きょ、今日、一緒に帰ろう!」
キノの顔はいつになく、紅潮していた。不審な顔をして、如月が近づいてくる。マコは目を一端伏せて、キノを見つめた。
「キノ。帰りには、ケーキとコーヒーも一緒だよね」
「うっ、うん! いい店知ってる!」
マコは、憂いに満ちた顔で微笑む。
「如月くん、今日はパス。また今度ね」
「は?」
マコは、如月に手を振った。キノは彼に向かって、大きく舌を出す。
「ねえ、キノ」
「なに?」
「いい加減、鼻血拭き取ったら?」
マコは浮き足だったキノに、呟いた。
7
マコとキノは、あの時と同じ、夕暮れ時を歩いていた。
「キノ、やっぱりだめみたい。私、キノのことばかり考えちゃう」
ふいにマコがキノの腕を取って、組む。キノは慌てた顔をして緊張した。
「キノ。ゆっくりでいいよね。これからを考えていくの」
マコはキノの腕に寄り掛かる。
「マコ、僕は君を守るために、自分に出来ることをする。それは男でも女でも、どちらになっていても変わらない」
「キノ……、そうよね。私も出来ることをするわ」
キノはマコを見た。彼女の顔は、夕暮れの光に照らされて、赤いのかどうかわからない。
「早く男に戻りたいけど、焦らなくていいよ。自分で言うのもなんだが、ゆっくりでいい」
「うん……」
「じゃあ! おいしいケーキ屋さん行こう!」
二人は遠くから見ると、恋人同士に見えるかも知れない。キノのスカートさえなければ……。