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キノは〜ふ!  作者: 七月 夏喜
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第1話 キノとマコ、突然登場!

 気がつくと、空中を漂っている。白い霧のようなものが、頭の頂点から足先に至るまで、体全体に取り巻いていた。目の前に光るものが浮かんでいる。


『ガンバれ……』


 幼い声が聞こえた。小さな手が伸びてくる。僕は思わず、その手を掴んだ。

 ここからが、全ての始まりだったのかもしれない。



 罰を受けるとしたら、それは突然なのか。そしてとんでもなく大変なことなのか。『奇跡』とか『悪夢』とかなんて、それまでずっとないと思っていた。ちょっとした悪戯程度はあったかも知れない。だが、少なくとも人様に迷惑を掛けるようなことなんてしなかった。

 だが今、突然にその平凡は去っている。降りかかって来たこの一大事は、『奇跡』なのか『悪夢』なのか。

「一体僕が何をした? 気がついたらこうなっていた? いつ? いつからか? さっき? 数十秒前?」

「おい! まだかよ! 早くしろよ!」

 扉を激しく叩く音がする。ここは男子トイレの中だ。便器が目の前にある。男は、この星白学園に転校して初日だった。校門を入った直後、突然に吐き気がして、ここに駆け込んだのだ。

 扉を叩く音が激しくなる。

「どうしちまったんだ、僕は……」

 扉にもたれながら、頭を抱えた。ストレートで艶のあるクリーム色の細長い髪が、手から滑り落ちていく。明らかに今までと違う髪質に手が止まった。髪の長さは肩、いや手首まである。

「なっ! 長い!?」

 男は現状を把握したいのだが、鏡がないのでわからない。ただ状況的に、このまま出ていけないのは確かだ。

「一体どうしたんだ?」

「いい加減に変わってくれ!」

 扉の向こう側には、苛ついた男子がいる。

「出ていきたいのは、やまやまだけど……。」

 いきなりの絶体絶命の展開に、男は対処方法を見つけられずにいた。

「あっ!?」

 男の目の前にスカートが現れた。さっきまで学生ズボンだったはずだった。

「何が起こっているんだ!? 夢か、これは夢かぁ!」

 揺れるスカートから、細長い色白の脚が露出してる。同時に胸の辺りの感触が明らかに違い、迫り出してきている。恐る恐る男は両手で掴むと、それは柔らかった。

「ひいぃ!」

 狭いトイレで仰け反り、扉で頭を打つ。

 そしてこれ以上無い、最大の変身劇が襲う。彼は股間の違和感を覚え、手を当てた。

「はう!」

 涙が頬を伝っていく。それまで慣れ親しんだ『男』が忽然と消失していたのだ。

「そんな……、最悪だ。こんな急速な展開なんて、絶対ない」

 しばし呆然とし、彼は沈黙する。

「まずいぞ……。泣いている場合じゃない」

 今度は額に汗が滲んでいる。

「もう、だめ……だ。てめぇ覚えていろよ」

 外の声が途絶えた。手をそっとノブに掛ける。

「ほそ!」

 男は叫んだ。明らかに手首や指が細くなっていた。ゆっくり扉を開け、頭だけ出して辺りを監視警戒する。トイレ内には誰もいなかった。先ほど執拗にノックしていた男子も、違う場所にでも行ったのだろう。

 男は、一息ついた。周囲に気を配りながら出てくる。

「ど、どうなっている?」

 彼は、ゆっくりと洗面台の鏡に近づいた。

「うそ……」

 そこに写っていた者は、『男』ではなかった。『女』がそこにいた。

「自分の顔ぐらい知っている、見間違うなんて無い」

 手で頬をつねる。その手は鏡の女の頬をつねっていた。

「僕か? 突然、女になったのか!?」

 しかもただの『女』ではなかった。良く見ると端正な顔立ち、細い顎、白色の肌、長い睫毛に大きな透き通った目。クリーム色のストレートで細くしなやかな長い髪。男はしばらく鏡を見ていて、心を奪われる。

「なんて綺麗で、可愛い……」

 男は魔法にかかったように、鏡から離れられなかった。彼の指先が鏡に吸い寄せられる。鏡を触ろうとした瞬間だった。トイレの出入口に、人の気配を感じた。

「キノ、ここにいるの?」


 キノ。僕はキノだ。今呼んだのは、幼なじみのマコ。


 マコが小さい声で呼んでいる。

「マコ、ここ。男子トイレの中……」

「早く出てきて」

「ちょ、ちょっと、ヤバイんだ。今出ていける状態じゃない」

「いいから早く出てきて」

 キノは、『女に変身した男』をどうやって説明すればいいのか、わからない。素直に状況だけ見ると、女装している変態がそこにいるだけた。

「今出てこないと、男子が来ちゃう」

「マコ、今の僕の状態は、とんでもない状態になってる」

 マコは出入口の角から、様子を覗こうとしていた。廊下から声が、近づいてくる。

「男子が来たわ。キノ、早く出てきて!」

「でっ、でも……、とにかくこんな姿見せられない。だって、スカートだし」

「もう! 男でしょ!」

 マコは決死の表情で、男子トイレに入ってきた。

「わあぁあ! 見ないで!」

 キノは右手で顔、左手で大腿部を隠す。

 マコの動きが止まった。彼女の瞳が、キノに釘付けになっている。キノの顔は真っ赤だ。まるで裸を見られているようだった。

「こ、これは何かの間違いで……、いやこんな格好しているのは、変態でも何でもなくて……、いっ、いや、その、これには深い訳があって……」

「綺麗……」

 彼女の黒い瞳が、爛々と輝いている。この目は蔑んでいるのではなく、むしろ憧れに近かった。

「ええ!?」

「思ってた以上だわ、この姿は……」

 マコが両肩を持って、クルリと一回転させる。

「ヒャッ!」

 スカートが翻がえらせてキノは立ち止まり、マコの正面を向いた。

「マコ、こんなになった僕を見て、何故驚かないの? 思ってたって、どういう事?」

 キノは、何だか訳がわからす、戸惑っている。

「凄く、驚いているわ。まさか、こんな素敵で綺麗だなんて」

 マコは頭頂から、足のつま先まで見て、微笑んだ。

「おっ、おんなー!」

 入ってきた男子が、思わずトイレで叫ぶ。

「キノ、行くわよ」

「うっ、うん」

 マコはキノの袖を取り、トイレから出た。一人の男子にマコはぶつかり、跳ね返ってキノに跳ね返る。キノの細い腕がマコを抱き止めた。

 キノの方がマコよりも背が高い。並ぶと丁度、唇がマコの頭になる。キノが抱き止めると、彼女の髪が鼻に触れた。キノの心臓の鼓動が高まる。こんなにも近くで、マコと接したのは初めてだった。彼女の髪の匂いが、ほのかに香る。

「早く!」

 マコはキノからすぐに離れると、体制を立て直し急いでその場を脱出した。男子が驚いて避け、二人は小走りしながら、廊下を走り出す。

「マコ、スカートって動きやすいけど、スースーして、股間が寒い」

 ゴチンとマコがキノの頭をぶった。

「もう! 男って!」


 程良く離れると、二人は立ち止まって、大きく息を吸う。すれ違う生徒たちが、何度も振り返った。

「マコ、どうして僕を見ても平気なんだ?」

「しっ!」

 マコは人指し指を立てて、キノの小さい唇に当てた。

「これは、あなたと私しか知らないのはず」

「ふぁい?」

 まだキノの唇に、マコの指が触れている。

「あなたが男だったってことを知っているのは、私しかいないってこと」

「男だったんじゃなくて、今でも男だ」

 ようやく、指を外す。

「黙って。みんなが変な目で見るわ。あまりそのことを言っちゃダメよ。変態になるから」

「あう」

 周囲からは、じっとしていても、二人は目立っていた。

「おい、あの子たち誰だよ」

「マジ、可愛い」

「誰、どこのクラス?」

「スタイルいい」

「ほそーい、髪も綺麗」

「あの子、転校生?」

 囁かれる言葉にキノは耐えられない。顔が真っ赤だ。マコもため息が出る。

「でも、ちょっと目立っているかも」

「目立ちすぎだよ、僕ら。学校でくっつき過ぎだって」

「キノが目立ってんのよ。それに今は、男と女がくっついるわけじゃないのよ」

 マコは窘めた。

「そうか。女同士か」

 納得し、そしてキノは頭を垂れた。

「女かぁ……」

「とにかく今日は頑張って、一日過ごさないと」

「この格好で?」

 キノはスカートをつまんで、ヒラヒラと振る。マコはその手を払った。キノは不機嫌で、つまらなさそうな顔になる。

「そう。女の子みたいに、しおらしくするのよ。男みたいに乱暴なのはダメよ。みんなから変な人と、思われないようにね」

 マコは念押した。

「今でも十分、変だよ」

「おい! 君たち。早く入りなさい」

 教室の扉が開いて、担任教師の声がする。二人はいそいそと、教室に入った。

「本日からの転校生だ」

 一斉に歓声とため息が、教室を充満させる。担任教師は眼鏡を何度も拭き、二人を凝視した。

「ありゃ? 女子二人だったかな?」


 彼は、『鈴美麗 紀乃キノ』。女になってしまった星白学園二年生の男子だ。トイレから救ってくれた女子は『花宗院 真琴マコト』、キノの幼なじみだ。

 キノは、何故女に変化したのかはわからない。男に元に戻れるのかも不明だった。

「しかし、女子なって、これからどうすればいいんだ……」

 やがて休み時間になる。机に肘を付き、キノはぼんやりと考え込んでいた。マコはどこかに行ったらしく、教室にはいない。今頼れる者はマコしかいないキノにとって、心寂しい時間だった。

 長い髪が時々、はらりと落ちる。キノは面倒くさそうに、その度にかき上げた。突然、隣で大きな音が鳴る。驚いて振り向くと、大きな男が緊張した面持ちで座っている。

「うっ!」

 その男は『海原 太』と名乗る。大きな体格の引き締まった体、太い腕、足、何もかもが大きかった。机が体とアンバランスで、小学校用のように見える。木訥で無垢な印象だ。額に汗が滲んでいる。

「よろしく、海原くん」

 キノはマコに注意されたように、極めて女の子らしく言う。無理したようで、少々顔が引き吊っていた。するとまた、机が大きな音を立て揺れる。

「なっ、何?」

 あまりの音と机の振動に、キノは仰け反った。

「あっ、あの鈴美麗さん」

 振り向くと、今度は女子が寄ってきている。女子にはどう接すればいいのか、わからずキノは愛想笑いした。

「今度は何?」

「ちょっと、髪の毛触ってもいい? あんまりサラサラして、奇麗だから」

「はう?」

 そう言いながら、もうベタベタと触っている。キノは背中に寒気を感じて、震えた。

「やっぱり、ほそーい」

 他の女子も、キノの体や手を触り、やりたい放題だ。そして、触って感心している。

「これが、女の子らしくなのか……」

 ともかく、キノ自身もわかっていない、体なのだ。次第に頭も体も混乱してきて、顔が紅潮している。

「ちょっと、ゴメン」

 そう言って周囲の手を払い除け、キノは立ち上がった。やや、足元をふらつかせながら教室を出る。

 体育館の手洗い場までなんとか辿り着き、顔を洗った。火照った顔が少し冷める。蛇口を締めると、ハンカチが顔のそばにあった。

「ちゃんと、大人しくしているね」

 マコだった。途端に安堵感が顔に出る。

「マコぉ……」

 頬が赤い、不安気なキノの顔があった。マコは両手を差しだし、キノを抱きしめた。

「よしよし。大変だねぇ」

「なんで、こんなことになったんだ」

 涙ぐむ声が、戸惑っている。

「あの池での出来事が、原因なのかしら」

「池?」

「私もはっきり、覚えていない部分があるんだけれども……ね」

 海原は二人を見かけ、その光景をじっと見ていた。


 無事、とんでもない一日目の授業が終わる。キノは、あれから少し落ち着いていた。精神的には、まだまだ不安定かもしれない。マコは授業が終わるや否や、机に額を当てて、伏せてしまったキノを見つめている。

「疲れたよね、キノ。一緒に帰ろう」

「花宗院くん、みんなからの推薦なんだが、クラスの副委員長をやってもらえないだろうか?」

 クラス委員長の『如月 邦彦』は言った。如月は細身で、背は高く、顔は面長で凛々しい。眼鏡の奥の鋭い目付きが、クールか冷たい印象を与えていた。どことなく人を寄せ付けない感じだ。成績はトップクラスで、生徒会役員をしている。

「わたしは、構いませんよ」

「ありがとう。幾つかやってもらうことがあるんだけれど、これからいいかな」

「これから? 今日はちょっと……」

 マコはキノをチラリと見た。机に額を付けて、じっとしている。無言だ。

「そんなに時間は取らせないよ」

「はあ……。じゃあ、キノちょっと行ってくるね」

 キノは反応せず、動かない。マコはため息をついた。

「海原くん、キノをよろしくね」

「うっ?」

「彼女、慣れない学校で疲れたみたい。お願い」

 マコは海原にそう声をかけて、如月と出て行った。海原はただただ、呆然とそれを見送る。そしてキノを見つめた。

「あっ、あの……。鈴美麗さん、キノさん? 起きてます? もう放課後ですよ」

 小声で話しかける。キノは動かない。海原はもう一度、繰り返した。しかし、返事はない。

「キノさん、ぼく部活があるんですが、行ってもいいですか?」

 いつの間にかクラスメイトは少なくなり、海原は焦った。立ち上がり、キノの肩を人差し指でチョンと突く。もう一度突こうとした時、キノの頭が動いた。

「海原……」

「ひっ!」

 マッチョな体の筋肉が収縮し、盛り上がる。ゆっくりと机から頭を上げて、目だけがチラリと海原に向いた。

「美しい」

 瞳に魅せられて、海原はひとりごちする。

「何ですか?」

「部活って、何?」

「柔道部……」

 見つめられる状態に耐えきれず、彼は赤面して横を向いた。

「柔道部……か」

 キノは何か考え事をしている。

「起きたんだったら、もういいですよね。部活に行きますから」

「部活、一緒に付いていっていい?」

「ええ!?」

 大男は仰け反り、よろけて机に当たった。

「で、でも……」

「大丈夫、大丈夫。邪魔しないよ」

「いや……」

 海原は、その存在自体が大騒ぎになると思っていたのだ。


 柔道部は、体育館とグランドの間の隅にある。扉を開けると部員が胴着に着替えていた。笑い事が聞こえる。

「今度おまえんちの、例のDVD見せろよ」

「なにぃ! 彼女出来たの!」

「今度その子のお友達紹介して!」

 海原は室内に入る。

「失礼します! 遅れてすみません!」

「海原おせーぞ! てめぇ、掃除当番だ! 早く着替えろ!」

 ぼろ雑巾が飛んできた。海原の体に当たり、足下に落ちる。

「押ス! 真下先輩!」

 彼を急いで拾い上げ、挨拶する。

「失礼しまーす!」

 海原の後ろにいて、隠れてしまっていたキノが、海原の袖から飛び出した。室内にキノの姿を見つけると、それまであった先輩たちの雑談が急に静まり、凍り付いた。

「海原くんが遅れたのは、僕のせいなんです。許して下さい」

 キノはペコリと頭を下げる。

「キッ、キノさん! いいですから、やめて下さい」

 海原の顔が赤くなった。しかし、目の前のトランクス姿の先輩は呆然として、胴着を持ったまま立ち尽くしている。そのまま時間が過ぎていった。

「うん! かっ、海原くん! こっ、この可憐な女性は?」

 ようやく正気に戻った真下は言う。その後慌てて、股間を胴着で隠した。

「あっ! どうぞ気になさらずに、着替えちゃって下さい」

 努めて明るく言うキノだが、実際、男のそんな姿なぞ何とも思っていない。昨日の自分も同じだったからだ。

「いっ、いやぁ。そう言われてもなぁ」

 真下はそうもいかず、顔を引き吊らせる。

「かっ、海原くん。女子が来るなら来ると、言ってくれなくちゃ」

 先輩は、苦笑いを浮かべた。ばつが悪そうだ。

「ちょっと、練習風景を見に来ました。あっ、海原くんとは同じクラスです」

 キノは極めて、女子的に微笑んだ。

「ははは。いいね。えーと君の名前は?」

「鈴美麗キノさんです」

「海原! おまえには聞いてないよ!」

 真下は海原に怒鳴る。

「キノさん、もしかして海原くんとおつき合いしてるんですか?」

「真下先輩、な、何言ってるんですか!」

 海原は慌てて、キノの顔を見た。これにはキノも困ったようだ。

「男と付き合う? いえまだ、今日転校してきたばかりですから」

 男に恋するなんて、あり得ない、とキノは言いたい。

「なるほど、今日からか。何だったら、海原よりも俺が案内してあげましょうか?」

 真下は急いでキノの側に駆け寄り、肩に手を掛け、海原から引き離した。

「ははは」

 キノは愛想笑いを作った。海原はその場で黙っている。

「海原くん、練習はしないのか?」

「今日は練習は中止。キノさんの転校お祝いをしよう! おい海原、飲物買ってこいや!」

 海原は立ち尽くしていた。

「案の定だ……」

 海原は想像通りの展開に、顔を伏せる。


 女子がこの道場に、今まで入室したことなど、もちろん無い。ここは、授業も疎かにする半端者の部員が、雑談をして時間を無駄に費やしているだけの、格好だけの柔道部だった。適当に練習し、適当な時間で終了する。いつ廃部になっても、不思議ではない場所だったのだ。

「おい! 海原! 聞こえてるのか!」

 真下は胴着を投げつけた。大きな海原の体に当たって、落ちる。

「海原……」

 キノは柔道着を拾いながら、海原を見る。

「おい! 海原! 忘れてないよな、これ」

 真下は左肩を指した。

「どうしたんですか?」

「いっ、いやなに、ちょっとね……」

 キノは真下の左肩を掴む。

「いたたた!」

 思わず掴まれて、悲鳴が上がった。

「ああ、なるほどね。海原君にでも、やられたんですか?」

 至極にこやかに、キノは言う。

「キノさん、いきなり痛いなぁ。そうなんだよ、聞いてくれる。本当に、あいつ、馬鹿みたいに力だけは強くて、加減を知らないんだよ」

 真下が、再び肩に手を掛けようとしたところを、振り払った。

「全く……、そんなことで」

 キノは目を伏せた。ふらりと場内に入り、仁王立ちする。

「じゃあ、海原。僕と勝負しろ」

 キノは静かに、彼を睨んだ。

「ちょ、ちょっと、キノさん、海原と何を……」

「軟弱な奴は、黙ってろ。男と男の勝負だ」

 スカートが、ヒラリと舞う。

「おっ、男って?」

 真下は、キノの突然の豹変に驚いた。

「キノさん、何を言い出すんだ」

「おまえが、不甲斐ないから、いつまで、もうじうじしているからだよ」

 キノは道場に直立し、鋭い眼差しで海原を刺す。彼は身構え、固まった。

「うっ、動けない?」

 額に汗が滲み、次第に手が震え出す。短い頭髪が逆立ち、歯を食いしばっていた。彼に全身の感覚が、尋常ではない状態を知らせている。『恐怖』と『興奮』が呼び戻ってきたように、目が血走っていた。


「かかってこい、海原」


「そ、その言葉……」

 海原は体が大きい割に弱かった時代、よくいじめられいた。殴られていたこともあった。高校生に絡まれた時、ある者に助けられたことがある。体は華奢なのに、その身のこなしと技は素早く、そして美しかった。彼の目に焼き付いていた。今でも忘れずに耳から離れなかった言葉が記憶に残っていた。あの時高校生に向かって発した言葉、『かかってこい』という一言だった。それが、今突然甦ったのだ。


「海原、おまえは、どうしたいんだ?」


 海原は我に返り、道場に上がって、両足で畳を踏みしめた。眉間に皺が寄る。男の中で、何かが沸き起こっていた。

「おっ、おい海原! やる気なのか! 相手は女だぞ!」

 さすがに真下も、海原の実力を知っている。その異常な気合いを見取っていた。

「海原、本気で来い。じゃないと僕には、勝てない」

 キノは挑発する。真下は振り返って、キノを見た。真下の顔が歪む。中腰だった体制から、尻餅を付く。

「もの凄い気迫だ。体内から発せられるオーラが、そこにある。何人も近寄れない。そして何事にも臆していない!」

 真下のそれまでの男が縮みあがった。海原は構えて、呼吸を整える。

「隙がない。攻め場所が見つからない。一瞬だ、一瞬で決まる」

 海原の喉が鳴る。キノはまだ直立のまま、構えなどしていない。しかし、真っ直ぐに彼の目を見ていた。海原は精一杯、右脚を動かしていく。重量さえ感じるその威圧感が、重くのし掛かった。足を上げることが出来ない。一瞬の間も許されない。畳をずりながら前に出ようとするが、次が出ない。意志とは関係なく、本能で危険を察知し止めているのだ。

「ちぃぃ、動け!」

 海原は叫んだ。

「海原、おまえは何のために戦う。何のために、柔道をしてきたんだ」

 キノは呟く。 

「強くなりたかった。強くなって、あの人みたいになりたかった。今までの自分を変えたかった」

 海原の憤りが、頂点に達した時、止まっていた時間が少しずれた。

「けど、人を傷つけた。その人を僕が傷つけてしまった、だから」

「でも、もっと強くなりたいんだよな」

 まだ、何の構えもしていないキノが、挑発する。

「海原。人はどうであれ、自分を情けないって思ったら負けだ。だから鍛錬する。だから練習するんだ。おまえは、精一杯そのことを言えるのか

「何故! あなたは、何故!」

 体ごと震える海原は、歯ぎしりをした。

「こい、海原。お前の性根、ぶっ飛ばしてやる」


「何か柔道部で、凄いことになってるらしいぜ!」

「ああ、転校生と海原が、とっ組み合いやってるらしいぞ」

「そうだってな、見に行ってみようぜ!」

 丁度職員室から出ると、男子の興奮気味の会話が聞こえてきた。廊下を走る足音が絶えない。マコは嫌な予感を感じていた。その騒動に、如月は全く気にも止めない。走り去っていく男子の方向とは、逆の教室に向かう。

「花宗院くん、どうもありがとう。おかげでこれから、仕事が楽になるよ」

「いっ、いえ。どうも、色々教えて下さいね」

 チラリと、窓から外に視線を流した。

「どうした?」

「べ、別に……」

 マコは努めて、気にしていない振りをする。

「まさか、あの子……」

「外の騒がしさが気になるのかい?」

「え、ええ」

「柔道部みたいだね。あそこは、ろくでもない奴等がいるからな。君もあまり、関わらない方がいいよ」

 如月はマコを見た。

「そうなの」

 二人の女子が、小走りに通り過ぎる。

「女の子と柔道してるって! 転校してきた子と!」

「やだー! 柔道部のワルが連れ込んだじゃないの!」

「ほう、そんな度胸なんてあったかな、奴等」

 ほんの少しだけ、如月は興味を覚えた。

「如月くん、私、心配だから、柔道部に行ってくる」

 マコは走り出す。

「ああ。きっと鈴美麗さんだよ。危ないから、早く連れ戻した方がいい。しかし何故、彼女が柔道部に? 海原くんとかな?」

 彼は不思議な顔をして、彼女を見送った。


 海原は動いた。差し進める手刀が空気を斬り、大きな体が俊敏に動く。その動きに真下は目を見張った。だが、それよりも更に先に、キノは移動している。

 キノの顔が海原の目の前に、突如現れた。口元に笑みを浮かべている。手刀はキノの体を捕まえることなく、抜けていった。右上肢はキノに捕まえられる。もの凄い力で吸い込まれ、海原の上半身が前方に落ち込み、腰が浮いた。キノの長い髪の毛が、ふわりと海原の顔を撫でる。

「投げられる」

 海原がそう思った時、両足が床から離れ、天井に足の裏が向かった。正円を描くように、鋭く一回転し、巨漢が背中から落ちる。まるで大きな岩が落ちてきたかのように、鈍い音が道場内に振動し、壁の歪んだ軋み音が聞こえた。海原の呼吸が、一瞬、止まった。


 柔道場は野次馬が集まり、窓越しに数十名が歓声を上げている。マコは予感が当たらないことを願いつつ、近寄った。窓の隙間から中を見る。マコの目が点になった。キノが道場に直立し、その前に海原が横たわっていたからである。

「だから、キノ。大人しくしてって言ったのに……」


 海原は目を見開き、天井を見つめたまま動かなかった。

「何のために、強くなる。誰も傷つけないため。誰かを守るため、か……」


「かっ、海原!」

 真下は叫ぶ。

「かぁ!」

 海原は倒れた場所で、息を吐いた。頭を振り、よろけながら起きあがる。

「その答えを、知るため」

 興奮した赤い顔は、唇を噛んだ。直立し、静かに息を整える。

「へぇ、案外、体は丈夫そうだね」

 キノは嬉しそうな顔を浮かべて、微笑む。

「海原、迷うな。武道にとって、一本筋の精神が大切だ。冷静になれ」

 キノも、息を整えた。海原は素早く構え、向かってくる。ダメージはあるらしく、スピードは落ちたが、俊敏さは残っていた。キノは体を反らし、後方へ避ける。一度目は交わす。切り替えして海原は体制を返した。動きは大きいが、先ほどよりも迷いがない。キノは静止した。途端に海原も固まる。息が切れている彼に対して、キノは初めて構えた。

「ぬう!」

 一瞬にして、間合いが凍りつき、一切の動きが止まる。しかし海原は、迷い無く突き進んだ。

「すこし、早くなった」

 キノは少しだけ、間合いを詰める。海原が、目の前に迫った瞬間だった。

「キノ!」

 キノはマコの声だけには、どうしても反応する。キノの耳のわずかな動きが、間合いを破った。海原は突進し、キノの袖を掴む。そのまま引き寄せ、背負い投げ体制に入った。キノの体が海原の背中に乗りかかる。

「海原くん! やめてー!」

 マコは叫んで、目を閉じた。いくらキノでも、そんな大男に投げられたら、ただじゃ済まないと思ったからだ。


『むにゅ』


「ふぬううっ!」

 海原の小さく細い目が見開いて、口が空き、そのまま動きが固まる。投げ飛ばすはずの組手が、緩んだ。キノはそれをゆっくり外し、尻を思いっきり蹴り挙げる。海原は固まった体制で、顔面から前方に倒れて、畳で擦った。彼は鼻血を出しながら、至福の表情で失神している。

「勝った!」

 キノはわざとジャンプした。歓声が沸いた。

「どうしたんだ? 海原……」

 真下は、訳がわからず呟く。

「とっ、通して!」

 マコが野次馬を押し退け、道場に入り上がった。

「ちょっと、あんた誰? 土足で!」

 真下はマコに声を掛ける。

「キノの友人です。あなた方ですか、キノをここに連れ込んだ人は!」

「はあ!? いや、俺は……」

 マコは真下に張り手した。彼は二回転して壁にぶち当たった。

「きゃぅ!」

 右肩が当たったらしかった。


 マコはキノの元に駆け寄る。

「ははは、マコ、『むにゅ』だって! 男ってやっぱりバカだ」

 キノは胸を押し、ケタケタと笑った。

「もう! こんなことして! 怪我でもしたらどうするのよ!」

「大丈夫だって! 僕は絶対負けない」

 マコはキノの頬を叩く。

「大丈夫じゃない。私、キノのことが心配なのよ」

「ごっ、ごめん……」

 心配気な顔を見せられては、さすがのキノも困った。

「キノが傷ついたら、悲しいよ」

「マコ……」

 マコはキノの左手をとって、自分の胸に押し当てる。

「ほら、わかる? 胸が凄くドキドキしてる。本当に心配してるんだよ」


『むにゅ』


「ねっ、そうでしょう。キノ、私のわかった? キノ?」


 美しいクリーム色の長い髪、色白の顔、長いまつげに大きな瞳、四肢が細く、スタイルが良い。『鈴美麗 キノ』、男から女に突然変化した運命の持ち主。その綺麗な顔立ちの鼻から、赤い血が流れている。

「やっぱり男ってバカだわ」

 マコは呆れた。


「先輩、練習しませんか……」

 野次馬が去った後、倒れていた場所で正座している海原は呟く。握っている拳が震えていた。顔は赤く、鼻血の跡が残っている。

「あっ、ああ」

 真下は右肩を揉みながら、拳骨で叩いた。痛みで顔をしかめるが、真下は笑った。

「海原……、すまんな」

 真下は海原に背中を見せ、胴着を整え、帯をしっかり締める。

「海原」

 目の前に、キノいた。隣にはマコがいる。

「大丈夫です」

 ふらつきながらも立ち上がった。自信に満ちた顔がある。

「お見事です。キノさん」

「海原も強いよ」

「キノさんの武道に対する真っ直ぐな気持ち、精神力は凄いです。見習わないといけません」

 キノは手を差しだした。海原は思いがけない行動に、キノの顔を見る。丸めたティシュが、鼻に詰めてあった。

「海原、仲間だ。バカなおとこ同士……」

「あー!」

 突然マコは叫ぶ。

「何だよ、マコ」

「キノ、ほら、もう遅いから帰らないと」

 腕時計を見せた。

「! マコ、どうしよう。僕帰れるの?」

「だからね、帰ろう」

 マコはキノの差しだした手を引いて、道場から出ていく。

「うん、海原また明日、先輩方も」

 キノは軽く頭を下げた。真下もにこやかに手を振る。

「キノさん、鼻どうしたんですか?」

 海原の問いに、キノは「ははは」と、顔を赤らめてむっつりした。


 道場の窓越しに、如月はその光景を見ている。

「実に、おもしろい転校生だ……」

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