【短編030】 失敗した目玉焼き:うまくなるほど、遠くなるものがある。
AIの使い方について、正直なところまだよくわかっていません。
便利なのは確かです。でも、どこまで頼っていいのか。どこから先は自分でやるべきなのか。たぶん、答えはまだ出ていない。
そんなことを考えながら書いた話です。
笑えるところもあります。たぶん。
田島 弓子、三十四歳。
フリーライターである。締め切りが来るたびに死を覚悟するタイプのフリーライターである。
*
最初にAIを使ったのは、料理レシピを検索するためだった。
正確に言うと、冷蔵庫の残り物で今夜何か作れないかを聞くためだった。
「冷蔵庫に、なんか卵とハムと、あと謎のチーズがあります。何が作れますか」
AIはすぐ答えた。
『オムレツ、スクランブルエッグ、クロックムッシュ、キッシュなど様々な料理が作れます。』
「キッシュって作るの難しくないですか」
『手順に沿えば問題ありません。』
「私は手順に沿えないタイプです」
『では、オムレツをお勧めします。』
弓子はオムレツを作った。
三回目に、ようやく形になった。
一回目と二回目は、ハルが食べた。
ハルは玄関先に住み着いた野良猫で、耳が立派に大きく、体は小さく、性格は生意気だった。弓子がドアを開けるたびに「やっと来た」という顔をした。弓子は餌をやっているつもりだったが、どちらが世話をされているのかは、だんだん曖昧になっていた。
*
次にAIを使ったのは、仕事の取材メールを書くためだった。
インタビュー依頼のメールは、弓子がもっとも苦手とする文書形式だった。
「取材のお願いをするメールを書いてください。相手は著名な料理家です。失礼なく、でも媚びすぎず、でも軽すぎず、でもかっこよく」
AIはすぐ答えた。
『もちろんです。以下のような文面はいかがでしょうか。』
完璧なメールが出てきた。
礼儀正しく、簡潔で、誠意があって、媚びていなかった。
弓子はそれをコピーして、貼り付けて、送信した。
三分後、返信が来た。
「ご丁寧なメールをありがとうございます。喜んでお受けします。」
弓子は椅子の上で両手を挙げた。
「やった! AIすごい!!」
ハルが窓の外から、興味なさそうに見ていた。
*
翌月、弓子はAIにもう少し深いことを頼むようになった。
「この記事の書き出し、どう思いますか」
下書きを貼り付けた。三時間かけて書いた書き出しだった。
AIはすぐ答えた。
『読みやすい文章ですが、冒頭の一文が少し情報過多かもしれません。』
「どこですか」
『「東京生まれの料理家・久保田氏が幼少期の経験から着想を得て考案した、発酵と燻製を組み合わせた独自の調理法は——」という部分です。』
弓子は読み返した。
「……全部大事な情報なんですよね」
『冒頭に詰め込まれると、読者が疲れることがあります。』
「じゃあどうすればいいですか」
『例えば、こういう書き出しはいかがでしょうか。』
改案が出てきた。
弓子はそれを読んで、少し黙った。
うまかった。自分が三時間かけて書いたものより、明らかにうまかった。
「……参考にします」
そう打ってから、ひとりで部屋に座っていた。
*
年が明けたころ、弓子の使い方は変わっていた。
書き出しだけでなく、構成も聞くようになった。
構成だけでなく、見出しも聞くようになった。
見出しだけでなく、締めの一文も聞くようになった。
原稿の完成速度が、倍になった。
編集者から「最近、記事の完成度が上がりましたね」と言われた。
弓子は「ありがとうございます、精進してます」と答えた。
それは正しかった。
ただ、誰が精進しているのかは、よくわからなかった。
*
ある夜、弓子は提出済みの原稿を読み返した。
うまかった。
でも、どこかで読んだことがあるような気もした。
どこで読んだかは、思い出せなかった。
気のせいかもしれなかった。
そう思って、画面を閉じた。
*
翌週、また別の原稿を読み返した。
今度は、自分が書いたどの部分がどの部分かが、少しわからなかった。
AIの提案をそのまま使った箇所と、自分で書いた箇所の、境目が。
別に、悪いことではなかった。
いい原稿ができている。
編集者も喜んでいる。
読者も読んでいる。
弓子はそう考えて、また画面を閉じた。
ハルが、珍しく静かに膝の上にいた。
撫でても動かなかった。
重かった。
温かかった。
弓子はしばらく、パソコンを開かなかった。
*
問題が起きたのは、三月の終わりだった。
ある雑誌から、エッセイの依頼が来た。
テーマは「わたしが料理を好きな理由」。
弓子自身の話を書いてほしいということだった。
弓子は張り切ってAIに頼んだ。
「エッセイを書いてください。テーマは『わたしが料理を好きな理由』です。書き手は三十四歳のフリーライター、女性、一人暮らし、猫が家の外にいます」
AIはすぐ答えた。
『以下のようなエッセイはいかがでしょうか。』
エッセイが出てきた。
一人暮らしの夜は、静かだ。
包丁の音だけが部屋に落ちる。
リズムが整うと、頭の中も、少しずつ整う。
料理は、自分との対話だと思う。
うまくいかない日も、鍋を火にかければ、なんとかなる気がした。
食卓は、見えない誰かへの手紙だ。
わたしが料理を好きな理由は、たぶんそこにある。
読みやすかった。
まとまっていた。
一瞬、悪くないと思った。
完全に、嘘だった。
弓子は料理が得意ではない。苦手というより、面倒だと思っている。冷蔵庫の残り物でどうにかするのは好きだが、レシピ通りに作ることには興味がない。包丁の音を聞いて心が落ち着いたことは、一度もない。
弓子は画面を閉じた。
そして原稿用紙を引っ張り出した。
ペンを持った。
最初の一文を書いた。
「料理が好きかどうか、正直わからない。でも、失敗した目玉焼きを玄関の猫が食べてくれた日、なんとなく夜が短く感じた。」
止まった。
続きが出てこなかった。
また画面を開いた。
「この書き出し、どう思いますか」
AIはすぐ答えた。
『個性的で良いと思います。続きが気になる書き出しです。』
「本当ですか」
『はい。「失敗した目玉焼き」と「猫」の組み合わせが意外で、読者の好奇心を引きます。』
弓子はその言葉を読んで、少し笑った。
そして続きを書いた。
今度は自分で書いた。
時間がかかった。三時間では終わらなかった。
でも書けた。
*
提出したエッセイに、編集者から返信が来た。
「これ、いいですね。弓子さんらしくて」
弓子は「ありがとうございます」と返した。
次に画面を開いて、AIに打った。
「ありがとうございました」
AIはすぐ答えた。
『お役に立てて良かったです。』
弓子はそのメッセージをしばらく見ていた。
ハルが窓を引っかいた。
弓子は立ち上がって、ドアを開けた。
ハルは当然のように入ってきて、当然のようにキーボードの上に座った。
画面に文字が並んだ。
『ggggggggggg』
弓子は笑って、ハルをどかした。
ハルは不満そうに、でもそこに居続けた。
*
それからも弓子はAIを使い続けた。
メール文を作ってもらうことも、構成を相談することも、やめなかった。
やめる理由がなかった。
ただ、書き出しだけは、自分で書くようになった。
なぜかと問われたら、答えられなかった。
強いて言えば、書き出しだけは、失敗した目玉焼きの味がしないと嫌だった。
そういうことだった。
たぶん。
ハルは今日も、キーボードの上にいる。
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*弓子がAIに聞かなかったことが、一つだけある。*
*「わたしが書く理由は何ですか」*
*それだけは、答えてもらっても困ると思っていた。*
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
弓子がAIに聞かなかった最後の一問、「わたしが書く理由は何ですか」——これだけは、書いている自分自身にも答えが出ていません。
出なくていいのかもしれない、とも思っています。
ハルは今日も、キーボードの上にいます。




