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空白の続き

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/02

第一章 崩壊

「──死んでしまいたい」


 甲斐誠は、薄暗い六畳一間の部屋で、その言葉を口にした。声は虚空に溶けて消えた。誰も聞いていない。誰にも届かない。ただ、安物の壁紙が湿気で少し剥がれかけている天井が、無言で彼を見下ろしているだけだった。


 今まで生きてきて何度思ったか分からない思考。もはや日常の一部と化したその暗い衝動を、誠は頭を振って振り払おうとした。だが、それは蠅のようにしつこく、すぐにまた戻ってくる。


 これで何度目の失敗だろう。

 今日もやらかした。顧客データの入力ミス。単純な、本当に単純な作業だった。それなのに、気づけば数字の桁を一つ間違えていた。そのせいで、営業部全体に迷惑をかけた。前山課長の怒声が、今も耳に残っている。


「甲斐!お前、何回同じミスを繰り返すんだ!」


 周囲の視線が痛かった。憐れみと呆れが混ざった、あの独特の目。誠はただ謝ることしかできなかった。「申し訳ございません」という言葉を、何度繰り返しただろう。


 俺はもうここにはいられない。

 その確信は、胸の奥底に重く沈んでいた。もう限界だった。自分でも分かっている。俺はこの職場でお荷物になっている。いや、お荷物どころか、害悪だ。早く辞めてほしいと思われているに違いない。


 誠は意を決して、上司の山田部長に話を持ちかけた。退職したい、と。山田部長は困ったような顔をしたが、引き止めはしなかった。それがまた、誠の心を抉った。引き止められないということは、やはり必要とされていないということなのだ。


 ひたすら平謝りして、誠は会社を後にした。

 夕暮れの街は、いつもと変わらぬ喧騒に包まれていた。サラリーマンたちが駅へと急ぐ。学生たちが笑いながら歩いている。誰もが、それぞれの居場所へと帰っていく。


 俺の居場所は、どこにあるんだろう。

 誠は人混みに紛れながら、そんなことを考えた。答えは出なかった。


 ワンルームマンションに着いた頃には、すっかり日が暮れていた。鍵を開けて中に入る。電気をつける。


「……ただいま」


 誰もいない部屋に、習慣のように声をかける。返事はない。当たり前だ。この部屋には誠一人しかいない。いつもそうだった。


「はぁ……」


 何度目か分からない溜息が漏れた。誠は靴を脱ぎ捨て、スーツのジャケットをソファに投げた。ネクタイを緩める。その動作さえ、もう何もかもが面倒くさかった。


 腹が減っていた。いや、正確には減っているのかどうかも分からなかった。ただ、何か食べなければならないという義務感だけがあった。


 誠は小さなキッチンに向かい、瞬間湯沸かし器に水を入れた。コンセントを差し込む。電源ボタンを押す。機械的な動作。何も考えずにできる。


 棚からカップ麺を取り出した。賞味期限を確認する。まだ大丈夫だった。蓋を開け、かやくの小袋を破って中に入れる。粉末スープも入れる。


 お湯が沸いた。カップ麺に注ぐ。湯気が立ち上る。三分待つ。


 その間、誠は床に座り込み、スマホを取り出した。画面を開く。検索窓に「退職届 書き方」と打ち込んだ。

 検索結果がずらりと表示される。案外、簡単に退職できるらしいことを知った。必要なのは、退職の意思を明確に示した書類と、それを提出する勇気だけだ。


 勇気、か。

 誠は自嘲気味に笑った。退職するのにも勇気が要る。情けない話だ。でも、今の自分にはそれすらも重荷に感じられた。


 タイマーが鳴った。カップ麺ができあがった合図だ。誠は立ち上がり、カップを持ってソファに戻った。テレビはつけなかった。静寂の中で、麺を啜る音だけが響く。


 味はしなかった。いや、味はあるのだろうが、感じられなかった。ただ熱いものを胃に流し込んでいるだけ。それで十分だった。


 食べ終わると、誠は簡単にシャワーを浴びた。体を洗う。髪を洗う。全てが機械的だった。生きるための最低限の動作。それ以上でも以下でもない。


 風呂から上がると、誠は引き出しから白い便箋を取り出した。ボールペンも用意する。スマホの画面を見ながら、退職届のフォーマットを確認する。書き始めた。


「退職届」


 中央に大きく書く。次に、本文。


「私事」


 改行して、


「この度、一身上の都合により、来る○月○日をもって退職いたしたく、ここにお届けいたします」


 日付の欄は空けておいた。明日、提出する時に書けばいい。

 名前を書く。「甲斐誠」。印鑑を押す場所も作った。


 できる限り丁寧に、読みやすい字で書いた。これが、自分がこの会社で最後にする仕事かもしれない。せめて、これくらいはきちんとしたかった。


 書き終えた退職届を三つ折りにする。白い封筒に入れる。封筒の表に「退職届」と書いた。裏には所属部署と名前を記入する。

 日付を書くのと、糊付けはまだやめておいた。明日、提出する直前にすればいい。


 誠は就業規則を思い出した。我が社は退職一ヶ月前に申告すればよかったはずだ。そして、俺にはあと12日ほど有給休暇が残っている。計算してみた。明日、上司に退職届を提出し、あと一週間ちょっと働いたあと、有給休暇で休めば、ちょうど一ヶ月後に退職できる。


 あと少しの辛抱だ。

 そう自分に言い聞かせた。今後のことは何も考えていない。次の仕事をどうするか。生活費をどうやって稼ぐか。そんなことは、まだ考えられなかった。


 でも、もうそれでいい気がした。

 少なくとも、この息苦しい場所からは逃げ出せる。俺の居場所はあそこじゃない。そう信じたかった。


 誠は洗面所で歯を磨いた。鏡に映る自分の顔を見た。疲れきった、生気のない顔。目の下には隈ができている。髪も伸びてボサボサだった。


 寝る準備をする。布団を敷く。明日着ていくスーツを確認する。


 意を決して、退職届に明日の日付を記入した。令和○年○月○日。ボールペンを走らせる手が、わずかに震えた。


 封筒に糊をつけた。もう後には引けない。この封筒を開けるのは、上司だけだ。


 誠は布団に入った。電気を消す。暗闇が部屋を包んだ。

 眠れるだろうか。いつもなら、不安で眠れない夜が続く。でも今夜は不思議と、少しだけ心が軽かった。

 決断したからだろうか。それとも、終わりが見えたからだろうか。

 誠は目を閉じた。


第二章 決行

 翌日、目覚ましが鳴った。

 誠は重い体を起こした。昨夜は意外にもよく眠れた。だが、体の疲れは取れていない。それでも、今日という日を迎えなければならない。


 スーツに着替える。ネクタイを締める。鏡を見る。相変わらず冴えない顔だ。

 鞄の中に、退職届を入れた。封筒の感触が、やけに重く感じられた。


 誠の心臓はバクバクと鳴っていた。胸の鼓動が、自分でもはっきりと分かるほど激しかった。


 上司にどのタイミングで切り出すか。

 通勤電車の中で、誠は何度もシミュレーションした。まず、山田部長の様子を伺う。忙しそうでなければ、声をかける。


「山田部長、今お時間よろしいですか?」


 そう言って、別室に呼び出してもらう。そこで退職届を渡す。


 家で何度も練習した台詞を、脳内で反芻する。言葉に詰まらないように。変に感情的にならないように。淡々と、しかし誠意を持って伝える。


 会社に着いた。いつもの通勤ラッシュ。いつもの雑踏。だが、誠にとっては特別な一日だった。


 オフィスに入る。「おはようございます」と挨拶する。いつもと同じ。だが、誠の手には退職届が入った鞄がある。


 デスクに着いた。パソコンを立ち上げる。メールをチェックする。そして、山田部長の席を見た。


 ──いない。

 誠は焦った。山田部長の席が空いている。まだ来ていないのか?それとも外出か?

 隣の席の同僚に、恐る恐る尋ねた。


「あの、山田部長は?」


「ああ、今日は休みだって。お子さんの学校行事があるらしいよ」


 誠は絶句した。

 休み。今日、山田部長は休みだった。

 どうする。どうすればいい。


 こういう場合、退職届の提出先は課長でもいいのだろうか。それとも人事部?総務部?

 誠は混乱した。誰に聞けばいいのかも分からない。というか、こんなことを同僚に聞くわけにもいかない。「退職届を出したいんだけど、誰に渡せばいい?」なんて聞いたら、噂が広まってしまう。


 聞ける人がいない。

 誠はずっとソワソワしていた。仕事に集中できない。画面を見ているが、文字が頭に入ってこない。


 どうしよう。明日まで待つべきか。それとも、今日、前山課長に渡してしまうか。

 逡巡していた。そして──。


「甲斐ぃぃぃっ!!」


 前山課長の怒声が、オフィスに響き渡った。

誠の血の気が引いた。


 また、やらかした。

 取引先への資料送付。メールアドレスを間違えて、全く関係のない会社に機密情報を送ってしまっていた。しかも、それに気づいたのは前山課長だった。


「……甲斐!これで何度目だ!」


 前山課長の顔は真っ赤だった。怒りで震えている。周囲の視線が、一斉に誠に集まった。


「申し訳ございません……」


 誠は頭を下げた。もう、言い訳はできない。弁解の余地もない。


「こんなことばかり続くようだったら、お前はもう辞めてもらうぞ!」


 前山課長の言葉。それは、誠にとって、ある意味で救いだった。

 誠は、こんどばかりは、しめた、と思った。絶好のタイミングだ。これ以上のタイミングはない。


「……はい。そのつもりです」


 誠は鞄から、退職届の入った封筒を取り出した。そして、前山課長の前に差し出した。

 前山課長は、目を見開いた。明らかに驚いている。


「……お前、まさか今回のミスもわざとじゃないだろうな?」


「……違います」


 誠は静かに答えた。


「会社を辞めたくてわざとやったんだろう」


「違います……」


 誠の声は弱々しかった。だが、嘘はついていない。今回のミスは、本当にミスだった。ただ、それがこのタイミングで起きてしまっただけだ。


「じゃあなんでこんなものを持っている!」


 前山課長は封筒を手に取り、振りかざした。


「それは、今日、山田部長にお渡しするつもりだったものです」


 誠は正直に答えた。嘘をついても仕方がない。

 前山課長は無言で、誠の退職届を受け取った。封を開け、中身を読んだ。


 オフィスが静まり返っていた。誰も声を出さない。ただ、キーボードを叩く音だけが、やけに大きく聞こえた。


 長い沈黙の後、前山課長は顔を上げた。


「──お前の気持ちは分かった。俺から山田部長に伝えておく」


「……申し訳ございません。よろしくお願いいたします」


 誠は精一杯、真摯に頭を下げた。背中を丸めて、深く、深く。

 前山課長は何も言わなかった。ただ、小さく頷いただけだった。

 帰宅後、誠はソファに倒れ込んだ。

 また、何度目か分からない溜息をついた。


 俺はこれからどうなるのか。希望通り、辞めさせてもらえるのか。山田部長に話はきちんと通っているのか。


 不安が渦巻いた。だが同時に、ほんの少しだけ、解放感もあった。


 もう、引き返せない。

 誠はスマホを手に取った。ニュースアプリを開く。だが、記事の内容は頭に入ってこない。ただ画面をスクロールしているだけ。


 明日が、さらに憂鬱だった。


第三章 最後の日々

 翌日、誠は山田部長に別室に呼び出された。

 会議室の一つ。小さな部屋だった。テーブルと椅子が四つ。窓からは、隣のビルの壁が見えるだけ。

 山田部長は椅子に座り、誠に向かい合った。


「──甲斐くん。話は聞いている」


 山田部長の声は、穏やかだった。怒ってはいない。ただ、少し悲しそうに見えた。


「正直に言って、最近の君のミスは目に余る」


 誠は俯いた。反論できない。事実だから。


「だが」


 山田部長は続けた。


「この部署が君に合っていないだけなんじゃないかと私は考えている。部署異動を考えてみないか?」


 思いもよらない打診だった。

 誠は顔を上げた。山田部長は真剣な目で誠を見ていた。


 部署異動。確かに、それも一つの選択肢かもしれない。営業事務じゃなく、別の部署なら、もしかしたらうまくいくかもしれない。

 だが、誠は首を横に振った。


「いえ……。どこにいってもご迷惑をおかけすると思いますので」


 誠の中には、確信があった。きっと俺は、この会社ではどこにいってもお荷物だ。部署を変えたところで、同じことの繰り返しになる。


「考え直す気はないか?」


「……はい」


 誠の答えは変わらなかった。


「そうか」


 山田部長は静かに言った。諦めたような、それでいて理解したような表情だった。


「来週の水曜日まで出勤します。来週の木曜日から有給休暇を取らせていただきます」


 誠は勇気を出して伝えた。ここで曖昧にしてはいけない。きちんと意思を示さなければ。

 山田部長になら、伝わると思った。この人は、誠の気持ちを分かってくれる。そんな気がした。


「……分かった。人事部に話を通しておく」


「ありがとうございます」


 誠は深く頭を下げた。

 内心、ホッとしていた。これで、本当に終わりが見えた。

 話はそれで終わった。


 来週の水曜日まで。

 そこで俺のここでの生活は終わる。


 誠は、その日から少しずつ私物を持ち帰ることにした。

 業務内容をぎっしりメモしたノート。分厚いマニュアル。私物の本、文具類、私物のペン立て、私物のコップ、私物のPCキーボード、私物のスリッパ。


 一つひとつ持ち帰るたびに、誠がここにいた痕跡が消えていく。

 デスクの上が、だんだんと殺風景になっていく。最初は物で溢れていたデスクが、今では会社支給の備品だけになった。


 周囲の人たちも、腫れ物に触るように誠に接してくるようになった。

 挨拶はする。だが、会話は最低限。誰も誠に話しかけてこない。誠も、話しかけない。


 最も、誠は元々、周囲と積極的に関わるタイプではなかった。だから、何が変わるわけでもなかった。ただ、孤立感だけが、より一層深まった気がした。


 そして、最終日。

 令和○年○月○日。水曜日。


 誠は、いつもと同じように出勤した。いつもと同じように、パソコンを立ち上げた。


 だが、今日で最後だ。

 誠は引き継ぎ資料を、後任の人間に渡した。といっても、後任はまだ決まっていない。とりあえず、前山課長に渡した。


「これ、引き継ぎ資料です。業務内容と、注意点をまとめました」


「……ああ、ご苦労」


 前山課長は、資料を受け取った。それ以上、何も言わなかった。

 誠は最後に、デスクの引き出しを空にした。もう何も残っていない。


 定時になった。

 誠は山田部長と前山課長にだけ、静かに別れを告げることにした。


 まず、山田部長の席へ。


「山田部長、今までお世話になりました。たくさんご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」


 山田部長は立ち上がり、誠と握手をした。


「甲斐くん、次の場所で頑張ってください」


「ありがとうございます」


 次に、前山課長の席へ。


「前山課長、今までお世話になりました。たくさんご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」


 前山課長は、少し複雑な表情をしていた。


「……まあ、次は頑張れよ」


「はい。ありがとうございました」


 二人は静かに見送ってくれた。

 誠はオフィスを出た。エレベーターに乗る。一階へ。


 ビルの外に出た瞬間、誠は深く息を吐いた。

 ──そして誠は、会社員生活に終わりを告げた。


第四章 空白

 今月いっぱいまでは、在籍扱いになっている。

 誠は自宅で、返却すべきものをまとめた。社員証、健康保険証、会社から支給されていた備品。

 全てを段ボールに詰めて、郵送で返却した。


 来月になったら、俺は無職だ。

 手続きがいろいろ面倒だな、と誠はぼんやり思った。


 健康保険の変更手続き。国民年金への変更手続き。ハローワークへの登録。雇用保険の申請。

 やるべきことは山積みだった。だが、どれも気が重い。


 そして、のしかかってくる市県民税や健康保険料や年金のことを考えた。

 会社が半分負担していたものを、今度からは自分で全額負担することになる。しかも、昨年度の収入に応じて金額が決められるから、無職になったばかりなのに高額な金額を請求されるだろう。


 考えただけで、溜息が出た。

 何度目か分からない溜息。


 溜息を吐くたびに、誠の中から何かが抜け落ちていく気がした。生きる気力、希望、未来。そういったものが、少しずつ、確実に失われていく。


 親には話せない。

 誠の両親は地元に住んでいる。たまに電話がかかってくるが、誠はいつも「仕事は順調だ」と嘘をついていた。


 会社を辞めたなんて、とても言えない。心配をかけたくない。いや、正確には、失望されたくない。


 こんな時、一人暮らしで良かった、と誠は思った。

 もし実家暮らしだったら、こんな状況を隠し通すことはできなかっただろう。


 そして、次の職探し。

 誠はハローワークのサイトを開いた。求人情報がずらりと並んでいる。

 だが、どれを見ても、心が動かない。


 また溜息が出た。

 憂鬱な気持ちは、誠の中からなかなか去ってくれない。


 きっと次の職場でも、俺はお荷物だ。きっと同じことを繰り返すのだろう。その度に職を変えていたのでは、キリがない。

 でも、どうすればいいのか分からない。


 誠は自分に向いている仕事が何なのか、分からなかった。というか、向いている仕事なんてあるのだろうか。


 いっそ、今流行りの異世界転生で、チート無双できたらいいのに、と誠は思った。

 ラノベやアニメでよくある展開だ。冴えない主人公が、異世界に転生して、特別な力を手に入れて、英雄になる。

 そんなことは、現実には起こり得ない。


 現実はここにある。この殺風景なワンルームマンション。この重苦しい空気。この先の見えない未来。


 貯金がほとんどない誠。

 仕事でストレスが溜まるたび、誠はパチンコに行った。最初こそ儲けが多かったものの、次第に負けばかりになった。負けた分を取り返そうと必死になればなるほど、誠の貯金は減っていった。

 気づけば、通帳の残高は十万円を切っていた。


 ──これからどうする。

 いっそバイトでもするか。


 バイトで食い繋ぎ、職を探す。それ以外の道は、誠の貧困な脳みそでは思いつかなかった。

だが、バイトをする気力すら、今の誠にはなかった。


 ──死んでしまいたい。

 その思考が、また頭をもたげた。

 なかなか消えてくれない。むしろ、日に日に強くなっている気がした。


 俺は病気なのかもしれない。

 誠はそう思った。鬱病とか、そういうやつかもしれない。でも、病院に行く気にもなれない。診察を受けて、薬をもらって、それで何が変わるというのか。


 そういえば、以前眠れなくて睡眠外来にかかった時にもらった睡眠薬があった。

 誠は洗面所の棚を開けた。奥の方に、小さな薬の袋が残っていた。

 中を確認する。まだ十錠ほど残っている。

あれを一気に飲めば、死ねるかもしれない。


 誠の祖父は、睡眠薬を飲んで死んだ。

 意図的にではない。たまたまだった。なかなか眠れなかった祖父は、勝手に薬を多めに飲んで眠ったのだ。そして、そのまま目覚めなかった。


 誠が中学生の時の出来事だった。葬儀の時、誠は泣かなかった。というか、実感が湧かなかった。ただ、祖父が眠ったまま死んだという事実だけが、妙に記憶に残っていた。


 俺も、そうやって死にたい。

 誠は思った。


 一番いい死に方だと思った。眠るように死ぬ。本人は死んだことすら気づいていないかもしれない。

 苦しまない。痛くない。ただ、眠って、そして目覚めない。

 それは、とてもいい考えのように思えた。

この腐った世の中で苦しんで生きていくより、眠るように死んでしまった方が、よっぽど幸せなのではないか。


 誠はそう思った。

 俺には、もうやりたいことなどない。夢とか希望とか、そんなものはもうなかった。


 小さい頃は、色々な夢を見た。サッカー選手になりたい、科学者になりたい、そんな夢。

でも、大人になるにつれて、そういう夢は現実に押しつぶされていった。


 今の誠には、何もない。

 誠はまず、PCとスマホを初期化することにした。

 データを全て削除した。写真、動画、メール、SNSのアカウント。全て消した。


 昔のスマホは、とうの昔に売りに出していた。見られたくないものは、もう何もない。


 遺書って、書いた方がいいんだっけ?

 誠は考えた。

 でも、俺は文章が下手だ。うまく気持ちを言葉にできない。

 何を書けばいいのか。誰に宛てて書けばいいのか。


 迷った末、誠は気づいた。特に何かを伝えたい相手もいない、ということに。

 友人はいない。恋人もいない。両親には、何を言えばいいのか分からない。

 結局、誠は簡単に通帳の在処とパスワードだけ書いておいた。


「通帳は引き出しの中。暗証番号は○○○○。これが全財産です」


 それだけ。

 クレジットカードは持っていない。サブスクリプションサービスにも入っていない。解約すべきものは、何もない。


 完璧だ。

 誠がこの世から消える準備は整った。


 これまで、自殺のニュースを見るたび、誠は思った。


「なんでそんなことをしたのか」


「まだまだこの人には可能性があったのに」


 他人事だった。自分には関係のない、遠い世界の出来事だった。


 だけど、今の誠には、痛いほどその気持ちが分かった。

 全てを諦め、絶望する気持ち。未来が見えない恐怖。生きている意味が分からない虚無感。それらが、誠を包んでいた。


 奇しくも、明日は誠の誕生日だ。

 ○月○日。誠が生まれた日。


 死ぬには良い日かもしれない。

 生まれた日に死ぬ。なんだか、綺麗な気がした。


 誠は、明日に備えて寝ることにした。

 明日の夜、決行する。


 ──そう、決めた。


第五章 誕生日

 翌日、誠の誕生日。


 目が覚めると、スマホに通知が来ていた。

 LINEを開く。父と母からお祝いのメッセージが来ていた。

 二人とも毎年、「おめでとう」というスタンプ一個だけだ。それ以外に何もない。


 誠には、両親しか誕生日を祝ってくれる相手がいない。友人もいなければ、恋人もいない。

 寂しいな、と思った。でも、今日で終わる。もう、来年の誕生日を迎えることはない。


 誠は、今日は家の中を徹底的に掃除することにした。

 死んだ後、誰かがこの部屋に入る。大家か、管理人か、あるいは両親か。


 せめて、綺麗な部屋にしておきたかった。

 風呂を掃除した。シンクをピカピカに磨き上げた。トイレを掃除し、床に掃除機をかけた。窓を拭き上げ、細かいところまで綺麗にした。綺麗になった部屋は、とても気持ちが良かった。


 誠は次に、持ち物の整理を始めた。

 本、ゲーム機、着ていない服。仕事関係の書類はシュレッダーにかけて捨てた。


 リサイクルショップに持っていけるものは持っていった。ほとんど値段はつかなかったが、それでもいい。


 大きな家具も捨てることにした。本棚、メタルラック、テレビ、デスク、こたつ、冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、物干し竿。

 粗大ゴミの回収を手配した。費用はかかったが、どうせもう使わない。


 物がなくなって、広々とした部屋は殺風景だった。

 物が一つずつなくなるたびに、誠という存在が削られていく感覚に襲われた。


 この世から、俺の痕跡がなくなっていく。

 それは、意外にも気持ちの良いことだった。


 まるで、生まれ変わる前の準備をしているような。そんな感覚。


 布団だけは、最後まで残した。

 何もない部屋で、ここだけが誠の居場所のような気がした。


 管理人さん、ごめんなさい。

 誠は心の中で謝った。

 俺はこれから、ここを事故物件にしてしまう。


 部屋を見渡した。

 ここで十年以上暮らしてきた。

 大学入学と同時に上京し、そのままそこで就職した。地元には帰りたくなかった。


 地元は何もない田舎だった。車がないと生活できない場所。娯楽もない。仕事もない。

 あんな生活は、もう二度とごめんだ。


 だから、誠は東京に出てきた。でも、東京での生活も、結局はうまくいかなかった。


 夜になった。

 誠は、手筈通り、睡眠薬を持っている分だけ服用することにした。

 どれくらい飲めば致死量に達するのか、分からなかった。だから、全部飲むことにした。


 薬を手に取る。小さな錠剤。これが、俺の人生を終わらせるもの。

 水と一緒に、一錠ずつ飲んでいく。

 一錠、二錠、三錠……。

 全部で十二錠あった。全て飲み干した。


 すぐに、睡魔が襲ってきた。

強烈な眠気。抗えない。

誠は布団に倒れ込むようにして横になった。

 目を閉じる。

これで、終わりだ。

もう、目覚めることはない。

誠は、そう信じて、意識を手放した。


第六章 光の声

 ──夢を見た。

 誠は、何かの列に並んでいた。

 夥しい数の人間の列。前を見ても、後ろを見ても、人、人、人。全く先が見えない。


 この列はなんなのだ。

 誠は疑問に思ったが、誰かに聞くことは、なぜか憚られた。


 周囲の人々は、皆、無表情だった。ただ黙って、前に進んでいる。

 誠もそれに倣って、列に沿って歩いた。


 どれくらい歩いただろう。時間の感覚がない。


 ふと、誠は上を見た。

そこには、眩い光があった。

そして、声が聞こえた。


『この人はまだやるべきことを果たしていない。生かしておきなさい』


 どこからか、声がした。

 男性の声か、女性の声か、それすら分からない。ただ、厳かで、神聖な響きを持った声だった。


 光の筋が、上から誠を照らした。

 誠は、UFOに連れ去られるが如く、その光の筋に吸い込まれていった。

 体が浮く。周囲の人々が、下へ下へと遠ざかっていく。


 誠は叫ぼうとしたが、声が出なかった。

 ただ、光に包まれていく。


 そして──。


 ──目が覚めた。


 誠は、目を開けた。

天井が見える。いつもの天井。


 死ねなかった。

誠は、死ねなかったのだ。

 体を起こした。頭が重い。体がだるい。だが、確かに生きている。


 時計を見た。午前十時。

 誠は昨夜、睡眠薬を飲んだ。それなのに、目覚めた。


 なぜだ。

 あの不思議な夢はなんだったのか。

 俺にはまだ果たすべきことがあるというのか?こんな俺が?


 何をしたらいいのか分からないのに。

 夢の中の声は、誠に何かを果たせと言っていた。


 訳が分からない。

 誠は布団の中で、しばらく呆然としていた。


第七章 覚醒

 誠は布団から這い出した。

 足元がふらつく。壁に手をついて、なんとか体を支えた。


 洗面所に向かう。鏡を見た。

 そこに映っていたのは、相変わらず疲れ切った自分の顔だった。目の下の隈は濃くなっている。頬はこけて、血色が悪い。


 だが、生きている。

 誠は蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗った。水の冷たさが、現実を突きつけてくる。


 これは夢じゃない。俺は本当に生きている。

 なぜだ。あれだけの薬を飲んだのに。

 誠は洗面所の棚を見た。空になった薬の袋が、そこにあった。確かに飲んだ。全部飲んだ。


 それなのに。

 誠はキッチンに向かい、水を飲んだ。喉が渇いていた。体が水を求めていた。

 生きるための本能が、まだ働いている。


 誠は布団に座り込んだ。何もない部屋。昨日、全てを片付けた部屋。


 ここで死ぬはずだった。でも、死ねなかった。

 あの夢は何だったのか。


 誠は記憶を辿った。

 列に並んでいた。無数の人々。そして、光。声。


『この人はまだやるべきことを果たしていない。生かしておきなさい』


 やるべきこと。

 俺に、やるべきことなんてあるのか。


 誠には分からなかった。自分に何ができるのか。何をすべきなのか。


 仕事もない。友人もいない。家族とも疎遠だ。社会との繋がりは、ほとんど断たれている。

 こんな俺が、何を果たせというのか。


 誠は頭を抱えた。

 分からない。何も分からない。

 だが、一つだけはっきりしていることがあった。


 ──俺は、まだ生きている。

 理由は分からない。でも、生かされた。


 それが偶然なのか、必然なのか。神の意思なのか、単なる薬の効き目の問題なのか。


 誠には判断できなかった。

 だが、事実として、俺は今ここにいる。


 誠はスマホを手に取った。画面を開く。

 父と母からのメッセージが、まだ残っていた。「おめでとう」というスタンプ。


 誠は、返信をしていなかったことに気づいた。

 いつもなら、「ありがとう」と一言だけ返していた。でも昨日は、それすらしなかった。


 死ぬつもりだったから。

 誠は震える指で、キーボードを叩いた。


「ありがとう」


 送信ボタンを押す。

 すぐに既読がついた。そして、母から返信が来た。


「元気にしてる?たまには顔を見せてね」


 誠は、涙が出そうになった。

 母は、何も知らない。息子が昨日、死のうとしていたことを。今、生きているのが奇跡のようなものだということを。


 誠は返信を打った。


「うん、元気だよ。また連絡する」


 嘘だった。元気なわけがない。でも、本当のことは言えない。


 送信した後、誠はスマホを置いた。

 どうする。これから、どうする。

 死ぬこともできなかった俺は、これからどう生きていけばいいのか。


 誠は、とりあえず何か食べることにした。

 冷蔵庫はもう処分してしまった。食材は何もない。


 外に出るしかない。

 誠は適当な服を着て、財布とスマホだけを持って部屋を出た。


 久しぶりの外出だった。

 外の空気は、冷たくて、清々しかった。十一月の終わり。もうすぐ冬が来る。


 誠は近くのコンビニに向かった。

 店内に入ると、明るい照明と、音楽が流れていた。普通の日常。何も変わらない世界。


 誠はおにぎりとペットボトルのお茶を買った。レジで会計を済ませる。


「ありがとうございました」


 店員の声。機械的だが、それでも人の声だった。


 誠は外のベンチに座り、おにぎりを食べた。

 梅おにぎり。酸っぱくて、少ししょっぱい。

味がした。


 昨日までは、何を食べても味がしなかった。でも今は、ちゃんと味がする。

 生きているんだな、と誠は思った。


 お茶を飲む。冷たくて、少し苦い。それも、ちゃんと感じられる。


 誠は空を見上げた。

 青空が広がっていた。雲が流れている。風が吹いている。


 世界は、動いている。

 俺が死のうとしている間も、世界は回っていた。そして今も、回り続けている。


 誠の存在があろうとなかろうと、世界は変わらない。


 それは寂しいことのようでもあり、同時に、少しだけ楽なことのようにも思えた。


 俺がいなくても、世界は困らない。でも、俺がいても、別に邪魔にはならない。

 そう考えると、少しだけ気持ちが楽になった。


第八章 小さな一歩

 部屋に戻ると、誠は改めて現実と向き合うことにした。


 まず、生きていくためには金が要る。

 通帳を確認した。残高は八万三千円。来月の家賃は払える。でも、その次は無理だ。


 仕事を探さなければならない。

 誠はパソコンを取り出そうとして、気づいた。パソコンは初期化してしまった。


 スマホも初期化した。

 データは全て消えている。

 誠は脱力した。やってしまった。これでは求人サイトにもログインできない。

 だが、新規登録すればいい。それだけのことだ。


 誠はスマホで、ハローワークのサイトにアクセスした。新規登録を始める。


 名前、住所、電話番号、メールアドレス。基本情報を入力していく。 


 職歴。前職の情報を入力する。

 営業事務、三年勤務、一身上の都合により退職。


 画面を見ながら、誠は自分の職歴の短さを実感した。たった三年。しかも、ミスばかりで辞めた。


 次の仕事は見つかるのだろうか。

 不安が頭をもたげる。でも、やるしかない。誠は求人情報を検索し始めた。


 事務職。だが、どれも「経験者優遇」「Excel、Word必須」「コミュニケーション能力重視」と書かれている。


 誠には、どれも自信がなかった。


 倉庫作業。体力仕事。これなら、人と関わらなくていいかもしれない。


 誠はいくつかの求人をブックマークした。

 そして、ふと思った。


 本当にこれでいいのか。

 また同じことの繰り返しになるんじゃないか。


 仕事を始めて、ミスをして、迷惑をかけて、辞める。その繰り返し。

 誠は、自分の人生のパターンが見えている気がした。

 このまま生きていても、同じことの繰り返しだ。


 ──でも。

 誠は、あの夢のことを思い出した。


『この人はまだやるべきことを果たしていない』


 やるべきこと。

 それが何なのか、まだ分からない。でも、もしかしたら、それはこの繰り返しの中にはないのかもしれない。

 誠は、今までとは違う道を探してみることにした。


 求人サイトで、職種を変えて検索してみる。


 介護職。人手不足で、未経験でも可と書かれている。

 だが、誠には自信がなかった。人の世話をする。それは、今の誠には重すぎる責任に思えた。

 警備員。夜勤もあるが、一人で立っている時間が長い。

 これなら、できるかもしれない。


 誠はその求人をブックマークに追加した。


 清掃員。早朝の仕事。これも一人で黙々とできる。


 ブックマークに追加する。


 配送ドライバー。だが、誠は運転免許を持っていなかった。これは無理だ。


 誠は、少しずつ選択肢を絞っていった。

 そして、ふとある求人に目が止まった。


 「図書館の司書補助。未経験可。静かな環境で本の整理や貸出業務を行います」


 図書館。

 誠は、昔、図書館が好きだったことを思い出した。


 小学生の頃、よく図書館に通った。静かで、落ち着いていて、誰にも邪魔されずに本を読める場所。


 あの頃の自分は、まだ夢を持っていた。本を読んで、色々な世界を知って、将来は作家になりたいと思っていた。


 いつの間にか、忘れていた。

 誠は、その求人の詳細を読んだ。

 時給は低い。だが、週四日、一日六時間の勤務。社会保険あり。

 これなら、できるかもしれない。


 誠は応募ボタンを押した。

 履歴書と職務経歴書を送る必要がある。


 誠は、久しぶりに真剣に文章を書くことにした。


第九章 面接

 数日後、図書館から連絡が来た。

 面接をしたいとのこと。日時は来週の火曜日、午前十時。


 誠は、緊張した。

 面接。また、人と話さなければならない。自分をアピールしなければならない。

 だが、逃げるわけにはいかない。


 誠は、面接の準備を始めた。

 スーツを確認する。まだ処分していなかった。クリーニングに出していないが、とりあえず着られる。


 靴も磨いた。鏡で全身をチェックする。

 まあ、悪くはない。少なくとも、見た目は普通だ。

 誠は、面接で聞かれそうな質問をリストアップした。


「志望動機は?」

「前職を辞めた理由は?」

「自己PRをお願いします」


 それぞれの答えを考える。

 志望動機。本が好きだから、という理由では弱い気がする。もっと具体的に。

 誠は考えた。そして、正直に書くことにした。


「静かな環境で、一つ一つの仕事を丁寧にこなしたいと思いました。本を通じて、人々の学びや癒しの手助けができれば嬉しいです」


 前職を辞めた理由。これが一番難しい。

 ミスが多くて辞めた、とは言えない。でも、嘘もつきたくない。


「前職では営業事務をしていましたが、スピードを求められる環境が自分に合わないと感じました。もっと丁寧に、一つ一つの仕事に向き合える環境で働きたいと思い、退職を決意しました」


 自己PR。これも難しい。

 誠には、誇れるものが何もない気がした。でも、何か言わなければならない。


「私の強みは、真面目さと誠実さです。与えられた仕事には、責任を持って取り組みます」


 ありきたりだが、他に思いつかなかった。

 誠は、これらの答えを何度も声に出して練習した。


 面接当日。

 誠は朝早く起きて、シャワーを浴びた。スーツに着替える。鏡を見る。


 緊張している自分が、そこにいた。

 図書館までは、電車で三十分ほど。誠は余裕を持って家を出た。


 電車の中で、誠は何度も深呼吸をした。

 大丈夫。うまくいく。きっとうまくいく。

 自分に言い聞かせる。


 図書館に着いた。大きな建物だった。市立図書館。誠は何度か来たことがある。

 受付で、面接に来たことを伝えた。


「少々お待ちください」


 誠は待合スペースで待った。

 周囲を見渡す。本棚がずらりと並んでいる。人々が静かに本を読んでいる。


 落ち着く空間だった。

 ここで働けたら、いいな。

 誠はそう思った。


「甲斐誠様」


 名前を呼ばれた。誠は立ち上がった。

 案内されたのは、小さな会議室だった。


 そこには、二人の面接官がいた。一人は五十代くらいの男性。もう一人は、三十代くらいの女性。


「どうぞ、お座りください」


 男性が言った。

 誠は椅子に座った。背筋を伸ばす。


「本日はお越しいただきありがとうございます。私は館長の田中と申します。こちらは、副館長の佐藤です」


「よろしくお願いいたします」


 誠は丁寧に頭を下げた。


「では、まず自己紹介をお願いします」


 誠は、準備していた通りに話し始めた。


「甲斐誠と申します。前職では、営業事務として三年間勤めておりました。この度、より丁寧に仕事に向き合える環境を求めて、図書館の司書補助に応募いたしました。本を読むことが好きで、静かな環境で働くことに魅力を感じております。よろしくお願いいたします」


 田中館長は頷いた。


「なぜ前職を辞めたのですか?」


 来た。この質問。

 誠は、準備していた答えを言った。


「前職では、スピードを求められる環境でした。私は、一つ一つの仕事を丁寧にこなしたいタイプなのですが、それが環境に合わないと感じました。もっと自分のペースで、責任を持って仕事に取り組める場所で働きたいと思い、退職を決意しました」


 佐藤副館長が口を開いた。


「図書館の仕事も、実は地味で大変ですよ。本の整理、貸出、返却の処理、利用者対応。単調な作業も多いです。それでも大丈夫ですか?」


「はい」


 誠は即答した。


「むしろ、そういった仕事の方が向いていると思います。一つ一つを確実にこなすことが、利用者の方々の満足に繋がると考えています」


 佐藤副館長は、少し微笑んだ。


「本は好きですか?どんな本を読みますか?」


 誠は、少し考えた。


「昔はよく小説を読んでいました。特に、ミステリーや、SF。最近はあまり読めていませんでしたが、また読みたいと思っています」


「図書館で働くと、色々な本に触れる機会が増えますよ。楽しみにしていてください」


 佐藤副館長の言葉に、誠は少しだけ希望を感じた。


 面接は、三十分ほどで終わった。


「結果は、一週間以内にご連絡いたします」


 田中館長が言った。


「ありがとうございました」


 誠は深く頭を下げて、会議室を出た。

 帰り道、誠は少しだけ前向きな気持ちになっていた。

 うまくいったかどうかは分からない。でも、少なくとも、自分なりに精一杯やった。

 あとは、結果を待つだけだ。


第十章 始まり

 一週間後、誠のスマホに着信があった。

 知らない番号。だが、誠は心当たりがあった。

 電話に出る。


「もしもし、甲斐様ですか?市立図書館の佐藤です」


 誠の心臓が高鳴った。


「はい、甲斐です」


「先日は面接にお越しいただき、ありがとうございました。選考の結果、甲斐様にぜひ来ていただきたいと思います」


 誠は、一瞬、言葉を失った。


「……本当ですか?」


「はい。来週から勤務開始でよろしいでしょうか?」


「はい!ありがとうございます!」


 誠は、思わず大きな声で答えた。

 電話を切った後、誠はその場に座り込んだ。受かった。仕事が決まった。


 誠は、涙が出そうになった。

 死のうとしていた自分。何もかも諦めていた自分。

 でも今、新しい一歩を踏み出そうとしている。

 これが、あの夢で言われた「やるべきこと」なのかは分からない。

 でも、少なくとも、今は生きる理由ができた。

 翌週、誠は図書館での初出勤を迎えた。

 緊張していた。だが、不思議と、嫌な緊張ではなかった。

 佐藤副館長が、誠を案内してくれた。


「まずは、返却された本の整理から始めましょう。本棚に戻す作業です」


 誠は、返却カウンターに置かれた本を手に取った。

 一冊一冊、背表紙を確認する。分類番号を見る。該当する棚を探す。

 静かな作業だった。誰にも急かされない。自分のペースでできる。

 誠は、久しぶりに、仕事が苦痛ではないと感じた。


 午前中の作業が終わった。

 佐藤副館長が声をかけてきた。


「どうですか?疲れましたか?」


「いえ、大丈夫です。むしろ、楽しいです」


 誠は正直に答えた。


「それは良かった。図書館の仕事は、本当に地味ですけど、大切な仕事です。利用者の方々が、必要な本にたどり着けるように。それが私たちの役割です」


 誠は頷いた。

 午後は、貸出カウンターの補助をした。

 利用者が本を持ってくる。バーコードをスキャンする。貸出カードを発行する。


「ありがとうございます」


 利用者が笑顔で言った。

 誠も、小さく笑顔を返した。


 誰かの役に立っている。

 その実感が、誠の心を少しずつ満たしていった。

 初日が終わった。

 誠は図書館を出て、帰路についた。


 空を見上げる。夕焼けが綺麗だった。


 誠は、ふと思った。

 俺は、生きていてもいいのかもしれない。

 まだ、やるべきことが何なのかは分からない。

 でも、少なくとも今は、毎日が少しだけ意味のあるものに思える。


 誠は、スマホを取り出して、母にメッセージを送った。


「新しい仕事、始めたよ。図書館で働いてる。元気にしてる」


 すぐに返信が来た。


「それは良かったね!頑張ってね」


 母のスタンプ。笑顔の絵文字。

 誠は、少しだけ、心が温かくなった。


第十一章 日常の光

 図書館での仕事は、誠にとって新鮮だった。

 毎日、同じような作業の繰り返し。だが、それが苦痛ではなかった。


 返却された本を棚に戻す。新しく入荷した本を登録する。利用者の問い合わせに答える。

 一つ一つが、小さな達成感をもたらした。


 ある日、年配の女性が誠に声をかけてきた。


「すみません、園芸の本を探しているんですが」


「はい、こちらです」


 誠は、園芸コーナーに案内した。


「ありがとう。助かります」


 女性は嬉しそうに本を手に取った。

 誠は、その笑顔を見て、自分も嬉しくなった。

 こんな小さなことでも、誰かの役に立てる。それが、誠にとっては大きな意味を持った。


 仕事にも慣れてきた頃、佐藤副館長が誠に声をかけてきた。


「甲斐さん、最近どうですか?仕事には慣れました?」


「はい、おかげさまで。楽しく働けています」


「それは良かった。実は、来月から子ども向けの読み聞かせイベントを始めるんです。興味ありませんか?」


 読み聞かせ。


 誠は少し戸惑った。人前で本を読む。それは、今までやったことがない。


「私にできるでしょうか……」


「大丈夫ですよ。最初は見学からで構いません。子どもたちに本の楽しさを伝える。とても素敵な仕事ですよ」


 佐藤副館長は優しく微笑んだ。

 誠は、少し考えて、頷いた。


「やってみます」


 読み聞かせイベントの日。


 誠は、絵本を手に、小さな会議室に入った。そこには、五人ほどの子どもたちと、その親が座っていた。


 緊張した。手が震える。

 だが、佐藤副館長が隣にいた。


「では、甲斐さん、お願いします」


 誠は、深呼吸をして、絵本を開いた。


「今日読むのは、『はらぺこあおむし』です」


 ページをめくる。


「おや、はっぱの上に、ちいさな卵がありました」


 誠の声は、最初は小さかった。だが、読み進めるうちに、少しずつ大きくなっていった。


 子どもたちは、真剣な顔で聞いている。


 あおむしが、色々なものを食べていく場面。子どもたちが笑った。


 誠も、つられて笑った。

 最後、あおむしが美しい蝶になる場面。


 子どもたちが、拍手をした。

 誠は、胸が熱くなった。


 読み終えた後、一人の男の子が誠に近づいてきた。


「おにいさん、また読んでね」


 その言葉が、誠の心に深く響いた。


第十二章 再生

 それから数ヶ月が経った。

 誠の生活は、少しずつ変わっていった。


 図書館での仕事は順調だった。読み聞かせイベントも、月に一度のペースで続けている。

 誠は、少しずつ自信を取り戻していった。


 ある日、誠は図書館の休憩室で、佐藤副館長と話をしていた。


「甲斐さん、最近すごく良い顔してますね」


「そうですか?」


「ええ。最初の頃と全然違います。生き生きしてる」


 誠は、少し照れくさそうに笑った。


「ここで働けて、本当に良かったです。ありがとうございます」


「こちらこそ、来てくれてありがとう。甲斐さんは、真面目で丁寧。利用者の方々からも評判がいいんですよ」


 その言葉が、誠にとって何よりの励みになった。


 誠は、久しぶりに実家に電話をかけることにした。

 母が電話に出た。


「もしもし、誠?どうしたの?」


「久しぶり。元気?」


「元気よ。あなたこそ、仕事は順調?」


「うん、順調。図書館の仕事、すごく楽しいよ」


「それは良かった。お父さんも喜んでるわ」


 誠は、少しだけ声が震えた。


「ごめん、今まで心配かけて」


「何言ってるの。元気でいてくれれば、それでいいのよ」


 母の優しい声が、誠の心を温めた。


「また、帰るよ。年末くらいに」


「本当?待ってるわ」


 電話を切った後、誠は窓の外を見た。

 空は青く澄んでいた。


 誠は、あの夢のことを時々思い出す。


『この人はまだやるべきことを果たしていない。生かしておきなさい』


 やるべきこと。

 それが何なのか、誠にはまだはっきりとは分からない。


 でも、もしかしたら、それは壮大なことではないのかもしれない。


 毎日、誠実に働くこと。誰かの役に立つこと。小さな喜びを見つけること。


 そういった、日常の中にあるのかもしれない。


 誠は、図書館の本棚の前に立った。

 無数の本が並んでいる。

 一冊一冊に、誰かの物語がある。知識がある。想いがある。

 誠は、その一冊を手に取った。


 タイトルは『再生』。


 ページを開く。


「人生は、何度でもやり直せる」


 その一文が、誠の目に飛び込んできた。

 誠は、静かに微笑んだ。


エピローグ

 一年後。

 誠は、相変わらず図書館で働いていた。


 今では、新人の教育も任されるようになっていた。


 ある日、誠は新しく入ってきた若い男性に声をかけた。


「何か困ったことがあったら、いつでも聞いてくださいね」


「ありがとうございます」


 その男性は、緊張した顔をしていた。

 誠は、かつての自分を見ているようだった。


「最初は誰でも不安です。でも、大丈夫。一つずつ覚えていけばいいんです」


 誠の言葉に、男性は少しだけ表情を和らげた。


 誠は、今でも時々、あの日のことを思い出す。

 死のうとした日。睡眠薬を飲んだ日。

 そして、目覚めた日。


 あの時、もし本当に死んでいたら、今のこの景色は見られなかった。


 図書館で働く喜び。利用者の笑顔。同僚との会話。読み聞かせをする子どもたちの輝く目。

全てを失っていた。


 誠は、生きていて良かったと、心から思った。

 まだ、完璧な人生ではない。不安もある。悩みもある。


 でも、それでもいい。

 一日一日を、大切に生きていく。


 それが、誠のやるべきことなのかもしれない。


 誠は、図書館の窓から外を見た。


 春の陽射しが、優しく差し込んでいた。

 新しい季節が、始まろうとしていた。


──完──

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