貴方の妹は確かに病弱だけど、蔑ろにされる私の心だって強くはないの
お読みいただきありがとうございます。
私――エリーメージュは、侯爵家へ嫁ぐことになった。
ウエディングドレスに身を包み。横に並ぶ、これから夫になる人を横目で見た。髪と目は茶と、特別秀でた色彩ではない。だが顔立ちは端正で、目の保養だとうっとりする。
――彼は、病弱な妹と共に、屋敷に住んでいるらしい。そのせいで、彼に婚約を申し込んだ令嬢方は、すっかり気が滅入ってしまったとか。
両親を早くに亡くし、侯爵家当主という立場となった彼に誰もが結婚をせっついた。だが令嬢方が逃げてしまうのだったら、結婚などできようはずもない。
彼自身、病弱な妹を他に預ける気は微塵もないようで。こうして私に白羽の矢が立った。
私は貧乏伯爵家の長女。下には二人弟妹がおり、火の車の家計をどうにかしようと日々考え倦ねてはいるが、いつも笑顔を絶やさない家族を愛している。
そんなある日。洗濯を終えた私を、お父様が呼んだ。
「すまない、エリーメージュ。お前の結婚が決まった」
「まぁ……一体どこの物好きですか」
「サイラン侯爵家の当主だ」
サイラン侯爵家の当主と聞き、すぐにピンときた。これは契約なのだと。我が家の家計を助ける代わりに、大人しく付き従え。要約すればこうだろう。
契約書を見せてもらえば、我が家が一年は遊んで暮らせそうなお金で始まり、月の初めには定額を支払ってくれるらしい。
これ以上の良き縁談などないだろう。ようやくこれで、あの子たちにたらふく食べさせてあげられる。
なにより、こんな顔を歪めたお父様を見ていられない。
「かしこまりました。不肖、エリーメージュ。しかとお務めを果たしてまいります」
お母様によって磨かれたカーテシーを披露する。……ボロボロで、穴が空いた部分を他の布で繕った服では様にならなかったが。
◇◇◇
お屋敷に着くと、数え切れない程の使用人が出迎えてくれた。
晴れて夫となったディクス様は、ちょいと侍女二人を呼んだ。
「彼女たちが、専属侍女だ」
「お心遣い、感謝いたします」
そこで年嵩の執事が、ディクス様に耳打ちした。途端、彼の顔色が変わる。
「すまないが、妹のルーシェンの体調が優れないためここで失礼させていただく。夜も、食堂ではなくルーシェンの部屋で食べる。私のことは気にしないでくれ」
言葉を挟む隙も与えられず、足早に去っていった。
使用人からの、申し訳なさでいっぱいの視線を背に受ける。これが所謂『洗礼』というものだろうか、と目を伏せた。
結婚が決まり、改めて彼の噂を集めた。そこで判明したのは、妹のルーシェン様が事ある毎に体調を崩すというものだった。
令嬢からしたら堪ったものではない。最初は、サイラン侯爵家という優良物件で頑張ってみるらしいが、夜会に一緒に行けないと言われた辺りで心が折れるだとか。
考えてみて、ブルリと背を震わせる。恥辱以外の何物でもない。
「奥様……」
「あら、お気になさらないで? 病弱な妹が心配、だなんてとても素敵な家族愛だもの」
使用人に、そっと微笑む。人差し指を唇に当てた。
「――ただ。その家族愛に私も入れてもらえたら、嬉しいというだけよ」
扉を叩けば、短く入れとだけ指示される。ご随意に、ご随意に、と喜んで入らせていただいた。
「ディクス様。ご飯はこのテーブルの上に置けばよろしいですか?」
「……? あぁ。――っ、君は」
違和感に気づいたのだろう。振り向いたディクス様の目が見開かれている。彼の袖を、ベッドに座る美少女が引いた。
「お兄様。この方誰なの? お兄様に馴れ馴れしくないかしら?」
金を蕩かした輝く髪に、兄と同じ色彩の瞳。この兄にして妹あり。美しいと評する他ない彼女に、ほぉと溜息をつく。
彼が説明する前に、私がカーテシーをした。
「ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ございません。ディクス・サイラン様と結婚いたしました、エリーメージュと申します」
「……ふん」
「ルーシェン。ちゃんと挨拶をしなさい」
顔を背けた彼女は、兄の言葉にも従う気はないらしい。ディクス様は眉尻を下げた。
「すまない」
「いえいえ、お気になさらず」
「食事を運んできてくれたのか。ありがとう、良き夢を」
ひらりと手を振られ、私はにこっと笑った。近くのドレッサーから、椅子をズルズルと引っ張る。
腰掛けると、柔らかく衝撃が吸収された。伯爵家ではついぞ体験できなかった感覚。素晴らしい。
「…………君は、」
「私もご一緒してもよろしいですか? 一緒に食べた方が、もっと美味しいですもの」
面食らった様子だったが、ディクス様は目元に朱を帯びさせながら頷いた。
「君がそれでいいのなら、構わない」
「ありがとうございます。ルーシェン様も、よろしいですか?」
「え……」
ルーシェンはうさぎのように目をくりくりさせた後、気を取り直して目を吊り上げた。
「い、良い訳ないでしょう……!」
「ルーシェン」
咎める声にも首を横に振る。
「嫌ったら嫌! お兄様、こんな非常識な人追い出してよ!」
「そんな冷たいこと仰らず。今日は私、お二人と一緒に食べたい物があるんです」
皿の上に載せる丸い銀の蓋――クローシュを取れば、ホールのミートパイが姿を見せた。
「わぁ……っ」
私への悪意はどこに行ったのか。一転して目をきらきらさせて、ミートパイを見つめるルーシェン様に笑みが溢れる。
「お二人のために作ったのですけど……。しょうがありません、一人で寂しく食べることにいたしますね」
「……え……」
悲壮感たっぷり。あともう一押し。
「でも、一人で食べるには些か大きいですね……」
「わ、わたし。食べてあげても良いわよ」
勝った。心の中でガッツポーズをする。
「えぇ、是非」
ぱくつくルーシェンを、弟妹を見守る気持ちで目を細める。そこでふと、気づいてしまった。
「ルーシェン様」
「……な、なによ」
言葉を飲み込み、笑顔を形作った。
「美味しいですか?」
「まあまあね、及第点くらい」
隣でミートパイを食べるディクス様が発した、美味しいという言葉に意識を移し、追求はしないことにした。
◇◇◇
「ディクス様。明日の観劇ですが……」
「すまないが、ルーシェンの体調が優れない。見送らせてくれ」
「……はい」
また次の日にはルーシェン様を誘ってみたが、返事は素っ気なかった。
「今度、二人でクッキーでも作りませんか?」
「なんで、使用人でもないのに作らないといけないの? 絶対嫌」
「残念ですねぇ」
初回で勝利の味を知ってしまっただけに、その後の連戦連敗は心にくる物がある。
「奥様……」
一人で観劇に行こうと用意をしていると、私の髪を結う侍女に声をかけられた。
「大丈夫ですか?」
「なにが? 全然平気よ」
いけない、顔に出ていた様だ。
慌てて澄ました顔を作る。それでも、侍女の顔は優れなかった。
ディクス様の色彩に揃えた、茶色のワンピースを纏う。今日のために誂えたものだが、意味がなくなってしまった。
鏡に映る顔色は冴えない。溜息をついた所で、扉が叩かれた。
入ってきた侍女は、手紙を携えていた。
差出人はお父様で。開けば、五歳の弟が熱を出したと書かれていた。私の作るスープしか食べないと駄々を捏ねているらしい。
一度ディクス様に相談すべきだ。足は自然と、ルーシェン様の自室へ向いた。
「そうか、弟君が熱を出されたのか」
「そうなのです。ですから、一度行こうと考えておりまして」
ディクス様は私を見据えた。
「あぁ、帰るべきだろう。私は、ルーシェンの傍にいなければならない。一人で帰って貰えるか?」
「はい、勿論ですわ」
ルーシェン様は私が数日間いなくなることが嬉しいのか、ディクス様の後ろで笑っている。
へらりと笑ってから、外に出た。
心臓の鼓動に合わせるように、足が急ぐ。自室に鍵をかけ、床に座り込んだ。
彼の言葉が、先程から脳を揺らしている。
「……変ね。なにも可笑しいことなんて言ってないじゃない」
自分を落ち着かせようとするが、暫く立ち上がることができなかった。
観劇は中止し、伯爵家へと向かう。侯爵家の馬車は何度座っても心地よく、着いてもどこも痛くなかった。
家に入れば、お父様とお母様、それから妹が出迎えてくれた。
「エリーメージュ、すまないなぁ」
「気にしないで、お父様。困った時はお互い様ですから」
「疲れている所悪いのだけど、もう半日もあの子まともに食べてなくて……」
「はい、お母様。すぐ作りますね」
ほ、と顔を緩めた彼らが、次々に流石お姉ちゃんと私を褒める。曖昧に笑ってから、厨房へ向かった。
領民から貰った野菜だけで作ったスープ。今はお金もあるのだから、もっと良い物を食べればいいのに。そう思うけど、同時に頬が緩む。
作り終えて部屋に向かえば、弟が寝ていた。呼吸はもう穏やかで、少し安心する。好き嫌いが多いせいか、よく熱が続いたからだ。
弟を起こし食べさせる。
食堂に行けば、家族が待っていた。
「やあ、ありがとうエリーメージュ。助かったよ」
「お安い御用ですわ」
紅茶を飲んでいれば、お父様が口を開いた。
「それで、エリーメージュはもう帰ってしまうのかい? それとも何日間かここで過ごす?」
「そうよね、すぐ帰ってしまうなんて寂しいんだもの」
呼吸が止まった。
震える手を叱咤し、カップをソーサーに置く。
「……いいえ、すぐに帰りたいと思いますわ」
「そうかい。辛いことがあったらすぐ来なさい」
「えぇ、ありがとうお父様」
妹が私の腰に抱き着いた。
「お姉様、もう行ってしまうの?」
「ごめんなさいね」
「嫌よ……」
じんわり涙を溜める可愛い妹に後ろ髪を引かれつつ、私は帰ることにした。
いじけて部屋に籠もった妹をお母様が追い掛け、見送りはお父様だけとなった。
「では、元気でな」
「お父様も、お元気で」
馬車に乗り込む。
「……はー……」
窓に頭を預けた。固くて冷たくて、思考が透明になっていく。
どうして今朝、ディクス様の言葉は脳にこびりついたのか。その理由が分かってしまった。
『あぁ、帰るべきだろう』
彼にとって、サイラン侯爵家は私の帰るべき所ではないのだろう。だから、帰るという言葉を使った。
「……ふふ。家族にも、帰るって言われちゃったな」
私の帰る場所なんて、どこにもないのだろう。ひとたび気づいてしまえば、簡単なことだった。
胸が痛くて、仕方なかった。
◇◇◇
「只今戻りました」
出迎えには、今日も今日とて使用人しかいない。
「旦那様は、仕事に行かれました」
「そう」
ルーシェン様に挨拶でもしようかと思い向かう。その道すがら、侍女が一人立ち塞がった。白い髪が数本交じっていて、背筋は凛と伸びている。古くからサイラン侯爵家に仕えている侍女だと、一目で察せられた。
「奥様」
「あら」
彼女は……そうだ、ルーシェンの傍に控えていた侍女だ。思い出すと共に、彼女から送られる視線が好ましくないことにすぐ気がついた。
「これは老婆心としてですが」
「なにかしら」
逃げ場を作る言い方に、少し心がざわつく。いけない、平静を保たなければ。
「坊ちゃんとお嬢様を引き離すような真似は、止めていただけないでしょうか」
「引き離す、という部分が気になるのだけれど……まぁいいわ。それで、理由はなにかしら?」
――それからは、酷く退屈な時間だった。侍女は時折目元を拭いながら、サイラン侯爵家の話をペラペラ話す。
曰く、サイラン侯爵家前当主とその妻は、遺産と爵位を狙った親戚の手によって細工された馬車に乗り、事故に遭ったらしい。すぐに事実は露呈し、彼らは捕まった。
だが両親を亡くした二人の兄妹は、心に傷を負った。そこからは身を寄せ合うようにして生活し、他人が傍に侍ることを良しとしないらしい。
……そのくらい、私だって嫁ぐ前に調べた。だって家族のことだもの。
すうと顔の表情が消えていくことには気づかず、侍女はまだ話し続ける。
「ですので、奥様は無理に二人を引き離そうなどという愚行は犯さないで頂きたいのです」
「……そう。ご忠告、胸に留めておくわ」
くるりと体を返す。ルーシェン様の部屋に寄る気力は出ず、部屋に帰ることにした。
毛を逆撫でされたみたいな不快感。それがじっとりと纏わりついている。自然と早足になった。
「……なによ、他人が傍に侍ることを良しとしないって。私は他人じゃないわ。分かり合おうとするべきではないの?」
立ち止まる。広い屋敷は、人の気配を感じさせない。しんとしている。
「ディクス様は少し人間不信なのかもしれないわ。ルーシェン様も病弱だわ。けど私だって、蔑ろにされて傷つかない程、強くなどないのに……」
どこまでも、どこまでも、言葉は吸い込まれていった。
「奥様。今よろしいですか?」
部屋で本を読んでいれば、専属侍女に、扉越しに声をかけられた。入ってきた彼女に、衣装が届きましたと告げられる。
なんのことか、首を傾げてから思い当たる。半月後に、夫婦二人で出席する夜会があるのだ。夫婦としての顔見せも兼ねている。
「確認ね。すぐ行くわ」
衣装は、見事な出来栄えだった。青を基調としていて、レースがふんだんに使われている。所々にあしらわれたパールが、ドレスを艶やかに仕立てていた。
それと対になるディクス様の衣装もとても素敵で、二人で着る姿を想像し胸が弾んだ。
だが、夜会の日の早朝に、ルーシェン様が体調不良を訴えた。
「熱はあるのですか」
「触らないでよ。熱はないの、気分が悪いだけ!」
私の手を払い除け、ディクス様に甘える彼女。彼はそっと額に手を当て、熱を測っている。
祈りながら、その様子をじっと見つめた。
「……どうでしょうか、ルーシェン様の熱は」
「熱はない。だが、今日は傍にいようと思う」
「それって……」
「今日の夜会、私は行かない」
ひゅ、と呼吸が詰まった。
「で、ですが……」
「君も、一人で行くか休むか選ぶが良い」
行かなくてはいけない。けれど、私一人で行ったら? どれ程の、無神経な視線に刺されることになるのだろう。
「……ルーシェン様は、お熱がないようでしたら侍女に一任しても問題ないと思われます。ですから、一緒に行きましょうよ」
「なぜだ。ルーシェンが心配ではないのか?」
なにを言っているのだ、この人は。声を荒らげたくなって。深呼吸をしてそれを抑えた。
心がぐちゃぐちゃで纏まらない。
「……私は、貴方の何ですか」
端正な顔が僅かに傾いた。
「妻、だろう」
「そうですよね、私たちは家族です。でしたら、私のことだって大切にしてください。なぜ、他人の様な扱いを受けなければならないのです。私は貴方たちの敵ではなく、共に生きる家族です……」
止まらない。肩を震わせる。
「少しで良いから、私のことも、大切にしてください。ディクス様が、お父様とお母様、そしてルーシェン様を愛するように、私を。家族、なんですから……。蔑ろにされていると感じるのは、死ぬことと同じくらい、辛いです」
部屋の温度が、白けたように低くなった気がした。顔を上げられない。
誰もが言葉を発しなかった。ルーシェン様も、侍女も、彼も。
一気に後悔が押し寄せる。
「――家族、妻」
沈黙を破ったのは、ディクス様だった。幼子が教わった言葉をなぞるみたいに、単語を繰り返す。
すっと立ち上がった。手を取られて、顔を上げれば茶色の瞳と交わる。
「そうか、君は、私の妻なのか」
「……? え、えぇ……」
なにを改まって言うのだろう、この人は。
今度は私が困惑する番で。ディクス様がルーシェン様に向き合った。
「すまない、ルーシェン。今日は夜会に行かねばならない」
「え、なんでよお兄様。今まで、ずっと一緒にいてくれたのに!」
首をふるふると横に振った。
「エリーメージュは私の妻だ。一人で行かせる訳にはいかない」
侍女にルーシェン様を託し、彼は準備をしようと言った。
次に顔を合わせたのは、準備が終わった時だった。既に日は暮れかけている。
結婚式の日以来初めて見た正装に、心臓が高鳴った。
「では、行こうか」
「はい」
馬車に乗り込めば、ディクス様は口を閉じてそれっきり。けれど私の心は温かくて、窓の風景を眺める。
「エリーメージュ」
不意に名前を呼ばれる。
「今まで、すまなかった」
頭を下げられ、びっくりして口をぽっかり開けてしまった。数秒経って、慌てて顔を上げるように促す。
「……君にとっては酷い言い訳だ。だが、私の話を聞いてくれないか?」
「良いですよ。私、貴方の家族ですから」
そこで初めて、私は彼の優しい顔を見た。あぁ、こんな風に笑う人なんだと。今更知って面映ゆくなる。
「私は、四年前――私が十六歳、ルーシェンが五歳の時に両親を亡くした。そこからは酷かった。親身になってくれたと思った親戚に、家を乗っ取られそうになったり。その親戚に、両親を殺されたと知ったり。……本当に、疲れたんだ」
カロカロと馬車は進んでいく。ディクス様は、段々顔を俯かせていった。
「私は当時、爵位を継げる年齢に達していなかった。国王陛下に直訴し、特例で当主になることが決まるまでに、色々なことがあったんだ。そして私は、人の顔がボヤケて見えるようになっていった。ちゃんと分かるのは、ルーシェンの顔だけだ」
忙しさの波に押されて、人生が空虚になっていって。その中で唯一色付いているのは、ルーシェン様だけだった。
知らなかった心に触れて、きゅ、と痛くなった。先程の私の言葉は、彼を傷つける物だったのでは、という考えに至る。謝らなくては、そう思い声をかけようとして。
彼の穏やかな微笑に動きが止まってしまった。
「だが、エリーメージュの言葉を聞いて、ようやく世界に色が戻り始めた気がした。……いつからか、私は周りを大切にすることを忘れていた。大事なことに気づかせてくれて、感謝する」
手を取られた。
「約束する。君にあの様な想い、二度と抱かせないように尽力すると」
端正な顔立ちの彼がやると、まるで騎士の誓いのようだ。
「……嬉しいです」
そう言うだけで精一杯だった。
◇◇◇
それから、ゆっくりではあるが、ルーシェン様よりも、私を優先してくれる日が増えた。ルーシェン様を優先する時も、私の傍に寄り添い、一緒に色んな話をしてくれる。
お互い、沢山のことを知れた。最初はルーシェン様が可哀想だと言う侍女もいたが、今では温かく見守ってくれている。
だがそんな現状を許さないのは、やはりルーシェン様であった。
「ちょっと。お兄様を懐柔してどうするつもり? 今まではずっとわたしを優先してくれてたのに、最近は貴女ばっかり! 許せないわ……っ」
「今日は調子が宜しいのですか?」
「ふんっ」
顎をツンとするルーシェン様の額に、手を当てる。最初は嫌がられたが、ディクス様に言われ渋々ながら許してくれているのだ。
熱はない。
お医者様にも何度も掛け合ったそうだが、該当する病気はない健康体だそうだ。体力のなさと断じながらも、お医者様はたまの体調不良を案じていた。
「ふふっ、元気なようで良かったです。それにしても、『懐柔』だなんて難しい言葉、よく知っていますね。博識なのですね」
「……本を読むことくらいしか、やることないもの」
途端に、覇気のない声音になった。確かに、この部屋は本で満ちているけど、それだけでは窮屈だろう。
「……それでしたら、一緒に観劇にでも行きませんか?」
「え……」
私はテーブルに載せられた本を手に取った。
「この本、今舞台になっていて人気だそうですよ。ほら、この間誘いましたでしょう?」
「……あぁ、あれ」
表面上はふてぶてしい顔を保っているルーシェン様だが、微かに口の端が上がっている。
「ね、行きましょう?」
「ど、どうせその話を引き合いに出して、お兄様と出掛けたいだけでしょ! わたし、騙されないんだから!」
「たまには二人でお出掛けしましょう? きっととても楽しいですから」
顔を真っ赤にして唇をわななかせたルーシェン様は、ポツリと小さく頷いた。
「……い、良いわよ」
「ありがとうございます!」
そこでディクス様が入室する。
「何の話をしているんだ?」
「私ルーシェン様と、今度一緒にお出掛けするんです」
「それは良かった」
頷く彼に、ルーシェン様が手を伸ばした。
「お兄様、いつもみたいにぎゅっと抱き締めて!」
「あぁ」
慣れた手つきで、ディクス様が抱き寄せる。ルーシェン様が、ふふんと楽しそうに笑ったから、多分格の違いとやらを見せつけられたのだろう。
く、悔しー。ハンカチを噛むポーズをしてご機嫌取りをしていると、いつの間にかこちらに顔を向けるディクス様がいた。
澄んだ瞳で見つめられ、恥ずかしくなる。
「エリーメージュ、君もその、するか?」
ルーシェン様から体を離した彼が、手を伸ばす。目元が赤らんでいて、先程とは違う意味で恥ずかしさが込み上げた。
「良いんですか? 私、子供じゃないですけど……」
「君は私の妻だ。それ以上の理由などない」
「そうなのですね。では、お言葉に甘えて」
言葉を皮切りに、大きな体で包みこまれる。
彼の体は私より硬くて痛くて、とてもじゃないが良い抱き心地とは言えない。背を丸めたディクス様の茶髪だって、こそばゆくて堪らない。
だけどとても温かくて、悪くないなぁと味を占めてしまった。これは継続的にやってもらおう。ディクス様は責任を取るべきだ、きっとそうだ。
「……えへ」
不器用に笑うと、抱き締める力が一層強くなった気がした。
◇◇◇
観劇の日は、ルーシェン様の体調も良く楽しいお出掛けとなった。
おめかししたルーシェン様は、外に出ることもあまりないようで。馬車の窓からしきりに街を見ている。
「楽しいですか?」
「まあまあ! まあまあね! 退屈はしないかしら!」
クスクス笑えば、きまりが悪そうにまた窓に目をやった。
劇場に着けば、お城のような建物を目に焼き付け、既に興奮している。肩に手を置く。
「ゆっくり息をしてくださいな。それでは今日一日、身が持ちませんよ?」
「……大丈夫よ」
手を振り払い、劇場の中へ進んでいくルーシェン様を、私はじっと見守った。
「……凄かった」
世界がオレンジのヴェールで覆われる頃。劇場から出たルーシェン様は、夢見心地で溜息をつく。
「楽しんでいただけたなら良かったです」
「うん」
さあ帰ろうか、という所でじっと見上げられていることに気づいた。その瞳にディクス様を思い出す。
「どうかなさいましたか?」
「ねぇ。また楽しい所連れてってよね。……ふ、二人で!」
これは、心を開いてくれたということで良いのだろうか?
本心までは分からなかったが、私が手を伸ばせば繋いでくれて。今はこれだけで満たされてしまった。
それからも、何度か二人だけで出掛けた。……というよりも、独占されていると言うべきか。
私にべったり引っ付き、ディクス様にはツンとしている。彼はほんの少し寂しそうだが、同時に妹が兄離れし始めているのは良いことだと笑っていた。
あの年嵩の侍女に再度詰められた時もそうだった。
今度はお嬢様に……とぐちぐち言われていると、やって来たルーシェン様が私の腰に抱き着いたのだ。
「わたしが決めてやってることなんだから、口出しして来ないで!」
そう言って守ってくれた。その後ディクス様にまで話が行ったのか、今侍女は大人しくしている。
「ルーシェン様。この本面白いですよ」
この間、二人で国立図書館へ行った。その時に借りた本が面白く、彼女に差し出せば代わりと言わんばかりに、ルーシェン様も本を数冊差し出す。
「これも面白いわ」
「あら、では交換ですね」
お互い読み終わったら、また図書館に行きましょうね。約束をしてから、私は本を部屋に置こうと、ルーシェン様の部屋を出た。
自室の机の上に置いた所で、控えめにノックされる。
「どうぞ」
「失礼する」
ディクス様は入ってきてすぐに、私をベッドの端に座らせた。そのまま、腕を広げる。
「抱き締めても、良いだろうか?」
「えぇ、勿論です」
ぎゅう、とされて肩口に顔を埋められる。
「くすぐったいですわ」
「嫌か?」
「いいえ」
抱き締められるのはとっても好き。こんなに幸せなものだなんて、知らなかった。
暫くぎゅうぎゅうされて、頭を撫でれば、のっそりと彼が顔を上げる。
「君が、ルーシェンと仲良くなったのは喜ばしいことだと思う。だが、私は少し寂しい」
きゅーん、心臓の音が大きくなる。可愛らしい。れっきとした成人男性にそう思うのは失礼なことだとは承知しているけど、どうしてもそう思わずにはいられない。
けど、同じ可愛いでも弟妹やルーシェン様へ向ける可愛いとは微妙に違う気がして、不思議に思う。なぜだろう。とっても大好きなのに。
茶色の瞳で一心に私を映す彼をもう一撫でした。
「うふふ。そうでしたら、沢山甘やかしますね。得意なんですよ、私」
なにせ、長女ですから! ふふん、と得意気に笑った私は、浮遊感に襲われひゅっと喉を鳴らした。
すぐに柔らかい感触に背中が包まれる。目の前にディクス様の顔があって、押し倒されたのだと理解した。ぶわりと熱が駆け上る。
「あ、あの……」
「エリーメージュは、確かに得意そうだな」
つ、と頬をなぞられた。身動ぎや、息さえもできなくなる。
「ディクス様……」
「だが、どうやら私が君を甘やかしたいようだ」
眼前には、彼の顔。近づいて、そのまま――
なでりなでり。
「……へ」
間抜けな声が出てしまった。大きな手で犬を撫でるように、顔を撫でくり回されている。
優しい手つきだったが、纏められた髪は崩れていき、頬も何度も形を歪められる。
すごく、文句を言いたくなった。
「……ふふ、酷い顔だエリーメージュ」
「誰のせいですか……」
けれど、楽しそうな顔をされるとなにも言えなくなってしまい、結局はされるがままの身となった。
「良い子だ、エリーメージュ」
「それ、絶対ルーシェン様に普段言っていることでしょう?」
「すまない、適した言葉を知らないんだ」
人間極地に至るとヤケクソとなるものだ。
「こういう時はですね、可愛いとか愛しているとか――」
「なにをやっているのよ! お兄様に変なことなさらないで!」
矢のような言葉に耳を貫かれた。ディクス様を押し退け体を起こせば、顔を真っ赤にしたルーシェン様がいた。
「い、いえ……今のは私がなにかされていた側というか……」
「でも、嬉しいとか思ってたんでしょ? それなら同罪よ、同罪」
「そうなのか?」
ディクス様まで期待するような視線を送ってきて、兄妹に挟まれ逃げ場がなくなる。
うぅ、呻き声を漏らしながら諦めて頷けば、もう一度ぎゅっとされる。
「……ふーん。やっぱり嬉しそうね」
ルーシェン様は、感情の読めない瞳で私たちを映し、興味を失ったのか去っていった。
◇◇◇
「ルーシェン様、少し野原に寄っていきませんか?」
図書館からの帰り道。白詰草いっぱいの野原を見つけ、私は馬車を停めた。
ルーシェン様は無言だが、目はきらきら輝いている。
「私花冠作れるんですよ。一緒に作りませんか?」
「……良いわよ」
教えながら一緒に編む。コツを掴んだのか無心で編み出したルーシェン様の頭に、先に出来上がった花冠を載せた。
「素敵です」
にこっと笑えば、ルーシェン様は顔を俯かせた。
「これ、本当はお兄様に渡したかったでしょう? 残念ね」
「いえ、そんなことはまったく……」
「最近だってそうでしょ? わたし、貴女が本当はお兄様と出掛けたいこと知ってるの。だから、引き離すためにわざと二人で出掛けてるのよ。ふふん、残念でしたぁ。ざまぁみなさい」
一緒に観に行った観劇の台詞。それを使いながらこちらを嘲笑するルーシェン様は震えていた。
「いいえ。私が最初観劇に誘った時、三人で行く予定だったんですよ。知りませんでしたか?」
「……なにそれ。知らないわ」
編む手が止まってしまった。
「貴女とっても変だわ。わたしがこうやって虐めたら、今までのお兄様の婚約者候補は、皆逃げていったのに」
「だって私たち、家族ですもの」
手に手を重ねる。
「家族なのに急に一人ぼっちにされる想い、ルーシェン様にはして欲しくなかったんです」
「なんでよ」
「大好きだからですよ」
思慮深い子なのだと思う。だから、いつも周りに気を張っているのだろう。
「本当はとても臆病で、優しいルーシェン様が好きですよ」
「……っ」
強い風に吹き付けられ、ルーシェン様が顔を上げる。涙と金髪が、風と共に流れた。
口元は歪んで、頬を大粒の涙が伝う。雫が、作りかけの花冠を打つ。
無言の間が流れて、意を決したようにルーシェン様が口を開いた。
「わたしの、話、聞いてくれる……?」
「勿論です」
何度もしゃくり上げながら、途切れ途切れに言葉は紡がれていく。
「本当、はね……もうどこも、辛くないの。でも病弱じゃなくなったら、お兄様、わたしの傍にいなくなっちゃう気がして……。もう置いていかれるのは嫌だから。だから、ずっと、嘘ついてたの……っ」
「知っていましたよ、ずっと前から」
彼女のそれは、風邪をひいたと言った妹と一緒だった。二人きりで林檎を剥いている時打ち明けられ。泣く妹を慰めながら明日からまた頑張ろうね、と言ったことを憶えている。
「泣くことないのよ。大丈夫、大丈夫よ」
「でも、お兄様に怒られちゃうわ……」
「ディクス様はルーシェン様のことが大好きですから、喜びこそすれ、怒ったりなんかしません」
それに、もし怒られたら。
「その時は、一緒に怒られましょう? 大丈夫、絶対に傍にいますから」
赤子が母を求めるように、ルーシェン様が私の首に抱き着いた。背を撫であやす。
幸せいっぱいの、甘い香りがした。
◇◇◇
結婚してから、半年が経とうとしていた。たまには顔を出すべきだとディクス様に言われ、今日は彼と一緒に家族に会いに行く。
「いいな、わたしも行きたい。ねぇ、良いでしょお姉様?」
淑女教育も本格的に開始され、遅れを取り戻すがごとく忙しいルーシェンは家でお留守番だ。
「ごめんなさいね。今回は駄目なの」
「えぇ〜」
「代わりに、帰ってきたら一緒にクッキーを作りましょう?」
「やったぁ」
ころっと機嫌を直し、私とディクス様の頬に口づける。
「良い子で待っているように。では、行ってくる」
「行ってきますね」
「はーい、いってらっしゃい!」
エスコートされながら、馬車に横並びに座る。
腰を抱かれながらお喋りをすれば、あっという間に着く。
事前に知らせていたから、家族が全員で待ってくれていた。
「エリーメージュ、暫く会わない間になんだか顔つきが凛々しくなったか?」
「うふふ、元気にしてたかしら?」
「お姉様、わたくし綺麗なカーテシーをできるようになったの。後で見てね、絶対よ」
「姉上、抱っこしてください〜」
怒涛の勢いで話しかけられる。ディクス様は口達者ではないのかオロオロしてて、可愛くて笑ってしまう。
時刻は丁度正午で。早速ご飯を食べることにした。
「あら」
私は目を瞬かせ、弟の皿を見る。
「今までいんげんは嫌いで避けていたのに、食べれる様になったの?」
「うん。僕ももう子供じゃありませんから」
まだまだ頬がふっくらしている弟がそんなことを言い、クスクス笑ってしまう。
すかさずお母様が口を挟んだ。
「でも、つい昨日までは残していたのよ? お姉ちゃんが来るから頑張ったのね」
「まぁ……!」
バラされ恥ずかしくなったのか、弟はお母様を責めるように抱き着きに行った。弟に僅かな対抗意識を燃やす妹も駆けていく。
微笑ましく見守っていると、ディクス様が袖を引いた。
「エリーメージュも行かないのか?」
「へ、ぇ……っ」
心底不思議、と目を真ん丸くする彼に体の体温が上がった。
お父様が大きく肩を揺らす。
「サイラン侯爵様。エリーメージュはもうそんな年齢ではありませんよ。昔から、妹たちをあやす方が好きでしたし」
「エリーメージュはしっかりしたお姉ちゃんで、いつも私たちは支えられてきましたわ。……それにしても、サイラン侯爵様でも冗談を仰るのですね」
「そ、そうですよ~」
私たちに言われ、数度瞬きした後に、
「そうか」
彼はポツリと頷いた。
夜。今日は屋敷に泊まる予定の私たちは、お父様とお母様に呼び止められた。
「二人の部屋は別々の方が良いかい?」
「あ、そうですね……」
頷こうとしたが、言葉は遮られた。
「いいえ、同じ部屋でお願いします」
きっぱり断言する彼に、お父様たちが顔を赤くしながらたじろぐ。
「わ、わかりました……只今ご用意いたします」
用意された部屋で。私は彼を思わず責めてしまった。
「もう、なんであんなこと言ったのですか! 私たち、まだ一緒のベッドで寝たことなんてありませんのに!」
「別に構わないだろう。夫婦なのだから」
ベッドに腰掛け、手を広げ私を待つ彼。
葛藤してからそろりと手を伸ばせば、存外強い力で抱きすくめられる。そのまま二人でベッドに入った。
真っ暗な部屋の中、私を背中から抱き締める無骨な手を見て気を紛らわせる。
――背中、あったかいなぁ。
私のベッドは、いつも冷たかった。それなのに今日は温かくて、どこかホッとする。
「――君は、正しく姉であるんだな」
「はい?」
唐突に。
暗闇で響いた声を聞き返す。
「エリーメージュを、君の両親たちはとても頼りにしていた。それは素晴らしいことだ」
「ありがとうございます……」
嬉しい言葉だけど、一体どうしたのだろう。体を彼の方へ向ける。茶色の瞳が、目を細め私を見据えていた。
「だが、完璧でなくても良いんだ。君が愚かだった私を導いてくれたように、二人で支え合えば良い。我慢せず、して欲しいことがあったら言って欲しい」
黙って彼の言葉に耳を傾ける。
「……本当は、今日妹たちと同じように抱き締めて欲しかったのではないか?」
――一晩中、雷が鳴り響いた日があった。妹たちは震え、お母様たちの寝所へと行ったけど、私は同じように振る舞えなかった。
寒い布団の中で耳を手で押さえ、丸まって朝を待つ。本当は雷は怖かったし、二人が羨ましくて堪らなかったけど、次の日私はそんなことおくびにも出さず、お母様たちに微笑んだ。
「だって、ずっと『お姉ちゃん』だったから……」
弱さも甘えも、受け入れて貰えない気がした。我儘を言ったら、愛する家族に呆れられ、見捨てられると考えていた。妹と弟を可愛がることで、私は家族の輪から外されないように努めた。
ずっと、そう思っていた。
「初めて抱き締めた日。君が泣きそうな顔をしていた。……その理由に、今日気づいた。すまなかった」
「なんで謝るんですか……」
真っ直ぐな言葉が、透明な釘のように私を刺す。
「愛しているからだ」
「…………」
十数年、めっきり泣くことなんてなかったのに。なぜかこの人の前でなら、泣いても良い気がした。
――遅れて、これを夫婦と呼ぶのだと、気がついた。
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