二人だけの空間
昨夜の、物語のジャンル変更を賭けた死闘から一夜明け。
俺は、心身ともに疲れ果てていた。ミアはその後も何度か俺に襲いかかってきたが、チャルとリオが本を読み聞かせたり、トランプで遊んだり、ミアの注意を引いてくれた。朝食の席でも、ミアが俺の隣に座ろうとするたびに、リオとチャルが、絶妙な連携で間に割って入ってくれる。俺たちの間には、新たな防衛戦術が確立されつつあった。
「よし、そろそろ行くか…」
俺は、今日も待ち受けているであろう地獄の学園生活に、重いため息をつきながら、宿の扉へと向かった。
「圭さん? 今日は...私たちもついていきます...!」
「そうだ、その...色々と危険だからな」
今日は念のため途中までリオとチャルが送り届けてくれるらしい。それを聞いて、俺は少しだけ足が軽くなった。
そして、後ろに3人の家族を引き連れ、扉の隙間から、そっと外の様子を伺った瞬間、俺の心臓は、氷水に浸されたかのように、きゅっと縮み上がった。
宿の目の前に、一台の、あまりにも豪華で、あまりにも見覚えのある馬車が停まっていたのだ。
車体には、金細工で、エーデルシュタイン家の紋章が、これでもかと輝いている。
紛れもなく護衛任務でロゼリアが乗車していた馬車だった。
(終わった……)
俺の脳内で、絶望の二文字が点滅し、警告音が最大音量で響き渡る。
(なぜだ。なぜ、朝から俺のストーキングを…!?昨日の『モテ期地獄』が、まだ続いているというのか!)
俺は、血の気の引いた顔で、後ろの三人に振り返った。
「まずい、ロゼリアだ!裏口から行くぞ! いいな、誰も音を立てるなよ!」
俺は、特殊部隊の隊員のように、声を潜めて指示を出す。リオとチャルも、事態を察し、こくりと頷いた。
しかし、俺たちの後方で、一人だけ、全く違う反応を示している者がいた。
ミアだ。
彼女は、宿の前に停まる、きらびやかな馬車を見て、目を輝かせていた。
(わーい!かっこいい馬車!٩( ᐛ )و きっと、アタシたちを学校まで迎えに来てくれたんだ!)
彼女の、あまりにも単純で、あまりにもポジティブな思考回路は、俺たちの必死の隠密行動など、一切意に介さない。
俺が、リオとチャルと共に、抜き足差し足で裏口へと向かっている、その間に。
ミアは、一人、堂々と宿の正面玄関から出ると、ドンドンとロゼリアの馬車に近づき、馬車の扉を、何の躊躇もなく開け放った。
カチャ...!
「おじさーん!学校まで、お願いしまーす!」
「はい?」
御者が、驚いて振り返る間もなく、ミアは馬車の中にひらりと乗り込んでしまう。
「あの〜。どちら様でございましょうか...? お嬢様の命令がなければ発車は....」
御者は、主であるロゼリアの命令を待っていたが、客人の一人(と彼には見えた)が乗り込んだことで、出発の合図だと勘違いしたらしい。
「なるほど。これがロゼリアお嬢様の出発の合図でしたか...」
彼は、鞭を軽く振り、馬車をゆっくりと発進させた。
その頃、俺は。
宿の裏口、薄暗い路地裏へと、脱出を果たしていた。
「ふぅ…よし、今のうちに学校へ…これでもう大丈夫だよな...?」
俺が、安堵のため息をついた、その時だった。
路地の出口を塞ぐように、仁王立ちする、一つの影。
「——遅いですわね」
聞き覚えのある、ツンとした声。
そこに立っていたのは、制服ではなく、護衛任務の時のように上品な私服に身を包んだ、ロゼリア本人だった。彼女は、腕を組み、呆れたような、しかしどこか待ちくたびれたような顔で、俺を見つめている。
「いつまで、わたくしを待たせるおつもり? 」
彼女は、俺が裏口から逃げることなど、全てお見通しだったのだ。
俺が、その完璧な包囲網に絶望して固まっていると、ふと、背後が静かすぎることに気づいた。
「……あれ?ミアは?」
その時だった。
大通りの方から、カラコロ、と。聞き覚えのある馬車の走り去っていく音が聞こえてきた。
ロゼリアも、その音に、怪訝な顔をする。
「ミアさん?…あら、わたくしの馬車が…なぜ、行ってしまいますの?」
俺は、全てを悟った。
俺は、正面の敵から逃げるために、背後の味方を、見失っていたのだ。
俺は、怒りと期待の入り混じった目で俺を見つめるツンデレ令嬢に、裏口で完全に捕捉され。
そして、俺たちの最強戦力であるミアは、敵の馬車を、ただの送迎バスと勘違いして、一人、どこかへ連れ去られてしまった。
絶望。
俺の背後で、この地獄絵図の一部始終を見ていたリオとチャルは、何かを察したようだった。
リオが、俺にだけ聞こえるように、静かに、しかしはっきりと告げた。
「……圭。これは、お前の問題だ。俺たちは、手を出せない」
彼は、チャルの手を引くと、まるで最初からそこにいなかったかのように、静かに、そして足早に、宿の中へと姿を消した。その背中は、「幸運を祈る。達者でな」と、雄弁に語っていた。
(裏切り者ーーーっ!)
俺の心の叫びも虚しく、薄暗い路地裏には、俺と、不機嫌オーラを全開にしたロゼリアの二人だけが、取り残された。
遠くで、ミアを乗せた馬車の音が完全に聞こえなくなる。
しん、と。
気まずい沈黙が、場を支配した。
やがて、ロゼリアは、苛立ちを隠そうともせずに、俺を睨みつけた。
「……あなた。どうしてくれますの、これ」
「いや、俺に言われても……ミアに言ってくれ...」
「わたくしの馬車が、あなたの連れのせいで、どこかへ行ってしまいましたのよ!学校まで、どうするおつもり!?」
知るか!?
俺はそう叫びたかったが、目の前の少女が、俺の学園生活における生殺与奪の権を握っていることを思い出し、ぐっとこらえた。
選択肢は、一つしかない。
「…………歩いて、参りましょう...?」
俺の、敗北宣言にも似たその言葉。
こうして、俺とロゼリアの、地獄の徒歩での二人きり通学が、静かに始まった。
大通りに出た瞬間、俺は自分の判断を心の底から後悔した。
道行く人々が、俺たちを二度見し、ひそひそと噂を始める。
「あの方は...エーデルシュタイン家の!?」
「その横にいるお方は...なんだアイツ!? 変な服着てるな...成金か?」
「...まさか..恋人...!?」
無理もない。王都でも有名なエーデルシュタイン家の令嬢が、その隣には、昨日から噂の、彼女を骨抜きにしたという謎の男(フリルまみれの服着用)が、気まずい距離感で歩いているのだ。
(誰か、助けてくれ……)
俺は、内心で涙を流した。
脳内には、ロゼリアの膨大な個人情報が渦巻いている。うっかり、「そういえば、君が5歳の時に落馬したポニーは元気か?」などと口走ってしまわないように、俺は神経をすり減らし続けた。
ミアとの物理的な地獄より、ロゼリアとの精神的な地獄の方が、よほど、俺の魂を削っていく。
俺の、地獄の学園生活は、まだ始まったばかりだった。




