ロゼリアの記憶
クニ・ブンケ教授が残した、「創世聖典の全文暗記」という、あまりにも非科学的な課題。
その日から、俺の地獄の学生生活は、第二段階へと移行した。
宿の一室には、俺が持ち帰った三冊の専門書と、新たに加わった、小山のような厚さの『創世聖典』が、混沌と鎮座している。
俺は、聖典のページをめくる。だが、そこに書かれた文章は、俺の論理的な脳が、全力で受け取りを拒否した。
(ダメだ…!この創世神話、熱力学第一法則と第二法則を同時に無視している…!この英雄の系譜、統計学的にありえない確率の偏りだ…!こんな非論理的な文字列、記憶できるわけがない!)
俺が、学問的見地から聖典をこき下ろし、全く進まない暗記に頭を抱えていた、次の日の昼休みだった。
「——ふん、情けない顔をして」
ツンとした声と共に、目の前に影が差した。ロゼリアだ。
「まさか、聖典の暗記ごときで、音を上げているのではなくて?」
「……当たり前だ。これは学問じゃない、ただの苦行だぞ」
俺が吐き捨てると、ロゼリアは呆れたように、しかしどこか満足げに、小さく息をついた。
「あら、手が滑りましたわ」
彼女はそう言うと、一枚の、小さく折り畳まれた羊皮紙を、俺の机の上に「落として」いった。
「わたくしには不要なものですから、あなたがどうしようと知りませんわよ」
彼女はそれだけ言い残し、さっさと立ち去っていく。
俺は、訝しげにその羊皮紙を広げた。
そこには、美しい筆跡で、一つの術式が記されていた。
『記憶定着の補助術式』
(……暗記魔法か!)
なるほど、貴族たちはこうやって、無茶な課題をこなしているのか。ちょっとズルくない!?
俺は、一筋の光明を見出した。
宿に帰り、俺は早速、その術式を解析し始めた。
(単純な魔力パターンではないな。これは…対象の情報を魔力粒子にエンコードし、脳の海馬領域に直接書き込むタイプの魔法か?だが、この魔力流路の設計は非効率的だ。情報圧縮率が低いし、書き込み速度も遅い。俺の理論を応用すれば、もっと最適化できるはずだ…!)
俺は、ロゼリアの善意(という名のツンデレ)を、あろうことか、勝手に魔改良し始めた。
情報理論と、俺が構築しつつある『定理』を組み合わせ、術式の威力を、元の数百倍に増大させる。
そして、準備は整った。
俺は、目の前に『創世聖典』を広げ、改良した術式を刻んだ羊皮紙を手に、精神を集中させる。
(術式の提供者は、ロゼリア。対象は、聖典。よし、いくぞ!)
俺が、術式を発動させた、その瞬間。
俺の脳内に、情報の濁流が、凄まじい勢いで流れ込んできた。
(——キタ!聖典の情報だ!第一章、光の創世!第二章、神々の系譜!……あれ?)
流れ込んでくる情報が、途中から、明らかにおかしくなってきた。
(——ロゼリア・フォン・エーデルシュタイン、5歳の誕生日、初めて乗ったポニーから落馬して号泣。好きな食べ物は、イチゴのタルト。嫌いなものは、カエル。将来の夢は、王国一の大魔術師になること。昨夜、ミアに負けたのが悔しくて、寝る前に枕を5発殴った……)
「うわあああああああッッっ!?」
俺は、頭を抱えてその場に崩れ落ちた。
なんだこの情報は!?ロゼリアの個人情報だ!彼女の、どうでもいい18年の記憶が、俺の脳にダイレクトに流れ込んでくる!
どうやら、俺が術式を「改良」し、その威力を増大させすぎた結果。
術の対象が、本来の情報源である「聖典」だけでなく、術式の提供者であり、俺が強く意識してしまっていた「ロゼリア」本人にまで、拡張されてしまったらしい。
『創世聖典』の内容は、一文字も頭に入っていない。
代わりに、俺は、ライバルであるはずのツンデレ令嬢の、秘密のプロフィールを、完璧に「暗記」してしまったのだった。
俺は、これからどんな顔をして彼女に会えばいいのか、新たな絶望に、ただ打ちひしがれていた。




