夫婦喧嘩
俺たちは、息を殺して、建物の屋上へと続く最後の階段を上った。
屋上の縁に、一人のエルフが立っている。
耳は、ポチと同じように尖り、長かった。整った顔は俺の顔が相対的に生ゴミになるほど綺麗で、こっちがゴブリンにでもなった気分である。
大剣を地面に突き刺し、がっしりした手で大剣の柄を握る。その威圧は空間を歪ませるようで、背中から放たれる魔力は、今まで俺たちが対峙した誰よりも、強く、そして鋭利だった。
彼は、眼下で繰り広げられる殺戮を、まるでチェスの盤面でも眺めるかのように、冷徹な目で見下ろしていた。衛兵が魔物に切り掛かる瞬間も、市民が魔物に襲われる瞬間も。そして、俺たちが来ていた瞬間も。
ポチが、覚悟を決めて一歩前に踏み出した、その時だった。
その気配に気づき、エルフの指揮官が、ゆっくりとこちらを振り返った。
そして、その冷徹な仮面は、俺たちの家族──ポチの顔を見た瞬間、驚きと、歓喜と、そして純粋な怒りによって、粉々に砕け散った。
「……リィナ!無事だったのか!」
(...リィナ?)
俺が、その聞き慣れない名前に困惑していると、指揮官の視線が、リィナ(ポチ)が着る緑色の服と、その後ろに立つ俺たちに向けられた。
彼の瞳が、燃え盛る憎悪の色に染まる。
「…貴様らか。私の妻を…『森の槍』が誇る最高の戦士をさらい、このような…平民のような格好をさせた下等種は」
俺の脳内で、警報が、これまでで最もけたたましい音量で鳴り響いた。
(夫!?ポチの夫!?まずい、まずいまずい!これは、国際問題、いや、種族間戦争を誘発しかねないレベルの、超弩級の家庭問題だ!!!妻をペットにしてました〜って殺されるぞ!!!)
俺とリオ、チャルが、あまりの衝撃に金縛りにあったように動けなくなる。
指揮官──リィナの夫から放たれる、純粋な殺意の魔力圧が、俺たちの肌をビリビリと刺す。
これまでの比にはならないその圧に、リオでさえも恐怖の表情を顔に見せ、チャオに限ってはほとんど気絶している。肝心の俺は、ちょっと漏らした。
その、絶望的な空気の中で、ただ一人、状況を理解していない(あるいは理解することを放棄した)ミアが、動いた。
彼女は、俺たちを威圧する指揮官を「新しい敵」と認識したらしい。その額には汗が浮かび、棍棒を握る手に、ギリ、と力が込められていく。
(まずい、こいつ、殴りかかる気だ!!!俺たち全員でも勝てないぞ!!やめろ!)
俺が、ミアを止めようと声を張り上げる、その寸前だった。
「待って、ヴァレン!早まらないで!」
リィナ(ポチ)が、ヴァレンと、ミアの間に、割って入るように立った。
「リィナ?なぜ奴らを庇う!奴らは、君を…!」
「違うのです!」
リィナは、必死の形相で、この狂った数日間を、どう説明すべきか、言葉を探していた。数秒間悩み込んだ後、彼女は、一つの結論にたどり着いたようだった。
「彼らは…その…邪悪ではないのです。ただ…」
彼女は一度、俺たちを振り返り、そして、ヴァレンに向き直る。
「…理解不能なだけ。彼らは、他の人間とは違う。…ええ、全く違うのです。『特殊』なのです。おそらくは…狂っている...!」
あまりにも正直。
リィナは、自らが体験した、あまりにも理不尽な出来事を、必死に語り始めた。
捕虜にしたエルフを『ポチ』と名付けてペットにし、敵の武器を素手で握り潰す、天災のような少女。
少女の提案を合理的のように判断し、謎の輸送方法として背中に乗ろうとする狂った学者(圭)。
破壊された尊厳を必死に取り戻そうと、上着をかけてくれたり、干し肉を渡してくれた、心優しい二人(チャル、ミア)
そして、その四人組が捕虜に服を買い与えるという奇行と、プレゼントをもらった体験。
ヴァレンは、自らの妻の口から語られる、あまりにも突拍子もない報告に、その怒りの表情を、徐々に、純粋な「困惑」へと変えていった。
「狂っている、だと?リィナ、何を言っている!彼らは君を捕らえ、あまつさえ『ポチ』などという家畜の名で呼び、首輪までつけて…!」
ヴァレンの怒りは、当然収まらない。彼の視線は、今にもミアに襲いかからんとする棍棒と、その隣でオロオロしている俺たちに向けられている。
「待ってください、ヴァレン!それは、その…彼らなりの、一種の『歓迎の儀式』のようなもので…!」
リィナは金色の髪を散らしながらも必死に説明をする。言葉一つ一つに必死さと思い出が重なった。
「歓迎の儀式で首輪をつける種族がどこにいる!!!」
そんなリィナの説得も、常識的な怒りの前では火にナパーム弾を注ぐだけだった。
「...」
ミアはその様子を無言で見つめていた。が、徐々に棍棒を握る力が強まる。彼女はきっと「ペットがいじめられている」と思っているのだろう。
あたりの空気が揺れ、ミアの髪が逆立ち始める。ミアから漏れ出した魔力によって、空気中の魔素濃度がものすごい勢いで急上昇しているのだ。
(...まずい!このままではミアがキレる。俺が、俺がなんとかしなければ...!)
俺は、この絶望的な夫婦喧嘩に、第三者として、ミアが物理的解決を実行する前に、論理的かつ冷静に割って入る決意を固めた。
「失礼!エルフの指揮官殿。どうやら、相互理解に若干の齟齬が生じているようだ!!」
俺は、学者然とした態度で一歩前に出た。ミアはハッとし、棍棒を握る手が緩まる。
「まず、前提となる定義を共有したい。我々が彼女──リィナ殿を『ポチ』と呼称したのは、ペット、すなわち『愛玩動物』としての記号的意味合いにおいてであり、決して家畜としての経済的価値を意図したものではない!これは、文明レベルにおける認識論的相違に起因する、極めて遺憾な事故であると、ここに断定する!!!」
俺の、完璧なはずの論理的説明。
「...???」
しかし、ヴァレンの顔は、怒りから、純粋な「無」へと変わっていた。ヴァレンは全く内容を理解できなかったのだ。怒りで赤く染まっていた顔は萎み、真顔で圭を見つめる。
リィナは「ああ、もう!」と頭を抱えている。
「……お肉屋さんで、お肉を買うのと同じだよ?( ͡° ͜ʖ ͡°)」
その時、今まで黙っていたミアが、ぽつりと呟いた。
「は?」
ヴァレンはいきない意味のわからない主張に対し、ただ声を上げるしかなかった。目を大きく上げ、初めてスライムを触った子供のように、ミアを見つめている。
「だって、ポチは可愛かったから、ペットにしたの。お肉が美味しそうだから、買うの。一緒でしょ?」
その、あまりにも純粋で、あまりにもサイコパスな論理に、ヴァレンの思考は完全にショートしたようだった。ヴァレンは頭を抱え、話を整理し始める。俺とミア、リィナは互いに頷き、息を飲む。
そこからが、本当の地獄だった。
屋上では、眼下で燃え盛る王都をBGMに、前代未聞の大討論会が繰り広げられた。
「だから、我々の行動原理は、あなた方の常識という座標軸上には存在しない!我々は、いわば観測者によって振る舞いが変わる、シュレーディンガーの猫のような存在なのだ!」(圭)
「ヴァレン!聞いてください!この者たちは、私を解放するために、自らの全財産を投げ打ったのです!その理由は、ただ『その方が面白いから』というだけで…!」(リィナ)
「ポチは、アタシのお友達だよ!だから、戦争やめて、みんなで鬼ごっこしようよ!」(ミア)
「……(もう、どうにでもなれ)」(リオ&チャル)
怒り。
困惑。
論理。
狂気。
純粋。
諦観。
あらゆる感情と概念が、ぐちゃぐちゃに混ざり合い、一つの結論へと向かっていく。
それは、もはや対話ではなかった。互いの常識と理性を削り合う、消耗戦。
一時間半にも及ぶ、激闘だった。
魔物達はヴァレンの指令待ちで立ち往生し、衛兵たちは束の間の静寂に息を飲む。
王都の命運は気狂い一座とそのペット、たった5人の手にかかっていたのだ。
そして、ついに。
ヴァレンは、何かを諦めたように、深く、深いため息をついた。
彼は、天を仰ぎ、そして、ゆっくりと俺たちを見下ろした。
その顔から、燃え盛っていた怒りの炎は、完全に消え失せていた。
代わりにそこにあったのは、宇宙の真理に触れてしまった哲学者のような、あるいは、どうしようもない駄々っ子を前にした父親のような、底なしの疲労と、ほんの少しの呆れたような温かさだった。
「…………分かった」
彼は、絞り出すように、そう言った。
「君たちが、邪悪な存在ではないことだけは、理解した。……ただ、どうしようもなく、話が通じないだけなのだな...気狂いのように...」
その言葉は、俺たちがこの世界に来てから、最も的確で、最も本質を突いた評価だった。




