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モーゼの気分

翌朝。


俺は、昨夜の歴史的な発見と、天使による突然の死の宣告という、あまりにも濃すぎる情報量に脳を焼かれ、完全に沼地の泥のように眠っていた。


(ZZzzzzz......)


「圭さん!起きてください!遅刻しますよ!」



鼓膜を揺らすチャオの必死の声と、身体をガクガクと揺さぶられる衝撃で、俺は意識の深淵から無理やり引きずり出された。


目を開けると、そこには仁王立ちで俺を見下ろすチャルの姿があった。

手にはフライパンを持ち、まるで母親だ。


「ん……あぁ、チャルか……おはよう……あと5分……あと500秒...だけ」


「5分もありません!って500秒って私を騙そうとしているんですか??五分は360秒ですよね?ミアはとっくに準備できてますよ!!!」



チャルの言う通り、部屋の隅では、ミアが棍棒を肩に担ぎ、足をジタバタさせながら今か今かと出発を待ち構えている。俺に気がつくと顔を膨らませて睨みつけてきた。


リオは、そんな日常風景に諦めの息をつきながら、壁に寄りかかって本を読んでいた。

本の背表紙には「最強魔法三選:氷魔法編」と書かれている。


俺は急いで飛び起き、大慌で昨日と同じフリルまみれの服に着替える。

その姿は、もはや見慣れた滑稽さだ。


「よし、行くか!!!!」


俺が宿の扉に手をかけた瞬間、チャルが「待ってください!」と俺の前にスッと回り込んだ。そして、有無を言わさず、湯気が上る焼きたてのパンを俺の口に深く、深くねじ込んできた。


「アッッツ!!んぐっ!?ちょ、ちゃる!?」


「ほら、これだけでも食べていってください!!行かないと、ミアが暴れ出しますよ!」


口いっぱいにパンを頬張り、リスのように頬を膨らませながら、俺はミアに手を引かれて宿を飛び出した。


平和だ。あまりにも平和な、家族の朝。


「アッツッハフッてきま〜す...」

「行ってくるね!!٩( ᐛ )وチャオ!リオ!」


昨夜の出来事が、全て夢だったのではないかと錯覚するほどに。


しかし、一歩大通りに出た瞬間、俺はその幻想から叩き起こされた。


「....コソコソ」

「ヒッ...」

「あいつって....例の...」


道行く人々が、俺たちを見るなり、ヒッと息を呑み、蜘蛛の子を散らすように道を空ける。

俺たちが通った後では人々が集まり何かを囁いている。


その視線は、昨日までの侮蔑や好奇心とは全く違う。

純粋な、そして根源的な「恐怖」の色を帯びていた。


大学に近づくにつれ、その空気はさらに重くなる。

校舎の西棟は、巨大な獣に食い破られたかのように無残な姿を晒し、未だに焦げ臭い煙が立ち上っていた。王都騎士団の兵士たちが、現場検証のために物々しい雰囲気を醸し出している。


そして、俺たちが足早に教室の扉を開けた瞬間、その異様な雰囲気は頂点に達した。


「ガラ....」


しん、と。



教室が、水を打ったように静まり返る。


昨日まで派閥ごとに固まり、互いを牽制し合っていた生徒たちが、今はただ、まるで風邪でもひいたかのように顔を青ざめさせ、息を殺して、教室の隅に派閥関係なく固まり、俺たち二人を凝視している。


その全ての瞳に宿っているのは、同じ感情だった。


恐怖。


昨日、俺たちに喧嘩を売ってきたロゼリアでさえ、血の気の引いた顔で固まり、必死に目を逸らしている。

あの調子に乗ったドヤ顔は消え、代わりに恐怖と焦りが見て取れる。

その完璧にセットされていたはずの縦ロールの髪は、心なしかしなびて見えた。


(…これは…なるほど...前世の俺が高校を爆破して、次の日に登校した時に匹敵する...)


俺は、全てを理解した。

噂は、すでに学園中を駆け巡っているのだ。

ルート先生の実験室が消滅したと、

歴史上誰も破壊できなかった「賢者の学び舎」が半壊したと、


昨日の、大事件。


その中心にいたのが、得体の知れない新入生二人組である、と。


彼らにとって、俺たちはもはや「ちょっと変わった新入生」などではない。


いつ爆発するか分からない、歩く戦略級魔法。神話級の災害。恐怖の対象。

昨日、ロゼリアは虎の尾を踏んだのではない。

眠れる神の逆鱗に触れようとしていたのだ。




俺は、ミアの手を引き、静まり返った教室の中を、モーゼのように割れる生徒たちの間を通って、自分の席へと向かう。


(モーゼってこんな気分だったのかな...)


「「.......」」


誰も、一言も発しない。ただ、恐怖に引きつった顔が、俺たちの動きを目で追うだけ。


俺たちが席に着くと、ようやく、教室に小さなざわめきが戻った。


俺は、静かに息を吐いた。



(……なるほど。これが、『畏怖』か。居心地が、最高に悪い....これじゃ前世とそう変わりないな...)



「ガララララ」



俺とミアが席に着くと、教室の扉が優雅に開かれ、あの妖艶な美女――ソーシャ・モンスーン教授が入ってきた。あたりに香水の匂いが立ち込める。


彼女はにこやかな笑みを浮かべ、スタスタと扇子を振り回しながら教壇に立つ。


「ごきげんよう、未来の宝石の原石の皆様。昨日は大変な一日でしたわね。この学び舎が、ほんの少しだけ、模様替えをいたしました」


その、あまりにも優雅な皮肉に、教室の空気がさらに張り詰める。ロゼリアが悔しそうにハンカチを噛むのが見えた。顎の力はさぞ強いのだろう。


「ですが、これは最高の教材ですの。皆様、昨日の出来事から、私がお話しした『影響力』とは何か、お分かりになりましたか?」


モンスーン教授は、教室内をゆっくりと見渡し、そして、その扇子の先を、まっすぐに俺に向けた。


「...篠原 圭さん。あなたですわ!」


教室の全ての視線が、再び俺に針のように突き刺さる。俺は、心臓が飛び出すのを感じた。


「入学してたった一日で、千年の歴史を物理的に覆し、この教室のパワーバランスを完全に破壊する。これこそが、真の『影響力』...なんて美しいんでしょう!!」


教授は、うっとりとした表情で、言葉を続ける。


「既存の秩序に囚われず、たった一つの行動で、全ての駒を盤上から吹き飛ばす力。血筋でもなく、財産でもなく、ただ純粋な『結果』だけが、人の心を恐怖で縛り、新たな秩序を生み出す。素晴らしい!実に素晴らしいですわ!」


彼女はパチン、と扇子を閉じると、満面の笑みで俺を「絶賛」した。

しかし、それは賞賛ではなかった。

俺は、彼女の本当の意図を即座に理解した。


(この女……!俺を褒めているんじゃない。俺を、この教室という名の戦場に、新たな『駒』として、いや、『爆弾』として投下したんだ!混沌とした状況を作り出すために!!)


モンスーン教授の言葉は、教室の空気を決定的に変えた。

今まで俺たちを「得体の知れない災害」としてただ恐れていた生徒たちの目が、スッと変わったのだ。


ロゼリアをはじめとする有力貴族の子弟たちは、もはや俺を単なる恐怖の対象として見ていない。

その目には、嫉妬と、対抗心と、そして「いかにして、この危険な爆弾を利用するか、あるいは排除するか」という、冷たい計算の色が浮かんでいた。


他の生徒たちは、どの派閥につくべきか、この新しい爆弾からどう距離を取るべきか、必死に頭を巡らせている。


「どうしよう...俺あいつに嫌われてるかな....」

「....ああ....誰か....仲間に...」

「あの少女...こちらに引き込めれば.....」



教室が騒めき始める。


モンスーン教授は、自らが作り出した新たな混沌に満足したように、にこりと微笑んだ。


「さあ、皆様。この新しいゲーム、どう楽しむかは、あなた方次第ですわよ?」


俺は、知らず知らずのうちに、この教室で最も厄介で、最も注目される存在になってしまっていた。

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