天界の大喧嘩
ーー天界、第三天使課、東アジア日本部門死者転送処理係。
その一角は、今、絶対零度以下の空気に包まれていた。
「……で?結局どうだったの?」
積み上げられたSSDの山の向こうから、ヴァンが低い、地を這うような声で尋ねる。
彼女の目の下のクマは、心なしか昨日よりもさらに深くなっているように見えた。
彼女のストレスに呼応して、後ろで正座する見習い天使たちがブルブルと震えている。
「いやー、それがさ。すごかったよ、彼〜」
地上から帰還したばかりのセイルは、どこか楽しそうに、そして呑気に答えた。
「ちゃんと断られた!」
「……は???」
ヴァンの動きが、ぴたり、と止まった。
見習い天使達の震えが、止まる。室内の温度が、明らかに数度下がった。いや、空間そのものが歪んだかもしれない。
「『断られた』…?どういうこと?『死んでくれないか』っていう、こっちの温情に満ちた提案を?」
「うん。きっぱりとね。『イヤです』って!」
セイルは、まるで面白い漫談でも語るかのように、にこやかに続ける。
「そのあと、ヴァンが用意してくれた最高の妥協案も提示したんだ。『チート能力MAXで、仲間と家族に囲まれた第二の人生』っていう、喉から手が出るほど欲しいであろうオファーをね。でも、それも断られた。今の、あの地獄のような日常の方がいいんだってさ。いやー、本当に彼は最高の『気狂い』だ。物語の筋書きが、僕にも読めなくなってきたよ!」
セイルが、心からの賛辞を述べ終えた、その瞬間だった。
バッゴッッッッッ!!!
ヴァンが使っていたデスクが、凄まじい握力によって、歪な鉄塊へと姿を変えた。
あたりにSSDの金属片が飛び散る。
「………あんた、」
ヴァンは、ゆっくりと立ち上がった。その瞳には、もはや理性のかけらもない、純度10000%の怒りの炎が燃え盛っている。
「何しに行ったのよッッッッッッッ!!!!!」
その絶叫は、天界の静寂を切り裂いた。
見習い天使たちが急いで雲の隅に隠れる。
「物語の感想でも述べに行ったわけ!?こっちは神様からの催促と、山のような業務で、もう654時間寝てないのよ!それを、あんたが『初期化』に失敗したせいで、全部パーじゃない!!!どうすんのよこの責任問題はッ!!!!」
「まあまあ、落ち着けってヴァン。そんなに怒ると、また神様にセクハラメール送られちゃu」
「あんたのせいよッ!!!!」
もはや、会話は成立しない。
ヴァンは、歪んだ鉄塊を床に叩きつけると、決意を固めたように、自らのデスクの引き出しを乱暴に開けた。ファイルとハンコに埋もれた引き出しの中には光る槍が乱雑に詰められていた。
ヴァンはその槍を強引に引っ張り出し、叫ぶ。
「もういい!あんたみたいな悠長な監視役に任せたのが間違いだった!こうなったら、私が直接行く!!」
彼女は、光の翼をバッと広げ、出口へと向かう。
「あのバカ人間(圭)の頭に、直接、物理的に!『死ぬべきである』という概念を、素粒子レベルで叩き込んでくる!!!」
「待って、ヴァン!早まるな!地上への直接干渉は、最高位の違反行為だぞ!!!これで3回目だぞ!!」
セイルが慌てて彼女の前に立ちはだかる。
「いいからどきなさい!」
「ダメだ!神様にバレたら、俺たち二人とも、今度こそ『社畜天使の骨』に加工されて売られちまう!!」
「上等よ!!!あいつごとぶち倒してやるわッ!!!」
ヴァンは、セイルを200m突き飛ばして、転生ゲートへと駆け出した。
もはや、これまでか。
セイルが諦めかけたその時、彼は、ヴァンの机の上に、一枚の申請書が置かれているのに気づいた。
【有給休暇申請書】
セイルは、最後の手段とばかりに、それをひったくり、叫んだ。
「ヴァン!待て!!!!これ、どうせ神様に出すんだろ!?!?俺が代わりにハンコもらってきてやるから!だから落ち着け!俺お前より神様に嫌われてないから!!!!」
「……!」
ヴァンの足が、ぴたりと止まった。
その一瞬の隙を、セイルは見逃さなかった。
彼は、凄まじい速度でヴァンの背後に回り込むと、その細い身体を、羽交い締めにするように、がっしりと押さえつけた。
「え...ちょッ!!!離しなさい!セイル!あいつの存在を初期化する!今すぐに!!!」
「ダメだって!ほら、戻るぞ!デスクに!!980TBの仕事が君を待っているぞ!!!」
セイルは、暴れるヴァンを、まるで暴れる巨大なマグロでも引きずるかのように、ズルズルとデスクの方へと引きずっていった。
「有給!!!私の600年ぶりの有給がああああっッッッッ!!!!離せ!!!!セイルッ!!!」
「分かった!分かったから!後で俺が神様に交渉してやるから!!」
第三天使課の一室に、二人の天使の、あまりにも人間臭い悲鳴と怒号が、虚しく響き渡っていた。
ヴァンの地上への殴り込みは、寸でのところで、阻止されていたのだ。
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