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この世の真理

その夜、俺は眠れずにいた。


宿の一室は、チャルが灯した小さな魔法のランプの光で、ぼんやりと照らされている。

床に敷かれた布団からは、ミア、リオ、チャルの三人の穏やかな寝息が聞こえていた。

あまりにも平和な光景。しかし俺の頭の中は、今日一日で起きた出来事で、嵐のように荒れ狂っていた。


俺は、昼間のマス・ルート教授との議論と、その結果引き起こされた爆発を、脳内で何度も再生していた。

一枚の羊皮紙を取り出し、羽ペンを走らせる。


『P(Φ)V = M(ρ) ・ R(ψ) ・ T(λ)』


黒板に書かれた、この世界の基礎方程式。


俺が指摘したψ(プサイ)定数の矛盾。そして、それを実証したことで生まれた、石すら燃やす異常な炎。

なぜだ?


(なぜ、あんな現象が起きた?俺の知る物理法則では、絶対にありえない..のに!)


俺は、この世界に来てから観測した、数々の「ありえない現象」を羊皮紙に書き出していく。


現象A:ミアの怪力。

彼女の質量や筋組織の構造から、あの破壊力は説明不可能。作用・反作用の法則を完全に無視している。


現象B:絶対不壊の校舎。

千年間、いかなる物理的衝撃にも耐えてきた建造物。


これもおかしい。この宇宙に「絶対」などという状態は存在しないはずだ。

十分なエネルギーを与えれば、どんな物質も破壊できる。


現象C:俺の魔法。

意識して使おうとすると、気の抜けた炭酸水のように霧散する。

しかし、怒りや破壊衝動に任せて放つと、街の一角を消し炭にするほどの威力を発揮する。


「死ねぇ!」という感情(概念)が、物理的な結果に直結しているかのようだ。


三つの現象。そして、今日の爆発。


バラバラだったピースが、俺の頭の中で、一つの線を結び始めた。


(……待て。俺は、根本的に間違っていたんじゃないか?)


俺は今まで、この世界を「俺の世界とは物理法則が少しだけ違う世界」として捉えようとしていた。

だが、違う。

これは「少し違う」レベルの話じゃない。


俺の世界では、「物質」が絶対の法則として先に存在する。

論理や数学、あるいは概念といったものは、その絶対的な物理現象を後から「説明」するための道具に過ぎない。




どんなに強く念じようと、目の前の石がひとりでに消えることはない。





しかし、この世界は……?



ミアの力は、「殴りたい」という意志(概念)が、物理的な質量を無視して結果(物質の破壊)を生み出している。


賢者の校舎は、「壊れない」という定義(概念)が、物理的なエネルギーを無視して結果(不壊の状態)を維持していた。


そして、俺とルート教授の実験は、「数式上の矛盾」という論理(概念)が、エネルギー保存則という物理法則を無視して、結果(無限のエネルギー)を現実世界に引きずり出した。


そうだ。全てが、逆なんだ。


俺は、戦慄と共に、その結論にたどり着いた。


「この世界と俺の世界は、単に法則が違うんじゃない。……互いが、互いの『反例』になっているんだ」


俺の世界は、物質が概念を規定する。

この世界は、概念が物質を規定する。


だから、俺が物理学的に「正しい」魔法を使おうとしても、それはこの世界の法則に沿っていないから霧散する。


逆に、俺が感情的に「死ね」と叫んだ時、それは「死ぬ」という純粋な概念の命令として、この世界に受理され、絶大な物理現象を引き起こしたのだ。


俺は、震える手で羊皮紙に最後の一文を書き記した。


(――なるほどな。この世界で最強の魔法は、物理学じゃない。……哲学、か)


その瞬間、俺は自分が、この世界の誰も、おそらくは大賢者サイキョ・ウさえも気づいていないであろう、世界の根源的な真理の扉に、指先をかけてしまったことを悟った。


この世界は、概念が物質を規定する。ならば、俺の持つ「地球の物理法則」という異質な概念は、この世界の理を書き換える、最強の矛にも盾にもなりうるのではないか…?


俺が、一人静かに思考の海に深く沈んでいった、まさにその時だった。



チカッ、と。



部屋の隅に置かれたランプの光が、不自然に瞬いた。


最初は気のせいかと思った。


だが、次第に部屋の影が、ありえない方向に伸び縮みし始める。


壁の染みが、まるで生き物のように蠢き、空間そのものが、水面のように揺らぎ始めた。


「……なんだ、これは…?」


俺は、目の前で起きている物理法則を無視した現象に、咄嗟に身構えた。


(まさか、俺が悟ったことで真の能力が覚醒!?!?)


穏やかだったミアたちの寝息が、なぜか遠くに聞こえる。


次の瞬間、部屋の隅の空間が、ぐにゃりと歪んだ。


そこから、まばゆいばかりの光が溢れ出し、俺は思わず腕で目を覆う。

光が収まった時、そこには、一人の青年が立っていた。


月の光を編み込んだような金髪に、天使ヴァンとよく似た、しかしどこか悪戯っぽい笑みを浮かべた美貌。その背中には、幻のように揺らめく光の翼が見えた。


その青年は、俺がいることに今気づいたかのように、ぱちりと一度瞬きをすると、次の瞬間、満面の笑みを浮かべて、パチパチパチ、と盛大な拍手を始めた。


「いやはや、素晴らしい〜〜! 実に素晴らしい! ブラボー! 最高だよ、君!!」


青年は、まるで最高の芝居を観終えた観客のように、心からの喝采を俺に送っている。


「え……あ、あの……?」


俺が困惑していると、青年は楽しそうに言葉を続けた。


「まさか、転生してたった一ヶ月で、この世界の『基本文法』にたどり着くとはね! 想定外もいいところだ! 君は最高の『不穏分子』だよ、篠原圭! 君のおかげで、退屈だった物語は、僕の予想を遥かに超えて面白くなった!!!」


その言葉に、俺は全てを察した。

こいつ、ヴァンと同類だ。天界の、天使。

そして、俺の転生と、その後の人生を、ずっと「物語」として観測していた観客の一人。


青年は、満足げに一つ頷くと、ふっと、その顔から一切の笑みを消した。

先ほどまでの陽気な雰囲気は霧散し、代わりに、絶対零度の、感情の読めない瞳が、俺をまっすぐに見据える。


「君の功績は認めよう。心から感謝している。……だからこそ、だ」


天使は、静かに、そしてあまりにも事務的な口調で、こう続けた。


「物語が最高の盛り上がりを見せた、今、このタイミングで———」


彼は、にこりと、完璧な営業スマイルを浮かべた。


「悪いんだけど、死んでくれないか?」


それは、脅しでも、命令でもなかった。


まるで、「この書類にサインしてくれないか?」とでも頼むかのような、ごく自然で、あまりにも軽い、交渉の言葉だった。


俺は、そのあまりにも理不尽な提案に、声も出せずに立ち尽くす。

静かな部屋には、天使の言葉と、何も知らずに眠る家族たちの寝息だけが、虚しく響いていた。

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