もう、奴隷じゃなくていいんだよ
王都の巨大な正門をくぐった瞬間、文明の光(と、強烈な下水の臭い)が俺たちを再び出迎えた。
チャルは、村では嗅いだことのないであろう、その濃厚で暴力的な悪臭に、思わず「うっ」と声を漏らし、小さな手で鼻と口を必死に覆った。
その初々しい反応に、俺のささくれだった心がほんの少しだけ癒やされる。
俺たちは、地下室に金貨を置いてある、あの小さな宿に部屋を取った。四人が雑魚寝するには十分な広さだ。
部屋に入るなり、俺はチャルのボロボロになった服装に気がついた。
「チャル、その服じゃ酷いだろう。ミア、何か貸してやれ...!」
「うん!わかった!これ、あげる!」
ミアは、自分の荷物袋から、まだ綺麗な絹のチュニックを取り出し、チャルに差し出した。
「さあ、着替えてこい。…俺とリオは、壁の方を向いているから!!!」
(見てない見てない見てない!断じて見てない!俺は誘拐犯だが紳士だ!犯罪者だが性犯罪者ではない!神よ!天使よ!俺の潔白を証明したまえ!!!)
俺は壁に向かって不動の姿勢を取り、心の中で必死に無実を叫ぶ。
隣では、リオが深い溜息をつきながら、同じように壁に向き直った。
背後で、ミアがチャルの着替えを手伝う、衣擦れの音が聞こえる。
その数分間は、永遠よりも長く感じられた。
やがて、少し大きめのチュニックに着替えたチャルが、もじもじと俺たちの前に立つ。
その姿は、まるで怯えた小動物のようだった。
俺は、この後のことを話し合うべく、意を決して口を開いた。
「さて、チャル。…君さえよければ、俺たちが責任を持って、君を村まで送り届けようと思う。君の父親も…村長も、心配しているはずだ」
それが、俺にできる唯一の、そして最低限の償いのはずだった。
しかし、チャルは、俺の言葉に、力なく首を横に振った。
「……もう、村には、帰れません」
「え? どうしてだ?」
俺が尋ねると、彼女は俯き、自分の腕に残る擦り傷や痣を、ぎゅっと指でなぞった。その瞳には、再び涙が浮かんでいる。
「村の…決まり、なんです。目上の人に…体を『穢された』娘は、もう、家族の元には戻れないんです。…その人の…奴隷として、生きていくしか、ないんです…」
―――穢された?
その一言が、俺の脳天を鈍器で殴りつけたかのような衝撃を与えた。
視界が、ぐにゃりと歪む。
(は? 穢された? 誰が!? いつ!? 俺か!? いや俺じゃない!断じて!じゃあ、リオが…!? 俺が村長と話している間に、森の中で、まさか…!? いや、こいつがそんなことをするわけ…! だが、だとしたら一体、誰が…!?...まさかミア!?!?)
俺の思考が、パニックで白く染まっていく。
隣のリオも、息を呑んだのが分かった。彼の顔から表情が消え、その目は、チャルに同情を、そして俺に「一体、何があったんだ!?」と問うような、重い光を宿している。
その、地獄の底ような空気の中で、ミアだけが、不思議そうに首を傾げた。
「穢された? どゆこと? 怪我したってこと? いっぱいしたよね!! 崖から落ちたり、熊に追いかけられたり!( ͡° ͜ʖ ͡°)」
ミアの、あまりにも的確で、あまりにも場違いな一言。
しかし、パニックに陥った俺と、深刻な顔をするリオの耳には、その言葉は届かなかった。
俺の最低な勘違いによって生まれた地獄の空気は、ミアの純粋な(そして的確な)一言で霧散することなく、より複雑な混沌へと姿を変えていた。
俺は、この「穢された」という言葉の呪縛を解くべく、四人での緊急会議を招集した。
議題は一つ、「チャルの今後について」だ。
「いいか、チャル。その村の決まりとやらは、ここでは通用しない。俺たちは君を奴隷にするつもりはない。自由なんだ!!」
俺は、もう一度、力強く宣言した。
しかし、チャルは涙を浮かべたまま、か細く首を横に振るだけだ。
「だめ、なんです…。村の巫女様から受けた教えです。『穢れ』は魂に刻まれる印…。もう、解除は、できない…」
「魂の印だと!?非科学的なことを言うな!!!どんな契約だって、法的な手続きを踏めば無効にできるはずだ!!!!!」
俺は、前世の常識を元に熱弁する。
「よし、こうしよう。まず、俺が君の所有者として役所に届け出る。そして、その足で奴隷解放の申請をするんだ。所有者が解放を望むなら、文句はないはずだ。なあ、リオ?手順はそれで合ってるか?」
俺が同意を求めると、リオは気まずそうに視線を逸らした。
「……俺は、売買される側だった。書類の手続きは、いつも主人がやっていたから、詳しくは知らない」
「なんだと…!?」
俺の計画は、開始わずか十秒で暗礁に乗り上げた。
奴隷を解放するにも、その方法が全く分からない。
この世界には、労働基準監督署も、人権擁護団体も、おそらく存在しないのだ。
俺は、異世界のあまりの世知辛さに、その場で頭を抱えて絶望した。
コン、コン。
その時、まるでタイミングを見計らったかのように、部屋の扉が控えめにノックされた。
俺が訝しげに扉を開けると、そこには、見覚えのある、ねっとりとした笑顔を浮かべた男が立っていた。
王都に着いた初日、ミアに奴隷の子を売りつけた、あの商人だった 。
「これはこれは、お嬢様(と、そのおもちゃの方々)。王都でのご滞在、お楽しみのご様子で。実は、また新たにとびきり上等なのが入りましてね。お嬢様のような『好事家』の方にこそ、ぜひ…」
商人は、部屋の中にいるチャルを一瞥し、俺たちが新たな「コレクション」を加えたのだと解釈したらしい。その目が、いやらしく細められる。
俺は、その男の言葉を遮った。藁にもすがる思いだった。
「お前、ちょうどいいところに来た。一つ聞きたい。…奴隷を、法的に解放するには、どうすればいい?」
その質問を聞いた瞬間、商人の顔から、営業用の笑顔が消え、心底不思議そうな、怪訝な表情に変わった。
「……は? 解放、でございますか?旦那様、なぜそのようなことを? 手に入れたおもちゃは、壊れるまで使い倒すのが、この世の理でございましょう?」
「いいから!!答えろ!!!!」
俺が語気を強めると、商人は「やれやれ」と肩をすくめ、専門家として語り始めた。
「旦那様、まずご理解いただきたい。この王都で、好き好んで奴隷を解放する貴族様など、一人もおりません。つまり、奴隷解放とは『よほどの物好き』か『金の使い道に困った大富豪』の道楽なのでございますよ」
商人は、いやらしい指を一本立てる。
「故に、制度もそうなっております。奴隷一人を解放なさるには、まず国に『解放税』を納め、次にギルドに『再登録手数料』を支払い、さらには教会に『魂の契約解除の祈祷料』として、莫大な寄進が求められます。おまけに、解放された奴隷が将来問題を起こさぬよう、元ご主人様には『生涯保証金』の供託義務まで発生いたしますな」
彼は、にやりと笑った。
「このお嬢さん一人を自由にする金があれば、同じくらいの娘が、新たに二十人は買えますな。地味な話、そちらの腕っぷしの立つ少年奴隷を完全に解放なさるとなれば、小さな家が一軒は買えるほどの金貨が必要でございましょう。……もちろん、彼の所有権は、まだお嬢様がお持ちのまま、ですな?」
俺は、その言葉に、絶句した。
チャルを解放するのは、絶望的に金がかかる。
そして、今初めて知った。リオも、まだ法的には、ミアの奴隷のままなのだと。
俺の足元が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
奴隷解放という、人道的なはずの行為が、この世界では、金持ちの道楽をさらに搾取するための、悪辣なビジネスとして成立しているのだ。
俺は、新たに背負い込んでしまった、二人分の「魂の値段」の重さに、ただ、打ちひしがれた。
俺の絶望を見透かしたように、奴隷商人が、ねっとりとした笑みを深めた。
「いかがでしょう、旦那様。解放がご無理とあらば、この私めが、お二人を『買い取って』さしあげますぞ? もちろん、そちらの少年はともかく、娘御の方は少々「傷モノ」になってしまいましたが…薄利で結構でございます」
その、人間を「商品」としか見ていない、侮辱に満ちた言葉。
それが、俺の中で燻っていた最後の導火線に、火をつけた。
「…………黙れ」
俺は、地を這うような低い声で呟いた。
そして、顔を上げる。俺の目を見た商人が「ひっ」と短い悲鳴を漏らした。
「お前が、手続きをしろ」
俺は、懐から一つの、ずっしりと重い革袋を取り出した。ピシャードから受け取った、あのチューリップ市場を焼き尽くして手に入れた、莫大な富の塊だ。
俺はそれを、机の上に、叩きつけるように置いた。
ジャラリ...と重い音を立てて、袋の口から金貨と銀貨が雪崩のように溢れ出す。
「その金で、今すぐ、二人を解放しろ。手数料も、そこから好きなだけ持っていけ。ただし、一文でも足りんと言ってみろ。…その時は、お前をこの街の新しい『商品』にする」
俺の言葉に、商人の顔が、驚愕から、歓喜へ、そして純粋な強欲へと変わっていく。
彼は、目の前に積まれた金貨の山を見て、震える手でそれを数え始めた。
「は、はい!はいぃぃっ!お任せください旦那様!すぐに!すぐに解放税を!ギルドへの手数料を!教会の寄進を!」
先ほどまで机の大部分を占めていた金貨の山が、商人の「解放費用」の説明と共に、みるみるうちに小さくなっていく。
「こちらがチャル様(と、いつの間にか敬称がついている)の解放税…こちらがリオ様の契約破棄違約金…そして、こちらが私めの手数料でございます…」
金貨の山は、あっという間に消え去った。
俺の野望、俺の才覚(という名の放火)、俺の成金ライフ。
その全てが、目の前で紙切れのように消えていく。
やがて、商人は恭しく二枚の羊皮紙――奴隷解放証明書――を差し出し、机の上に残った、ほんの僅かな銀貨と銅貨の山を指差した。
「…こちらが、残金でございます。旦那様、この度は、誠にありがとうございました!」
商人は、人生最大の儲けに満面の笑みを浮かべ、意気揚々と部屋から出て行った。
後に残されたのは、静寂と、机の上の、あまりにも惨めな小銭の山。
そして、二枚の羊皮紙。
俺は、その小銭の山を見た。王都で、四人が入学式までの二週間を、なんとか食いつなげるかどうか、というギリギリの金額。
俺が夢見た、王城の購入。貴族としての悠々自適な生活。
その全てが、この瞬間に、完全に潰えた。
ぷつり、と。俺の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。




