夫婦になりました(?)
あれほど笑っていた少女だったが、火が完全に消し止められたあと、何かを察したのか、空気が変わった。母親は無言で俺を睨みつけている。さっきまでの落ち着いた雰囲気は壊れ、怒りと恨みが顔に浮かび、その顔は般若と変わらなかった。
無理もない。椅子の脚は焦がされ、鍋は煤にまみれ、家の半分が湿った煙に包まれているのだから。
このままじゃいけないし、なんとか言い訳を考えなくては。俺は沈黙を突き破り、言葉を発した。
「……あっ、えっと、ほんとすみません……少女は本当はしてなくて…実は…僕ではなく…風が(?)」
当然だが、言葉は通じない。母親はさらに顔を歪ませ、机を叩き始めた。その表情と仕草は、「出ていけ」を意味するには十分だった。
あたりはもうすっかり闇に包まれている。
包み隠さず、全力の怒り。そして少女も──怒られていた。どうやら「得体の知れない気狂い男を家に入れた責任」も問われているらしい。母親の怒鳴り声が家中に響き渡り、花瓶が割れる。
俺は親が離婚した時のことを思い出した。もっとも、原因は間違いなく高校を爆破した俺なのだが、それを当時は認められなかった。そして、苦い記憶が脳裏に浮かぶ。こんなにも他人が怒鳴り合うのは辛いのか、と。
少女は涙目で抗議していた。母親の服を引っ張りながら、必死に何かを訴えている。怒鳴り合いの喧嘩の末、何度か母親の服は破れ、少女の手には布切れが握られていた。
母親は怒鳴り疲れたのか、首を横に振り、ため息をついたあと、家の入り口を力強く指差した。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
仕方ないと思った。火を出したのは事実だし、食べ物も燃やした。言葉も通じず、家族でもない。これ以上世話になるのは、迷惑以外の何ものでもない。
「……今まで、ありがとう。助かったよ、ほんとに……さよなら…もういくからね!いっちゃうよ…!」
俺の声は空気に溶けていった。意味がなくても、伝えたくて言った。
──その時だった。
「muii(¬˛¬)!!」
少女が叫んだ。何かを決意したように。
俺が振り返る間もなく、少女は自分の小指の爪を軽く噛み、剥いだ。赤く滲んだその欠片を手のひらに取り、俺の前に差し出した。
俺は何が何だかわからず、少女の目を見る。彼女の目には決心と勇気が浮かんでいた。
少女は剥いだ爪を握りしめる。
そして──俺の口に、無理やり押し込んできた。
「力強いッ!!んぶっ!? お、おま、なに──!?」
意外にも少女の力は強く、俺は身動きが取れない。苦味と、微かに血の味がした(多分AB型の味だ)。飲み込む前に吐き出そうとしたが、少女は指で俺の口を塞ぎ、ぐいっと下顎を押し上げてきた。
(ちょ、なにこれ!?なにやらされてんの!?)
喉に硬いものが通る感覚。ごくん、と飲み込んだ瞬間、少女が深く息を吸い込み、母親を睨んだ。
「krd mu kn ht wtsn ot dkr odsnid!!( ^∀^)」
母親は、一瞬時が止まったような顔をした。顔がみるみる青くなり、唇が動いたが、声にはならなかった。鍋を持っていた手が震え、やがて目が見開かれる。
「anata nnyttn!!!!!!???? 」
叫び声は心臓が跳ね上がるほど大きかった。
鍋が床に落ち、金属が音を立てる。少女は真剣な目で立ちはだかり、叫び返す母親に向かって何かをまくし立てている。
第二ラウンドが始まった。
俺はぽかんと立ち尽くしていた。飲み込んだ爪の違和感と血の味を抱えたまま、ただ成り行きを見守るしかなかった。何を叫び合っているのか、どうして少女は母親と怒鳴り合ってくれるのか。俺には何も分からなかった。
──数十分後。
荒れた空気がようやく落ち着いた頃、母親はぐったりと椅子に座り込み、額を押さえていた。目からは涙が滲み出ている。
少女は腕を組んで立ち、誇らしげに俺の方を振り向いた。
「du krd mu dizybdy( ・∇・)」
彼女はそう言った。言葉の意味はわからなかったが、響きは確かに明るかった。
母親は小さくうめいたあと、低い声で何かを呟き、こちらを見た。
そして──諦めたように、首を横に振った。
後に俺は、この“爪を口に入れる儀式”の意味を知ることになる。
それは、魔素契約に基づいた古式の結婚認定――「**結縁**」という儀であり、爪を介して魔素を分け合った者同士は「新たな家族」として、法と神の下に夫婦とされ、家から追い出されない。爪を飲み込むのは体を一部を共有し、生涯にわたって愛し合うことの象徴だという。
という感じの、めちゃくちゃ重い行為だった。ちなみに、この詳細な事実は半年後にわかった。
しかも、一度結ばれれば解除不可能。
この時、俺は少女と家族となった。少女の夫となったのだ。言葉も通じない、名前すら知らないまま。
母親があれだけ激怒していたのは、裸の気狂い男に娘を取られたからだったのだ。
こうして、異世界の北部農村で、元・物理学者の転生者は、強制的に一人の少女の“夫”になったのである。