100倍の花
「アンタたちに、ビッグチャンスをやろう!」
男はガラスケースを指さし、挑戦的な目でミアを見た。
「このチューリップに賭けてみないかい? 今からきっかり一週間後、この花の価値が今の100倍になっていたら、アンタの勝ちだ!100倍の価値になった花はあんたたちのものだ!!」
「…え…100倍!?Σ੧(❛□❛✿)」
ミアの目が、キラリと輝いた。
単純で、スケールの大きい話。
彼女の好奇心アンテナが、ピコンと立ったのが分かった。
「待ちな」
その隣で、リオが冷たく男を制した。
「そんなうまい話があるわけがない。...負けた時の条件は?」
男は待ってましたとばかりに、下卑た笑みを浮かべた。
「もし100倍にならなかったら……その時は、そこの旦那と、そっちのガキを奴隷として俺に貰う。どうだい?そこの嬢ちゃんは何も失わない。リスクゼロのゲームだ!」
「........」
その瞬間、ミアの顔から好奇の色がすっと消えた。
彼女は何も言わない。
ただ、持っていた棍棒の柄を、ギリ、と強く握りしめただけ。
さっきまでキラキラしていた瞳が、温度のないガラス玉のように冷たく男を見据える。
路地の空気が、ずしりと重くなった。
男は、ミアから放たれる無言の圧力に「ヒッ」と喉を鳴らす。
言葉による脅しよりも遥かに雄弁な、野生動物が獲物を前にした時の、あのプレッシャー。
「……行くぞ、二人とも。こんな奴に関わるだけ時間の無駄だ」
リオが俺の袖を引く。
ミアも、棍棒で男の頭をリンゴのようにカチ割る寸前といった表情で、踵を返そうとした。
そうだ。それが正しい。それが、常識的な判断だ。
だが、俺は動かなかった。
俺は、チューリップを見ていた。
男を見ていた。そして、俺の脳内にある、この世界の不完全な物理法則と、前世の齧ったほどの経済学の知識(宝くじを当てるために)が、ある一点で結びついていた。
(馬鹿な。ありえない。こんなことが……?いや、しかし、このパターンは……!!!)
俺は、ミアとリオの制止を振り払い、一歩前に出た。
そして、確信を持って宣言した。
「乗った。その賭け、受けよう」
「えっ……圭!?」「圭!?!?」
ミアとリオの驚愕した声が重なる。
「.....おいおい、いいのかい旦那!!!」
男が面白そうに煽ってくる。
「ああ、大丈夫だ!問題ない!!」
俺はミアの方を振り返った。
そして、ありったけの自信――それは物理法則と歴史的事実への絶対的な信頼――を目に込めて、彼女に告げた。
「ミア。これは...勝てる!!!!」
俺の目を見たミアが、息を呑んだ。
彼女は、俺が何を根拠に言っているのかは分からない。
だが、彼女は俺の「目」を読み取った。いつものような破滅的な好奇心ではない。
まるで、目の前でリンゴが木から落ちるのを見るかのように、当然の結末を予見している者の目を。
それは、彼女が何度も見てきた、俺が狂気の淵で真理を掴む瞬間の目だった。
一瞬の沈黙の後、ミアの口元が、獰猛な笑みへと変わった。
「……そう。圭がそう言うなら....面白そう!!٩( ᐛ )و」
彼女は男に向き直り、ドン、と胸を張る。
「いいよ、その賭け、受けて立つ!!!一週間後、お肉と一緒に圭とリオとお家で暮らすの!!」
「ヒヒヒ、話が早くて助かるぜ!」
男の甲高い笑い声が路地に響く。
その後ろで、リオがそっと天を仰ぎ、深いため息をついた。
「ああ……終わった。この二人はもう終わりだ……」
その絶望に満ちた呟きは、これから始まる熱狂(物理)の序曲に過ぎないことを、まだ誰も知らなかった。
男と別れた後、ピシャードは「契約の証だ」と言って、例のガラスケース入りのチューリップを俺たちに押し付けた。それはずしりとまるで三人の命のように重かった。
これから一週間、俺たちの運命と、俺とリオの自由は、この一輪の花に握られることになった。
その夜、俺たちは王都の安宿に部屋を取った。
ピシャードが「手付金代わりだ」と恵んでくれた銀貨数枚のおかげだ。
もちろん、俺とリオは固い床、ミアだけがふかふかのベッドである。
◇◇
翌日。
俺はミアとリオを連れて、王都の中央広場へと向かった。
そこには巨大な掲示板があり、貴族や商人たちが血眼になって羊皮紙に書かれた、今日の取引価格を確認している。
「『王國血油裏符』、本日の終値、銀貨5枚……」
掲示板に張り出された価格を見て、俺は目眩がした。
昨日まで金貨一枚、つまり銀貨10枚の価値があったはずだ。それが、たった一日で半値になっている。
「おい、どういうことだ……計算が合わない……市場のボラティリティを考慮しても、この下落率は異常だ……しかし....週間変化は..」
俺は意味のわからない言葉をぶつぶつと呟きながら、必死に脳内で数式を組み立て直す。
「どうもこうも、最初から胡散臭かったじゃないか」
リオが、心底呆れた声で言った。
「熱狂はいつか冷める。当然の結果だ。奴隷生活に後戻りするまで、あと六日...だな」
その目は、もはや諦観の境地に達していた。
「……お肉……」
隣では、ミアがガラスケースを抱きしめたまま、魂の抜けたような顔で固まっている。
「100倍」になるはずだったお肉が、「半分」になった。
彼女の単純な脳では、この理不尽な引き算が理解できず、完全にフリーズしてしまっていた。
ーーそして、運命の賭けから二日後。
再び訪れた広場の羊皮紙が、俺たちに無慈悲な現実を叩きつけた。
「『王國血油裏符』、本日の終値、銀貨3枚……」
終わった。
一日で半値、二日で三分の一以下。
もはや暴落だ。
このままでは、一週間後には地面に落ちた野菜くずほどの価値もなくなっているだろう。
「……あ……ああ……」
俺は頭を抱え、その場にうずくまった。
焦り、というより絶望。俺の完璧だったはずの経済予測モデルは、なぜ機能しない?何が間違っていた?
大学レベルの経済学は現実では通用しないのか?
「……。」
ミアは、もはや石像のように微動だにしない。
「……はぁ」
リオの深いため息だけが、やけに大きく響いた。
その時だった。
うずくまった俺の脳裏に、一つの光景が雷のように閃いた。
ピシャードの目、チューリップの花弁の粉塵、ガラスケースの紋様、
そして、あたりで歓喜一憂する、貴族たちの歪んだ
顔、 顔、 顔。
点と点が繋がり、俺は全てを悟った。
そうだ、俺は根本的に間違っていた。
俺はこの市場を、需要と供給、あるいは合理的な期待形成に基づく「経済システム」として分析しようとしていた。だが、違う。これはそんな高尚なものじゃない。
これは、ただの「チキンレース」だ。
誰が最後まで球根を持ち続け、最後の愚か者に最高値で売りつけるか。
それだけの、単純な欲望のゲーム。
そこには論理も法則もない。
あるのは、人間の見栄と、強欲と、恐怖だけだ。
そんな不確定なもの、俺の物理学で予測できるはずがなかったのだ。
「……きっと、そうか」
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
俺の顔から、焦りの色は消えていた。
その代わりに宿っていたのは、狂気の淵に立つ者だけが持つ、凪いだような静かな確信だった。
「圭…?」
「どう..した…?」
ミアとリオが、不思議そうに俺を見る。
俺は、二人に聞こえるように、はっきりと告げた。
「問題が分かった。そして、解決策も見つけた」




