異世界の魔法
果樹の木々に囲まれた村の外れ、茅葺の屋根から煙が立つ家がぽつんとあった。
俺をここまで案内してくれたのは、俺を「陽気なヤバいやつ」として受け入れてくれた小柄な少女だ。歳は十六歳前後だろうか。明るい金髪を二つに束ねていて、顔には薄くそばかすが浮かんでいる。着ているのは麻布を縫い合わせたような実用的な服で、飾り気はない。
少女は俺の手を引くと、言葉ではなく、ジェスチャーでもなく、ただ「こっち」と言わんばかりに頷きながら、数回ほど同じ道を戻りつつ(多分方向音痴だ)、小さな木造の家にたどり着いた。
俺は言葉が一つも理解できないまま、着せられたゆるいチュニックを直し、下半身を晒しながらついていくしかなかった。
◇◇
家の中は意外にも暖かかった。
石でできた暖炉の上には鉄鍋がぶら下がっており、土間には干された薬草や木の実が吊るされている。木造の柱は、時間の重みを感じさせる古びた色をしていた。
少女は家の中に「ただいま」のような言葉を投げかける。それに答えて現れたのは、若い女性だった。肩までの髪を後ろに束ねた、落ち着いた雰囲気の人物だ。少女と目元がそっくりなことから、母親だとわかった。彼女は俺を見るなり、一瞬だけ警戒の色を浮かべたが、次の瞬間にはフッと笑った。
「snht nnd pnt htnin……?」
その言葉の意味はわからなかったが、口調は穏やかだった。続けて、彼女は俺の下半身を指先で差し、少女にパンツを差し出した。少女は俺の異様な格好に今更気づいたのか、少し顔を赤くしていた。
「あ、パンツまだ履いてなかったわ…」
顔を真っ赤にした少女に、股間にパンツを投げつけられた次の瞬間だった。
母親の指先がほんのりと赤く輝き、鍋に水滴が付く。暖炉の薪が「ぱちん」という音とともに燃え始めた。火種も火打石も使っていない。薪が乾いていたせいか、すぐに赤々と燃えはじめる。
俺は目を見開いた。
(……これが、魔法……?)
だが、派手さはなかった。光も詠唱もない。手品のように自然で、さりげない火の点火。まるで現代日本で、指先でガスコンロに火をつけるような動作だ。だが、燃焼反応が生じるには明確な**「着火エネルギー」**が必要だ。
(……この世界では、何を“火種”としている?彼女の体内エネルギー?いや、それだけじゃない。たぶん──)
**魔素**。そんな存在があるのだろう。
彼女の身体から放出された微量の魔素が、空気中の魔素を局所的に連鎖反応させたのだろう。まるで、点火剤が導火線に火をつけるように。
母親は特にそれを誇るでもなく、鉄鍋に水と野菜、干し肉らしきものを入れ、かき混ぜながら調理を続けた。少女は慣れた様子で戸棚から皿を取り出し、俺にも座るように手振りで促した。
俺はただ黙って頷き、石のベンチに腰掛けた。初めての異世界の家庭。初めて見る魔法。
けれど、それは決して**奇跡**ではなく、**日常の一部**だった。
そして、俺は気づき始めていた。この世界の**魔法**は、俺が知る現実の物理に、極めて近い理屈で動いていると。
◇◇
暖炉の火は心地よく、煮込まれる野菜の香りが部屋中に広がっていた。
母親は無駄のない手つきで鍋をかき回し、少女はそのそばで皿を並べながら、時折俺の方を振り返っては、無言でにこにこと微笑んでいた。
言葉は通じない。だが不思議と、俺の中に小さな安心が芽生えていた。
その時だった。母親が鉄製の棚から固いライ麦のパンを数切れ取り出し、細い鉄串に刺して火のそばに置いた。表面がゆっくりと焦げ色に変わっていくのを見て、うっすらとよだれがにじむのを感じた。転生してからほとんど何も口にしていなかったのだ。
(なるほど、あれがこの世界のトーストか…)
パンが温まると、母親は何か短く唱えながら指先を火に向けた。先ほどの点火とは違い、今度は火力を少し弱めるような仕草だった。「ぱちん」という音と共に炎が少しだけ縮んだ。
(なるほど、火力の調整もできるのか。いや、でも……それって、理屈としては……)
俺は思わず、目の前のパンに手を伸ばした。
「……ま、やってみるか。模倣こそ学びの第一歩、って誰か言ってたよな……」
まったく魔法が使える確証はなかった。魔素の制御方法も、詠唱の意味も知らない。
だが、俺の体には興奮の鼓動が溢れ、心臓の音と、感じたことのない感覚を感じる。
もう後戻りはできない。
俺は手をパンの上にかざし、母親がしたのと似たようなジェスチャーを試みた。
指を鳴らそうとしたが、汗で濡れた指では音が出ず、仕方なく人差し指をパンに向ける。
気が狂ったのか、転生のストレスが溜まっていたのか、それともこれが素なのか、おそらく、その全てだろう。
俺はいきなり意味のわからない暴言を口にした。
「死ねぇ!!!ライ麦パン!!!!!」
数秒、何も起こらなかった。
少女は驚愕し、母親の顔は凍りつく。部屋が一瞬で地獄の空気に変わった。
「…(え?失敗?)」
その直後だった。
**バッコッッッッッッーーーーー**
俺の手の先、ライ麦パンが一瞬で発火した。
いや、燃えたというより爆ぜた。固かったはずのパンが、まるで内部から破裂したかのように黒煙を撒き散らし、白く乾いた灰となって床に舞い落ちた。
「……!?」
少女と母親は、まるで父親が死んだ瞬間でも見たかのように、目を丸くしている。もちろん、それは俺自身が一番驚いていた。
「え? え? ちょっと、待って、今のは違……これは、その…少女が!!!」
パンがあった場所は黒焦げ。串は赤く焼け、石床にまで焦げ目がついていた。
次の瞬間、残った火が近くの木箱に燃え移り、炎が立ち上がった。煙が立ち上り始め、視界が黒く染まる。
「やっ……やばいやばいやばいやばい!!ちょっと、消化器!!!!」
母親の叫び(たぶんそう)と同時に、奇妙なことに、少女が腹を抱えて爆笑していた。椅子から転げ落ち、地面を叩きながら笑っている。目尻に涙まで浮かべながら。
どうやら、奇人同士は引かれ合うらしい。
「hhhhh antbk m9(^Д^)?」と叫んでいるのが聞こえる。
「ちょ、笑ってる場合じゃ──水! 水どこ!?H2O!!!」
消火作業は予想以上に困難を極めた。水桶は小さく、何度も20mほど離れた村の井戸を往復する必要があった。母親は魔法で火を消せるようだったが、どうやら火よりも精度が悪く、使えば使うほど天井に蒸気が充満していく。
最終的に、すべての火が鎮まるまで三時間かかった。
家の中は焦げ臭く、床の一部が黒く染まり、パンは一つ残らず灰になっていた。母親は放心した表情で椅子に座り込み、少女だけがずっと笑っていた。
俺は何度も手を合わせ、拙いジェスチャーで謝りながら、心の中でだけ呟いた。
(……記録しておこう。魔法による火の操作には、**トリガー強度の差**がある。彼女の操作はきっと体内魔素の放出を微量に留めていた。一方で、俺のは──たぶん**過剰点火**。周囲の魔素が過敏に反応して連鎖燃焼した)
メモはない。
ノートもスマホもない。
だが俺はその場で、すべてを頭に刻んだ。
少女は最後に、俺を指差してから、自分の口元を引っ張って笑顔のまねをした。
「b~k hhhhhh( ͡° ͜ʖ ͡°)」
どうやらその言葉は、この世界で「バカ」を意味するらしい。