一酸化炭素中毒
俺は、新たな決意を胸に、二人の泥だらけの子供(一人は俺の主人?)を連れて、王都の夜の街へと繰り出した。
王都の夜は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。きっと、騒動を起こす二人組がいないからだろう。
俺たちは宿の近くの安食堂で、遅い夕食にありついていた。(もう物理的な交渉は懲り懲りだ。)
言葉が通じるようになった今、俺は目の前で無心にスープをすする奴隷の子供に、ずっと気になっていたことを尋ねてみることにした。
「なあ、君。名前はなんて言うんだい?」
俺の問いかけに、子供はぴくりと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
今まで俯いていてわからなかったが、こうして見ると、その顔立ちは中性的で、人形のように整っている。長く伸びた銀髪がさらりと揺れた時、俺はようやく気づいた。
(こいつ…男だったのか...クソッ)
てっきり女の子だとばかり思っていた。
少年は俺の顔をじっと見つめ、何も答えない。
まだ俺を警戒しているのか。
俺は、ここぞとばかりに、子供を懐柔するための、ありったけの言葉を紡いでみることにした。
こう見えても大学で講義をしていたのだ。
「君がどんな事情で奴隷になったのかは聞かない!!!だが、覚えておいてくれ↑。運命なんてものは、自分の手で変えられる。希望を捨てなければ↓、いつか必ず自由になれる日が来る。だから、俺たちと一緒に行こう。新しい未来を探しに!!!」
我ながら、安っぽいがロマンチックで、オペラのようで、子供騙しには十分なセリフだったはずだ。
しかし、少年は俺の熱弁を完全に無視し、再びスープに顔を戻すと、黙々と食事を再開した。
まるで何か見てはいけないものを見たかのように。
(……だよな)
俺は、前世での苦い記憶を思い出していた。大学で初めて教壇に立った時、俺の「爆破物理学論」の講義は、必修科目のくせに、二回目にしてすでに出席率が20%を切っていた。
どうやら俺には、人の心を動かす才能が絶望的に欠けているらしい。
俺が一人で感傷に浸っていると、少年が不意にスプーンを置いた。
そして、小さな口をわずかに開け、ふぅっと短く息を吐く。
すると、彼の周囲の空間が、陽炎のようにわずかに揺らめいた。
次の瞬間、何もないはずの空間から、水滴が生まれ、集まり、小さな水の玉となって少年の口元へと吸い込まれていく。
彼はそれを、こくりと喉を鳴らして飲み干した。
ミアと俺はその様子をまじまじと見つめる。
(無詠唱で、空気中の魔素に干渉して、水蒸気を生成・凝縮させただと…!? なんて精密な魔力コントロールだ…!)
俺がその高等技術に驚愕していると、隣で見ていたミアが、ぱんと手を叩いた。
「すごい! 私もやる!( ・∇・)」
見様見真似はミアの得意技だ。
彼女は少年と同じように口を開け、体内の有り余る魔力を、無造作に、全力で周囲の空間に解き放った。
瞬間、食堂の空気が、ずしりと重くなった。
息が苦しい。めまいがする。
俺の物理学者としての脳が、この異常事態に警鐘を鳴らす。
(まずい! こいつ、魔力の使い方が根本的に違う! 水蒸気を生成するんじゃなく、空気の分子構造そのものに干渉してやがる…! 酸素分子(O₂)が、ミアの無茶苦茶な魔力で強制的に分解されて、不完全燃焼を起こしてるんだ!)
つまり、この密閉された空間で、今まさに生成されているのは――
一酸化炭素。
それも、致死量を遥かに超える、濃密な死の気体だった。
「ミア、やめろ! 今すぐ魔法を止めろ!」
俺は絶叫した。
しかし、ミアは何が悪いのか全くわかっていない様子で、きょとんとした顔でこちらを見ている。
このままでは数分も経たずに、俺たちは全員、一酸化炭素中毒で死ぬ。
前世ではシュールストレミング、今世では相方の自滅技。
俺の死因は、どうしてこうも間抜けなものばかりなんだ。
絶望が脳をよぎったその時、俺は隣に座る奴隷の少年と目があった。
彼の顔も、明らかな体調の異変に青ざめている。そうだ、こいつの魔法なら…!
「君! 聞いてくれ! 今すぐこの部屋の空気を外に出さないと、全員死ぬ!」
俺は少年の肩を掴み、必死に訴えかけた。
少年は恐怖で俺の手を振り払おうとしたが、俺の尋常ではない形相と、自らの息苦しさに、ようやく事態の深刻さを理解したようだった。
彼は無言で、しかし力強く、こくりと頷いた。
「よし…! 俺が合図したら、さっきの水の魔法を、一点に集中して、壁に向かって全力で放て! いいな!」
俺が指示を出すと、少年は一瞬、戸惑いの表情を見せた。
見ず知らずの、しかも自分を買い取った相手の指示に従うことへの抵抗だろう。
だが、意識が朦朧としていく中で、他に選択肢はないと判断したらしい。
彼は再び頷くと、両手を食堂の壁に向け、魔力を練り始めた。
「ミア! お前は俺の後ろにいろ! 絶対に動くな!」
俺はミアを背中にかばい、叫んだ。
「今だ! やれぇ!!!!犠牲は気にするな!!」
俺の合図と同時に、少年が圧縮した水蒸気の塊を壁に向かって解き放った。
それはもはや「H2O」ではなく、凄まじい圧力を伴った純粋な衝撃波だった。
ドゴォォォンッ!!
食堂の壁が、轟音と共に外側へと吹き飛んだ。
壁の破片と爆風が、夜の王都の静寂を切り裂く。
「走れ!」
壁に大穴が開いた瞬間、俺はミアと少年の腕を掴み、外の新鮮な空気に向かって転がり込むように飛び出した。
背後で、残った壁や天井がガラガラと崩れ落ちる音が聞こえ、瓦礫に押しつぶされた店主の叫び声があたりに響く。
人々が騒めき、煙が舞う。
俺たちは、自ら破壊した食堂の瓦礫の前で、むせるようにして新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
ただ、荒い息遣いだけが、俺たちの間に響いていた。
やがて、落ち着きを取り戻した俺が隣を見ると、少年がじっと俺の顔を見ていた。
その目から、以前のような殺意や敵意は消えていた。
代わりにそこにあったのは、困惑と、そしてほんのわずかな信頼のようなもの。
彼は、俺から視線を逸らすと、ぼそりと一言だけ呟いた。
「……リオ」
「え?(今更?)」
「リオ。…それが、俺の名前」
そう言うと、リオは再び口を閉ざしてしまった。もうちょっと頑張ってほしい。
それは、あまりにも不器用で、あまりにも危うい自己紹介だった。
共同で犯罪(器物損壊)を犯し、共に死線を乗り越えたことで生まれた、いびつな繋がり。
俺とリオの間に、いびつな「絆」が芽生えたその時だった。
「リオ! すごいね! さっきの、ドカーンってやつ! かっこよかった!」
沈黙を破ったのは、状況を全く理解していないミアだった。
彼女は満面の笑みでリオに駆け寄ると、その小さな体を思いっきり抱きしめた。
「えっ、ちょっ…!」
不意を突かれたリオは、ミアの腕の中でなすすべもなく固まる。
顔はみるみるうちに熟れたパプリカのように真っ赤に染まり、さっきまでのクールな表情はどこかへ消え失せていた。
だが、その感動的な(?)時間は一瞬で終わる。
「よし、行こう! 学校!」
ミアは言うが早いか、リオの腕をがっしりと掴むと、そのまま凄い力で引きずり始めた。
「うわっ!? ま、待って、どこへ…!」
リオの抗議の声も、ミアの圧倒的なパワーの前では虚しく響くだけだった。
彼女は、新しいおもちゃを手に入れた子供のように、意気揚々と瓦礫の山から歩き出す。
店主は助けを求めるが、俺には聞こえない。
(……やれやれ)
俺は、目の前で繰り広げられる新たな拉致現場(?)にため息をつきながらも、思考を切り替えた。
食堂を一つ破壊してしまった以上、ここに長居は無用だ。
それに、俺たちには次の目的がある。
「二人とも、ぐずぐずするなよ。入学式の準備があるんだからな」
俺は宿から持ち出した言語学の本(宿から盗んできた)と杖を抱え直し、二人の後を追った。
これから始まるであろう波乱万丈の学園生活を思い、俺の頭は早くも痛み始めていた。
しかし、もう後戻りはできない。