言語理解
こうして俺は、意図せずして、この社会の闇(※本人談)に片足を突っ込むことになった。
その事実に胸の奥がずしりと重く沈む一方で、当のミアはそんな俺の内心など知る由もない。
新しい「お友達(と彼女は信じて疑わない)」ができたことが、ただ嬉しいらしい。
彼女は子供の首輪に繋がれた革の手綱を、まるで散歩中の子犬を引くかのように軽やかに揺らしながら、大通りを進んでいく。
その姿は、ボロボロの服さえなければ本物の貴族様にしか見えない。
俺はというと、いつもの「荷物持ち兼影」ポジションで、その後ろをしょんぼりとついていく。
歩きながら、背中にじりじりと突き刺さる視線を感じた。
振り返れば——やはり、新入りの奴隷の子供が、殺意をたっぷり込めた眼差しで俺だけを睨みつけていた。
その瞳の鋭さは、胸を氷の刃で抉られるようで、一歩でも距離を取りたくなる。
(なんで俺だけ睨むんだよ!? 首輪付けてるのも手綱引いてるのもミアだろ!? お前が増えたせいで、こっちは余計に面倒ごとになってんだぞ!)
心の中で盛大に悪態をつくが、子供の目は一切逸れない。
この国の七、八歳児は皆こんな殺気を放つのか、それともこの子が特別なのか――できれば後者であってほしい。
そして、俺たちに向けられるのは子供の視線だけではなかった。
通りを行き交う市民たちの目も、明らかに先ほどまでとは違っていた。
田舎者への「物珍しさ」や「無関心」は消え失せ、その代わりに嫉妬、軽蔑、諦めが混ざった重苦しい視線が降り注ぐ。
平民の格好をした貴族が、新たに奴隷の子供を買い与え、玩具のように引き回している——
市民たちの目には、俺たち一行がまさに唾棄すべき権力の象徴として映っているのだ。
もちろん、そんな悪意の視線など、ミアは一片たりとも感じ取っていない。
鼻歌まじりで、のんきに宿探しを始めていた。
「圭、ここにする!( ・∇・)」
彼女が指差したのは、王都でもひときわ目を引く、三階建ての堂々たる石造りの宿屋だった。
壁面には蔦が絡み、窓枠には彫刻が施され、扉の上には金色の看板が輝いている。
……俺の財布には、埃と未練しか残っていないというのに。
(埃を伝説の物質として売りつけるか……いや、それで泊まれるわけねぇだろ!?)
覚悟を決め、宿の扉を恐る恐る押し開ける。
中は、外観に負けず劣らず整った空間で、カウンターには恰幅の良い宿の主人が腕を組み、退屈そうに壁を眺めていた。
だが、俺たちに気づいた瞬間——特にミアと視線が合った瞬間、その顔色が見る間に真っ青になっていく。
宿主の目は、ミア、俺、そして首輪をつけた子供の間を何度も行き来し……やがて何かに納得したように、小刻みに震え始めた。
「y、y、yks oidkdsmsht!ss、okh! dzkh!」
俺が一言も発する前に、異様なほど丁寧な態度で中へ案内してくる。
その声は上ずり、手は落ち着きなく動き、足取りは小走りだ。
カウンターを素通りし、一番豪奢な装飾の施された扉の前まで来ると、深々と頭を下げた。
「d、duz、kyih kchrntk btsshtsw otskikdsi! m、mchrn、odindmssumgzimsn! wrwrnyunmnに、ojusmhukroknwitdknd、tndmniktdgzimsnd!」
一方的にまくし立て、俺の手に鍵を押し付けると、そのまま踵を返し、まるで怪物から逃げるかのように走り去っていった。
(……またこのパターンか)
理不尽な厚遇にも、もはや驚きはない。
俺は深くため息をつきながら、ドアノブに手をかけた。
扉を開けると、これまで泊まったどの宿とも比べ物にならない、豪奢な空間が目の前に広がっていた。
足裏をふわりと包み込み、沈み込ませるほど分厚い絨毯。
その中央に鎮座するのは、天蓋付きの巨大なベッド――深紅の天蓋布が緩やかな曲線を描き、まるで舞台の幕のように来訪者を迎えている。
室内には香木を焚いたようなほのかな甘い香りが漂い、窓から差し込む西日が、彫刻を施されたテーブルの縁に黄金の縁取りを与えていた。
そして——壁一面を埋め尽くす巨大な本棚。
思わず足が止まる。
(……貴族の部屋だから、きっと高尚な文学でも詰まってるんだろうな)
そう予想しながら、手近な棚の中央にあった一冊を引き抜く。
革装丁の手触りは柔らかく、それでいて指先に確かな重みを残した。
恐る恐るページをめくると——そこには大きな文字と挿絵が並んでいた。
「……ん? 単語と絵? 子供用の絵本か?」
だが数ページめくるうちに、違和感が確信へと変わる。
これは……まさか、言語の解説書!?
慌てて隣の本を引き抜き、ページをパラパラとめくる。
こちらも同じく言語の構造や単語を解説する本だった。
背表紙には、こう書かれている。
『ksoukkgnggk diikkn:shkjkzknnru!』
その横には、
『jssnkzkkiwshu:outmnahn』
『kdig・mzkg・kyutsug dkdnjtn』
『hnykmhunkuzuttnshushustsngnkintsit』
——そこに並んでいたのは、想像していた高尚な詩集や戯曲などではなかった。
この世界のあらゆる言語を網羅した、専門的な学術書ばかり。
しかも、その配列は初心者向けから高度な内容まで、まるで俺のために用意されたカリキュラムのように整っている。
偶然にしては……出来すぎている。
背筋にぞわりとした感覚が走り、俺は思わず静かに天を仰いだ。
「……ついに天使が、俺に言葉を授けたか……ハハ」
豪奢な部屋の中、その笑いは小さく、それでいてどこか震えていた。
◇◇
翌朝、俺がまだベッドで昨日の出来事を反芻していると、ミアはすでに着替えを済ませ、新しい仲間——名前も知らない奴隷の子供の手を引いて、部屋の出口に立っていた。
「ki、knkt、asbnittkr!( ・∇・)」
「お、おい、どこへ——」
俺が言い終わる前に、二人は元気よく部屋を飛び出していった。
昨日あれだけ俺を睨みつけていた子供が、ミアに手を引かれてまんざらでもない顔をしているのが、なんとも言えない気持ちにさせる。まるで親子だ。
まあ、いい。
どうせ俺は、奴隷兼おもちゃ。
主人様の「遊び」に口出しする権利なんて、初めから持ち合わせていない。
……それに、これは好機だ。
一人で、好きなだけ動ける。
邪魔も監視もない、俺だけの時間。
俺はゆっくりと振り返り、壁一面に並ぶ言語学の蔵書を見据えた。
豪奢な部屋に不釣り合いなほど、無骨でぎっしりと詰められた本棚。
その全てが、今の俺にとって、この絶望の世界で見つけた唯一の「希望の光」に見えた。
言語さえ理解してしまえば――俺の無双が始まる。
この世界の理不尽な会話も、商人の嫌味も、そして政治的な地雷すらも、全て正確に読み解ける。
「よし、やるか」
手始めに選んだのは、背表紙に『ksoukkgnggk diikkn:shkjkzknnru!』とだけ書かれた一冊。
意味不明な羅列。まるで猫がキーボードを踏んだような単語に、眉間が自然と寄る。
「……なんだ、この難しすぎる単語は……」
疑心暗鬼になりながらページをめくると、意外にも中身は驚くほど体系的で論理的だった。
(なるほど……この世界の言語は、単語の核となる『語幹』は発音が保持されるが、助詞や語尾などの『活用部』の母音が欠落する。あるいは、子音だけがローマ字で表記されるのか……。だからキーワードだけ、耳で拾えたわけだ)
しかも、この本には堂々と「三日で習得可能!」と太鼓判が押されている。
元物理学者の俺にとって、言語学も論理体系の一種。
その気になれば、三日どころか二日で覚えてやる――そう本気で思っていた。
……その時までは。
結論から言うと、現実は俺の想定を粉々に粉砕した。
言語の習得は、物理法則の理解よりも遥かに困難だ。
理屈は理解できても、膨大な単語量と不規則な活用が、俺の脳のキャパをあっさりオーバーしていく。
一つ法則を覚えれば、その裏から五つの例外が這い出してくる。
三日三晩、ろくに食事も取らず、ひたすら本を読み漁ったが――完璧な理解には程遠い。
そして気づけば、ミアたちが宿に戻らないまま、一週間が経過していた。
半ばノイローゼになりながら、俺は最後の賭けに出た。
それは、全ての例文を日本語のローマ字表記に変換し、突き合わせて法則を洗い出すという、気の遠くなるような作業だった。
七日目の夜、ついに俺は閃いた。
「……そうか、逆だったのか!」
これまで、俺は異世界語そのものの法則を解明しようとしていた。
だが違う——バグの原因は、俺の脳が「日本語」を基準に翻訳をかけているせいだったのだ。
法則は驚くほどシンプルだ。
日本語の助詞や動詞の活用語尾(「てにをは」や「ですます」など)の母音が消え、子音だけがローマ字で表記される。
一方、名詞や動詞の語幹といった単語の核部分は母音が残る。
例えば、商人の言っていた「おもちゃは、少々見飽きてきた頃ではございませんか?」は、法則を適用するとこうなる。
「om(o)ch(a)h(a)、shushum(i)ak(i)t(e)k(i)t(a)g(o)r(o)d(e)h(a)g(o)z(a)im(a)s(e)nk(a)?」
これを母音を落として表記すれば、実際に商人が発した「omchh、shushumaktktgrdhgzimsnk?」と一致する。
——この瞬間、全てのピースがカチリと音を立ててはまった。
「sbrshi(素晴らしい)、tkrd、shnsnd(新鮮で)……」
俺の中で、バラバラだった文字列が一気に意味を持ち始める。
背筋にぞわりと鳥肌が走った。
その時、ガチャリと扉が開いた。
「ただいまー! 圭、お腹すいたー! 飯ーー!!٩( ᐛ )و」
……泥まみれのミアと、その隣で同じく泥だらけになり、死んだような目で息を切らす奴隷の子供が手をつないで立っていた。
「おかえり、二人とも。どこで何を――」
言いかけて、俺は息を呑む。
ミアの言葉が、頭の中で完全な「日本語」として再生されている。
もう意味不明なアルファベットは混ざらない。
「ん? 圭、どうしたの?」
小首を傾げる彼女に、俺は自然と笑みを浮かべた。
「いや……なんでもない。飯、食いに行くか」
一週間ぶりに味わう、確かなコミュニケーションの手応え。
ようやく手に入れた、この世界で生き抜くための最強の武器。
もう、誰の言葉にも惑わされない。