奴隷買っちゃいました
門番と衛兵に「特殊な事情をお持ちの貴族様とそのおもちゃ」として認識され、ある種の畏怖と憐れみが入り混じった視線を浴びながら、俺とミアはついに王都の正門をくぐった。
分厚い城門の影を抜けた瞬間、陽光が顔に降り注ぎ、思わず瞬きをする。
門の向こうに広がっていたのは、想像を遥かに超える光景だった。
「うぉ……すげぇ……」
息が自然と漏れた。
どこまでも続く石畳の大通り。
道の両脇には、緻密な彫刻が施された三階建て、四階建ての石造りの建物が整然と並び、互いに格式を競うようにそびえている。
窓にはステンドグラスが光を透かし、バルコニーには色鮮やかな花が溢れ、風に揺れていた。
空には鳥だけでなく、小型の翼を持つトカゲのような生き物が飛び交い、荷物を運んでいる姿が見える。
通りは人波で埋め尽くされ、色とりどりの衣服をまとった人々が言葉を交わし、商談し、笑い合い、怒鳴り合っている。香辛料の刺激的な香りや、甘い菓子の匂いが混ざり合い、巨大な生命体の鼓動のように空気を震わせていた。
遠くには、天を突く白亜の尖塔がそびえ、その奥に堂々と鎮座する純白の城が見える。
これだ。
これこそが俺が夢に描いていた「異世界の王都」だ。
さっきまで胸にこびりついていた屈辱や自己嫌悪が、この圧倒的な光景の前でほんの少しだけ洗い流されていくように感じた。
隣のミアも目をキラキラと輝かせ、首をぐるぐる回しながら景色を見回している。
「圭! すごい! 人、いっぱい!( ・∇・)」
その時だった。
ヒューーー...
ふいに風が向きを変えた瞬間、俺たちの鼻腔を文明の光とは無縁の、強烈な悪臭が直撃した。
「……うっ!?」
思わず顔をしかめ、鼻と口を手で覆う。
下水、生ゴミ、人いきれ、家畜の糞尿——あらゆる不快な匂いを樽に詰めて発酵させたような、濃厚で暴力的な臭気だった。
視線を落として匂いの発生源を探すと、壮麗な大通りの両脇には、申し訳程度の20cmほどの溝が掘られており、そこに家庭や商店からの汚水が淀んでいた。
緑色に濁った水面には、野菜くずや得体の知れない固形物がぷかぷかと浮かび、時折泡を立てては不快な臭いを撒き散らす。
(嘘だろ……完全に中世ヨーロッパの衛生レベルじゃねえか……!)
ファンタジー世界への淡い幻想が、強烈なアンモニア臭と共に粉々に砕け散る。
どれだけ立派な建物があろうと、足元は汚物にまみれている。
この匂いの中で人々は生まれ、育ち、暮らしているのだ。
その事実に戦慄すら覚えた。
「ミア、お前……臭くないのか?」
問いかけると、ミアは俺の顔を不思議そうに覗き込み、まるで何のことか分からない様子で通り向こうの串焼きの屋台を指差した。
「圭! あれ! おいしそう! ٩( 'ω' )و」
……どうやら彼女の嗅覚は食欲にあっさり上書きされるらしい。
俺は深くため息をついた。
ミアは興味津々で屋台へ歩み寄り、俺は慌ててその後を追う。
少なくとも周囲の目には、俺は「主人に従う奴隷兼おもちゃ」に見えているはずだ。
その時だった——俺たちの前に、一人の男がぬっと割り込んできた。
四十代半ばほどの商人風。
身なりは小綺麗だが、その目は商品の値を測るような、いやらしい光を宿している。
「krhkrh、kwrshojusm。outnhsknrsshmshtkn?…」
ミアはお世辞という言葉を理解せず、首をこてんと傾げるだけ。
その無垢な仕草が、商人の中で確信を決定的なものにしたらしい。
「iyhy、sbrshi。tkrd、ojusm。sn……ushrnhktrsshrh、shshmktktgrdhgzmsnk?」
商人は俺を一瞥し、侮蔑と値踏みを混ぜた視線を投げた。
(おい……まさか……)
男はわざとらしく声を潜め、ミアに顔を近づける。
「jtsh、tttim、shnsnd、tbkrjutunngitststndsy。ojusmnyun(kuzk)nhunks、zhgrnitdktiippndshtn」
路地の奥から、別の男が小さな子供を連れてきた。
七、八歳ほど。痩せこけ、薄汚れた服を着ているが顔立ちは整っている。
首には革製の奴隷首輪。怯えながらも、必死に反抗の光を宿した瞳でこちらを睨みつけていた。
商人はその頭を乱暴に掴み、こちらに向ける。
「grnkdsi。knmtsk! md kkrgortorz、kinrs tnshm g gzims。ko m airshk、itm skni。nnyr、mdosnind、ojusm n oknmnturn 『shtskkr』ktgknu d gzimsy? imnroyskshtokmsg、ikgdskn?」
……吐き気が込み上げた。
これが、この世界の「日常」。
奴隷が当たり前の商品として売られる世界。
俺が凍りついていると、ミアが子供をじっと見て、ぽつりと呟いた。
「ki。ank、kinntr。mg、shndni( ・∇・)...kwi( ^ω^ )」
無邪気なその一言が、胸を抉った。
彼女には、この状況の異常さが全く分かっていない。
「……行くぞ、ミア」
震える声でそう言い、ミアの手を引いて歩き出す。
背後で商人が「あっ、お嬢様!」と声を上げたが、振り返るつもりはなかった。
——はずだった。
「mtst!」
ミアはぴたりと足を止めた。
その足はまるで大地と一体化したかのように動かず、俺がどれだけ腕を引いても一ミリも揺らがない。
視線は一直線に路地の奥へ向けられていた。
怯えながらも鋭い目でこちらを睨む、あの幼い奴隷の子供に――まるで金属に釘が吸い寄せられるように釘付けになっている。
「knk、」
小さな声で、しかし確かな響きを持って、ミアはもう一度呟く。
その瞬間、商人の細い目がギラリと光った。
獲物が針に掛かったと悟った漁師のような、獰猛で下卑た光。
商人は素早く俺たちの正面に回り込み、先ほどの侮蔑的な態度を消し去ると、今度は猫なで声のような慎重な口調に切り替えた。
「ojusm、mshy…knkngkyumg…? iyhy、ssgh(kuzk)dirsshr。wkttirsshr。…msh、ojusmn**hbts**nt、tuknmiwobetitdkrb…knkh、sn**ghr**nshutsht…」
hbts? ghr?
頭の中で意味のわからない単語が暴れ回る。
転生してから一度も言語を学んだことのない俺に、その意味を理解することは全くできなかった。
俺が混乱していると、ミアが俺の袖をくいっと引っ張り、小さな顎で子供を指差す。
「ki。hshi( ・∇・) ktst」
もしかして...買えってことか!?
純真無垢すぎて残酷なその考察が、鼓膜を突き抜ける。
奴隷だぞ! 人なんだぞ!! 買うなんて――そんなことできるわけがない!
俺は思わず頭を抱えそうになり、小声で怒鳴る。
「おい、なんて答えるんだ!? いらないって言え!!!!!」
しかし、ミアは俺の声をまるで聞いていない。
そのまま商人に向き直り、こくりと力強く頷いた。
瞬間、商人の顔が歓喜で弾ける。
彼は大げさに手を叩き、まるで長年の願いが叶ったかのように恭しく子供の手綱を差し出してきた。
「argtugzims! ojusm! kngonhshugiwsrmsn!」
……は?
なんでタダで? 金を要求しないのか?
脳裏で浮かび上がるキーワード——『hbts』、『ghr』、『mia』。
金銭ではなく、もっと大きな、もっと面倒くさい見返り。
(……まさか、これって……なんかやばいやつ!? 全くわからないけど、これやばくね!?)
俺の想像は暴走し、勝手に絶望へと落ち込んでいく。
ミアの手には、子供の首輪につながる革の手綱が握られていた。
彼女はそれを新品のぬいぐるみでも眺めるように嬉しそうに見つめ、当然のように俺へ差し出す。
……おもちゃの世話は、おもちゃがするらしい。
(俺がこいつの世話を……? 奴隷が奴隷の世話を……?)
あまりのシュールさに思考が固まった、その刹那だった。
子供は、ミアと俺の間で宙に浮いた手綱を一瞬で奪い取る。
野生の獣のような俊敏さで、くるりと身を翻し、人混みの中へ駆け出した。
その引きの力は驚くほど強く、不意を突かれた俺は前のめりによろめく。
(こいつ……俺より普通に力が強い……!)
「ats! oi、mchygr!」
商人の慌てた声が背後から響く。
「まずい! ミア、捕まえてくれ!」
俺が叫ぶより早く、ミアは動いた。
焦りは一切ない。むしろ口元に、獲物を見つけた猫のような、獰猛で楽しげな笑みを浮かべている。
「ahts、ongkk?( ・∇・)」
次の瞬間——ミアの姿が、視界から消えた。
いや、消えたのではない。
石畳をトン、と軽く蹴っただけで、その身体は矢のように射出されていた。
人波の間を縫うように滑るように走り、串焼き屋台の屋根を軽やかに飛び移る。
視線を向けた人々が驚きで口を開ける中、一直線に子供へ迫っていく。
必死に逃げる子供。
小さな身体で人混みをかき分けるが、背後の「鬼」は別格だった。
「tskmetts!( ^∀^)」
あっという間に追いついたミアは、子供をひょいと抱え上げる。
子供は何が起きたのか理解できず、目を白黒させている。
恐怖で逃げ出したはずなのに、目の前の女は満面の笑みでニヤニヤしている。
理解が追いつかず、恐怖が一瞬で困惑に変わり、つられて口元に小さな笑みが浮かんだ。
「iyhy! omgtds、ojusm!」
商人が息を切らせながらミアを絶賛する。
俺は肩で息をしながら、その光景を眺めた。
楽しそうに笑うミア。
抱きかかえられ、困惑しながらも笑い声を漏らす子供。
それを満足そうに見守る人買いの商人。
……まるで微笑ましい「鬼ごっこ」のワンシーンのようだ。
これが、自由を賭けた決死の逃走劇だったと理解しているのは、この場で俺ひとりだけだった。
(……こいつら、全員、頭おかしい……)