合格証
衛兵たちに護衛されながら馬に揺られること半日。
街道の先、かすかな白い影が陽炎の向こうに現れ、それが近づくにつれ、地平線を完全に覆う巨大な壁だとわかった。
その存在感は、まるで世界の果てを切り取ったかのようだ。
白亜の城壁がどこまでも続き、石積みの一つひとつが陽光を反射して輝いている。
中央には、天を突くような巨大な城門がそびえ立ち、分厚い扉には複雑な紋章と金属装飾が施されていた。
門前では荷馬車や旅人が列をなし、商人たちの呼び声や家畜の鳴き声が入り混じっている。
——あれが、王都か。
罪悪感で炭化していたはずの心が、この圧倒的な文明の光景を前にわずかに高揚する。
俺の計画は完璧だった。悲劇の生存者を演じきり、こうして王都までVIP待遇で送り届けられている。
もう大丈夫だ。ここからやり直せる。何もかも。
正門前に着くと、槍を交差させた門番たちが、俺たちの行く手を阻んだ。
磨き込まれた鎧が太陽光を反射し、顔を半分隠す兜の下から鋭い視線が覗く。
護衛の衛兵隊長が前に出て、腹の底から響く声で事情を説明した。
「outjnkieihid! gbrnnshugkwuktshutinsiznshwhgsh、kkmdgsushtkt!」
門番は衛兵隊長の顔と記章を確認すると、表情をわずかに緩め、哀れむような目で敬礼し、道を開ける。
しかし、俺たちをじっと見て、職務に忠実な口調で告げた。
「ご苦労。して、そちらのお二方。身分を証明する物をご提示願いたい」
来たか。だが、想定内だ。
衛兵隊長が一歩前に出て、俺を庇うように言葉を重ねる。
「この者たちは襲撃で荷物をすべて焼失している。身分証もない気の毒な被害者なのだ。私が保証する」
門番が困った表情を浮かべ、周囲に一瞬の沈黙が流れる。
その瞬間を、俺は待っていた。
「あ、あの……!」
場違いなほど大きな声で、全員の注意を自分に集める。
門番が眉を寄せ、困惑の色を見せた。
「これだけは……これだけは、奇跡的に燃えずに残っていて……」
懐から取り出したのは、一枚の羊皮紙。
ゴブリンの襲撃で失われたはずの「ourtssugumjtsdigk」の合格通知書だ。
俺は自分に汚れを擦り付ける際、この紙だけは絶対に汚さないよう、細心の注意を払っていた。
これさえあれば、悲劇の生存者から一転、未来ある魔術大学の学生として、この王都で新生活を始められる。
まさに起死回生の一手。
門番は両手で羊皮紙を受け取り、光に透かすようにしてまじまじと眺め、そして驚きの声を上げた。
「oo! krhmsshk、ourtssugumjtsdigkngukkshu! krhdnhgknmmiwrngr、kdnnyunwkksinugbjdttth、msshkmgmngkg!」
門番も衛兵隊長も、感心したように俺を見ている。
そうだ、もっと褒めてくれ。あと10分は。
門番は咳払いをひとつすると、合格証に記された名前を誇らしげに読み上げた。
「——gukksh、*mia*。……sht、schrnshujgmadndskn?」
「ミ...ア...?」
俺の思考が、プツリと音を立てて停止した。
時間が止まる。
門番の視線は、俺の隣にいる少女——ミアに注がれている。
衛兵隊長の慈愛に満ちた眼差しも——ミアに向けられていた。
当のミア本人は、何が起きているのか分からず、ただキョトンと大きな瞳を瞬かせているだけだ。
石造りの巨大な門の下、通行人たちが足を止め、何事かとこちらを見ている。
場の空気が、肌に刺さるほどの静けさを帯びていた。
ミアはなんとか状況を打開しようと俺を見つめるが、何も起きない。何も出ないぞ。
(なんだ? 今、なんて言った? ミア?)
俺の名前は、篠原圭だ。←重要
脳が、猛烈な速度で再起動する。
今まで無視してきた数々の矛盾が、一気に噴き出してきた。
(待て待て待て待て待て!!)
(そういえば、あの試験の申し込み、全部ミアがやったじゃないか!)
(俺は言葉がわからないから、自分の名前すら書いていない!)
(だいたい、異世界に来て次の日に受けた試験だぞ!? 俺の顔と名前を大学の誰がどうやって認識して、こんな立派な金粉だらけの合格証に印刷できるんだ!?)
(つまり、あの試験は元々ミアが受けるはずだったもので、俺はただついて行っただけ。そして、合格したのは——)
冷や汗が背中を滝のように流れ落ちた。
合格したのは、俺じゃない。
ミアだ。
「sht、mia。kchrnkth、antntskbtknnkdskn?」
門番が、怪訝そうな顔で俺を見てくる。
周囲の衛兵も、興味深そうに視線を寄せてきた。
門番の無慈悲な問いかけが、俺の鼓膜を突き刺す。
付き人? 違う。俺は夫だ。
いや、それ以前に俺は大量虐殺犯で、今まさにその罪を隠蔽している真っ最中だった。
何から説明すればいい? いや、何も説明できない。
思考は完全にショートしていた。
俺が冷や汗を流して固まっていると、隣でずっとキョトンとしていたミアが、俺の窮地を察したらしい。
意を決したように、小さな口を開く。
「ch、chgu! knnnh、wtshn……sn……( ; ; )」
そうだ、言え! ミア! 俺は君の夫だろう! 俺たちはあの村で「結縁」を交わした仲じゃないか!
ミアは必死に言葉を続けようとする。だが、その顔はみるみるうちに蒸気が出そうなほど真っ赤に染まっていく。
「w、wtshn……o...(〃ω〃)…」
o?
夫(otto)か? それとも、お兄ちゃん(oniichan)のつもりか? どっちだ!?
どっちにしろ、なんとかしてくれ! もう代わりに俺が言おうか!?!?
「…………o……(≧∀≦)」
しかし、彼女の勇気はそこまでだった。
ミアは「o」の一文字を発したきり、ぷしゅー、と音を立てて頭から煙を出すと、完全に俯いてしまった。
ダメだこいつ、肝心なところで恥じらいが勝ってやがる!
万事休す。俺が次の言い訳——
例えば「俺はミアの遠い親戚の叔父の伝説の息子の従兄弟の親戚のひ孫で、たまたま居合わせただけだ」みたいな苦しすぎる嘘——を考え始めた、その時だった。
甲高く、人を小馬鹿にしたような声が、突如として場に割り込んできた。
「arar、mnbnsn。snnmsbrshiktchwijmt、knshnshniwne」
声の方を見ると、いつの間にか停まっていた豪華な馬車から、羽のついた扇子を揺らしながら、やけに派手な化粧をした貴婦人が降りてきた。
その髪には巨大な櫛がアクセサリーのように突き刺さっており、陽光を受けてきらりと光っている。
裾の長いドレスが石畳を擦り、取り巻きの侍女たちが慌ただしくその後ろに続く。
周囲の人々がざわめき、門番たちは慌てて背筋を伸ばした。
——明らかに、本物の貴族だ。
貴婦人は、俺たち——特にミアを一瞥すると、ゆっくりと扇子で口元を隠し、くすくすと嫌味な笑みを浮かべた。
日差しを反射する絹のドレスが揺れ、香水の甘い香りが風に乗って漂ってくる。
「snkmmnzkne。wzwzhimnnkkkuwsht、knnktnrshi**omch**wtsrmwsnnt。yhdnkuzknnkshr、kydinmrykgmrdtrkrkzkdttbrbry?」
その声音は柔らかいのに、内容は毒そのものだった。
彼女の視線がなぞるように俺を上下し、そのたびに背筋がぞわりと粟立つ。
そして、完全に固まっている門番へ、軽く肩をすくめながら言い放つ。
「nnn *omch* nkchwtsktr、dmjni~」
……omch...omocha...おもちゃ?
俺の頭の中で、何かがパキンと砕け散った音がした。
確かにミアの魔力は、周囲の空気を歪ませるほどの異質さがある。
だが、それを「貴族特有のもの」だとは考えたことがなかった。
それとも、本当にミアは突然変異の化け物なのか……?
しかし、その一言が決定打だった。
門番と衛兵たちの脳内で、点と点だった情報が、最悪の形で一本の線に繋がってしまったのだ。
(この少女……ゴブリン襲撃の被害者じゃなくて、平民のフリをしてる貴族様なのか!?)
↓
(じゃあ、隣の男は……奴隷? しかも“おもちゃ”!?)
↓
(うわぁ……悪趣味だ…。わざわざ奴隷をボロボロにして連れ回すなんて、頭のおかしい特殊性癖の貴族様に違いない…!)
↓
(だから魔術大学にも合格できたのか…。まあ、貴族様なら金やら才能でどうとでも…)
——ガシャン。
彼らの頭の中で、そんな音が聞こえた気がした。
俺を見る目は「悲劇の生存者」から「貴族の哀れなおもちゃ」へと完全に切り替わっている。
同情は消え、代わりに侮蔑と恐怖が入り混じった、腫れ物を扱うような視線だけが残った。
俺の立場は、「付き人(仮)」から「奴隷兼おもちゃ」へと見事なランクダウンを果たす。
だが、しかし……これで門は通れる……のか? 俺の尊厳と引き換えに!?
門番は、乱入してきた貴婦人と、新たに「悪趣味なヤベー貴族」と認定されたミアを前に、顔面蒼白になっていた。
硬い石畳に片膝をつき、深々と頭を下げる。
「m、mushwkgzimsn! 『tksh』n gjju mshrz、tihnngbriw! duz、duzoturkdsi!」
こうして俺は、「奴隷兼おもちゃ」という新たな身分(?)を背負い、ミアは「悪趣味な貴族様」と盛大に誤解されたまま、王都へと足を踏み入れることになった。
……俺の人生、一体どこに向かってるんだ……。