乙女モード
王都までの旅路も三日を過ぎた頃。
街道が緩やかな丘陵地帯に差しかかり、馬車の揺れが心地よい子守唄のように感じられ始めた、まさにその時――。
「——tksh! gbrn!!」
先頭を走っていた傭兵の絶叫が、午後の気怠い空気を切り裂いた。
ガタガタと音を立てて馬車が急停止する。
俺は弾かれるように目を覚まし、窓の外へ視線を向けた。
そこにいたのは、物語でよく聞く無秩序な怪物とはまるで違う姿だった。
街道の前後を、十五体ほどの緑の人型の魔物——ゴブリンが統率の取れた動きで塞いでいる。
錆びついてはいるが揃いの胸当てを身につけ、短い槍と粗末な盾を構え、整然と陣形を組んでいた。
後方には弓を持った数体がいて、的確に馬を狙い、すでに護衛の傭兵数人が馬から引きずり下ろされている。
(嘘だろ……なんだよこいつら。ほとんど人間の兵隊じゃねえか!)
それは、そこらの人間の盗賊団よりもよほど訓練された「兵隊」だった。
心臓が氷水で満たされたような感覚に陥り、思考が真っ白になる。――死ぬ! 殺される!
「ひっ……!」
俺は無意識のうちに、隣のミアの腕にしがみついていた。
彼女の小さな体温が、かろうじて俺の理性をつなぎ止める。
そうだ、ミアがいる。
この怪力少女がいれば、ゴブリンなんて一捻りだ!
「ミ、ミア! ゴブリン! ゴブリンだぞ!? こいつら置いて、早く逃げよう!」
恐怖で焦点が合わないまま、助けを求めてミアの顔を見上げる。
しかし、返ってきた反応は予想を大きく裏切るものだった。
「…………え、あ……う、うん……エヘへ……」
ミアは槍を構えるゴブリンではなく、俺の顔をじっと見つめていた。
その頬はみるみる真っ赤に染まり、視線は泳ぎ、か細い声が漏れる。
原因はわかっていた。
パニックのあまり、俺が力いっぱい彼女にしがみついていたのだ。
ミアにとって、ゴブリンの襲撃という生命の危機は、俺からの突然の密着という想定外の出来事に完全に上書きされてしまったらしい。
「ミア!? なんで!? 戦ってくれ! 俺の最強の嫁だろ!?」
「ふゃ、ひゃい……!」
情けない悲鳴のような返事をしながら、ミアはもじもじと身をよじるばかりで、愛用の棍棒を握ろうともしない。
完全に乙女モードに入ってしまっている。
その間にも、ゴブリンの包囲はじわじわと狭まっていく。
傭兵たちの怒号と悲鳴が飛び交い、剣と槍のぶつかる金属音が響く。
俺たちの乗っていた馬車は完全に立ち往生していた。
「だ、だめだこりゃ……!」
最強戦力が、まさかの機能停止。
「ミア!!! 動け、動け、動けーーー!!! 動けって!!!」
俺の絶望的な叫びも、ミアの耳には届いていないようだった。
彼女は俺の胸に顔をうずめ、小刻みに震えている。それは恐怖ではなく、極度の緊張と羞恥からくる震えだと、しがみついている俺には嫌でも伝わってきた。
外では、戦況が目まぐるしく変わっていた。
「uooo! knkmndmg!」
野太い声が、俺たちの乗る馬車の御者台から響く。
彼は手綱を片手に、もう一方で鞭を巧みに操り、馬車に近づくゴブリンの顔を的確に打ち据えていた。
「dinti、mwrkm! ymhiwtsbs!」
護衛の傭兵たちも、当初の混乱から立ち直っていた。
互いに声を掛け合い、数で勝るゴブリンの陣形を崩そうと必死に剣を振るう。
さらに予想外の戦力が加わった。
俺たちの前を走っていた別の商人たちが、積み荷を守るために応戦を始めたのだ。
屈強な男たちが荷馬車から鉄の棒や斧を持ち出し、傭兵に加勢する。
金属音が響き、ゴブリンの断末魔が上がる。
怒号、剣戟の音、悲鳴――馬車の中は、まるで地獄の釜の底にいるかのような喧騒に包まれていた。
だが、その地獄の特等席で、俺とミアは……。
「…………(ヤバいヤバいヤバいヤバい)」
「…えへへ……ぐへへ……」
ただ固く抱き合っていた。
俺は恐怖で、ミアは羞恥で。
二人そろって完全に戦力外だった。
俺の頭の中では、
「ミアが戦ってくれない、死ぬ! なんで!? 戦え!」
「……あれ、外の人たち頑張ってる? まあいいか」
「でもゴブリン怖い……」
「ミアの胸柔らかい……でもちょっと小s」
というどうでもいい思考が、高速でループしているだけだった。
どれくらい時間が経っただろう。
激しかった外の音が次第に遠のき、ゴブリンの叫び声が消える。
代わりに人間たちの荒い息遣いと、勝利を確信した雄叫びが聞こえ始めた。
――終わったらしい。
俺とミア以外の全員の、文字通りの死闘によって。
「……あ」
「……」
静寂が戻り、俺たちはようやく自分たちの状況を客観的に認識した。
至近距離で見つめ合う俺とミア。
ゴブリンが追い払われた安堵よりも、とてつもない気まずさが空気を支配する。
コン、コン。
馬車の扉が控えめにノックされた。
「旦那様、お嬢様。ご無事でしょうか? 怪我は?」
御者の心配そうな声に、俺は慌ててミアから体を離し、咳払いをして扉を開ける。
そこに広がっていたのは、まさに激戦の跡だった。
傭兵たちは肩で息をし、商人たちは傷薬を分け合っている。
御者の顔には浅い切り傷があった。
誰もが埃とゴブリンの返り血で汚れている。
そんな命を張って戦った勇者たちの前に、俺とミアは無傷のまま、どこか顔を赤らめて降り立った。
彼らは何も言わなかった。
ただ、疲れ切った顔で俺たちを一瞥し、「あ、この二人はずっと馬車の中に……」とすべてを察した視線を向けるだけだった。
俺たちは文字通り、何ひとつ貢献していなかった。
ただ馬車の中で抱き合っていただけだ。
俺は燃えるような羞恥心に耐えながら、心の中で固く誓った。
——もうミアには抱きつかないでおこう、と。
◇◇
あの気まずい戦闘から数時間後。
一行は街道沿いの開けた場所で野営の準備を進めていたが、空気は鉛のように重かった。
誰もが俺とミアを遠巻きにし、ひそひそと何かを囁いている。
特に命がけで戦った傭兵たちの視線は、非難の色を隠そうともしなかった。
ミアは馬車の隅で体育座りをしたまま、ずっと俯いている。
耳まで真っ赤に染まり、普段の天真爛漫な彼女からは想像できない姿だ。
俺は声をかけるタイミングを完全に失っていた。
その時だった。
酒瓶を片手にした傭兵の一人が、俺たちのそばに来て、嘲るように言った。
「oi、sknftr。tsgngbrnh、omerg dkatstrmnchntshmtsshtityrkr、anshnshn」
その言葉が、引き金になった。
「——————っ!!」
今まで縮こまっていたミアの体から、凄まじい魔力がほとばしった。
それは怒りというより、張り詰めた何かが切れた音だった。
「…………ursi……(T ^ T)」
静寂の中、ミアは立ち上がる。
いつの間にか、その手には巨大な棍棒が握られていた。
次の瞬間――。
ゴッギッッッツツツ!!!
轟音と共に、さっきまで乗っていた馬車が一撃で粉砕された。
車輪は空を舞い、分厚い側壁は紙のように引き裂かれる。
周囲の空気が凍りつき、木片が降り注ぐ中、傭兵たちは一斉に剣を抜き、商人たちは悲鳴を上げて後ずさった。
完全に敵意が剥き出しになったその光景を見て、俺は瞬時に判断する。
——これはもうダメだ。
ここでミアを止めても無駄。
見捨てれば、俺は確実に殺される。
なら、選択肢はひとつしかない。
俺もミア側につく!
「ミア! やれ! もうどうにでもなれ!!」
叫びながら懐から木の杖を取り出し、魔力を集め始める。
傭兵の一人が斬りかかってくるが、ミアの棍棒の風圧だけで彼方へ吹き飛ばされた。
ミアが物理的な脅威をすべて薙ぎ払う。なら、俺の役目は一つ。
「——あああ!! もう、そこら辺のやつ全部焼き尽くす!!!」
物理学の知識など、この際どうでもいい。
ただイメージする――この場にいる俺たち以外を焼き尽くす、圧倒的な熱量とエネルギー。
ありったけの魔力が杖の先に収束していく。
「ymr! buhtssrz!! atmokshink!?」
衛兵の一人が俺に何かを叫んでいたが、知ったこっちゃない。
一方のミアは嵐のように暴れ回る。
屈強な傭兵たちの盾も鎧も、彼女の前ではビスケットのように砕け散った。
だが、多勢に無勢。
四方八方から矢が放たれ、剣が迫る。
ミアの額に汗が浮かんだ、その瞬間――。
俺は半ば叫びながら、杖を振り下ろした。
「《炎バーン》!!!!!」
俺が渾身のネーミングセンスと共に杖を振り下ろすと、その瞬間、世界から音が消えた。
杖から灼熱の炎が爆発的に流れ出す。
それは一瞬の太陽。
傭兵も、商人も、御者も、彼らの悲鳴さえも、すべてが光の中に飲み込まれていった。
——数秒後。
後に残されたのは、黒く焼け焦げた大地と、赤熱して地面を這う鉄の塊だけ。
呻き声と炎だけが周囲を満たしていた。
「…………」
怒りが収まったのか、ミアはキョトンとした顔で変わり果てた周囲を見回し、俺の顔を見て首をかしげた。
まるで「もう、終わり?」とでも言うように。
俺は杖を落とし、その場にへたり込む。
静寂の中、焦げ臭い風が吹き抜けた。
やってしまった。
もう後には戻れない。
転生して早々、前世にも劣らぬ大罪を犯してしまった。
(どうする? 捕まる? 終わり? 死ぬ?)
呆然としていると、隣でミアが不満そうに声を上げた。
「……nn……chtt、ki……」
彼女が指差したのは、さっきまで馬車があった場所――今は黒い炭と鉄屑の山だ。
そう、彼女が背負っていた家財道具一式も、俺の魔法で消し炭になったのだ。
「あ……」
まずい。
家具を燃やされたことで、彼女の機嫌が急降下している。
夫婦喧嘩という名の第二ラウンドだけは避けたい。
必死に焼け跡を漁ると、奇跡的に金属製の箱を発見。
中には商人が運んでいたらしい菓子類があった。
表面は黒焦げだが、中身はかろうじて原形を留めている。
熱で溶けて固まった琥珀色の飴玉と、石のように硬くなった焦げパンを取り出す。
「ミ、ミア。ほら、これ……食べるか?」
恐る恐る差し出すと、ミアは匂いを嗅いでから顔を輝かせ、飴玉を大口で放り込み、ガリガリと噛み砕いた。
……助かった。
彼女の機嫌が直ったのを確認し、次の行動に移る。
この惨状をどう説明するか。答えは一つ。
(……全部、ゴブリンのせいにしよう!!!)
俺はまだ熱を持つ馬車の破片を拾い、自分とミアの服や顔に擦り付けた。
ミアはなぜか照れていた。
さらに残骸に再び火をつけ、煙を上げさせる。
準備を終えた頃、街道の向こうから馬の蹄音が近づいてきた。
王都の巡回衛兵だろう。
俺はミアの袖を引いて地面に座らせ、自分も隣で崩れ落ちた。
「誰か……助けてください……!」
常人なら一生出さないような、か細く悲痛な声を絞り出す。
数騎の衛兵が駆けつけ、惨状を目にして息を呑む。
屈強な衛兵隊長が馬から飛び降り、俺の肩を抱いた。
「ゴブリン……ゴブリンの大群が……! 仲間はみんな殺されて……僕たちだけが、命からがら……うっ……」
俺は前世で動画配信者として鍛えた演技力を総動員し、完璧な被害者を演じきった。
隣のミアは口の周りを黒くしながら焦げパンを食べていたが、衛兵には放心状態に見えたらしい。
隊長は部下に指示を飛ばし、俺たちに向き直って慈悲深い顔で言う。
「君たちはよく生き残った。もう大丈夫だ。我々が王都まで送り届けよう」
増援要請の狼煙や伝令の馬で周囲は混乱に包まれている。
その中、俺は衛兵に支えられ馬に乗せられた。
ミアも別の衛兵に抱えられて馬に乗る。
こうして俺たちは、自分たちが作った焦土を背に、王都までの安全な道のりを無償で手に入れたのだった。
俺の良心は、もはや地面で燃える炭と区別がつかなかった。