目覚め
案内された部屋は、ごく普通の、質素な宿の一室だった。小さなベッドと机が一つずつ。俺はそれを見た瞬間、心の底から安堵した。少なくとも、今夜はまともな場所で眠れる──。
その安堵は、一分と持たなかった。
ドンッ。
俺が部屋の扉を閉めるより先に、ミアが例の巨大な机を部屋に押し込み始めた。
「え、ちょ、ミア!?」
ガタンッ。ギギギ……。
続いて本棚が運び込まれ、洋服ダンスが運び込まれ、椅子やら何やら、家財道具一式が次々と狭い部屋に搬入されていく。6畳半ほどの空間は、あっという間に高級家具のショールーム、いや、もはやぎゅうぎゅう詰めの倉庫と化した。ベッドは本棚と机に挟まれて到達不能になり、窓は洋服ダンスに塞がれて光すら入らない。
俺は全ての思考を放棄した。もう、何も言うまい。
俺はかろうじて残された扉の前のわずかなスペースに体を横たえ、硬い床に背中をつけた。どこからか、ミアの微かに甘い香りが漂ってくるような気がした。
(ミアは風呂に入らなくても香水の匂いがするのか?)
そんなことを考えているうちに、不思議と、心のささくれが消えていく。あまりにも濃密な一日だったが、今はただ、安らかな眠りが訪れようとしていた。
◇◇
翌朝。俺は、意識が深い泥の底から引き上げられるような感覚で目を覚ました。まるで、全身の水分を抜き取られ、代わりに鉛を詰められたように、体が重い。
(……なんだ、これ……)
体が倒れることを望んでいる。尋常ではない眠気。人生でこれほど深く眠ったことはないのではないか、と思うほどの熟睡感と、それに比例するかのような強烈な倦怠感が全身を支配していた。
「う……なんで......」
身を起こそうにも、頭が上がらない。数分かけてようやく体を起こすと、部屋の家具達がめちゃくちゃに荒れ果てていた。どうやらミアの寝相が天災級だったらしい。そして、床に転がっていそうな、少女の姿がない。
「ミア……?」
俺は、家具と壁の隙間をバレリーナのように進み、なんとか部屋の扉を開けた。外の朝日が目に染みる。宿屋の前で、ミアがちょこんと座って待っていた。彼女は俺の姿を認めると、ぱっと顔を輝かせる。
「ふふ...圭、おそい(*≧∀≦*)」
その手には、宿主から奪い取ったであろう、真っ黒と焼かれたパンと銀貨が握られていた。彼女は元気そのもので、眠そうな様子は微塵もない。
(…昨日何があったんだ?)
まるで何かに力を使い果たしたかのような感覚、俺の脳裏に、昨夜の出来事が蘇る。あの宿屋。主人の妙な反応。ミアが代金として叩きつけた、あの青いナメクジの内臓......。
(...考えないでおこう)
そこまで考えて、俺は思考を打ち切った。
今は、この異常な眠気と戦うので精一杯だった。
「……ああ、すまん。行こうか」
ふらつく足取りで俺はミアの隣に並ぶと、彼女は「んd( ̄  ̄)」と言って、持っていた黒焦げのライ麦パンの焦げた部分と銀貨一枚を俺に差し出した。その無垢な優しさに少しだけ癒されながら、俺たちは再び王都へと続く道を、重い体を引きずって歩き始めたのだった。
ミアは少し顔が赤かった。
◇◇
昨日の宿主が、震えながら手を振り続けていた。
俺たちはそれを気にも留めず、宿を出て再び王都への道を歩き始める。
ミアは相変わらず家財道具一式を軽々と背負っている。
そのせいで歩みは遅かったが、文句を言える立場ではない。
二時間ほど歩いただろうか。
宿主の店がようやく小さく見えなくなってきた。……まだ店主は手を振っている。
やがて、土埃の舞う道の向こうから、大型の乗り合い馬車が近づいてきた。
「ミア! あれに乗ろう! きっと王都まで運んでくれる!」
文明の利器に感動しつつ、俺はミアの手を引いて馬車を止める。
御者台に座っていた人の良さそうなおじさんは、俺たちを見てあからさまに眉をひそめた。
「an? nnd、omesntch。outnktdt?」
御者は俺たちを上から下まで値踏みするように見た。
俺のほぼ下着のような格好に呆れ、次にミアの薄汚れた姿と、その頭に積み上がる異常な量の家財道具を見て、あからさまな侮蔑の色を浮かべる。
「wrig、ktshnribshdn。ktnekkkndriwhkbtmnmnjnnd。htkinrhkwtttkr」
その口調と表情を見るに、明らかに罵倒されている。俺が返す言葉を失っていると、ミアが不思議そうに小首を傾げ、純粋な瞳で御者を見つめた。
「……^_^???」
悪気はない。ただ、なぜ乗せてくれないのか、本当に疑問に思っているだけだ。
しかし、その視線には彼女自身も気づいていない異様な圧が宿っていた。
――野生の頂点捕食者が獲物を見定めるような、根源的な恐怖を呼び覚ます眼光。
昨日スライムを一撃で粉砕したときのように、空気中の魔素が揺らぐ感覚すらあった。
御者の顔から血の気が引き、額に脂汗が浮かぶ。
さっきまでの侮蔑的な表情は完全に凍りついた。
(n…nnd,knkmsmnmh…!?)
御者の思考が高速で回っているのが、視線の動きからも分かった。
そして勘違いは一周し、畏怖と尊敬へと変わったらしい。
御者は椅子から飛び降り、その場で深々と頭を下げた。
どうやら、俺たちを貴族か何かと勘違いしたようだ。
「m、mmm、mushwkkgzmsn! gjjuumshrz、thnngbrw!ss、duzonrkds! kntr、skhitrmsnd!」
態度は180度どころか540度は変わっている。
俺が差し出した、あの宿の主人から受け取った銀貨を、御者はまるで聖遺物のように両手で受け取り、すぐに押し返してきた。
「o,oazkritshms! …i、odindtndmni!」
「え、あ、はい…」
何が何だか分からないまま、返された銀貨を握りしめる。
俺とミアは御者に案内され、馬車の荷台に乗り込んだ。
ミアが家財道具一式を運び込もうとすると、御者は必死の形相で馬車の天井に家具をくくりつけ、手伝い始めた。