1560年(永禄3年) 桶狭間の夜明け
今川本隊との戦を終え、善照寺砦まで戻ってきていた。
そこでは、対象首を取った新介と、同じく義元へと一太刀浴びせた服部小平太が、信長様のもとへと討ち取った今川義元の首を持ち帰った。
「よくやった、ぞ、新介、小平太。で、これか。治部大輔の首は」
「はい、でございます」
板にのせられた義元の首と、信長様は正面からまみえる。
「くっくっく、これが負けるという事か。これほど惨めなものか。のう治部大輔?」
信長様は、今の首だけになった義元に負けていた時の自分の姿を重ねているのだろうか。
「家臣は誰が残っておる。鷲津の織田七十郎は?飯尾親子は?」
信長様の声に、小姓の一人が応える。
「織田七十郎秀敏殿、飯尾定宗殿討死。尚清殿は熱田へ退いております」
「丸根の大学助は?玄蕃は如何した?」
「佐久間大学助盛重殿、服部玄蕃殿、討死されました」
「中嶋砦へ向かった隼人正と千秋四郎は?」
「佐々《さっさ》隼人正政次殿、千秋季忠殿、討死でござる」
報告を聞いて、信長は深いため息を吐いた。
こちらは、敵の総大将を討ちとったのだ。形式的には勝利と言える。しかし、大して味方の損害も甚大であった。
信長様の上げた名前の大半が討死にであった事が、今回の戦の壮絶さを物語っていた。
そしてそれは、信長様を失意させるのに十分な数と質であった。
その夜、信長様が家臣へ話しかけることは無かった。
善照寺砦での夜が明ける。
「残った兵をまとめよ。これより、今川へ奪われた地を取り戻すのだ!!」
一夜明けて、信長様は覇気を取り戻したようであった。
攻めこむ前の、善照寺砦の時点では二千いた兵が、まだ一千五百程が生き残っていた。雨にまぎれて、敵の不意を突いての短期決戦だった事で、それほど兵を減らさずに済んでいたのだった。
「まずは、奪われた砦を取り返す。そして、鳴海、大高、沓掛、各々《おのおの》の城まで取り返すぞ!!今や今川に戦意なし。いまこそ、尾張から今川を完全に追い出すのだ!!」
昨夜の意気消沈していた姿もなんとやら。少なくとも今は、その陰を感じないように振舞っているようだ。
「おぉ!!」
兵たちも、お家の存続を賭けた合戦から一夜明けて、敵対象首をとって意気揚々、数が少なくとも戦意は高々と登っていた。
善照寺砦から出陣すると、落ちていた丸根と鷲津の砦を取り返すと、すでに今川勢が退却してもぬけの殻状態となっていた大高城を落とした。
その勢いそのままに沓掛城も攻め落とし、鳴海城へと攻め入ったのが大苦戦。岡部丹波守元信の奮戦に、攻めあぐねていた。
ただ、今は大規模侵攻を受けた後処理で、長期籠城戦とするのは情勢が悪い。総大将を討ち取ったとはいえ、未だ国力に開きがあるのは確かだ。後継が国内を取りまとめて再侵攻を画策されるなんて事があれば、鳴海城籠城を口実にされかねない。
そして、海路からの服部党への対処も後手に回っている。
そのような意図があってか、間もなく信長様も鳴海城とは和議することになった。しかも、君主義元の首も土産に。
「治部大輔の首なんぞ、あっても困るだけ、ぞ」
そう嘯き、岡部が堂々と鳴海城から義元の首を輿で運んで出ていくのを、苦々しく思わなくもないが、敵ながら主の首を祖国に持ち帰る、というのは、武士の忠義はかくあらん、との思いもあった。
これでようやくひと心地着き、戦後処理へと入る事になる。
人物紹介:
佐久間大学助:佐久間盛重。信勝の家老だったが、信長方に付いた。桶狭間では、松平家相手に善戦するも数及ばず、敗北する。
織田七十郎:織田秀敏。信長の祖父、信定の弟と言われている。
飯尾定宗:織田秀敏の弟、若しくはその子とされる。
飯尾尚清:定宗の子。桶狭間の後、信長の馬廻りになる。
佐々隼人正:佐々政次。佐々成正の兄。弟の孫介と共に小豆坂七本槍に数えられる。
千秋季忠:千秋四郎季忠。熱田神宮の大宮司であり武士。死後、大宮司は叔父の季重が継いだ。父の季光も討死していたこともあり、幼い季忠の子は武士との兼務を辞め、大宮司に専念するよう信長に命じられる。




