1560年(永禄3年) 襲撃、桶狭間
「近寄るほどに静かに。暴れるのは喰らいついてから、だ」
黒雲の闇と雨音の中、進む織田兵。
雨音で少々の音がまぎれている以上に、進軍は静かであった。それは、お家の窮地を救おうという意志を湛えた人の群れであったが、死出への旅の途中でもあった。
雨のせいか、体が冷えて震えが止まらない。これからの戦の、命のやり取りへの恐怖から、なのかもしれない。初陣から幾度かの戦場を経験し、少しは慣れたとは思っていたが、やはり俺は戦闘民族にはなれそうにない。
「どうした長秀、震えてるのか?折角のおろしたて具足が泣くぞ」
「そりゃ、震えくらいはするさ。新介も槍が震えてるぞ。それほど戦が楽しいか」
ニヤリと笑う。隣り合う俺達以外にしか、雨音で会話が聞こえない。
「そりゃそうさ。俺たちゃ戦の為に生まれてきたんだ。普段喰う飯も、世話してくれる人らも、俺らが戦働きをするからだ。それを、その恩を返せるんだ。楽しくてしょうがないさ」
本当に前向きだと思った。俺には、目前の死の恐怖がどうしても邪魔をする。
周りには馬廻りの仲間が、そして親父殿もこの軍勢の中にいる。
自分一人だと此処には立てていない。
感謝が、覚悟が、決める事が出来ないまま、今槍を抱えて歩くに至っている。
そして、木々が、森の終わりが見える。
歩みが止まる。
静かだった。
雨音が聞こえる。
雨音をかいくぐって、馬の嘶きが聞こえる。
雨が、風が、木々の梢をゆらし、葉が雨に打たれる。
それが以外の音が、ない。
自然の音を除くと、自分の心音も聞こえなかった。
先頭にいる、馬に跨った先鋒勢が、後ろを見返す。
心音がよみがえる。
鼓動と雨音が重なる。
そして、先頭が飛び出していく。
前方の方から、次第に兵が進んでいく。自分の列が歩みを始める。
前に、前に。次第に速度を上げていく。
森を抜け、視野が広がっても視界は変わらず狭いまま。その不安を消すように前へ前へと進んでいく。
今川兵の油断した、思いもよらない敵襲を、ひたすら蹂躙していく。
軍としてのまとまりができる前に、とにかく陣の中央へと二千の兵が進んでいく。
「お、お、お、お、おーーーーーーーーーーーーー」
簡易に作られた雨よけを壊し、雨を凌いでいた兵を、馬を、槍で突き殺す。
陣幕を倒し、中で動く物があれば槍でつく。
攻め入ったのが気付かれると、相手も槍を構えてくるが、数の力で押す。押す。押す。
時間と共に敵の抵抗する力が強くなってくる。人が揃い、槍が揃い、こちらも同じだけの兵が、槍が、向かい合う。
織田の進軍が次第に遅くなっていく。このまま時間が経てば、周りを今川に囲まれるのだ。
「くっ!!」
飛んできた槍先を何とか避けると、逆に前に進み、相手の槍の柄を脇で挟み相手を突き崩す。
「大丈夫か、長秀!?」
「構わず進め新介!振り返る暇はないぞ!!」
今は生きている限りは前に進み、義元の首を取らないと織田の家は終わるのだ。
そして、陣幕に今川の赤鳥紋が見える。
「今川の陣幕だ!進め!!」
陣幕を槍で支柱を叩き倒すと、そこには空になった輿が置き去りにされていた。
反対側の陣幕が外向きに倒れており、多数の具足の後が残っている。
「さほど時は経ってない。まだ近くぞ!!」
倒れた陣幕を踏みつけ足跡を追うとすぐ、この場から離れようとする集団が見えたので、その背を追い、追いつき、襲い掛かった。
このような時の為の、馬廻りの鍛錬だ。具足を付けた状態で、騎馬に並走する為に重ねた鍛錬の結果が、騎馬に乗ってもいない将の撤退よりも遅くては、鍛えた日々の甲斐が無いというものだ。
最後尾に食いつくと、集団の後方が反撃へと転じた。そして、そこはさすがに大大名今川家の近衛。今までの兵とは手ごたえが違った。
「く、さすがに本陣付き、手強いか。しかし、このまま足止めされる訳にも行かない。何人か連れて先に行け新介!!」
「任せた、長秀!!」
「させるか!!」
槍の内側に間合いを詰められて、刀で斬りかかられてる所を、柄でいなし、石突で返し、間合いをとった。
「く!」
刀を構える相手へと槍を突き、叩く。これを刀でいなされるが、間合いを詰められないようにと牽制するのも忘れない。
懐にさえ入られなければ、刀相手は槍の方が有利ではある。しかし手練れの相手だ、気は抜けない。
そう何度も撃ちあっていると、織田側の兵が追い付いてきた。
数で優ると、味方の者に合わせて槍を突く。すると、もう一人の槍先は刀で切り落とされた。その隙を突き、相手の肩に槍先が刺さる。
槍を掴まれると、槍先を落としに斬りかかられるが、柄が刀を弾き返す。そこで崩れた姿勢に、槍を押し付け、そのまま相手を背から地面へと押し倒す。
槍先を切られた、ただの木の柄先を倒れた兵の顔面、左目に突き立てた。倒れた兵は、苦悶の声を上げる。
俺の槍の掴まれた力が緩むと、槍を引き抜き、そのまま相手の右目へと槍を突き通す。
ここでようやく、敵兵が絶命した。
「ふぅ、この槍じゃなかったら危かったな」
馬廻りの着任祝いに、新介と一緒に親父殿から贈ってもらったこの槍が、刀を防ぎ、何度も敵兵をついても未だ切れ味が落ちていなかった。
先に行った新介を追わないと、と槍を引き抜き担ぎ上げると、弱くなってきた雨音の中、前方から新介の声がした。
「義元公、討ち取ったりーーーーー!!討ち取ったりぃーーーーー!!!」
この新介の声が聞こえたところ、自然に俺の声が出た。
「ぉぉぉおおおお、義元公討ち取った、義元公討ち取ったーーーーー」
この叫びの輪が広がっていくと共に、今川勢の抵抗が次第に弱まり、ついには今川の兵が退き始めた。
これにて桶狭間の戦いの、勝敗は決したのだった。




