魔法の鏡はおしゃべりする
『白雪姫』に登場する魔法の鏡は、物語のヴィランである妃としか会話をするシーンがない。鏡が求める目的地を探るには妃との話をすることは必須であった。
最は自分が見た童話の『白雪姫』に登場する妃と魔法の鏡を思い出す。鏡はだいぶ淡々と、事務的に応対していたが、それに対して妃は高笑いをしたり、ヒステリックに金切り声をあげていた。目の前にいる鏡とのギャップが大きすぎて参考にならないと早々に最は判断する。鏡がこれなら、妃だって内気だったり、子供っぽかったりする可能性があり得ると考えたが、その予想はどうやら異なるようであった。
「とととんでもございません! お妃様はとても高貴で尊きお方! 醜態を晒せるわけがございませんよ! 私はお妃様から誰よりも信頼をされている身です! いついかなるときも真摯な姿勢でいただけですよ!」
最の予想と反して、鏡は仕事中、寡黙だったらしい。こんなにもおしゃべりな、まるで今まで話すことを我慢させていた鬱憤を晴らすかのように早口で、最よりも人間らしく振る舞う姿は妃の前に絶対に見せることはないようだ。そして何より、鏡は今もなお妃を敬っている。もう持ち主でもないであろうに。
「え、じゃあもしかしてあのミステリアスなイメージは……猫被ってたのか……君は」
「猫を被ってるとは失礼ですね! 緊張していたと言ってください! 私だってできることならお妃様と軽口をたたき合いたかったです!」
食い気味で叫ぶ鏡に、最は十年来の親友と話しているような心地になるほど、鏡との会話を楽しみ始めていた。今日初めて知り合った渡し守と乗客という関係を超えて、1人と1枚は軽口や冗談を言い合う仲となっている。
「ところで私のことばかりが話題になっていますね。先ほどから気になっていたのですが、渡し守様の手は大丈夫なのですか?」
話題が急に自分に切り替わったことに、最は目を見開いてしまったが、その動揺を鏡が察することはなかった。オールを握る自分の手を見る。骨ばった手にはいくつもの傷の跡があり、爪はささくれ、全体的に赤くなっている。
「俺の手のこと? 確かに見た目は悪いけど心配とかはしなくて大丈夫だよ。そんなに痛くないからさ」
「貴方が痛くなくてもとても痛そうに見えることには変わりはないですよ。鏡の私としてはほんの少しの傷も致命的ですからどうしても気になってしまいましてね。やはり舟を漕ぐ渡し守というお仕事は過酷なのですか?」
「過酷? ああ確かに過酷といえば過酷かもしれないけれど、オールを漕ぐことはもう慣れたよ。体力も筋肉もだいぶついたしね。でも心配してくれてありがとう。それにこの手の有り様は他の理由もあるんだ」
最は敢えて自語りをすることにした。鏡が興味を抱いた自分の話をすることが、鏡の目的地を明確にするはずであると踏んで。鏡はまるで最を心配するかのような声色で問うてきたのだから。視線を鏡に向けながら、最は話し始めた。
「俺の家は父子家庭でね。妹が産まれて少し経ったくらいで母親が亡くなってしまったんだ。妹は小さいし、父も仕事が忙しくてね。だから父さんが家族との時間を取れるように俺もこの仕事してる。これでも中学生、14歳くらいのときには家のことはほとんど俺が担っていたよ」
小舟を進める速度を落とし、最は思い出すように語った。間違ったことを言っていないか確認しながら慎重に。自分のことを語ることが久しぶりなためか、緊張していることを隠すかのように、段々と鏡から顔を背ける。
「なるほど、込み入ったことを聞いてしまい申し訳ございません」
最の様子に鏡は控えめに、下からうかがうように謝罪をした。
「いやいや、気にしなくて大丈夫だよ。もう昔の話だし。それにこの手を世界一かっこいい手とも言われるんだ。妹からだけだけどね。家族のために頑張って、傷付いてくれた手がかっこよくないわけがない。むしろ世界一かっこいいんだって」
「それは素敵なお話を聞きました。そういうことを素直に伝えてくれるだなんて、優しくて良い妹さんですねぇ……」
鏡は感心したようで、嬉しそうに、噛み締めるよう頷き、やがて何かを思い至ったように静かになった。
「そう思うでしょ。渡し守の仕事もボランティアと銘打っているけど、報酬は結構出るしね。世界一かっこいいなんて面と向かって言われたときはすごく恥ずかしかったけど、自分がやってきたことは間違っていなかったんだと思えて、報われた気分だったよ」
「渡し守様のその献身する姿は、きっとご家族に届いていますよ。自信を持ってくださいね……とても、羨ましいです」
目的地が見えた気がする
「そういえば、渡し守様は私が声をかけても全く驚いておりませんでしたが、今までどのようなお客様を乗せてきたのですか?」
「え? そうだなぁ……わかりやすいのだと『シンデレラ』のカボチャとか『眠り姫』の糸車とか。『ヘンゼルとグレーテル』のパンなんてのもいたなぁ」
「おや、私のような人間でも動物でもないお客は珍しいのかと思っておりましたが、渡し守様はにとっては日常のようですね」
「そうなんだよ。ほかの渡し守は人間のお客様も多く乗せてるんだけど、俺は何故かそういう縁はなくてね。むしろ俺は珍しがられてるよ。でもどのお客様も皆同じように悩んだり、夢があったりして、人間のお客様と全然違うなんてなかったよ。まぁ俺は人間のお客様を乗せたことはほとんどないけど」
「そうなのですね……皆様、人間と同じように、悩んでいたり、夢があるのですね……」
鏡は少しの間沈黙したあと、何か大きな決意を固めたようであった。
「渡し守様、私は鏡に映った人の問いかけを正しく受け取り、答えるのです……私はお妃様の質問に常に正しく誠実に解答をしていたのですよ」
先ほどまで若者のように陽気に最と語り合っていた鏡は、突然静かに、大人が子供に語りかけるように、ゆっくりと話す速度を変えた。出船したときと変わらない景色の静けさのはずなのに、重苦しい空気を最は肌に感じ始めた。
「ですが今日、渡し守様とお話をするまで、私は私自身の言葉で語ることができるということに気がつきませんでした。不思議ですね、こんなにも私は……人とおしゃべりがっ…………できたのですね」
鏡はまるで慣れない長距離を走った後のように、息を切らせながら話し続ける。鏡面は最よりも更に奥、薄らと形が見える建物。小舟が向かう先を映していた。
「正直な話、『世界で一番美しい』のは白雪姫だったの?」
不躾な質問であることを承知しながら、最はあえて問いを投げかけた。
「……何故そのようなことを聞くのですか?」
「だって君はやけに『正直者』と言われるのを拒んでいるようだったからね。本当は何か既に嘘でもついているのかと思って……例えば、お妃様からの質問とか」
「……お妃様からの問いであれば、間違いなく『白雪姫』です…………ですが、私にとっては……違いました」
鏡面に映っていない最からの問いに、鏡は初めて「魔法の鏡」の答えを吐き出す。
水分とは無縁のはずの鏡から、汗が流れているように見えた。
「『魔法の』と言っても、私は所詮鏡です。映った『人』を反射するのです。その人の持つ『考え』を映す……それが私の『魔法』……私は自分に映った人の考えを、まるで真実かのように答えていただけなのです……!」
「つまり、白雪姫が世界で一番美しいと思っていたのは……」
漕いでいたオールを止め、鏡に向かって振り返る。どうやら目的地が決まったようだ。
「お妃様自身だったのですよ」
鏡面には映るのは――王城