お客様は魔法の鏡
「すみません、向こう岸まで乗せてくださいませんか?」
うつむいて眺めていた水面から視線をあげて、最は後ろを振り向いた。
お客が来るのは喜ばしい。
ボランティアの活動の一環として、渡し守のアルバイトをしている最が操縦する小舟には人間の乗客はなかなか来ない。
今回の乗客もその1つで、言葉を話す鏡であった。鏡の声は優しげで、その口調から紳士的な男性を想像させた。
「物」が乗客であることはいつものことと最は動じることもなく、鏡が小舟に乗り込みやすいように桟橋と小舟の間に板を渡した。
「どうぞ。足場が悪いのでお気をつけて」
「これはこれは。ご丁寧に、ありがとうございます」
ごつごつと重厚な音をたてながら、しゃべる鏡は小舟に乗り込む。
鏡は最が目の前に立ったとしても上半身がしっかりと映るほどの大きさで、フレームは金属の美しい装飾枠と頂点部分に小さな宝石らしきものが飾られている。
派手さはないものの、その上品な造りに最は木製の小舟にかかる重さが偏らないかが心配であったが、鏡が気を遣ってかそろそろと慎重に小舟に乗ったため、突然小舟が傾くという事態は起きなかった。
「お手数をおかけして申し訳ないのですが、乗船料は私についている装飾の1つでも大丈夫でしょうか? 結構お金になると思いますよ」
「気にしなくて大丈夫。商売じゃなくてボランティアだから。それに君の装飾だと過払いになりそうだし」
「それはありがたいです。いかんせん私自身は豪華なのですが、金銭を使うことがないもので」
「こちらこそお気遣いありがとう。そうだ、この舟について最初に説明させてもらうね。渡し守の舟はどこにたどり着くのかわからない。君が言ったように向こう岸かもしれないし、違う国かもしれない。明日かもしれないけど、まぁそういうものなんだ。今ならまだ降りれるよ?」
「はい、何の問題もございません。私には具体的な目的地は特にないので。とにかく遠くへ行ければ、それでよいです」
鏡がじっと落ち着いたのを確認し、最はゆっくりと小舟のオールを漕ぎ始める。今日は晴れて風が少なく、波も控えめなため静かでのんびりとした時間を過ごせそうである。
渡し守の小舟の乗客は人間であったり動物であったりすることが主だが、「物」も存在する。
そして渡し守は乗客にいかなるときも直接目的地を聞いてはいけない。時間をかけて会話をすることで、乗客の行きたい所まで導くのである。乗客には共通点があり、何かしらの「物語」が関係するのだ。それがなんの物語かがわかれば、目的地を察するのは大分容易くなる。しかし乗客とじっくり会話、ときには駆け引きをしなければ目的地が判明しない場合もある。
「渡し守様は驚かないのですね。お喋りする鏡は珍しくないのですか?」
「変わったお客が多いもので。お客さんは優しそうで良かった。たまに気難しいお客もいるものだから……でもしゃべる鏡を実際に見るのは俺も初めてだ。お話の中でよく出てきていたのを思い出したよ。特に有名なのは『白雪姫』だなぁ。魔法の鏡が正直者なんだ」
「ええ!? 白雪姫をご存じなのですか? そうですか……彼女はとても有名になるのですね……実は私も魔法の鏡なのですよ」
鏡は白雪姫や自分自身が有名で、語り継がれていることに驚きを隠せなかった。ましてや自分が正直者という評価を下されていることは、鏡には信じられないようである。
「そうでしたか、そうでしたか。お客さんは『白雪姫』の世界から来たんだね。まさかあの『白雪姫』の鏡さんを乗せることができるなんて光栄です」
最は乗客の鏡の出典が簡単にわかったことで上機嫌である。乗客によっては全く出典の検討がつかず、途方に暮れる経験もあったのだ。その点このお客はわかりやすい。
『白雪姫』。日本では知らない人はなかなかいないグリム童話の1つ。数々のメディアで出版やアニメ化、映画化している古くから定番の名作。パロディや題材をもとに派生した作品も作られているくらい人気の作品。毒リンゴや魔法の鏡、七人の小人など、モチーフや脇役も有名だ。
「俺の国では誰もが何かしらの形で一度は触れる話だよ。もちろん鏡さんも有名」
「私が有名だなんてそれは照れますねぇ。正直者でなくてもいいのでせめてハンサムで清潔な鏡として表現されていればよいのですが……」
「ハンサムかはわからないけど、とてもミステリアスな存在かな。あと正直の他にも、真実を告げるとか言われてるよ」
「ハンサムでないと困ります! 私の体はとても繊細に、そして心を込めて作られたのですから! それに私はこんなにも陽気なのです! 久しぶりにおしゃべりができてとても嬉しいのですよ! それに私だって隠し事や嘘だってありますよぉ!」
鏡はどっしりと構えつつも興奮気味に、そして早口でまくし立てるようにしゃべりだした。
物語のイメージでは冷淡だったり荘厳であったり、パロディ作品では皮肉屋だったりするものを見たことがあるが、こんなに陽気でおしゃべりなタイプだったとは最も思わなかった。それにこの鏡のやけに「正直者」であることを否定する。そこは掘り下げなければいけなさそうだと、最は脳内の話題の引き出しを開けていく。
「しゃべることが久しぶりなの? 魔法の鏡なんて、珍しくて需要は高そうなのに」
「とんでもございません! 不人気も不人気なのですよ……なにせ白雪姫が死んでしまった原因の1つですからねぇ……最近までは部屋の片隅で埃をかぶっておりました。そしてついに先日処分が決まってしまい、逃げ出してきたのです」
「それはお気の毒だ」
固くて平面的なはずの鏡が、最には小さく縮こまっているように見えた。
そんな鏡に元気を取り戻してもらうため、最は鏡に言葉を投げかけることにした。
「鏡さんは今俺に饒舌に話しているけど、お妃様ともそんな風に?」