04
「我が元へ来たれ、か。最初はちょっと場所を間違えたみたいだけど、ちゃんと僕の所に来たんだ」
ルシの唇は皮肉な笑みに歪んでいた。その声は微かに震えていたけれど。
集った靄がゆらぎ、ルシに向かって進み始める。
それまでとは比べものにならない強大な恐怖がルシにつかみかかった。
足がすくむ。体中が震えだす。息が苦しい……。
ぐいっと腕を引かれてよろめいた。慌てて両手を差し出したラヴァスに支えられて転倒を免れる。引きずられるようにして、更に数ヴァズマール妖魔から遠ざかった。
恥ずかしさがルシを正気づかせる。自分で生み出した化け物が怖くて、身動きもできなかったなんて。
「大丈夫か?」
ラヴァスはルシの体調を心配しているようだ。
薬が効いているせいなのか、寝汗といっしょに流れ出してしまったのか、夕刻までのようなだるさは感じなかった。大丈夫ですと言おうとしたルシの眼に涙がにじみ出してくる。
「いっやだ……どうして……」
まばたきといっしょに滴が頬を伝った。怖かったから?
薄気味悪い物の怪を相手にするのなんて初めてじゃあないのに。情けなくて、悔しくて余計に視界がかすむ。
「ルシ……?」
ラヴァスの声がうわずっていた。魔物と向き合っても平然としているクセに、ルシの涙を見て動揺している。
「ごめん……なさい。心配かけて。もう平気だから」
ラヴァスから離れたルシは袖口で涙をぬぐった。
(《ウェリアの護り》、お願いだ。剣を……)
ルシは霧の化け物を睨みつけながら腕輪に嵌めこまれた血の色の宝石に触れ、光でも闇でもない、創始の力に呼びかける。望みもしないのに与えられ、いまだ使いこなせない力。
(こいつを、現実でないものを切り裂ける剣が欲しい!)
魔剣はいつもルシが窮地に陥ると現れる。それなのに、この状況でまだ危険が足りないとでもいうように何事も起こらなかった。
(どうして……)
「さがっていろ、ルシ!」
ラヴァスの声と共に蒼白い輝きが軌跡を描く。レイプトの刃が黒い霧を裂いた。
何の痛痒も感じる風はなく、ゆらりゆらりたゆたう霧。だが、レイプトは何かに突き刺さっているかのように霧の中央に留まっている。手にした縄を通じて伝えられるラヴァスの魔力が刃を宙に浮かせ、その輝きを一層強めさせた。魔物を構成している奈落の塵の一部が浄化され、消え失せる。
「ちっ、いくら予想通りっても、こう無反応じゃがっくりくるな」
叫ぶでなく、もがくでなく、僅かばかり体積を減らしただけで、痛手などまったく受けていないように見える魔傀にラヴァスの苛立ちが募る。
一旦刃を引き戻して印を結び、呪を唱えて風を呼んだ。
八方から流れ込んだ風が黒い霧を締めつけるように渦巻く。魔物と風の渦の境界に静電気の火花が踊った。霧が圧し縮められ、闇が濃くなってゆく。
しかし、レイプトが閃いた刹那、黒い影が薄れて消えた。
ラヴァスの背後、手をのばせば届く場所に音もなく影が凝り固まる。
「ラヴァス、後ろっ!」
身を捻りながら飛び退いたラヴァスと妖魔の間に剣を抜いたルシが飛び込んだ。
切っ先が魔傀を突き抜け、勢い余ったルシの右手が黒い靄に呑まれる。
「うぁァ――っ!」
奈落の冷気が腕を伝って全身を走り抜け、力の抜けた手からこぼれた剣が大地に転がった。恐怖と嫌悪が内臓を捻じあげる。
体勢を立て直したラヴァスがルシのベルトをつかんで後ろへ引いた。
闇から解放されたルシの手首で宝石が光を放つ――
何もない空間から剣が現れた。衝撃にあえぐルシの手の中に。柄に血の色の宝石をきらめかせて。
「ウェリガナイザ」
ラヴァスの唇から魔剣の名が漏れる。宝石を、腕輪を、その主にして僕たる《ウェリアの守護者》をも指す名前が。
「来るなァ――っ!」
じわり、と前進した闇に魔剣が斬りかかる。相変わらず手応えはなかったが刃に沿って細かな閃光が無数に弾けた。
だが、闇はまだそこにたゆたっている。最前レイプトに浄化されたように霧の粒子の幾ばくかが消え去っただけだ。
「そんな……」
驚愕に瞳を揺らしながら後退るルシ。
「ウェリガナイザでもだめだっていうのか……」
ラヴァスの声にも苦渋の響きがあった。
逃げ出したい!
すぐそこに宿の扉がある。何十年も風雨に耐えてきた頑丈な建物が。
あそこへ逃げ込んで厚い扉を閉ざしてしまいたい。そんな思いがルシを捉えた。
目の前にいる魔傀は扉や壁などに阻まれず、どこへでも行き来できるとわかっているのに。
それに、あの呪文のせいで魔物は彼の元へ惹きつけられるはずだ。
呪文――
「そうか!」
「我が元へ来たれ」と彼は言った。だからこの妖魔は彼の傍へ寄ろうとする。低級で、生存の為に生命を吸収する事とルシに近寄ろうとする事以外考えられなくても、まだルシを主人と認識している訳だ。
だったら魔傀が理解できる言葉で「去れ」と命令すれば、離れていくんじゃないか?
そんな単純な事を思いつかなかったなんて。
でも、だめだ。ただ追い払ったところで何の解決にもならない。魔物が存在している限り、どこかで命が失われていくだろう。そして多分、どこにいようとルシはそれを感じる。
魔傀が現れた時、ルシは彼を求める形なき触手を感じた。それが命を貪った時、震えるような歓喜を感じた。
創り出した者と創られたモノ。彼らはどこかで繋がっている。どこか――
「我が心の暗闇……」
ルシの鼓動が速まる。
アレに触れた時、認めるのを拒んだ、おぞましさといっしょに感じたもの、アレの名前が――行動を縛る為につけられたものではないが、その本質が――わかった。
一度与えられた命は、なんとかして現世にしがみつこうとする。言葉だけで塵に還れと命令されても、その存在を消し去ろうとはしないだろう。
だが、消え去るのではなく、帰っていくのだとしたら?
それには魔法は必要ない。ルシがそれを受け入れればいい。力を留めておく核がなくなれば、気の巡りから引き出された力は自然に還流し、塵は形を留めていられなくなるはずだ。
心の底に押し込めていた記憶を呼び起こし、みずからの創造物に向かって闇の言葉を口にする。
「動くな! そこに留まれ!」
鋭く発せられた命令に、移動だけでなく、ゆるゆるとしたゆらめきさえ止まった。空気に溶けるように剣が消え去る。一歩踏み出したルシは両腕をひろげて魔傀に呼びかけた。
「おまえの中にある僕の物を返してくれ。僕の心の闇を」
「ルシ! 何をする気だ?」
言葉のわからないラヴァスはルシが黒魔術に頼ろうとしているのではないかと不安になる。
それによってルシの、素直で思いやり深くはあるが欲望も憎しみも恐怖も抱え込んだ、人間らしい、そしてまだ少年の繊細な心が黒い力の奔流に押し流されてしまうのではないかと。
ルシ自身がずっとそれを恐れてきたように。
ラヴァスに顔を振り向けたルシは大丈夫というように頷いてみせた。本当は自分のやろうとしている事に自信なんてまったくなくて、怖くて、心細くて、どうにかなってしまいそうだったけれど。
(これは僕の責任。やらなきゃいけない事なんだ。怖がっていたって、逃げていたって、腕輪がなくなったりしないように。
僕が怖がっていたから、あんな夢をみたんだ。見えないものを怖がっていたから)
魔物に視線を戻して、ゆっくりと歩を進める。
「帰っておいで、僕の中に。もうおまえがいて恥ずかしいなんて思わないようにするから。
おまえがいない振りなんかしないで、ちゃんと面倒をみるから。だから帰ってきて欲しい。
おまえは、僕の……」
ルシの腕が魔傀を包み込んだ。絶叫が喉を突き破る。覚悟はしていたはずなのに、それに触れた瞬間、嫌悪感が湧きあがった。
ルシから魔物を引き離そうとしたラヴァスは危うくそれを思いとどまった。
彼の理解の及ばない魔法、あるいはそれに替わる何かが働いているのなら無闇に干渉する危険は冒せない。微妙な均衡を崩せば、とんでもない事になるかもしれなかった。
ルシは自分の意志で妖魔に触れたのだから。
(違う! 僕はおまえを追い払いたいんじゃない!)
弾かれたように離れようとした暗闇を必死に呼び戻す。どんなに疎ましくても、ソレもまた自分なのだから。
ラヴァスは魔傀の霊気がルシの中へ流れ込んでいくのを感じた。塩をかけられたナメクジのように縮んでいった妖魔が、地面にのたうつ。
ルシの裡に還った暗黒が、残されていた闇に呼びかける。闇の言葉が響き合う。黒い染みが拡がっていく。意志を持っていかれそうになる――
「ルシ! どうなってるんだ? おい、ルシ、しっかりしろ!」
ラヴァスは虚ろな瞳で立ち尽くしているルシに、ただ声をかける事しかできない自分が歯痒かった。そうする事すらルシの邪魔になるのではないかと危惧しながら。
ラヴァスの声が響いてくる。王国語――生まれた時からルシが親しんできた言葉――が、黒い囁きを押し返そうとする。
ルシの身体が激しく震えだした。両腕で自分の体をかき抱き、嫌々をするように声もなく首を振り続ける。
ラヴァスは心話と肉声の両方でルシの真の名を叫んだ。
「エルシアード!」
ただのヒトの子ではなく、光と闇の血をひく王子としてつけられた名前。長い間秘められ、ルシが受け継いだ知識と魔力の封印を解く鍵として使われたその名はルシに力を与えた。
現実の景色が戻ってくる。足下に妖魔の成れの果てが蠢いていた。腕輪の宝石がきらめき、再び魔剣が現れる。
「塵に還れ!」
両手で握りしめた剣で恐怖の残滓を貫いた。
剣の放つ強烈な光が夜の闇を駆逐する――
核をなくし、活力を魔剣に吸い取られた塵はそれの引き出されてきた奈落へ消えていった。
その直後、魔剣もまた消え失せ、ルシはへなへなとその場にへたり込む。
乱れていた呼吸が落ち着いた後もぼんやり座り続けていると、後ろから頭を撫でられた。というより乱暴に髪を掻き回された。
「ラヴァス……?」
首を反らせて、ルシを見おろしているラヴァスと眼を合わせた。途端にラヴァスが横を向いてしまう。
でも、それで充分だった。ラヴァスがどんなに心配してくれていたか、ほっとしているか、わかったような気がする。だから問われなくても、話し出した。その視線は横手に移動したラヴァスを追うのではなく、大地に落とされたけれど。
「あれは、僕の恐怖だったんです。だからウェリガナイザでやっつけられなかったんじゃないかな? なんとなく、そんな気がする。
ラリックの記憶に潜ってわかったんですけど、ああいった魔物を創り出す時って、普通生け贄を使うんですね。贄の恐怖とか憎悪とかいった負の感情を核にして魔を生成する。
だけど夢の世界には僕しかいない。だから僕の……」
膝に指をくいこませ、大きく息を継いだルシが次の言葉を紡ぐ前に、ラヴァスの手が差し出された。
「立てるか?」
虚をつかれ、ただ目をしばたたいているルシにからかうような声が降ってくる。
「それとも、また寝台まで抱いていってやろうか? 初夜の花嫁みたく」
「ラヴァスっ!」
赤くなったルシが眼前の手をパシッと叩いた。それでもラヴァスはルシを待っている。あたたかい手につかまると、心に刺さっていた氷の棘が溶けていくような気がした――。
※一ヴァズマールは約百五十センチメートル
少しでもこの作品に好感を持っていただけたら、下の★をクリックしていただけると嬉しいです。感想大歓迎。