03
「やった……消えた、消えちまった。やっつけたんだ!」
欣喜する厩番。しかし、その歓声を悲痛な声がさえぎった。
「違う! やつはあっちの世界に逃げ込んだだけだ」
「ルシ?」
いつからそこにいたのか、振り返ったラヴァスはきっちり着替えて剣まで帯びているルシを見て顔をしかめる。
「どうしてわかるのかなんて訊かないでください。ただ、なんていうのか、絆が……」
ルシの視線が落ちつかなげにさまよった。
「多分しばらくは出てこないと思うんだけど……」
言いかけていた科白を繋がず、自信なげに呟く。
「ああ、馬共の面倒をみてやらにゃあ……」
腰を抜かすほど怯えていたというのに、厩番は自分の仕事を忘れていなかった。
馬達は恐れや不安だけでなく、火傷の痛み、恐怖のあまりの疝痛のせいでも騒ぎたてている。厩番は亭主とラヴァスに会釈すると、逃げるように厩へ駆け込んだ。
その様子を見て自分もやるべき事を思い出したというように、亭主が語気荒く詰め寄ってくる。
「あんたら一体何者だ? さっきの化け物はなんだったんだ?」
軽く溜め息をついたラヴァスは首から細い鎖をはずして亭主の鼻先に突きつけた。
鎖の先に白金の指輪が揺れている。指輪を手にとった亭主は頼りない明かりの下でなんとか陰刻を判別した。
長い首を天に向かって伸ばし、翼を拡げた竜。
見たのは初めてだが、話に聞くあの印形指輪に違いない。驚きにヒュッと息を吸い込んだ。
「竜騎士……!」
「ラヴァスアークだ」
鎖を首に戻し、指輪を上衣の胸元に落とし込んだラヴァスが亭主の耳元で二言三言ささやく。
宿へ戻っていった亭主の背中から目を離すと、少し離れて立っていたルシに歩み寄った。
「寝ていろと言っただろう」
「でも、あれは……さっきの妖魔は僕が……」
左手で右手首をつかんで俯くルシ。
その袖の下には外す事のできない腕輪がはめられている。不思議な文様を持つ暗い銀色の輪。力と、逃れられない宿命を象徴する美しい枷。
「まさか……」
ラヴァスの脳裏に彼の理解できない言葉が響いた。その独特の調子から呪文のように感じたルシのうわ言。
「夢の中で、僕はラリックでした」
ラリック、闇の王とヒトの間に生まれた王子。その彼が光の王女とヒトの血をひく娘を愛するという運命の悪戯によって生を受けたルシは、まだ胎児だった我が子を守ろうとして死んだラリックの呪いによって、彼の記憶の一部を受け継いでいた。
ヒトの子供として育てられたルシが出生時に魔力と共に封印されていたその記憶を取り戻したのは、ついこの間の事ではあるが。
「何かに追いつめられて、身を守ろうとしたラリックは魔を生み出したんです」
「しかし、あんな寝言で……。万一発動したらと言ったのは俺だが、そんな高度な術を魔法陣もなしに……」
生成術は生まれ持った魔力の無意識的な発露などで成立させられるものではない。いくら闇の王子の知識があるとはいっても、ルシ自身は闇魔法の修練を積んだ事などないのだから。
「僕だって信じられません。でも、アレは現れた。それに魔法陣はあったんです、夢の中に。
どうしてそんな事ができたのかわからないけど、アレは夢と現実の狭間に具象化したんじゃないかと思うんです。だからあんな風に実体化したり実質のないモノになったりできるんじゃないかって」
「もっともらしくは聞こえるな。だが、こう言っちゃなんだが、本当にアレが……」
言葉に迷ったように息を継いだラヴァスの科白をルシが引き取った。
「僕に生み出されたモノなら、僕らに消滅させられるはず、ですよね?」
魔物の正体――何処で、何の為に、どうやって作られ、なんと名付けられたか――がわかれば使える白魔法の範囲でなんとかなるかもしれない。
だが、その為にはルシが正確な生成の呪文を思い出す必要がある。つまり闇の言葉を使う、という事だ。
言葉を使って思考する者は、言葉によって思考を導かれる。
たとえば、海の帝国で話されている言葉を使っていると女性が生活の全般を取り仕切る事が当たり前だと思える。帝国語では至高神と大海が同語であり、海は大いなる母と呼ばれ、女性は体内に命を育む海を持つ者と呼ばれるから。
逆に王国語を話す者は国や家を指導するのは男の仕事で、やむを得ない場合のみ女性がそれを代行するのだと考える。王、家長など指導者を表す単語はすべて男性を指し、稀に女性がその役割を担う時には女王、女家長と、その人物が『男ではない』事をことわらねばならないから。
闇の言語を学ぶだけでも思考様式が闇に染められる危険をはらんでいる。そう教えられて育ったルシは、自分の心の底にその知識があるのを知ってからずっと《黒い言語》に触れるのを避けてきた。
それなのに、彼の夢は簡単にその情報を拾いあげ、眠っているルシの唇からこぼれ出させてしまったのだ。
「ラリックが紡いだ呪文を王国語にすると大体こんな感じになると思います……」
一瞬身を震わせたルシは深呼吸をして目を閉じた。
「出でよ 我が下僕
常闇の彼方より 奈落の底より
朽ちし者の芥より 我が心の暗闇より
我が元へ来たれ
我 汝を……」
ルシの眉間に深い皺が刻まれ、それに続くはずの魔物の名を求めて声もなく口が開く。が、どんな音を発する事もなく唇が閉じ、かわって開かれたルシの瞳には困惑が宿っていた。
「呪文を言い切る前に俺が起こしちまったのか?」
「どうも、そうみたいですね」
「まずいな……」
対峙した時の感触、ルシの話から推してあの魔傀は奈落の塵に世界を巡る気の流れを流し込んで創られたモノらしい。そう考えると、形が定まらないのは命名によって与えられているべき本質が欠落しているからだろうと思える。
問題は、名前がないと呼び出しが利かない、つたない魔法で滅する事などできないだろう、という事だ。
突然、ルシの体に電撃が走った。
感じる。アレが近づいてくる。
暗闇での視力を持つ瞳がソレを捉えた。息を呑むルシ。
何が起こっているのかを察したラヴァスがルシの視線の先に目を凝らすと、遅く昇った月に照らされた夜の中で、一塊の闇がじわりとその濃さを増していった。
亭主にさせた説得が功を奏したのか、最前まで明かりを漏らしていた背後の窓々は既に閉まっている。
ルシの手が剣の柄にかかった。それが役に立つと思っている訳ではない。無意識にそうしてしまっただけだ。
※疝痛(差し込まれるような、または締め付けられるような痛み)
※陰刻(文字や模様をくぼませた彫り方)
※印形指輪(文書に押し付け印痕を付けてサインとして利用する為の指輪。シグネットリング)
※一塊(ひとかたまり)
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