01
宿場のはずれに建つ《灰色ロバ亭》は《王の道》とか《石の道》とか呼ばれる街道筋ではありふれた宿屋だ。粘板岩の屋根と漆喰の壁は灰色にくすみ、ちらちらと瞬く角灯に照らされた小さな看板の上で、色褪せた驢馬が長年の疲れに首を垂れている。
日はとっぷり暮れてしまっていたが月はまだ昇ろうとせず、星明かりを頼りに歩いてきた旅人が二人、灰色驢馬亭の扉を開けた。
中年過ぎの恰幅の良い亭主が酒場を兼ねた食堂の常連客との雑談を中断し、半分も埋まっていない食卓の間を縫って戸口へ向かう。
「お泊まりで?」
歩きである事と荷物の少なさから、どうせ厩の屋根裏でもあてがうような客だろうと気のない様子で新来の客に声をかけた。
「二人部屋を頼みたいんだが」
背の高い方の男――といっても亭主とどっこいで中背の下の方くらいだが――がベルトにつけた小物入れから銀貨を数枚取り出して答える。身なりを値踏みされて前払いを要求された経験があるようだ。銀貨を目にした瞬間、亭主の顔に愛想笑いが張り付いた。
「良いお部屋をご用意できますよ。お食事はいかがいたしましょう?」
「何が食べられるんだ?」
「じっくり煮込んだ羊肉のシチュー、香草入りの自家製腸詰め、うちのかみさん自慢の甘藍と蕪の酢漬け、上物の乾酪、ほくほくの馬鈴薯……」
「適当に見繕ってくれないか。とりあえず冷たい飲み物を頼む」
男は苦笑を浮かべて、延々と献立を並べ立て始めた亭主を遮ると、寄ってきた下働きに銅貨と肩にかけていた革袋を手渡す。
「ありがとう。でも、これはいいよ」
澄んだ声がこぼれ、連れの少年が背負っている竪琴のケースらしき物を渡すのを断った。
煤けた梁に吊されたひとつきりの洋燈と客のいる席に一本ずつ灯っている獣脂蝋燭だけではわからなかったが、下働きが持ってきた明かりで見ると、二人とも真っすぐな黒髪を肩より短く切っていて、黒い瞳だとわかった。
すらりとした体つきも同じで兄弟かとも思うが、顔立ちはあまり似ていない。双方に端正という言葉が当てはまりはするのだが、二十歳くらいに見える方がきりりとした印象で、少年は――十三か十四くらいか――やさしげな少女のようという形容がぴったりくる。
だが、男の方が腰の後ろにいかにも護身用といった風の長めの短剣を差しているだけなのに対して、少年は立派な長剣を佩いていた。
商用でも公用でも、かといってただの遊山でもなさそうな変わった二人連れだが、銀貨さえ稼がせてもらえるなら亭主には何のこだわりもない。
「お飲み物は麦酒でようございますか? お連れさんには水で割った苺酒などいかがでしょう?」
下働きに荷物を持っていく部屋を指示した後、酔い客達から離れた隅の席へ二人を案内した。
薄荷水を飲み干してほうっと息を吐いた少年を見て、麦酒の杯を置いた男が声をかける。
「ずいぶん疲れてるみたいだな、ルシ。部屋に食事を運ばせた方がよかったか?」
「そんなに気を遣ってくれなくても大丈夫です、ラヴァス」
ルシは慌ててまるくなっていた背筋を伸ばした。
「気を遣ってるのはそっちじゃないのか。ずっとだるそうにしてただろう。昼もあんまり食ってなかったし……」
確かに体がだるかった。食欲もない。それに、さっきから悪寒がし始めている。
(風邪、ひいちゃったかな?)
病気で寝込んだ覚えがないルシは経験から自分の体調を判断する事ができなかった。咳や鼻水でもでれば病気とわかるのだろうが、そういう症状は一切ない。
(やっぱりかなり疲れてるのかな。いろいろ、あったから……)
隠されていた自分の出自を知ってしまった事。世界の運命を左右するような特別な力を担わされた事。歩いて半夜以上家から離れた事がなかったのに、いつ終わるともしれない旅に出た事……。
ルシの社会見学も兼ねたのんびりした旅とはいえ、環境の変化に体がついていっていないとしても不思議はない。
それに、多くの不安。自分がしなければならない事、降りかかってくるだろう困難に対する暗い予想がいつもルシを責め立ててている。
心の弱さのせいで体調を崩したなんて考えたくないけれど……
「……聞いてるのか、ルシ?」
少し、ぼうっとしていたらしい。ラヴァスの目がほんの僅か細められた。ちょっと怒ってるな、とルシは思う。最近、決して豊かとは言えないラヴァスの表情を読むコツがわかってきたところだ。
「具合が悪いならちゃんとそう言えと言ってるんだ。俺はそんなに気がつく方じゃないんだからな」
(嘘つき。ラヴァスみたいに察しのいい人は滅多にいやしない)
出かかった言葉を飲み込んだルシの額に食卓越しに伸ばされたラヴァスの掌が触れる。ひやりとして気持ちいい。
「熱があるじゃないか!」
「え?」
「え? じゃないだろう。自分でわからないのか?
亭主! 悪いが食事は部屋でとる。一人分は粥か何か病人が食べやすいものにしてくれ」
立ちあがったラヴァスはちょうど最初の料理を運んできた亭主にそう言うと、椅子の上に置いてあった竪琴の革帯を肩にかけ、ルシを抱きあげた。
「わっ、えっ、ちょっと、ラヴァス!」
「部屋はどこだ?」
「二階の一番奥の静かな部屋で……。ご、ご案内いたします」
慌てて手近な卓に盆を置いた亭主が先にたつ。
「大丈夫ですっ。自分で歩けます! おろしてください!」
「自分が病気かどうかもわからないような奴に、どうして大丈夫だなんて言えるんだ? 階段でふらついて転げ落ちたらどうする?」
そう言われると反論できない。それでもラヴァスの胸に顔を隠すようにして「でも恥ずかしいじゃないですか」と呟いた。
何かが追いかけてくる――
真の闇を見通す彼の眼をもってしても姿を捉えられない何かが。走っても走っても振り切れない。
もうダメだ。
疲労からと言うよりは恐怖のせいで立ちすくんだ。
近くにいる――
何とかしなければ……。でなければ喰い殺される。あるいは引き裂かれるのか。それとも……。
誰かに心臓を鷲づかみにされているようだった。込みあげてきた吐き気を堪えながら、可能な限りの速さで魔法陣を描きあげる。
気配が彼の髪をかすめた。得体の知れないもの。恐怖を撒き散らすもの。
姿はないのに確かに存在している何か。
彼は素早く印を結び、魔を呼び出す呪文を唱え始めた……
※甘藍=キャベツ
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