26.『眼窩』の魔女イデア
扉を潜ったその場所は一際変わった……どころか、異常な空間が広がっていた。さっきまでと同じような白い光景に、向こう岸が見えないほどまで敷き詰められた本棚の数々。
その先頭にはデスクが設置され、1人の女性がつらつらと本を読み進めている。おそらくあれが『眼窩』の魔女……イデア・アリストロ・レイテンシー様。
先程出会ったレテという魔女を成長させたような、瓜二つの金髪金眼は大人びた様ではあったが、その顔立ちにはまだ少し幼さが残っているような、年齢が全く読めない姿だった。
服装は……何と表現したら良いか分からない。見たことがないものだ。
例えるなら、何か神性を帯びているように見えるというか、一枚の長い布を折り畳むようにして纏い、その上から金色の装飾品を身につけているというか、ともかく純潔の白い服だ。この空間に溶け込みそうなほどの純白である。
「よく来てくれた。息災かい?」
彼女は読んでいた本から視線だけを私の方へ向ける。よく見るとその金眼の内には様々な色が散りばめられ、さながら作り物のように煌めいている。
立ち振る舞いや言動、漂う雰囲気などからも、どことなくフレデリカ先生のような蠱惑的なものを感じざるを得ない。
だが先生と比べると、彼女からは血の通った渋さというか、そういう表情の機微はまるで感じられず、目の前のこの生命体が本当に生きているのかさえも怪しい。
先生が夜空とすると、イデア様は宝石と表すのが正しいだろう。移り変わる夜空の美しさに対して、不変で恒久の、宝石のような美しさ。
文句のつけようがないほど美しいというのに、不気味で怪談じみた感じは変わらないが。
「何てね。キミの師匠の真似事だよ」
「は、初めまして」
「ああ確かに。キミは『初めまして』か。推測の通り、私はイデア・アリストロ・レイテンシー。全ての結末を知る魔女だよ」
「……どうして私を此処に?」
私がそう尋ねると彼女は読んでいた本を閉じ、すらりと背筋を伸ばした。
冷たい無表情のまま、少し考えるような間を置くと
「もうすぐキミの願いは、一つの特異点を迎える。私はキミにそれを伝えたかったんだ」
「特異、点?」
「キミは面白い魔女だ。フレデリカ唯一の成功例だった。力への穢れた欲求を持ちながら、最初はそれに頼らず自分の力で願いを叶えようとしたキミは、私にとっても興味深い。だけどキミはもう手遅れになっている。まるっきり、手遅れさ。ウィスパー・マーキュリーに、もうその願いは叶えられない」
「……」
「だから私は、あの俗物同輩の策に乗っかってみようと思った。キミは何処か無意識で気付いているよ。ある一つの真実に。そしてそれだけがキミを生かす術だ。私たちはキミを生かしたい。だから呼んだ」
「それは……私を呼んだこのタイミングと関係があるのかしら?」
「もちろん。キミは私の教え子リンドヴェルと、言葉を交わしただろう? あれは私があの子に常日頃から伝えていた事だ。そしてあの子の願いはキミに託された」
「私は……リンドヴェルの願いなんて、背負いきれない……私の願いだけで精一杯で……!」
「そうかな? キミはあの子の願いに最も近付いた人のはずだよ」
「でも、あの願いは私なんかじゃ――」
「リンドヴェルの願いは、その本質を辿れば『家族が欲しい』という些細なものだった。人形を作り続けたいという願いも、命のある人形を作るという願いも、突き詰めればそこに至る。そういう意味では、キミは最もあの子の願いに近付いたと思うけどね」
「……」
「ああ、話が逸れた。キミへのメッセージだ。……キミの恋は正しいものではない。だけどキミの小さな願いは、いずれ世界の正しさすら変えられるだけの力がある。誰に否定されたとしても、キミだけは否定するな。キミだけの正しさを。今は叶えられないとしても、その願いは永遠に生き残る」
彼女の言っていることは、私が全てを理解するには到底追いつかないことだらけだ。しかしその言葉は、自己否定の闇に覆い尽くされていた私の心の中に、何か小さな灯火を宿した。
「特異点は来た。私はゆっくり、此処でその結末を読ませてもらうよ。新作だ」
彼女は読んでいた本を再び開く。一度閉じたその表紙をよく見たら、そこには「Whisper Mercury」と書かれている気がした。
「何か尋ねたいことは?」
「イデア様は……やっぱりリンドヴェルを、助けてはくれないのね」
「助けない。私が彼女を魔女にした瞬間から、特異点の無い結末が決まっていたからね。私はその結末を読むだけ。作者は君たちだ。筆を入れ直してはいけない」
「……もう一ついい?」
「ああ」
「魔女って……何の為に生まれたの?」
彼女は手を止め、自分の体験したこと全てを思い出そうとしているかのように、本棚が連なる白い天井を仰いだ。すぐにその答えが見つかったようで、彼女はごく簡潔に、答えを教えてくれた。
「恋をするためだ」
「……イデア様や先生も、恋をしたの?」
「したよ。何万年も前に。私は諦めたから此処にいる。フレデリカは諦められなかったから彷徨っている」
「そう……そうよね。恋することって、苦しいものね」
私はきっと、この時点で「自分の結末」を決めていた。そしてその結末が、私の望む結末には至らないことを理解していた。最初から、私が幸せになれる道など存在しなかったのだろう。
だけど私はその意味するところを信じたい。私の恋そのものは、決して間違ってなどいないということを。
何度も世界に否定された。その度に、おそらく何度も、醜い自分が顔を出した。最後の最後は、私ですら私を否定しきってしまいそうになっていた。
私はリンドヴェルに願いを託された。多分これを、ウィスパー・マーキュリーは無駄にしてしまうだろう。
何故なら私は、散々やり方を間違えてしまったのだから。それでも、間違いは無意味ではない。願いが生き残れば、いつかそれは正しい道を描く。
どんな手段を使ってでも、私の願いを生き残らす。リンドヴェルの願いを生き残らす。そして今の私に出来る、最後の仕事は――
「迷いは消えたね」
「……ええ」
「ならお別れだ、ささめく魔女くん。キミの恋に、幸福があらんことを」
それでいい。それがいい。
私が幸福になるんじゃない。
私の恋が、幸福になる。
それだけを願えれば、今はそれでいい。これが私の結末だ。
――イデア様やあの空間が、遥か彼方に遠のいていく。白い光景が目まぐるしく変色し、最後には黒く染まって、消えた。
私は目を閉じ、倒れている。時刻は昼だろう。太陽が頭でジリジリと灼けているのを感じられる。
目を開けると、そこは私がレテに突き飛ばされたまさにその場所。身体は痛むが、最初ほど深刻じゃない。
天気は清々しいほどの晴れ。
心臓の奥に渦巻いていた全ての迷いが切り刻まれ、代わりに最後の使命が刻み込まれているように感じた。
「……帰らなきゃ。マーシレスに……会わなきゃ」
此処は家からどれくらい離れた場所だろう。
私の信じた生き方が、私の背中を押す。私の信じた正しさが、私の脚を歩ませる。
何かを見出すこともなく蓋をしていた感情が、とうとう堰をきって流れ始めた時だった。
殺してしまおう。
そうしなければ、私の物語は終わらない。次には進めないんだ。
面白いと思ったらブックマークや、ページ下部の☆☆☆☆☆マークをタップして作品評価をお願いします。
最終話、書き終えました。最後はポンポン進めていきます。




