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短編小説

14年分、遠くへ。

作者: 虹色 七音

 知らない人のふかした煙草を吸った。

 煙草をくれとねだられて自分の咥えているものを渡すような変態野郎の煙草でも、味はそこまで変わらない。少し苦いような気もするが、煙草なんてきっと苦くてなんぼだろう。

 どうかしてるやつの唾液を咥えるのだって別に気が進むわけじゃないけど、どうせ私の方がどうかしてしまっているんだから、煙草だって綺麗潔白なものより14歳に煙草を渡すくらいのどうかしてしまっているやつの唾液がついているくらいでいいのかもしれない。

 そんなものだろうか。

「……さてな」

 そんなものかもしれない。

 段々と煙草の味にも飽きてくるけれど、せっかく手に入れた煙草は残りの一ミリメートルまで吸い尽くして味わいたい。

 煙草のある世界でもゴミだけど、煙草のない世界はもっとゴミだ。

 多分、きっとそう。

 風が吹いて煙草の煙が揺れた。顔にかかって目が痛む。

「けぇ、えっ。えほっ」

 寒かった。

 体を覆うぼろ毛布を、抱くようにしてぎゅっと締める。毛布かどうかすら怪しいぼろだから、あまり意味はなかった。遠くまで行くのに邪魔だったからと、持ち出した羽毛布団を捨てたことを悔やんでアスファルトを引っ掻いた。

 異臭がするやつでも、ぼろよりは温かくしてくれる。

「……買おうかな。あったかいの」

 あまり面白くない冗談だった。少しも笑えない冗談だった。

 通帳の残高を全部下ろしたにしては寒い金額だ。あまり無駄遣いできない。誰も信用しない女だったから、全財産だと私に思い込ませていた通帳も本当はダミーだってこともあったのかもしれない。

 貯金ができる女には見えないが、そう見えて、貧しいと思われている自分が本当は金を持っている優越感で生きている女だった。我が母ながら意地汚い女だったが、通帳を分割する脳みそくらいはあったのだろうか。

 一応生きているはずだし、こちらに関心を持たないなら金額が少ないことくらい安いものかもしれないけれど、あの女に出し抜かれたのだと思うと憎たらしくてたまらない。殺しておけばよかった。

「うらみやこえをめにつどえ」

 とても懐かしいフレーズだった。

 母が昔考えたおまじないだと言っていた。自分でおまじないを考えるなんてどれほど痛くて愚かなのだろう、と考える脳みそが昔の私にはなかった。

 昔の私が純粋にもおまじないとして覚えてしまったフレーズだ。

「……うらみやこえを、めにつどえ……。えー……」

 えーって、口に出して呆れる。

 呆けた口から煙草がこぼれて落ちた。

「うそでしょ。忘れるなんて……うそ、嘘ぉ……」

 続きが思い出せなかった。

 覚えているはずなのに、覚えていたはずだと思うんだけど、なにも出てこない。恨みや声を目に集えて……それからどうするんだったか。どうすると、あいつは考えたのか。母の思考を追いかけるような真似をする自分に苛立った。

 母の顔を思い出せるか、少し自分を疑った。

 思い出せたが、それは先週よりもきっと曖昧だった。

 忘れたと気付いたときの自分の脳を疑うような思いから、一転して母が頭から消えていったという不思議な感覚に変わっていく。

 心が晴れ渡り、冷たくぬめったものもまた現れた。

 子供が大人になることだと思った。

「…………たぁ」

 姿勢を変えると、足に煙草が触れた。素足で踏み消すことは躊躇われた。

「子供じゃ、ないっ……!」

 頭上から電車の通過する音が響く。高架下はうるさい。

 無性に嬉しかったし、気分は悪かった。

 いつか母のことを思い出せなくなったら、目の色も鼻の形もその声も、なにも思い出せなくなる日がきっと絶対に来ると確信した。私はそれに嬉しいと感じたはずだ。

 なぜか胸が痛かった。

 その日のために遠くに行かなければいけないと感じた。そして自分がそう感じていることに気付いた時、弾けんばかりの興奮が身を打ち震わせた。心の中にあった何かが、あるべき場所に収まった気持ちよさで血が溢れんばかりに踊っていた。

 なぜ自分が遠くへ行こうとしていたのか、それが分かった。

 遠くへ行こう。

 そう思った。

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