床の傾斜
この世界には段差を解消した家というのは存在していないらしい。
トイレに合わせて家の作りを変更するか悩んでいると僕が伝えると、親方は意味が分からないと、再び眉間にしわを寄せた。
「どういうことだ?」
「パーツ工房では、トイレの中だけで段差をなくそうとしていました。だから座るところまで急勾配の坂を上る感じの床とかを模索していたようです」
僕が説明を始めると、親方も急傾斜の床を見せられたことがあるらしく、頭の中にあの床を思い浮かべたようだ。
工房側は改良を進めているような話をしていたので、今回僕が見たものと同じではないかもしれないが、おそらく親方も過去にアイデアを求められ、そして解決策を導き出せなかったのだろう。
親方はため息をついた。
「ああ、あれはダメだろう」
僕があの床を取り入れようとしていると思ったのか、親方は即座に反対した。
「僕もあれでは逆に危険だと思いました。特に下りは、踏ん張りが利かないと倒れてしまうかもしれません。そもそも踏ん張りがきくなら段を登ることができるので、そのような配慮は不要かなと」
「その通りだ」
あと、床が斜めで踏ん張りが聞かないということは、用を済ませる時に足に力を入れられないということだ。
それも実によくないと僕は思ったが、家の構造とはあまり関係がないのでとりあえず黙っておいて話を進める。
「でも、トイレの中の高さはどうしても必要になりますよね。中身を取り出さないといけないですから」
「ああ、そうだな」
トイレの高さは今より高くはできても低くはできない。
低くすればするほど保管容量が少なくなってしまうからだ。
一人暮らしを貫くのならいいかもしれないが、家族の住む家でそれはできない。
収まらなくなって庭にむき出しで置いておくような事はしたくない。
だから回収の人が来るまで、むしろ多少遅れても中身がそのまま収まるだけの容量を確保する必要があるのだ。
その適正容量を備え、不快感を減らす工夫をし、使い勝手を考えて日々進化を続けているのがトイレのパーツ工房のトイレということになるのだが、その工房がバリアフリー実現に動きながら成功に至っていない。
本当は真摯に対応してくれた工房に、僕の知っている前の世界のトイレを見せてあげたいと思ってしまうくらいなのだが、見せたところで制度と構造上できないことなのだから悔しがらせるだけだろう。
でもこの世界の制約の中でもできる事はあると僕は考えた。
「それならば、トイレまでの廊下を上り坂にして距離をかせぐことで坂を緩やかにして、トイレの中は段差がないようにできないかなって思ったんです」
僕は家の廊下をスロープのようにするのはどうかと考えていた。
ただ家の敷地が狭いのでそれを叶えようとすると、家全体、もしくは廊下全てが斜めという特殊構造になってしまう。
けれど今後、両親が年老いた時、あまり考えたくはないが、もし怪我をして移動が大変になった時、段差はできるだけない方がいいだろう。
「そりゃあやめたほうがいい。少なくともお前の家の敷地面積じゃあだめだろう。急じゃない勾配を作るのに家の床全体が傾いちまう気がする。人間は平らな床で生活しないと体に悪いって話だ。トイレのために体を壊す必要はねぇ」
親方に言われて僕はその考えを諦めることにした。
前の世界のテレビ番組か何かで、地盤沈下などで傾いた家で生活していた人が、平衡感覚を狂わせて生活困難なレベルになってしまっていると聞いた記憶がある。
それによく思い返してみたら、体だけではなく、そういう家は床が斜めだから、ドアが閉まらないとか、勝手に開いてしまうとか、家具が滑ってくるとか、棚の者が落ちてくるとかそういう話もあった。
家をそんな危険なところにしてはいけない。
それでも僕は、何らかの形でそれを実現できないかと思っている。
実現できたら、バリアフリーの事を思い出させてくれたトイレのパーツ工房の人とも共有したいのだ。
「やっぱりそうですよね……。でももし、床面積の広い場所や、公共の施設だったら、そういうのって実現できるのかなって思います。複数のトイレを管理している御屋敷もあるって聞いたので」
僕が諦めていない事を察したのか、親方はため息をついてから言った。
「なるほどな。まぁ、そのアイデアはとりあえず持っておけ。ちなみにその話、あっちの工房ではしてないな?」
「はい。してません。その話を聞いて、気になって考えながら家に帰る時に思いついたものですから」
トイレのパーツ工房では話をしていないが、実現できそうなら共有するつもりだった僕に、親方は釘を刺した。
「じゃあ、その話はしばらく口に出すな。もう少し技術が追い付いたら、その案を採用できる案件が来るかもしれんからな。お前が考えたアイデアだ。自分で形にするべきだろう。他の奴の手柄にする必要はない。いいな。必要があればそのタイミングで確認する。幸い他のはまだ来てないしな」
「わかりました……」
バリアフリーという案そのものはこの世界でも受け入れられそうだ。
ただ、この世界にそのノウハウはない。
僕にも専門家ほどのノウハウがあるわけではないが、前の世界では普段から何の気なしにそういうものに触れてきた。
だから、何でここにスロープがないのか、手すりをつければいいのにとか、この世界に置いて今までも気になる事は多くあった。
そして親方に確認した結果、バリアフリーという考えはやはり浸透していなくて、そのアイデアは貴重だから、僕の手柄にできるよう親方が取り計らってくれるという。
つまり、僕はまた、前の世界の知識を自分の発案としてこの世界で世に送ることになるのだ。
バリアフリーの考えそのものは多くの人の役に立つものになるのだから、出す事を惜しむつもりはない。
でも僕の考案したものとして世に出されるのは何だか申し訳ない気がする。
ただ僕以外、実際にバリアフリーがどういうものなのかを見た人はいないのだ。
この知識がもし、工房や親方の役に立つのなら、出さないという選択肢はない。
そして親方が他の、つまり兄弟子たちに聞かれていない事を確認したというのは、バリアフリーに関しても、版画と同様、大きな商材になる可能性があるということだろう。
とりあえずこの件に関しては急いで考える必要はなくなった。
少なくともうちのトイレに関しては普通のもの、僕が気に入った組み合わせのものを導入する。
親方に報告をして決まったのはそれだけだ。
けれどこれは大きな一歩だ。
あとはどんな家にしたいのか、トイレの配置が削られる事を考えて残りでどうするのか考えればいい。
僕は親方にお礼を言うと、仕事に戻ることにしたのだった。




