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インクの違い

持って戻ってくると、すぐ版の前で僕が置いている道具の隣に同じものを用意し始めた。

別に配置まで同じである必要はないけれど、とりあえず全てを真似から入るつもりなのだろう。

そうして準備を終えた紙工房の親方は、うちの親方に声をかけた。


「ところでちと確認したいことがある」

「何だ?」

「やっぱりさっきの、普通のインクじゃねぇな?容器に入れて並べればより分かる」


インクの入った容器二つを見比べながら彼がそう指摘すると、うちの親方はニッと笑った。


「流石だな」

「そりゃあ、うちは紙屋だからな。いくらまんべんなく薄くつけたところで、乾いてないうちに縦にすればインクは下に流れちまう。見本のこいつにはそれがない。あと、見たことないテカリがあるな。文字を書いたインクと、明らかに乗りが違う。紙が同じならインクが違うとしか考えられねぇさ。それにさっき俺がそれを言いかけた時、わざと話をすり替えただろ」


インクについては秘匿情報だ。

だから糊をこっそり使ったわけだけど、紙工房の親方は気がついていたから僕の持ってきたインクを使いたいと言ったようだ。

実際に使用してみればインクの質が分かるかもしれないと思ったのかもしれない。


「まあ、一回普通のインクを使って、それからうちで持ってきたインクを使ってみればいい」


親方がそう言うと、紙工房の親方は不安そうに言った。


「それは……インク同士が混ざってもいいのか?洗ってからの方がいいとかは……?違うインクを使ったせいで使いものにならなくなるなんてことになったら困るんだが」


確かに洗ったらきちんと乾かせとか、カビが生えたりすることもあるとか、インクが乾く前に落とさないといけないとか、扱いが厳しいという話は確かにしていた。

だから違うインクを使う、版の上で二つのインクが混ざる、それで版がダメになっては意味がない。

それも全て、僕の使用したインクが、違うものという認識があるからだろう。

でもインクはインク。

僕のインクには混ぜ物がしてあるだけなので、それが混ざっても問題ない。

けれどそれをまだ説明する段階ではない。


「それは問題ないです。最後に洗ってまとめて落としてしまえば大丈夫ですから」

「そうか。じゃあ、やってみるとするか」


僕が秘匿事項に触れないよう何とか答えると、とりあえずダメになる心配がないのならと少し不服そうに作業を始めた。



こうして再び出番を迎えた僕だが、今度は指示係に徹することになった。

さすがベテラン職人としか言いようがない。

例外なく彼も僕よりはるかに器用だった。

職種は違っても、工房を支えるだけの技術を持っている親方だと感心しきりになってしまった。

そうして僕の指示がなくてもほとんどの作業をスムーズにこなしてしまった親方だが、版の上に紙を乗せるところまでくると、作業の手を止めため息をついた。


「こりゃあ、紙を乗せるまでもねぇ。どんなに薄くまんべんなく塗っても微妙に滲むのが明らかだ。見本が滲まないのは、やっぱりインクが特殊だからだろう。やるのは紙の無駄だな。それに版がインクを吸っちまってるから、紙をこすった時に木材から染み出るだろう」


普通のインクは木材の隙間にしっかりと入り込んでしまう。

当然そこはインクが溜まっている場所なので、紙を置いたらそこからもインクを吸ってしまい滲むだろう。

それでなくてもこの世界の紙は高価なのに目が粗くて質が良い訳ではないのでなおさらだ。

紙工房の親方の言う通り、紙の無駄になるのは明白なので、手を止めたのはうなずける。

うちの親方もそれを理解したのだろう。


「まあ、違いが判ったんなら紙を無駄にする必要はない。とりあえずさっきのインクを使って試してくれ」

「ああ……」


うちの親方からインクの使用許可は出たが、すでに版にはインクが付いている。

紙工房の親方が染み込んだインクを気にしていることに気が付いた僕が、おこがましいと思いながらも助言する。


「付けたインクについては、乾いた布で一度吸ってしまえば、こちらのインクを付けても滲まないと思います」


さすがに糊が薄まるほどのインクが付いた状態だったら難しいだろうが、糊の入ったインクの方が多ければ、塗った時に版の上のインクと混ざるので問題ないだろう。

それに糊を混ぜたインクも空気に触れて乾燥し始めているはずなので、むしろちょうどいいくらいかもしれない。

僕はそう思って彼に伝えるたが、紙工房の親方には少し疑いの目を向けられる。

インクの製法を教えていないのだから仕方がないだろう。


「そうか。まあ、作ったやつが言うんだったらそうなんだろうな」


紙工房の親方はここで問答をするより作業をして覚えることを選んだ。

そうなればやはり動きが早い。

それにすでにやり方も完全に頭に入っているようで、手際がいい。

僕のインクを版に塗るところから始めた紙工房の親方は、あっという間に一枚の複製を完成させた。


「いい感じだな。見ていて気になることはなかったか?」

「特にありません。手際の良さがさすがとしか……」


僕がのんびり版にインクを塗ったり、無駄にできないし失敗できないとおっかなびっくり紙を置いていたのとは違い、さっと作業を済ませてしまう。

それでも出来は非常に良い。

そして持ち上げた紙だが、インクも流れることなくきちんとついてくれていたので、僕は胸をなでおろす。



そんな僕をよそに、紙工房の親方は紙を少し離れた場所において戻ってくると、版を見ながら改めて色々口にする。


「とりあえずこの作業は二人一組が理想だな。違いが良くわかった。こいつは今、洗った方がいいよな」


インクが付いたまま乾いてしまうのはよくない。

それに早く洗った方が落ちやすいのは確かだ。

今日はもう使わないというのなら、交渉の話を終えてから洗うより今の方がいい。


「はい。それなら私がやります。あ、そうだ、もし今後これを洗うのに、たらいとか使うんでしたら、専用のものを用意した方がいいかもしれません。同じもので服とか洗ったら、たらいにインクが残ってた場合、洗ったものがみんな黒くなってしまいます」

「そうか」

「でも版の方はこの状態ならそんなに落とすのは難しくないんです。今日は水をかけてこすって落としてしまえばいいと思います。洗い場を貸してもらっていいですか?」


後片付けは雑用になるだろうから、当然下っ端である僕の仕事だ。

場所を教えてもらって、版だけではなく、ついでにインクの入った容器と布も洗ってしまいたい。

版をこするのに布を使うから全部まとめてやればそれで終わりだ。

紙工房で用意したものも全部洗ってしまおう。


「それで問題ないならそうしてもらえると助かる。たらいの予備はないんだ。あ、洗う様子も一応見ておくか。どんな風に落ちるのか、落ちにくいところはどうしてるのかも教えてくれ。水をかけるのを手伝えばいいか?」


僕がとりあえず版の上に布を置いて、それを持ち上げて洗い場の場所を確認すると、紙工房の親方は、片付けも確認するという。

普通に洗うだけなので特別なことは何もないけれど、彼には思うところがあるのかもしれない。

洗う方法は、ブラシや洗剤がないので、さっきの布をスポンジ代わりに使い、水で洗い流していくくらいだ。

でも、彼がきて、洗い場の場所を案内してくれるなら助かるので、断る理由はない。


「はい。ではお願いします。あの、そちらのインクの入った容器はどうしますか?インクを捨ててもいいのなら一緒に洗いますけど……」


布が吸ってしまう量だから、布に吸わせて運んでもよかったが、インクも一応、安くはない。

不純物が入っているのを除けば、インクだって布から絞って使うくらい無駄にはしたくないものではある。

でもさすがにここでそれをするのは違うし、だからと言って自分の判断で捨てるのも気が引ける。

せっかく声をかけてくれたのだからこのタイミングでインクの扱いを確認しようと思ったのだ。


「そうだなあ。とりあえずうちの容器にインクをまとめて、そっちの工房の容器は洗った方がいいだろう」


混ぜてもいいと分かったからか、僕の作ったインクが気になるからなのかは分からないが、インクは紙工房の用意した容器にまとめることになった。

僕の作った糊の入ったインクが、紙工房の用意した普通のインクの中に落ちて沈んでいく。

そうして移し終えたので、僕が空になった容器も手に持とうとすると、彼はそれを自分で持つという。

そして版の上に乗せた布を手にとって容器の中に入れる。

確かに版は高価なものだ。

それだけで持った方がよかっただろう。

壊れないことが前提だが、トレイのように扱ったのはちょっと良くなかった。

僕がその事に気が付いて申し訳なさそうにしていると、それを気にする様子を見せず紙工房の親方は言った。


「じゃあ、これは俺が持つ。洗い場はこっちだ。ついてきてくれ」

「はい。お願いします」


こうしてうちの親方を応接室に一人残し、僕は紙工房の親方についていき洗い場に行くことになった。

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