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桜幻戯  作者: 篁頼征
6/11

涼風

文中に「帰る」と「還る」が混在しているのは、発言している人の意識の問題であり、それぞれ誤字ではありません。

 暑い日が続き過ぎて、若旦那もここ数日ばかりは流石にちょっとのぼせたような顔をしていなさる。

 勿論、水も食事も、それからほんの少し塩も摂るようにと店の者には言い聞かせてるから、夏の暑さに疲れては居ても体調を崩すような使用人はいねえんだけどさ。

 でもよ。頭が煮えたような気分にはなるんだよなぁ。


 そのせいか、普段は見慣れないものには極力触らねえようにしてるんだけどよ。その時はついふらっと触れちまったんだよな。

 唐渡りか、それとも出島あたりから流れてきた品かは判らねえんだけどよ。極上のびいどろってことは一目で判るものがそこにあったんでい。厚みはなくてよ、あちらが透けて鮮やかに見える軽やかさがなんとも目を惹いたんだよなぁ。




「あ?」

 おいらは、気付くとそのびいどろを手に、知らねえお屋敷の前に立ってたんだよな。場所が判らねえなら帰りようもねえし、帰り方も判らねえ。さてどうすべきかと迷ったんだけどよ。とりあえず知らねえお屋敷でも手入れされてる風でそこに住んで居なさる人は居るだろうし、お江戸まで帰れることが出来りゃ時間はかかっても佐倉屋へ辿りつけるだろうとおいらは腹を括ることにしたんでい。


「あい、すみません。道に迷いやした。帰り道を教えては頂けませんか」

 江戸言葉のが慣れてるけどよ。でもなるべく丁寧に喋った方が相手に伝わるし、その方が良くして貰えるからと若旦那に言われてるおいらは、いつもより少し声を張って訊ねてみることにしたんでい。

 だって、お屋敷の人がすぐに気付いてくれるか判らねえし、何か作業していなすったら気付くどころじゃねえもんな。

 少し間を空けて三度、そう言ってみたらよ。お屋敷の扉が音もなくそっと開いてよ。見たこともねえお人が出てきなすったんでい。

 歳の頃は大旦那様よりも上だろうなって風情の、厳つい感じのお人なんだけどよ。どこか愛嬌というか、親しみ易さもあって。それに困ってたところに出て来てくれたもんだから、おいらは嬉しくなっちまったんだよな。

「騒がしくしちまいやして、すみません。おいら、迷いこんじまったようで。すぐにお暇しやすんで、お江戸への道をお聞かせ願……」

「おお!」

 そのお人はおいらを見ると、なんか知らねえけど嬉しそうな顔をしていなさる。

「うちの坊ちゃんの気配がする客人をお迎えすることが出来るとは……。坊ちゃんはもう長いことこちらにいらして下さらぬのですじゃ。もし。ご迷惑でなければ、坊ちゃんの話をお聞かせ願えませんかのう」

 格の高い武家屋敷のご家老さまに居そうな風格でもって鷹揚に言われたんだけどよ。「坊ちゃん」って誰でい? おいら、坊ちゃんなんて言われる知り合いなんざ、若旦那以外には知らねえんだけどよ。

「あの……」

「ああ、坊ちゃんと言っても人の世に生きる方には判りませんな。うちの坊ちゃんは河太郎と名乗っておられますじゃ」

「……は?!」

 この立派なお屋敷は、河太郎さんの家だったらしいってことだけは判ったんだけどよ。




「ささ、こちらへどうぞ。お茶もお出しせずにお還ししたとあれば、手前どもが叱られてしまいます。日のあるうちにはお戻り頂けるように致しますゆえ、どうぞお上がりくだされ」

 早く帰って若旦那に詫びなきゃなんねーんだけどよ。河太郎さんは若旦那と懇意にしていなさるし、何かと世話になってるみてえだし。河太郎さんを大事にしていなさる風情のご老人を無下にも出来ねえよなぁ。ひとまず名乗り合って、ここへ来た経緯とを話してよ。

「おいらが知ってることは大したものじゃござんせんが、それで宜しければ……」

 遠慮しいしい、そう言ってみたんだけどよ。ご老人は本当に嬉しそうに河太郎さんの話を聞いて下さる。一緒に蛍十郎さんのところへ行った話だとか、たまに佐倉屋へ来て若旦那と仲良さそうに飲んでる話とか、思いつくまま、してたんだけどよ。

 おいらも長居しちまったせいで、ついうっかり、口が滑っちまったんだよなぁ。

 五月雨の頃の、いざこざの話になった途端、ご老人の気配が酷く変わって、顔色もどす黒いものになっちまったんだよな。

「か、河爺さん。おいら何か悪いことを言っちまいやしたか……?」

 恐る恐るそう言ってみたらよ。どす黒さが少し薄くなった気はしたんだけどよ。

「ああ、これはこれは申し訳ない。折角の人の世からのお客人がお見えになっているというに」

 ちいと居住まいを正して、咳払いを一つ。それで重苦しい気配が殆どなくなっちまったのは、流石だよなぁ。


「坊ちゃんは幼い頃から少しやんちゃでしてなぁ。妖として、人の世と関わり合うのも人助けをするのもまああまり褒められたことではございますまいが、悪いことという程でもないとお目こぼしをしておりましたのじゃ。それが水蛇妖怪に因縁を付けられ、うら若い女子に思いを寄せられているとは……!」

 目尻から涙が溢れてきて、河爺さんはあっという間に河童の姿に変化しなすった。

 いや、元に戻ったってことだよな、多分。

「以前より坊ちゃんには早いうちに嫁を娶って家督を継いで頂きたいとお願いしておったのですじゃ。早いうちに縁談をまとめてしまわねば……!!」

 なんか、おいらは置いてけぼりになった気分を味わってたんだけどよ。

「こうしてはおられませんな。すぐさま、佐倉屋の主人殿と話をせねば……! 桜吉殿、先のびいどろを少し貸して頂けますかな?」

 にっこり笑った河童の姿って、なんかちっと怖えなと思ったんだけどよ。逆らうことも出来ねえし、まさか壊す訳でもねえよなと思って、懐に仕舞っておいたびいどろをそっと出して渡したんだよな。

「ああ、これは紐が切れて舌が無くなっておりますな。では」

 どこから取り出したのか、紐と舌と短冊を手早く付けて、ふとおいらを見て思い出したように人の姿に戻ってよ。

「桜吉殿。びいどろを振って下さらんか」

 そう言うもんだから、壊れねえように、そっと静かに揺らしたんだよな。


 ちりん、ちりりん。


 ちょっと硬めで、でも軽やかな音色が夏の暑さを払うように響いてよ。

 くらっとしたその次の瞬間には、おいらはもう佐倉屋の、びいどろを見つけた場所に居てよ。隣には河爺さんもいなすった。

「ああ、良かった。桜吉。河爺さんも一緒だったかい」

 ふと若旦那の声が聞こえて、振り向くと若旦那と、その向こうには町人姿の河太郎さんが居てよ。ぎょっとしたような顔をしたのが見えたんだよなぁ。

「若旦那! すいやせん、不用意にびいどろに触っちまって」

「いや、教えておかなかった私にも非はある。それにびいどろに触れても特に怪我をするようなことはなかっただろう? 河爺さんのところへ行く道具だからね」

 なんでも、先々代の河太郎さんが、二代目佐倉屋の主人と懇意にしていて、頂いたものだっていうんだから驚きだよな。




「何でも、上方の先の方、筑紫の辺りの出身の河太郎さんだったそうでね。一晩に徳利を何本も空けてしまう程の酒豪だったとか。二代目も酒好きでね。非常に意気投合したそうだよ」

 河童と酒盛りする小間物問屋の主人って、おいらは若旦那だけだと思ってたんだけど、そのご先祖さまがそういうお人だったとは初耳だったぜ。

「そんで、行き来をするためにこのびいどろを?」

 若旦那はそこでにやりと笑いなすった。普段は花魁顔負けに艶やかな笑い方をするんだけどよ。なんか、今日の笑い方はひどく男くせえ笑い方だよなって思ったんだよな。

「これはね、確かに行き来することが出来るんだが。自分たちだけが楽しむのは申し訳ないからと、おまけをつけてくれたそうだよ」

 それが若旦那の笑顔の訳ってことですかい。って口には出さねえけどよ。

「このびいどろ……風鈴はね、音で暑さを払う風を起こすのだよ。だから、先程桜吉が出て行った時より、少し涼しく感じられるだろう?」

「え、でもおいらが触った時は、この紐がなくなって音が鳴らなかったんじゃ」

「お前があちらへ行った時、河爺さんがこの風鈴を直してくれただろう? だから、音が鳴ったあちらと、音で辿りついたこちら。その両方の暑さが払われるのだよ。佐倉屋の代々の主人の中には下戸も居て、長いこと風鈴を使っていなかったからね。置いたままになっていたのだけれど」

 なるほどなぁと思ったけどよ。でも、河太郎さんに頼めば直して貰えたんじゃねえのかなって思ったんだよな。でもそれを言う前に顔に出てたらしいんだよな。

「河太郎さんは手先が不器用だからねぇ。これを直せるのは河爺だったけど、河太郎さんは家を継ぐのも祝言も逃げたかったから、河爺には近寄りたくなかったんだろうさ」

 そこでおいらはふと河童の二人を思い出したんだよな。

 恐る恐る振り返ると、ものすごく爽やかな笑顔の河爺さんが、焦りまくってる河太郎さんを追いかけていなすった。

「まあ妖だから急ぐ必要はないんだろうけど、ね」

 若旦那がそっと片目を瞑っていなさる。その仕草はどこぞの小町娘が袖でも噛んで悲鳴を上げそうなほどだったんだけどよ。おいらは楽しんでるようにしか見えなかったんだよな。まあこんなに焦って逃げまくる河太郎さんなんて、そうそう見れるもんでもねえけどよ。




 それからたまにだけど、河爺さんが佐倉屋にふいっと現れるようになったんだよな。河太郎さんは棲みかを河爺さんには内緒にしてるから、こっちの方が捕まえやすいんだとか。なんか、初めて会った時より河爺さんが楽しそうだから、これでいいのかも知れねえなって、おいらは思ったんだよな。

この夏は暑すぎて頭が煮えてたら桜吉が風鈴を鳴らしてくれました。

風鈴が出てきたのは江戸時代末期らしいのですが、まあこれは妖のものですし、許して下さいませ(笑)

色々と制限があったり楽しみが減ったり引き籠ったりな夏ですが、ほのぼのとした爽やかな風が皆さまの憂いを少しでも晴らしてくれますように。

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