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流れ星の指定席

作者: たきかわ由里

 三日ぶりに来る学校。

 とは言え、別に連休があったわけでもないただの金曜日。

 下駄箱で靴をはきかえ、2年7組の教室へと足を向ける。

「あ、キヨちゃんや」

「今日来てるんやん」

 うしろで、自分の噂話をしている少年たちの声がする。

 ほんの一年前まではなかったこと。

そして、今では当たり前な日常になってしまっている。

 もう慣れたこととはいえ、それでも少し気恥ずかしい。

 何気ない様子を装ってそちらを振り向くと、三人でこちらを見ていた。

 手を振られたので軽く振り返すと、その中の二人がガッツポーズを決めている。

「うっわ、朝から見れると思わんかったー!」

「あ、握手してくれへん?」

 何と言う特徴もない一人がまっすぐ右手をさしだして来たので、キヨリもバッグを持ちかえてその手を握る。

「今日手ぇ洗われへん!」

 握手会では飽きるほど聞く言葉だ。

「ありがとぉ」

 そう言って小首を傾げて微笑む。

 最近ダークブラウンにカラーリングし直した、レトロ風のボブカットが肩でさらさら揺れる。

「俺、めっちゃファンなんやん。今日もこれ買って来たんやて!」

 あわててバッグから、キヨリがCMに出演しているお菓子を取り出して見せる。

 それから思いついたようにペンケースからサインペンを差し出した。

「なあ、ここにサインしてもらえへんかな? これ、食わんととっとくから!」

「ええよ。ここでええ?」

 ペンを受け取り、パッケージに簡単なサインを入れる。

 そろえて彼に返すと、彼はその小さな箱をぎゅっと抱きしめた。

「ありがとー! 大事にするわ」

 そろそろ教室へ、と言い出そうと思ったその時、次の少年のグループがやって来た。

 またしても同じように声をかけられる。

 予鈴でも鳴ってくれれば振り切って教室へと逃げられるのだが、あいにくまだまだ時間は早い。

 それで彼らの申し出を断る理由を考えるのも面倒だ。

 キヨリは、アイドルだ。CMを何本か持ち、バラエティのゲストも多い。

 レポートの仕事もいくつかこなしている。

 水着グラビアなどの仕事は滅多に回って来ないが、写真集くらいは出している。

 歌はあまり得意ではないので、デビューの時に一度CDを出しただけだ。

「キヨリ」というのは本名の「川内清里きより」から切り取った芸名。

 さわやかなイメージの売り出し方であったので、アルバイトにはうるさいこの学校も黙認してくれていた。

 この学校を気に入っているキヨリは、仕事があるたびに東京へ出ている。

 まとめて仕事をして来ることが多いので、休む時は数日に渡る場合が多い。

 しかも、一番端の女子クラスにいるのだから、彼女を見つけた男子が少し騒ぐのも無理はないことだった。

 それを避けたくて早く来たのに、どんどんギャラリーが増えて行く。

 仕事で鍛えた営業スマイルで、次々と頼まれるサインや握手をこなしていると、背後から首根っこを引っ張られた。

「きゃっ」

 ぐらりと揺れ、後ろへ一歩下がる。

 その時、一瞬目に入った斜め前方の違和感のある雰囲気。

 最初からいた男の子の一人だ、とやっと気付く。

「おっはよ。何やってんねんよ、キヨリ」

「あー、おはよぉ。アイミン」

 彼女を引っ張り、背中を叩いたのは同じクラスで昔から仲の良い林田愛美あいみだった。

 キヨリの笑顔が引きつっているのを感じとったのか、マネージャーのようにキヨリの前へ出て行って、男子を遠ざける。

「はいはいはーい! 皆さんのキヨちゃんは日直やでー! 日直いうことはお当番さんや。仕事あるねんから通したってやー」

 派手に脱色した茶金髪を天高く盛り、地味なはずの制服のタイは当然のように好みの黒とピンクのストライプのものに取り替え、ギリギリに短いスカート。

 ばっちり二枚重ねたつけまつげ。ネイルはもちろん、いつも見事にデコってある。

 そんな、学校でも一番目立つギャルのアイミが前へ出ると、流石の男子も一歩下がる。

 しかも、時々エキストラの仕事なども頼んでいる関係上、マネージャーのやり方を何度も見ているのだからファンあしらいはお手の物。

 もちろん、日直というのもまるで嘘。

「お前はマネージャーかいな、アイミ」

 からかうように、また背後から聞こえる調子の良い男子の声。

 校内に知らぬ者はいないであろう、こちらも金髪を盛り上げてシャツの前を大きくはだけた、チャラ男なカズナリがアイミのバッグを持って笑っている。

 これがとどめだ。すっと背後に通路が開く。

「うっさいんじゃ、カズナリ! ほれ、キヨリも急がな」

「はーい」

 腕を引っ張られながら、軽く手を振る。

「キヨちゃんいってらっしゃーい」

 などと、彼らは口々に言う。いってらっしゃいもなにも、ここは既に校内だというのに。

 そういえば、と少し気になり、さっきの男子の方をちらりと見る。

 彼は口を半開きにし、不思議そうにぼんやりとキヨリを見ていた。





 今日は、家庭科のある日だ。しかも調理実習。

キヨリにとっては一番楽しみな授業。

 この為に、ずらせる仕事はなるべくずらしてもらうほどだ。

「あー、かったり。さぼっとってもええ?」

 教室を移動しながら、アイミはだるそうにしている。

「ねむそうやなぁ、アイミン。バイト?」

「バイトー。アフターで3時まで飲んどった」

 彼女がキャバ嬢をしているのは学校中みんなが知っている。

 このあっけらかんとしたキャラクターで、立派にナンバーワンをつとめているらしい。

 しかし、何度もバレて停学も食らっているが。まったく彼女はこりるという言葉を知らない。

「またそんな無茶して」

「無茶はどっちやねん? どうせ今朝帰って来てんやろ?」

「そうなんやけどね。しゃーないわ、バラエティの収録みたいまともに進まへんもん」

 調理実習室は廊下をまっすぐつっきって、渡り廊下を渡ってすぐ。

 どうしても二年生の全教室の前を通って行かなければならない。

 しかし、もう彼らの視線にはすっかり慣れてしまっている。

 むりやり引止められない限りどうということもないのだ。

「あ、カッズナリー!」

 アイミが突然大声で叫ぶ。

 5組の教室の中に手を振り、中からはカズナリが投げキッス、となかなかに騒がしい。

 これもいつものことと笑いながらそこを通過する。

 あと少しで渡り廊下、の所まで来て指をさされたのに気が付いた。

 ここは2組、だ。

「やからさ、ほら、ベビラブのオーディションで受かった子やって」

 指差している男子はキヨリが気付いていることに気付いていない。

 必死になって説明するあまり、声が高くなっているのにも気付いていない様子だ。

「ベビラブ? 何?」

「これやっちゅーの」

 今朝最初にサインを欲しがった男子だ。

 そのお菓子は、キヨリがデビューするきっかけになったもので、今でもイメージキャラクターをしている。

 新製品として予定されたそれが美味しそうだったから、というくだらない理由でCMのオーディションに申し込んだのだ。

 受ければ発売前のそれをもらえるかもしれないと。

 しかし、たかだかCMのオーディションだったとはいえ、テレビ番組とタイアップとなっていたそれは注目をかなり集めていた。

 だから今でもベビラブのCMの印象が一番強いのだろう。

「…これがどないしてん?」

「これのCMに出てた子! あーもう、そんじゃ、あれはどないやねん。ルナシャワー」

「それは何?」

「炭酸じゃい」

「それが何?」

 彼と会話が噛み合ってない男の子は、今朝口を開けてキヨリを見ていた男の子だ。

 歯並びは悪いし、黒髪は地味目で目立たないかもしれない。

 しかし、よくよく見ればその黒髪には清潔感があるし、はっきりした大きな茶色い目は透き通っているし、鼻筋も通って高く、かなり整った顔立ち。

 それが、要領を得ないといった風情で首を傾げている。

「CM見たことないんかい!」

「ないなあ」

「空ばっか見とるからじゃ! あー…あ、そんじゃミルキーフラワー!」

「何それ?」

 話の通じなさに頭をかきむしり、今にも叫び出しそうな彼とは反対に、きょとんとしている彼。

 ポケットを探ると、今話題に出たミルキーフラワーが入っていた。

 一番新しいCMのヨーグルトキャラメルだ。

 それを取り出し、彼の前に歩み出る。

「はい、これ」

「え?」

「これ、ミルキーフラワー。美味しいよ」

 ポンと手渡しにっこりと笑うと、ちっとも訳がわからないといった様子でキヨリの目をじっと見ている。

「あ、ああー! 須田!」

 隣で必死に説明していた少年が叫ぶが、須田と呼ばれた少年はさして動じない。

 食べ物をもらったから、という感じで軽くキヨリに頭を下げる。

「あ、どうも」

「どういたしまして」

 何となく調子が狂い、律儀にそんな返答をしてしまう。

「キヨリ、きーよ、遅れるっちゅーねん」

アイミに引っ張られ、やっと我に返った。





「やっぱおもろいやっちゃなー、須田」

 五人のグループでの実習だが、実際は八割方キヨリが作ったハンバーグとポタージュスープが今日のメニュー。

 昨日つけたばかりのネイルのプリオンとパールが取れるからイヤ、と盛り付けしかしなかったアイミは遠慮もなく食べまくっている。

「アイミン、知っとんのん?」

「知っとるさ。隠れた有名人。めっちゃおかしいらしいで?」

「おかしいって?」

「あの通り」

 確かに、この学校にいようがいまいが、あれだけのCMを並べられたら一つくらい知っていそうなものだ。

 それはキヨリのうぬぼれではなく、実際にかなり流されているものばかりだからだ。

「まあ確かにちょっと変わってるなあとは思たけど」

「キヨリを前にして舞い上がらん男子なんてマトモやないで」

「それは言い過ぎちゃう? ほっそい子が好きやったらアイミンの方がええやろしさ。あたし、どうしてもぽっちゃり系やん?」

「それはさておき、この辺で芸能人いうたらキヨリくらいなんやからさ、もうちょい珍しがるなり何なりするがな、普通」

 しかし、キヨリのことをまったく知らない様子だったのだからそれも仕方がないだろう。

 知らない人には、キヨリもただの高校生にしか見えないのだろうから。

 ただ、噂も聞いたことがないというのは珍しいかもしれない。

「別に珍しがらんでもええよ。テレビ出んかったらただの人、やもん」

「でも現実はアイドルや?」

「アイミンは話しとって、こいつアイドルやー! とか思ってるん?」

「や、思わん。あたしにとってはただの大食いキヨリやもんなあ」

「やろ? そゆことやん」

 アイドルだとか芸能人だとかいうのは、結局は職業なのだ。

 決して、中身全部のことではない。

 キヨリは川内清里である上に、芸能人という一面を持っているだけなのだ。

 それでも、浅い付き合いだった人間や新しく会った人間は、キヨリをまるごとテレビで見る「キヨリ」だと考えもせずに決め付ける。

 あれは、全部が自分ということではない。

 自分は基礎であって、そこに周りがあれこれとデコレーションした結果がアイドルのキヨリ。

 悪いことだとは思わない。それでも、わかってくれる人にはわかっていて欲しい。それだけだ。

 須田は、本当に何も知らなかったのだろう。

見事にキヨリを「ただの人」としてしか見なかったのだ。

 その何の感慨もない目は逆に嬉しくもあった。

「そゆこと、か。…で? 須田のどの辺が気に入ったん?」

「はぁ? 何の話やのん」

 何故そんなことをアイミは言い出したのか。

 あまりに急な展開についていけずに箸を止める。

「そういや、キヨリに彼氏がいたとか全然聞いたことないわ」

「やって、ないねんもん」

 お陰で芸能界に入る時も面倒がなかったとも言える。

 そもそも、あまり興味がないうちにチャンスがなくなってしまったのだ。

「それでいきなり須田かー…」

「ちょっと待ちぃよ、何でそこで須田くん?」

「ほな、何であんな目立つことしたん?」

「目立…ってた?」

「自分の注目度を考えてみなさい」

 休み時間、あちらこちらの生徒がうろうろとしている長い廊下。

 しばらくぶりに現れたキヨリが珍しく教室の外に出ていて。

 そこで、どうやら一風変わっていることで有名らしい彼にいきなりお菓子を手渡す。

 客観的に記憶を戻してみると、流石にこれは目立ち過ぎていたことに思い至る。

「…うん。そうやね」

「よっぽど気に入ったのかと思った。あんたは自分を知らん人間がいるって位でイヤミかます人間やないと思てるし」

「うーん…」

 アイミの言うことは確かに当たっている。

 しかし、須田のことはキヨリだって何も知らないのだ。

 気に入ったの入らないだのの話ではない。

 ただ、タイミング良く話題に出た商品を持っていただけであって、それ以上のことは何もない。

「そういうんやないから。ほんまに」

「そう? そうかなー」

 アイミはただにたにたと笑い、キヨリに空になった皿を差し出した。

「おかわり」







 何ということはなく一日が終わる。

 平穏な学校生活。

 自分のクラスの中にいる限りはまず普通の高校生でいられる。

 仕事のことに縛られない生活を確保したかったからこそ、キヨリは転校を拒んだのだ。

 アイミはカズナリと約束があると言うので、他の友人と帰ることにした。

 特別扱いはしない彼女たちにはいつも感謝している。

 ごく当たり前の、どこのカフェのケーキが美味しいだの、新しくオープンしたカラオケ屋の話だのをしながら昇降口へ降り、掃除の合間を縫って下駄箱から靴を取り出す。

「キヨちゃーん」

 少し離れたところから、男子の声がする。

 既に条件反射となりつつある微笑でそちらを振り向くと、須田が友人たちに両脇から捕らえられて立っていた。呼んだのは、その友人だ。

「ごめんな、こいつ物知らずなんや」

「このアホ、めっちゃ失礼して」

 両脇の友人が須田の頭をこづき回しながらキヨリに謝っている。

 それでやっと、それが昼間のことだと気が付いた。

「あ、ううん。別に何も気にしてへんし」

「ほれ、謝れや、須田」

 何故なのだという表情で須田は軽く会釈をする。

「…ありがとう」

「あほかい! ごめんなさいやろ!」

「え? やって、食べもんもらって…」

「お前に説明すんのは面倒なんじゃ。ごめんなさいて言え」

 須田の件は多分、キヨリに話しかける為の言い訳なのだろうというのはキヨリにもわかった。彼らは謝りに来たにしては、舞い上がっているし笑顔だ。

「…? ごめんなさい?」

「こっち向いて言うてどないすんねん、この宇宙人」

「…宇宙人?」

 キヨリは思わず噴き出した。

 確かに、彼らのテンションを根本から理解出来ていない様子と、両脇をしっかり固められている様子は宇宙人を彷彿とさせる。

「ほんま、ごめんな、キヨちゃん。こいつ須田星人やから」

「あの、ほんま気にせんといて?」

 須田に笑いかけると、彼は一拍遅れて微笑んだ。

「須田敦です」

「……あ、はい」

 唐突に自己紹介をされて、キヨリの表情も一瞬凍りつく。

 今の話の流れでどうして自己紹介を始めたのだろう。

「天文部の部長です。部員募集中」

「……考えときます」

 部員の勧誘だったのか、と半ば無理矢理に納得する。

「キヨリ、置いてくでー?」

 気付くと、友人たちは既に靴もはいて昇降口の外にいる。

 今からお茶を飲みに行くのだったことを思い出し、慌てて靴をはく。

「あ、もう行かな。ばいばい」

 彼らに軽く手を振ると、須田も何の気なしに手を振った。

「ごちそうさまー」

 本当に宇宙人なのかもしれない。キヨリは首を傾げながら表へ出た。






 翌週、学校へ出られたのは火曜日だった。

 日曜に収録が終わるはずだったCMの収録が長引き、結局月曜の始業時間に帰って来られなかったのだ。

 単位をぎりぎりで計算しながら通学しているキヨリにとってはイタいズレだったが、どこか他で調整してもらえるようにマネージャーには頼み込んで来た。

 よりによって、月曜はあまり余分を確保していない日本史がある日。

 職員室に入ると、どこからかカレーの香りがする。

 あまり来ない職員室だが、それだけで日本史担当の末松の位置がわかる。

 彼はハンパないカレー好きだ。

「お食事中失礼します、末松先生」

 カレーをかきこむ末松に背後から声を掛けると、彼は手を止めて振り向いた。

「おう、お疲れさん。昨日は仕事か?」

「すみません、出られるつもりやったんですけど」

「こっちはええけどな。で、何やった?」

 なかなかに体育会系の男前で女子に人気のある彼は、小さな子どもを抱えるシングルファザーだ。

 かなりの愛妻家だったらしく、今でも机の上には亡くなった妻と赤ん坊の頃の愛児の写真が飾ってある。

「プリント足りんかったから、あたしの分はもらってないって、アイミンに聞いたんで」

「おお、そやった。忘れとったわ。ちょい待っとけ、コピーして来るから」

「あ、いいですよ。食べてからで」

「かまへんかまへん。そのかわりサインくれ。頼まれてんねん」

 そう言って引出しを漁ってプリントの原本を引っ張り出すと、サインペンと引き出しに用意していたらしい色紙を置いて印刷室へ立って行った。

「しゃーないなあ」

 苦笑しながら3枚あるそれにペンを走らせる。

「あ、キヨリさん」

 妙に落ち着いたテンションの声と妙な呼び方に、笑顔を作るのも忘れてそちらを向くと、いつの間にか須田が背中を丸めて立っていた。

「…キヨちゃん、でええよ。慣れてるから」

「はい。…で、キヨちゃん」

「はい」

 何も呼び直す必要はないだろうに、彼は律儀に言い直す。

 そのペースに巻き込まれ、キヨリもきちんと返事をしてしまう。

「考えといてくれた? 入部」

 あれから何日か経つのに、彼はまだキヨリが何者であるかを理解していないらしかった。

 しかし、そんな普通の扱いはやはり気楽で良い。

「まだ。こんな時期に募集してるて、大変やね。部員少ないのん?」

「一人」

「須田くん合わせて二人? 少ないんやなあ」

「一人。俺一人」

 思わず絶句する。そういえば、天文部など聞いたこともない。

 デビュー直後の忙しい時期に、無理にやりくりして参加した文化祭でも見たことがない。

「…あー、少ないねえ、それは」

 多分部長のキャラクターに問題があるのだろう。

 キヨリでもそうは思ったが黙っておくことにした。

「天文部て、何してるの?」

「星見てる」

 何と返答すれば良いのだろうか。

 確かに天文部なのだから星は見るのだろうが、観測だとか研究だとか他にも言いようはあるだろうに。

「…あ、ああ、えっと。面白そうやね」

「いっぺん、来る?」

「うーん…」

「何か部活やってるのん?」

 やっているわけがない。

 きちんとした部活動にしっかり参加できるほど学校に来られないのだ。

「お待たせ、プリント5枚上がり」

末松に紙束で背中をポンと叩かれる。

「サイン出来たかー?」

「あ、すみません、あと一枚」

 あわててペンを走らせる。

 須田はそんなことにはまったく興味を示さず、手にしていた紙切れを末松に渡す。

「今月の分お願いします」

「お前が言うと、何で家賃の支払いに聞こえるんやろなあ」

 末松は笑いながらざっと紙に目を通す。

「はいよ。ま、お前やからないと思うけど、タバコ吸うたりすんなや」

 出来上がった色紙を末松に渡し、プリントを持つ。

 ついでに須田の持って来た紙を覗き込んでみる。

 それは、学校施設の時間外使用願だった。

「屋上…あ、部活?」

「そう、好きな時に屋上で星見るねん」

 彼がそう言うと、もしかして本当に見ているだけかもしれないという気がする。

「ふうん…」

 そういえば、幼い頃にプラネタリウムに連れて行ってもらったことがあった。

 人工の星空は、それでもキヨリには感動的だった。

 勢いで星座早見盤なども買ってもらい、暫く熱心に見ていた記憶がある。

「部活してへんのやったら入部歓迎。掛け持ちもオッケー」

「熱心やねえ」

 全体にぼんやりしているようで、部活だけはきちんと好きらしい。感心すると彼は首を振る。

「来年なると、俺引退やから天文部なくなるねん」

「…あたし、同じ二年生なんやけど」

「……気にせん」

 気にしなければどうなるというものでもないはずだが、須田は真剣な表情で呟く。

「あのなあ、須田。これ見てみい」

 呆れ顔で、末松がサイン色紙を須田に見せる。

「何て書いてあるんですか? 仲良きことは美しきことかな実篤?」

 いくら何でも、キヨリの名前は3文字だ。日付を足しても11文字。何をどうすればそんな文章に見えるのか。

「……」

「……」

 末松もすっかり説明する気力を失った様子で肩を落とす。

「先生は飯を食う。お前らは帰れ」

「失礼しましたー」

 キヨリが会釈すると、須田も職員室を出た。

「良かったら今日7時から8時半まで屋上にいてるし。のぞいたって」

「あー、うん。ヒマあったら行くわ」

 はっきりとした返事も出来ず、須田に手を振った。




「マジマジマジ?」

 職員室でのことを話すと、アイミはチーズケーキを頬ばったまま勢い込んで聞き返す。

 5分後には予鈴が鳴るというのに、アイミの机の上は化粧品とお菓子と飲み物が広がったままだ。

「うん、ほんま、変わってるよねえ、あの人」

「宇宙人かー、マジっぽいなあ」

「あたしも思た」

彼の話すことにはびっくりさせられてばかりだ。

 多分、彼の中ではそれぞれの出来事はつながっているのだろうけれど、こちらにはそれぞれが好き勝手に飛び出して来ているようにしか見えない。

 小さな子どもと会話を交わすようなものだ、と思う。

 小さな子どもは初めて見るものや初めての体験があり過ぎて、それを順に話すことが出来ない。

 自分の中でのつながりも、それを順序立てて話せないから、出て来る話題は大人にはわかりにくいのだ。

「あの人、転校生なん?」

「ちゃうちゃう中等部からおったよ」

「え、嘘。全然知らんかった」

 あれ程のキャラクターに今まで気付かなかったとは、自分の方も相当かもしれない、と少し焦る。

「中等部の時はもっと目立ってへんかったからなあ。高等部入ってから、背も伸びたし顔だけも良うなって…」

 ノーメイクならラッパ飲みするであろうペットボトルを、綺麗に塗ったリップを守る為にストローですすりながら、アイミは顔をしかめる。

「…変人度も高なったいうか…」

「うーん…」

「ま、害はないと思うけどね」

「害って」

 思わず苦笑する。

 確かに本人は真面目に生きているつもりの様子だし、人に危害を加えようというトゲトゲしさもない。

「やから、行ってみたら?」

「……は?」

「絶対害ないて、百戦錬磨のアイミンがばっちし保証したろ」

 キヨリの方が、須田に誘われていたことを忘れていた。

 日が暮れてから屋上へ来ないかと。

 しかし、キヨリが天文部に入ったところで須田には大した利益はないではないか。

「別に、様子のぞきに行ったとこでしゃーないやん。須田くんは一年生募集してんねんで?」

「あーもう、あかんなあ、キヨリは」

 予鈴が鳴り始めたが、アイミはさっきキヨリが渡したマニキュアのフタを開け始める。

「何が? 今入ったってどうせ来年の夏休みまでやねんで?」

「そういう問題ちゃう。須田はキヨリに会いたいんや」

「はあ? 須田くん、全然あたしには興味なさそうやで?」

 疑問符の付いた言葉が次々と浮かび上がって来る。

 どう考えても、須田が捕まえたいのは新入部員なのだ。

「他の人にもそうやっていっぱい声掛けてるんやろ?」

「どうやろ? 宇宙人の思考パターンは読めへんからなあ」

 アイミは歌うように軽くそう流すと、先に色を落としておいた爪にラベンダー色のマニキュアを丁寧に塗り始める。

「あ、可愛いなあ、これ。ええ匂いするし。いつ出るのん?」

「来月やったかな」

「乾くのはや! あれ? 商品名書いてへんで?」

 まだサンプル品のそれは、何も書いていないただの小瓶だ。

「ヘヴンズ・エンジェル。コンビニ限定らしいよ」

 これのお陰で、昨日の授業に出損ねたのだ。

少し憎たらしくもある。

「ほな、キヨリはこっちの色塗っとき。似合うから」

「ええよ、そういうのんあんまり好きやない…」

「気にせん気にせん」

 アイミは躊躇するキヨリにかまわず、手を取ってアイスブルーのマニキュアを端から塗り始めた。

「もう先生来るし」

「だーいじょぶ、あいつは絶対、遅れて来るから」

 自信たっぷりにそう言うと、慣れた手付きでキヨリの両手の爪を塗り終えた。




 地元にいるうちは、基本的に仕事はない。

 たまにそのまま東京へ移動しなければならないこともあるが、大抵の放課後はごく普通に、当たり前に過ごしている。

 要するに結構ヒマなのだ。

「あっれ、帰るのん? キヨリ」

「え? うん。帰るよ」

 下駄箱の前でアイミがキヨリの手を引く。

「何でな、どうせもっかい来るんやからおったらええがな!」

「来ぉへんよ」

「来なあかんて」

 アイミはやけににこにこしている。

「…アイミン、面白がってる?」

「うん」

 笑顔も全開に頷かれたところで、キヨリも困る。

 うっかり校内でうろうろしているところを須田に見られたら、期待させるだけ申し訳ないというものだ。

「やって、どうせ入られへんねんもん、部活みたい」

「入る入らんは別やんか。夕方までうちら一緒におったるし」

「別やないやろ、部員募集のお誘いなんやから。

それに、お邪魔さんやんか、アイミンらとおったかて」

「そんなん気にしなーい。うちらは毎日ラブラブや」

 聞いてない、と頭を抱える。

 わざわざそんなことを言われなくても全校生徒が知っていることだ。

「ほな、キヨリ借りてくから」

 アイミはキヨリが一緒に帰ろうとしていた友人たちににこにこと手を振り、キヨリの袖を強引にひっぱって教室に戻った。

「もう、今からケーキ食べに行こうと思って…」

「そんなんいつでも食べれるがな」

「そうでもないから、気合い入れててんでー?」

 教室に入ると、カズナリが机の上に座って足をぶらつかせている。

 女子クラスのある6組以降は大抵の男子が入るのをためらうのだが、カズナリにそんな気おくれは無縁だ。

「お説教終わったんか?」

 ここで待ち合わせていたのだろう、何ということもない風にアイミはカズナリに尋ねる。

「何の話やったか全然わからんかったけどな!」

 カズナリはまるで説教を受けた後らしからぬ様子で笑う。

「で? 何時のお約束やねん?」

「アイミンっ」

 カズナリにまで話したのかとアイミを振り返ると、笑顔でキヨリの代わりに答える。

「7時や。で、須田はどこにおった?」

「いっぺん帰ってるみたいやな。末松に探り入れたら、どーも何かバイトしとるらしいから」

「あ、そ。ほんじゃほんまに7時までヒマなんか」

「あの、ちょい待ってくれへん? いったい二人で何してるのん?」

 恐る恐る尋ねる。

「キヨプーの応援やがな」

 そんな中学時代の愛称は、もうカズナリしか呼ぶ者はいない。

「あ、大丈夫。7時になったらうちら帰るし、邪魔せぇへんし」

「何でそんなに盛り上がってんの…」

 この二人に抵抗しても無駄だ、と悟る。

 この二人のテンションが上がったら、どんなに逆らっても強引に丸め込まれてしまうのだ。

「しっかしなあ、須田かよ。よりによって」

 カズナリは唇を尖らせて呟く。

「気に入らんなー、須田っちゅーのが」

 ぶつぶつ言いながらコンビニの袋をがさがさと開け、チーズサンドクラッカーを取り出す。

「俺がここまで餌付けしたのになー」

 一つつまんで、キヨリに差し出す。

 中学生の頃からの習慣、ついそれをありがたく頂いてしまう。

 これがカズナリの言う「餌付け」だ。

 事務所からはダイエットを言い渡されているのだが、キヨリ本人がまず無理だ、と勝手に諦めている。

「花嫁の父の気持ちだぜ」

 カズナリは腕で目元を拭い、泣きまねをしている。

「そんな勝手に人を嫁に出さんとって」

 ぷっと膨れる。本人を差し置いて、やたらと二人で盛り上がっているではないか。

「キヨリのコイバナて初めてやからなー、何や舞い上がるわ。あたしが」

「何でキヨプーやのうて、お前が舞い上がんねんっ」

 歯止めが効いていないどころか、最初から歯止めなどなかった様子だ。

 こうなったらもう放っておくしかない。

 この時期、日暮れは意外と早い。

 日が傾き始めたと思ったらあっという間に空の色が変わる。

 抜けるように青かった空も、ほんの数十分ぼんやり眺めているだけで夕焼けの赤に変わり、何の抵抗もなくすうっと濃紺へと変わる。

 何の気なしに指先を見ると、アイミに塗られたアイスブルーのマニキュアが輝いている。

 どちらかというとブルーを帯びたパールに見えるその色は、教室の安っぽい蛍光灯を反射してキラキラと嘘っぽく光る。

 外に視線を戻せば、すっかり暮れてしまった空に星が輝き出している。

 それは、指先の偽物の光とは比べ物にならないほど輝いていた。

 久し振りに、空を見たと気付く。

 あまりに忙しくて、家にいられる間はロクに空など見ていなかった。

 身の回りのアレコレを片付けて、睡眠時間を取るのが精一杯。

 余裕なんてありはしなかった。

 気付かないうちに、キヨリも疲れていたのだ。

 ごく自然にそう思うと、ふっと肩の力も抜ける。

 どうせ今週は週末まで仕事がないのだから、少しぐらいぼんやりするのも良いだろう。

 須田がどうこうという茶化しもこの際気にしない。

 ただ、彼が屋上へと案内してくれただけだ。

 この故郷は、まだ意外に星が良く見えるらしい。

「コンビニ、行って来るわ」

立ち上がり、バッグを手にする。

「そのまんま帰らんときや?」

 アイミが一緒になって立ち上がる。

「お腹空くなあと思って。何か買うて来とかんと」

 たまにはゆっくりと。ぼんやりと星でも眺めよう。



 丁度7時になると、アイミはさっさと立ち上がる。

「ほな、行ってらっしゃい。うちら帰るし」

「そや、屋上行く階段知っとるか?」

 お菓子のゴミや雑誌の切れ端をアイミの机の中に押し込むと、カズナリはバッグを手にした。

「あ、知らんわ、そういえば」

 キヨリでなくても、まず使用されていない屋上への階段など、そこの掃除当番でも当たらない限りわからないだろう。

「4階のいっちゃん向こうの階段や。狭い階段やからな」

 4階は3年生の教室しかないのだから、知らなくて当たり前だ。うなずいてキヨリも立ち上がる。

「そんじゃ、また…明日も来るのん?」

「今週いっぱいは、毎日来るよ」

「ほなまた明日」

 アイミはひらひらと手を振ってカズナリの腕を引いた。

「何かあったら俺に言えや? いっくらでも殴ったるから」

 カズナリもそう言い残すと、アイミと共に教室を出て行った。

 アイミの笑い声が階段の方へと遠くなる。

 さて、とキヨリも立ち上がる。

 バッグを手にし、教室の明かりを消す。


 廊下はすっかり暗くなっていて、ところどころにある非常灯と火災報知機、中庭の街灯だけがぼんやりと照らしている。

 4階へ上がって廊下を進むと、確かに他の半分くらいの幅の小さな階段があった。

 勝手に上がらないようにか、カギの付いた柵も設置されている。

 良く見ると、それはもう開けられている。

 須田はもう来ているのだろう。

 柵は、引くと小さな音を立てて開いた。

 階段の上は真っ暗だ。

 見回すと、一応電灯のスイッチがある。

 ホコリを被っているそれをそっと押すと、やはりホコリを被ったようにぼんやりと明かりが灯る。

 誰も出入りをしていないかのような雰囲気に少し怯え、しかしよく見ると、階段の通路部分だけはホコリが積もっていない。

 誰かが出入りしている証拠だ。

 ほっとして急な階段を一段ずつ昇っていく。

 テッペンの、青いペンキがはげかけた、重そうな鉄の扉。

 そこにはまっているすりガラスの向こうには、月の明かりだろうか、光が見える。

 ノブを持って捻ると、思ったよりスムーズにドアは開いた。

 初めて出た屋上を見渡す。意外と広く、案外高いように思えた。

 見慣れた筈の町も、ここから見ればまったく違う場所。

 下から見上げていたのでは見えない屋根が並び、いくつか目立つネオンもまるで遠くて小さな灯りだ。

 少し昇って、日の光がないと言うだけでこんなにも違う。

 子どもの頃から住んでいたのに、まだまだ知らない部分がある。

 当たり前のことに少し驚き、少しの間、ぼんやりと眺めていた。

 冷たい風が吹き抜けていく。

 頬を冷やされ、やっと我に返った。

 そういえば須田はどこなのだろう。

 目に入った給水タンクを当てずっぽうな目印にし、そちらへ歩いて行く。

 ここはこれ以上の場所からの光が来ない為、月明かりだけが頼りだ。

 きょろきょろと、目を凝らしながら歩いていると、何か柔らかいものにつまづいた。

「きゃっ!」

 よろめきながらも何とか持ちこたえ、足元をこわごわ振り返る。

 この明るさにやっと慣れた目に入ったのは、つまづかれたにも関わらず、きょとんとしている須田だった。

「うわ、めっちゃごめんね? ケガせぇへんかった?」

 あわててしゃがみ込むと、須田は体を起こして何ということもなくうなずく。

「別に平気やし。痛ないし」

「何でそんなトコに寝てんのん…」

 須田は、何もないところにただ寝転がっていたのだ。

 しかも、制服の上から黒いコートなどを着込んでいるため、一層わかりにくくなっている。

「部活」

「…寝るのんが?」

「寝てへんよ。星見てんねんから」

 そうではないかと思っていたが、本当に見ているだけらしい。

 廃部の危機も納得できる。

「…よお見えるのん? ここ」

 何を話したものかと、考え考え無難なところで聞いてみる。

「大体おんなじやなあ、ここやったら。あっちの端でもそっちの端でも」

 それはキヨリでもわかる。

 見るもののスケールが違うのだ、数メートルやそこら移動したところで驚くほど景色が変わると思っているわけがない。

 須田は、また仰向けに寝転ぶ。そうして、真下から空を見上げている。

 静かな時間が淡々と過ぎていく。

 時折遠くでクラクションやサイレン、犬の遠吠えなどが微かに聞こえる他は、何も聞こえて来ない。

 彼は眠ってしまったのかと思うほどに何も話さない。

 キヨリはどうして良いのかわからず、しゃがみ込んだままだ。

キヨリの毎日は、何と言葉に埋もれていることだろう。

 あれこれと指示されたり、いろいろなことを頼まれたり、何でもかんでも質問されたり。

 自宅に一人でいてもそれは変わらない。

 テレビがあり、音楽があり、携帯があり、その中に浸かっているのが普通だと思っていた。

 しかし、こんなにも静かな時間の中へ入り込んでしまうと、それらが異常に思える。

 時間というものは、こんな風に使うことも出来るのだ。

 ゆっくりと息をつく。

 須田の顔を覗き込むと、眠ってなどいない。

僅かの光も逃さないようにだろうか、しっかりと目を見開いている。

 彼はキヨリの視線に気付くと、笑みを浮かべる。

「やってみ、よお見えるから」

「そお?」

 キヨリも笑い、座り込む。

 制服が汚れることにも構わず、ゆっくりと背中を倒す。

 徐々に開ける視界。

 完全に体を倒すと、視界の中には夜空しかない。

 全方向に星空が広がるような錯覚に陥ってしまう。

 もっと、見えないものだと思っていた。

 大都市ではないとはいえ、山の中というわけでもないのだから。

 しかし、ゆっくりと目を慣らしたせいか、星は驚くほどにたくさん見える。

「…けっこう見えるもんやね」

 小声で呟く。

 隣で須田がうなずいたのが気配で感じ取れる。

 彼は下から見上げているのではないのだ。

 正面から、何の偽りもなく夜空を見ているのだ。

 しばらくそのままでいると、須田のようにコートを着ているわけでもない為、すぐに寒さが全身に染みてくる。

 こればかりは耐えられず、くしゃみを一つした。

「あれ、キヨちゃん、制服だけやん」

「ずっと学校にいたから…」

 夜がこれほどまでに冷えるということまで気が回らなかった。

 須田は起き上がり、首に巻いていた大判のマフラーをキヨリの首回りにぐるぐると何の小細工もなく巻きつける。

「よし」

 須田の体温を含んだそのマフラーは、キヨリの顔を半分ほども覆ってしまい、マフラーで「ありがとう」さえ、さえぎられてしまう。

「よお学校休むんやって? カゼひかんようにな」

 どうも中途半端にキヨリの情報を記憶しているらしい。

 それでもまったく構わなかった。

 というより、彼にはそれくらいの意識でいて欲しい。

 微笑んで頷くと、須田は立ち上がる。

「カゼひくとあかんからな、今日は帰ろか?」

「ええの? 須田くん」

「今度ちゃんとコートとか持って来ぃ。そん時にゆっくり見よや」

 須田はポケットからネームホルダーのついた鍵を引っ張り出し、キヨリが立ち上がったのを見ると、階段室へと歩き始めた。

「うち、近く?」

「歩いて10分くらい、かな」

「ほな乗ってき。ついでや」

「自転車?」

 キヨリが灯りを点けたまま昇って来た階段を、彼は一段飛ばしでひょいひょいと降りて行く。

「駅までな」

「あ、それやったら逆方向やわ。ええよ」

「逆言うても、俺、歩くわけと違うし」

 良いところを見せようとしているのではないことは、そのまったく気負いのない様子で伝わって来る。

 彼はただ裏もなく、、言っただけのことしか思っていない。

「寒いのに歩いとったら、カゼひく」

 風邪に何か余程イヤな思い出でもあるのだろうか。ヤケにこだわる様子に笑いがこらえられない。

「ん、わかったわ。ほなよろしく」

 須田は真面目な顔で振り向くと、しっかりとうなずいた。


  






 机の上に、ショップ袋を載せて、さてどうしたものかと首をひねる。

 須田が貸してくれたマフラーを、その晩に返すのを忘れてしまったのだ。

 自宅の玄関に入った瞬間、余分に暖かいそれにやっと気が付いた。

 洗って返そうとしていたら、もう金曜日だ。

 これを逃すと、明日明後日は連休になってしまう。

 須田もこれは必需品なのだろうから、早く返さなければ彼も困るだろう。

 しかも、今日は天気が悪い。

 屋上へは出られないのだから、そこへ渡しに行くことも出来ない。

「ま、いっか」

 呟き、立ち上がる。

 結局は借りたものを返すだけのこと、教室へ行けば良いのだ。

「あ、覚悟決まった?」

 アイミが一緒に立ち上がる。

 先日は目立ち過ぎだなどと言っておきながら、今日は彼の教室に行くことをずっとすすめていた。

「うん、これだけ返して来るわ」

「一緒に行こか?」

 アイミはあからさまにワクワクした目でキヨリを見詰めている。

 が、首を振ってそれを断る。

「ええよ、こんだけのことやし」

「やけどさー」

「アイミンがおったら余計目立つわ」

 笑ってそう言うと、アイミは唇をとがらせる。

が、髪の脱色に磨きがかかったアイミは、明らかに宣伝塔になってしまうだろう。

「ほな、行って来るわ」

「気を付けてー」

 袋を抱え、教室を出る。

 連続して4日も学校に来ると、見慣れて来るのか案外騒がれない。

 逆に一週間も休んでいれば意外なほどに声を掛けられるのだ。

 廊下のあちらこちらから名前を呼ばれるのはまだ良い。離れたところでこそこそと噂話をされる方が気になる。

 そう言う時に限って、話している当人たちが聞こえていないと思っているのだからタチが悪い。

 しかし、それに構っていてもキリがないことはわかっているので、知らない顔をしておくことにしている。

 大したこともなく昼休みの廊下を通り抜け、2組の教室までたどりついた。

 ひょいと中をのぞくと、近くで遊んでいた男子が驚いた顔をする。

 そういえば、ここは理系クラスで、男子が多い。ちょっと軽はずみだったかと思いながら中を見回すが、須田の姿は見えない。

 どうしたものかと考えてみるが、渡さないでおくわけにもいかない。

「あの、須田くん、いる?」

 仕方なく、驚いた顔のまま固まっている彼に尋ねてみると、更に驚いた表情になった。

「須田っ? 須田ですか?」

「うん…」

 一瞬、教室を間違えたかとプレートを確認する。が、しっかりと2組と書かれている。

「ほんまに須田?」

「…うん…」

「須田以外にもいますけど」

 どうしたものか。

 須田に用事があるのだからそう言っているのだが、そんなに意外だったのだろうか。

「…えっと、須田くんに用が…」

 彼は突然立ち上がり、教室の中に向かって叫ぶ。

「須田―! 宇宙人! 出て来いや!」

 やはり宇宙人扱いらしい。それにしても、出て来いとは。かくれんぼでもしていると言うのだろうか。

 窓際の隅の方で、須田、という声が聞こえた。

そちらを見ると、須田の友人が机に突っ伏して眠っている須田の肩を揺すぶっていた。

 その腕の下に教科書やノートが散らばっている様子を見ると、授業中からずっと寝ていたのだろう。

 それにしても、もう昼休みは終盤なのだが。

 須田は何度も揺すぶられ、やっと気が付いたらしく顔をゆっくりと上げる。

 キヨリが来たと伝えられたのか、ぼんやりとこちらを向く。

 寝ぼけているのか、じっとこちらを見ている。そして、首を傾げる。

 友人が素早く須田をひっぱたく。

「あほか! 起きんかい!」

 そう怒鳴っているのが聞こえる。

 須田はそれには関心のない様子で、立ってこちらへやって来て、ぺこりと頭を下げる。

「おはようございます」

「…おはよう」

 彼にとっては起きたらおはよう、なのだろう。

まさかキヨリに合わせて業界あいさつを使っているわけではないのだろうから。

「……あ、キヨちゃん」

 挨拶をしてから、やっとキヨリだと気付いたらしい。

「あー…メガネないと何もわからんなあ」

「あ、目悪いんや?」

「うん…今朝コンタクトが逃走してん…」

 多分、落としたか失くしたか割ったかしたのだろう。聞くとどんどん混乱しそうだったので、聞き流しておく。

「これ、ありがとぉ」

 抱えて来た袋を渡すと、寝ぼけた顔のまま須田は素直に受け取る。

「マフラー。返すのん忘れとって。ごめんね、寒いのに」

「…ああ、最近寒いと思った」

 本気でマフラーがないのに気付いていなかった可能性もあるな、とキヨリは納得する。

 最近の冷え込みで朝晩はかなり寒かっただろうに。

「うん、寒かったやろ? カゼひかんようにして」

 須田はうなずいて、袋を開けると中のマフラーを取り出す。

 そして、袋をたたんでキヨリの手に戻した。

「…?」

 取り出したマフラーをぐるぐると首に巻き、彼はお辞儀をする。

「ありがとう」

「あ、ううん。…じゃ、また」

「入部届は末松先生まで」

 キヨリはあいまいに微笑むと、そこを去った。

教室の中で何か騒ぎが起きていることは気にしないことにして。

 



 週明けの学校へ行くのは、実のところけっこう気が重かった。

 須田のことを噂されているのではないかと。

 彼は周囲にあれこれと突っ込んだことを聞かれただろう。

 それに、彼がきちんとわかるように説明できたとは到底思えない。

 金曜の午後一杯である程度話は広がっているだろうし、いろいろと言われるだろう。

 と、思っていたのだ。

 しかし、昼になっても何かを陰で囁かれている様子も、直接の冷やかしもない。

アイミを除いて、だが。

「何かの間違い、で話が済んどるらしいね」

「…何それ?」

 昼休みをカズナリと過ごして戻って来たアイミが、仕入れてきた情報を伝える。

「間違いだ、夢だ。キヨちゃんが須田となんて!

…ちゅーわけで、男子全員が現実から目を逸らしとる、と」

 そうなると、少しは噂にならなければ須田がかわいそうな気がしないでもない。

「女子においては、やな。だーれもチェックしてへん須田を、キヨリがとったとこで問題がないということで見解一致」

「とったわけとちゃうんやけど…」

「それどころか、他のマトモな男前やなくてバンバンザイやがな」

 他人が思うほど芸能人と言うのはモテないものなのだが、そういう女子の気持ちはわからなくもない。

 それにしても、ひどい言われようで気の毒なのは須田だ。

「…まあ、騒ぎにも誰の迷惑にもなってへんのやったらええ、かな」

 その辺りに話を落ち着けないとどうしようもない。

「うん、全然大丈夫や。良かったなあ?」

「良かった言うてもなあ。別にそういうん違うし、ほんまに」

「何言うてんのん、そんなんしとったら逃げられるやん!」

 アイミはどうしてもキヨリの後押しをしたいらしい。拳に力を込めて力説する。

「須田はなあ、気ぃ強いヤツとちゃうねん。キヨリがアイドルやってことを理解したら絶対逃げる。俺なんかとか言うて。せやから、今のうちにとっつかまえて食ってまい!」

「人を肉食動物みたいに…」

「ほんまに食わんようにして」

 アイミはそう言って笑う。いくらキヨリでも人まで食べようとは思わない。

「でもなあ、アイミン」

「なに」

「あたし、別に好きやないんやってば、須田くん」

「じゃ、嫌いなん?」

 机を挟んで、アイミが体を乗り出す。彼女は好きか嫌いかしか持っていないのかもしれない。

「別に嫌いでもないよ。悪い人やないしね」

「ほな、問題なしや。今日のキヨリのスケジュールは?」

「っちゅうかね、明日から来週まで来ぉへんから」

 ため息をつく。なるべくなら長期欠席はしたくないのに。

「そんなら余計。善は急げって言うやんか」

 アイミは意味ありげに微笑む。顔にはアリアリと放課後の屋上へと書いてある。

 ああ、頭が痛い。

 



 結局、その日は行かないままだった。

 行く必要がなかったから。

 そういう気分ではなかったし、須田に用事があるわけでもないし、行ったからと言って須田と何か話すわけではない。

 しかし、もう行かないと決めているわけでもない。

 この季節だからかなリ寒かったが、それでもあの星空はキヨリに感動をくれたのだった。

 いや、星空だけでなく、ただあの何もない静かな雰囲気が。

「キヨリ、久し振りやし一緒に帰ろか?」

 アイミが帰り際、化粧を直しながら尋ねる。

「てか、屋上行く予定?」

「ううん、今日は別に」

「今日は? ほな何か食べに行こか」

「あれ? カズナリくんは?」

「今日はバイト早いらしいわ。あたしはまだ時間あるし」

 珍しいこともあるものだ。

 こんなことはめったにないだろうとうなずく。

それと、今日はキヨリも寄り道の予定だけはある。

「あたし買い物行きたいねんけど、付き合ってくれる?」

「ええよ、何買うのん?」

「コート。制服の上に着られるようなのがないねん」

「え? この上にコート着るのん?」

 実は学校指定のコートはあるのだが、誰も制服の上にコートなど着ていないし、重苦しいロングコートは少しも可愛くない。

 そこで制服に合うものを買おうと先日から考えていた。

 それがないと、とてもではないが夜の屋上へは上がれない。

「うん、着んと寒いから」

「中着てへんの?」

「着てるけど、夜はめっちゃ寒いんやん」

「夜…ああ」

 アイミは納得した様子でにっこりと笑ってうんうんとうなずく。

「ほな、めっちゃワイルド&セクシーなんをコーデしましょ」

「え? あたしそんなん似合わへんし」

「そんなんで鈍い須田はこませへん!」

「そういうんやないから、普通でええって」

 別に勝負服を買いに行くわけでもないのに、アイミはそんな勢いで嬉しそうにしている。

 誘う相手を間違ったかもしれない。

「普通? 普通なん? ほなエゴイスト覗きに行こか」

「そういうんやなくてっ」

「こないだから目ぇ付けてるめっちゃいかちぃコートあんねん」

 何だかんだといいながら学校を出て、まっすぐショッピングセンターに向かう。

 アイミは物慣れた様子でギャル系のショップが並ぶコーナーに入り込んで行く。

 通りすがりにあちこちのブランドを冷やかしながら、目を付けていたというコートのディスプレイにたどりつく。

「こういうのん」

 アイミはそばのラックにかかっている同じコートを手に取り、キヨリに合わせてみる。

 キヨリは隣の鏡にちらりと目をやリ、思わず大きなため息をつく。

「…めちゃめちゃ似合わんねんけど、これ」

「…あれえ?」

 彼女は適当に笑いながら自分ではおり、鏡をのぞく。

 鮮やかな赤のコートは、どう考えてもアイミ向きだ。

「可愛いのになあ」

「アイミンには似合うけどねえ」

「ちょっと違ったみたいやねえ」

 アイミはやはりそれが気に入ったらしく、さっさと店員を捕まえて支払いをしている。

 店員は連れがキヨリだと気付いたらしいが、この店のイメージと違うと感じたのだろう。

 横目でちらちらと不思議そうに見ている。

「お待たせー。何かええもんあった?」

「ちょっとキャラ違い過ぎ」

 笑い合いながらそこを出る。

 少し進むと、もう少し大人し目のショップが並ぶコーナーへ出た。

 ここなら安心して歩ける、と目に付いたショップからのぞいて行く。

 指定のコートがあるとはいえ、事実上コートは自由だった。

 校内で着ていない限り注意されることはないし、取り上げられることもない。

 例え校外で教師に見付かっても、余程派手でない限りは見て見ぬフリをしてもらえる。

 幸い、キヨリは派手好みでもないし、そもそも似合わないのだから自分の趣味で選んでも大丈夫だろう。

「キヨリは背ぇないから、ロングは似合えへんやろ」

「あたしもショートかなあと思っててん。じゃ、こっち…は可愛過ぎるなあ」

 丈は短めの方が良いという意見の一致で選択の幅は狭まったのだが、それでもこれといった決め手がない。

「これ、形も可愛いねんけどなあ」

 羽織って鏡を見ても違和感があるのは、制服の色と合っていないからだ。

 ショートコートとなると、スカートの裾が見えるのは避けられない。

「ほな、色違い。こっちどや?」

 あれこれと取り出すアイミを不審がって、店員がちっとも寄って来ない。

 ここでは明らかにアイミの方が浮いた存在だからだ。

 どう見てもキヨリの物を選んではいるのだが、それでも声を掛けにくいらしい。

 これはこれで、買い物の連れに最適といえるかもしれない。

「それか、こっち。こっちのんが色薄いし」

「形はちょっと違うんやね」

 最初に取り出した物より、少し丈が長めでスカートの裾が少し見える程度。

 淡いピンクでリボンのモチーフがあちらこちらにそれとなく付いている。

 はずせるフードには白いフェイクファーもあしらってある。

「こっちのが可愛いなあ」

「キヨリっぽいと思うけど?」

 はおってみると、丈の長さや色合いもぴったり合うし、かなり軽い。

「ほんま?」

 前も締めて鏡を覗く。

 派手過ぎず地味過ぎず、キヨリの好みにぴったりと合う。

 自己満足でなく、これは見た中で確実に一番似合っている。

「これにしよかな」

 つぶやき、隣から鏡をのぞいているアイミと目を合わせると、彼女もうなずく。

「これはもう、キヨリの為のコートやろ☆」

「まーた調子ええなあ、アイミンは」

 もう一度、後ろの丈や袖の長さなどを鏡で確認する。

「そんでも、気ぃ付かんのやろなあ」

「何?」

 独り言のつもりでつぶやいた言葉を、アイミは聞いていたらしい。

「何でもない」

 それを、笑ってごまかす。

 コートを着ていないことにさえなかなか気付かなかった須田は、コートを着て行ったところでやはり気付かないのだろう。

 どれだけ真剣に選んだ物であっても。

 そんなことをふと思ってしまった。

 しかし須田に見せる為に買うのではなく、星を見るために買うのだから、どうでも良い事と言えばどうでも良い事だ。

 そこにいる人間が須田だけだから、想定してしまっただけのこと。

「これ買うわ」

袖を抜き、店員を振り返った。








 細い階段を昇り、屋上のドアを開ける。

「こんばんは、寒いねぇ」

 寝ている須田を見付け出して声を掛けると、彼は微笑んで返す。

 前回と同じようなところにいるということは、目印のないこんな場所でも気に入りの場所があるということなのだろう。

「こんばんわー」

 彼の隣に腰を下ろし、彼が見ている方を眺める。

 彼は何も言わない。

 新しいコートについても、案の定何も言わなかった。

 キヨリは、少しほっとした。

 彼にはそんなことで下手に誉められたくない、という気持ちがあったから。

 自分の基準を持った、見た目に惑わされるような人ではないと、そう思っていたかった。

 そのままゆっくり時間が過ぎる。

 須田は別に何も聞かないし、知ったかぶって何かを語ったりもしない。

 こちらから家が遠いのかどうかや、何のバイトをしているのかなどを聞けば答えるが、それも必要以上には話さない。

 無口やニヒルを気取っているのではないことは、雰囲気でわかる。

 それ以上のことを話す必要はないのを知っているのだ。

 キヨリを特別ではないただの生物としてしか扱わない星空と、大した興味も示さない須田。

 ここにはそれしかなかったし、それ以外は必要ない。

 多分、それが心地良くてキヨリはまたここへ来たのだ。

「そや、須田くん、これ」

 夕方のうちに買って来ておいたブランケットを、須田に差し出す。

「何? …あ、毛布。ありがと」

「これ敷いて寝たら? 背中から冷えるんやない?」

「あ、そっか」

 使い道にやっと気付いた様子でそれを広げてコンクリートの上に広げる。

「部室はあるのん? 置いといたらええし」

「ない」

「部室が?」

 彼はうなずき、ブランケットに再び腰を下ろして寝転がる。

「でも、階段室やったら置いといても別にかまへんしな」

 ブランケットは、須田の背中をカバーするだけで精一杯。

 それでも、ないよりはだいぶマシだろう。

「あ、キヨちゃんもここおいでな」

 何とか腰を下ろせるくらいはスペースが空いている自分の隣をぽんぽんと叩いて示す。

 かなり狭いそこは腰を下ろしてやっと、だ。

 少しためらう。

 迷ったまま空を見上げると、ふっと光が横切った。

「あっ」

 慌てて目を凝らすがもう遅い。

 初めて流れ星を見たと言うのに、あまりに呆気ないまま消えてしまった。

 がっかりしていると、同じ方向でまた一つ流れる。

 予想していなかったことに驚き、ドキドキする。

 そのままそこから目を離せないでいると、一つ、また一つと流れては消えて行く。

 振り返ると、須田も同じ所を眺めていた。

「流星群ていうのん? これ」

「そうかもしれんねえ」

「あの辺て、何座? しし座流星群とか言うやん?」

「さあ。何ちゅうのかなあ」

 須田がのんびりと答える。

 確かに彼は見ているだけだったが、知っていて見ているのだと思っていたキヨリは驚いて聞き返す。

「さあって、知ってるのと違うの?」

「知らんし、覚える気もないし」

「何で?」

 キヨリは別に天文学に詳しいわけではないし、興味があったのも子どもの頃の話だ。

 ただ、天文ファンというのは星座や宇宙の現象について詳しいものなのだと思い込んでいた。

「何でって…そんなん、こっちで勝手につけた名前やん? 星の方でどう思っとるか」

 天文界広しと言えども、そんなことに気を使うのは須田だけだろう。

「勝手な名前で呼ばれてなあ、ちゃうねん! とか思ってるやろなあ。俺もいきなりロドリゲスとか勝手に呼ばれたらけっこうイヤやし」

 星の方ではそんなことも知らないし、思っていないと思うのだが、のんびりと遠くの知人のことを話すような須田にそれは言えない。

「だいたい、むちゃむちゃ離れてて無関係やのに、勝手にひとくくりにされて何座、言われるのんてどうやねん、なあ?」

 須田は流星群を眺めている。

 ただ、眺めている。

「…それ、不便やない?」

「不便、かなあ?」

「人に話す時に、通じにくいやろ?」

「別に。人と一緒に星見たりしたことなかったし、天文学者になるつもりもないしなあ。何かキラキラしててキレイやから見てるだけで」

 彼は、笑う。

「そこにあるもんは、ある。そのまんま見ればええやん」

 それだからだ。

 それだから、須田は周りの情報に一切振り回されずに目の前のキヨリをただの人として扱ってくれるのだ。

 仕事の現場以外では絶対芸能人ではない、アイドルではないキヨリとして。

 見た物だけを、素直に理解しているから。

「そやね」

 見上げると、まだ流星はわずかずつ降り続いている。

 須田の横に、腰を下ろす。

 触れるか触れないかの距離に彼の肩。

 膝を抱えて、彼の見ている空を眺める。

 星はそこにあって、知らない所で生まれたり消えたりしていて。

 それは人間とはまったく関係ないところで起こっている出来事。

 それらのすべてを把握することなど絶対に出来ないのだったら、目に見える物だけを理解すれば良い。

 神さまではないのだから。

 須田は、ここにいて星を眺めている。

 須田は、穏やかでおおらかだ。

 ゆっくりと、息をつく。

 白く目の前が曇る。

 もう、すっかり冬なのだと気付く。

 須田と一緒にいると、気持ちに余裕が出来るようだ。無駄な言葉を考える必要がないから。

 一人でいる方がずっといろいろなことを考え過ぎる。

 何もしないで過ごす時間は、彼と一緒にいるからこそ持てるのかもしれない。

 隣を見ると、須田はやはり変わらずに寝転がって正面を見つめている。

「須田くん」

 そっと声を掛ける。

「寒いね」

「ああ、うん」

それだけで、良い。

 






「え、マジ!?」

 キャスター椅子ごと数メートルとびのきそうな勢いで、末松は驚く。

「何で? 何の為に?」

「先生、顧問じゃないんですか」

 苦笑すると、末松は複雑な表情で首を傾げる。

「まさかあんな勧誘で入るとは…ほんまにええのん?」

「好きな時にしか出ませんけどね」

「…まあ、全然構わんけどもやなあ…」

 嬉しいのか嬉しくないのか、末松はキヨリの持参した入部届を何度も見返している。

「……ほんなら、また須田に」

「末松先生」

 末松が言いかけた時、キヨリの背後から須田の声がした。

 振り返ると、須田も紙切れを持って立っている。

「今月の分お願いします」

「今回は習字の月謝に聞こえるわ」

 笑いながら、施設使用願を受け取り、中身を改める。

「はいオッケー。それに新入部員つけてどうぞ、や」

 末松はキヨリの肩をぽんと叩いて須田に告げる。

「…キヨちゃん?」

やっと、そこに立っているのがキヨリだと気付いたらしく、須田はきょとんとしてキヨリを見る。

「よろしくお願いします、部長」

 にっこりと微笑むと、須田も嬉しそうに笑った。

「よろしくお願いします、新入部員」



 ここの屋上から見える星空が、今まで見た中で一番きれいな景色だったから。

 世界で一番、静かできれいな空が見えるから。

 指定席をこうして確保しておくのも良いだろう。

 だから、今日も彼が寝転がっている屋上への階段を昇る。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 凄くセンスのある方だと感じました。 まず素敵なタイトルに惹かれました。それと、アイドル×関西弁っていうのが凄く新しい目の付け所と感じます。それと、人物の行動描写がきちんと人物像を表してい…
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