ツンデレポート
どうしてこうなった。
高校1年生の夏目爽は、落ち着きなく周りを見渡した。
若い女の子たちの歓声が満ちる店内。ウエイトレスはオシャレなお姉さんばかり。田舎の高校で平凡な生活を送る爽には縁遠い世界。ここは、爽が住む街から電車を乗り継いで2時間ほどの、海が見える都会のカフェだ。
瀟洒な店内を見回してみても、男の客など1人だけ。罰ゲームか、これは。
やっぱ無理! お冷や代だけ置いて店から逃げだそうと、あまり冷静ではないことを思いついて財布から百円玉を取り出した、その瞬間。窓の外が光ったかと思うと、遅れて腹の底に響きわたる雷鳴が空気を震わせた。一転して、店内が悲鳴で満たされる。
ざあー、という雨音につられ窓の外を見やると、先程までの晴れ空は何処へやら、土砂降りの雨で、穏やかな海は見るかげもない。爽はそそくさと百円玉をしまった。悲鳴を上げそうになったのは、内緒である。
これもすべて――いけ好かない澄まし顔が、脳裏に浮かぶ。すべてあの、川端康生のせいだ。
「ご注文はお決まりでしょうか」
ウエイトレスに言われ、爽はようやく腹をくくった。息を短く吸い、明朗な発音を心がけて今日の目的となる品物の名前を口にした。
「マンゴープリン、ください」
【この物語には、3つの「秘密」が登場します。1つは夏目の、もう1つは川端の、そして最後の1つは――。
それぞれ徐々に明かされていきますので、それらが何か想像しながらお楽しみください】
事の発端は一昨日の放課後。部室で川端のにやけた口から発せられた一言だった。
「君にレポートを課す。ツンデレに関するレポート、つまりツンデレポートだ!」
「何言ってんですか?」
川端の理解不能な言葉に、爽は自分が一学年下であることを忘れ、砕けた口調になった。
「君はこう言ったね。瞳子の態度について、『ツンツンしてないで、さっさとデレたらいいのに』と」
「言いましたけど――」
「全く分かってないね」
川端はいつものにやけた顔で、呆れたというふうに肩をすくめた。その人の小馬鹿にしたような態度が、また爽をムッとさせる。爽は思わず言ってしまった。
「なんですか。たかがツンデレでしょう?」
「たかが、だって!?」
川端は顔色を失った。
ここは、ツンデレ研究会。「ツンデレ」とは「ツンツンデレデレ」の略で、あるキャラクターが特定の相手に、敵対的な「ツンツン」した態度と、過度に好意的な「デレデレ」した態度の両方をとることを指す。
部屋は、校舎の端、ジメジメとした暗い一室を当てられている。部員、もとい会員は現在のところ川端ひとり。川端康生。爽の一学年上の2年生だ。腺病質な顔に分厚い眼鏡をかけ、人を馬鹿にしたような薄ら笑いを常に貼り付けている。
おまけに根っからのオタクで、服装にも全く気を使っていない。夏などはカッターシャツの下に着た、女の子が描かれたTシャツが透けて見えるらしい。評判は良くないみたいだった。
爽はツンデレなどには興味がなかったが、川端とツンデレ研究会にはある恩があって顔を出していた。それでも一応、勧められたライトノベル、通称ラノベを読むなどして、ツンデレに対し一定の理解を得たつもりだった、のだが……。
「全く分かっていない!」
川端は憤慨している。
「ようし、部員の教育不行き届きは部長の責任だ。なんとかしてみせよう」
「まだ入っていませんし、そもそもここは部じゃないですよね」
爽の冷静な指摘を華麗に黙殺し、川端はポケットから手のひらサイズの券を取り出した。
「ここに行きたまえ、ワヌキ君」
「だからその呼び方やめてください……って、これは!」
爽は目を輝かせた。が、即座にその目は疑心で満ちた。
川端が取り出したのは、隣の県にある話題のカフェの無料チケットだった。
「どうして先輩がこんなお洒落なもの持ってるんですか」
「それは姉貴から譲り受けたものだが、僕はお洒落だぞ」
今度は爽が川端の発言の後半を黙殺し、チケットを食い入るように見つめた。行きたい、しかし裏があるかもしれない……。
「この店のマンゴープリンだ。食べたら分かる。それで、ツンデレについて少しは理解できるだろう」
やはり言っていることは意味不明だ。爽が断る方に傾きかけた時、川端はすかさず悪魔のような笑みを浮かべた。
「断ると言うなら、あの秘密をバラしてもいいんだよ?」
「……分かりました。食べてくればいいんでしょ」
渋々といった調子で爽はチケットを受け取ったが、言葉とは裏腹にその顔はだらしなく緩んでいた。実はそのカフェのマンゴープリンは、かねてより目をつけていた品だったのだ。
これが1つ目の秘密。夏目爽の秘密。爽は、無類のお菓子好きなのだ。それを知っているのは、爽自身と、川端だけ。
そして2つ目の秘密はその川端の秘密なのだが――まずは話を進めよう。
場面は、再び店内へと戻る。すでに爽の目の前には、マンゴープリンが運ばれてきていた。
爽は考える。場違いな人間がスイーツを前に黙って座っている絵と、場違いながらも食べている絵。どうせ変なら、食べている方がまだ自然だ。
ええい、ままよ!
まず、サイコロ状にカットされたマンゴーと、ムースを一緒に口に運んだ。思わず声を上げそうになった。予想していた味と違ったからだ。マンゴーの甘味ではなく、酸っぱさが口いっぱいに広がった。当然、腐りかけのような、危ない酸っぱさでは無い。かといって、甘さを上手く引き立てるなんて優しい酸味でも無い。強烈な一撃だ。無表情を心がけたつもりだったが、爽の頬は緩んでいた。おもしろい。なんだろう、この味の正体は。
爽はすぐさま次の一口をすくった。今度はカットマンゴーだけを慎重にすくう。違う。とろけるような食感が心地よいが、普通のマンゴーだ。あの酸味のもとではない。次に半透明のマンゴーソース。爽はすっかり酸味の正体を探るのに夢中になっていた。これも違う。マンゴーの風味が広がる甘い味。ということは……。
その下の薄橙色のマンゴープリン本体。それをすくって口に入れた途端、あの強力な酸味が舌の上を駆け抜けた。これだ! この酸っぱさだ!
一歩間違えれば、梅干しのごとき鋭さを纏ってしまっただろう。しかしこのプリンは、そうならないギリギリを責めていた。あくまでスイーツたることを捨てないその絶妙なバランスに、そしてそれを保つのに成功していることに爽は舌を巻いた。そのスリルといったら!
ああ、ダメだ。スプーンが止まらない。爽は目を閉じ、声にならない歓声を上げた。
この風味は、恐らくレモンではないか。レモンのエキスを混ぜてあるのだろう。容器の手前側のプリンの層は、あっという間に掘り下げられていった。
口と容器の間で何往復もしていたスプーンが、はたと止まった。そのまま、爽は自らを落ち着かせるようにスプーンを置き、信じられないといった顔で口に手を当てた。なんということだ……。爽が口にしたものは、今度は驚くほどに甘いマンゴープリンの層だった。
このプリンは、途中から味が全く変わっていたのだ。レモン混じりの酸味層から、不意打ちのごとく、ホイップクリームほども甘い、しかし歴然としてマンゴー味の層へ。今度こそ爽は笑みが浮かぶのを抑えられなかった。恐らく牛乳プリンの類いだろうが、それにしても。これはずるい。
殆ど味蕾を苛める様にして酸味を貪っていた所を、行き成り柔らかな甘味で包み込まれる――表情筋が緩まずして、何と成ろうか。人の多いカフェの店内で醜態を晒さない為には、急いで口元を隠すより無かったのだ。
そして爽は、川端の言葉を思い出した。
『食べたら分かる』
……分かりました、先輩。これがツンデレなのですね。
最初のパンチの効いた酸味が「ツン」、この甘いプリンの層が「デレ」と言いたいのでしょう。この落差に、爽は完全に参ってしまっていた。プリンの虜となっていた。平静を装いながらも、再びスプーンを狂ったように往復させる。
ツンが強ければ強いほど、後のデレの破壊力は凄まじいものとなる。こういうことだったのですね、先輩の事を馬鹿にして、すみませんでした――そう思いかけた時、丁度スプーンがガラス容器の底を突いた。チャッ、という軽い音が響く。容器の手前側は、もう全層にわたって食べてしまった。ああ、早く。奥に向かわねば……。
そこで、爽はハッとした。そうか、違った。そうではないのだ。爽は己の勘違いに気が付いた。ツンとデレは、そんな単純な関係では無いのかも知れぬ!
爽は、残った表層に手を付けた。とろけるような果肉、ほんのり甘いマンゴーソース、そして酸味が癖になるマンゴープリンの層。それらを口に入れた時、爽は自分が間違っていたことを確信した。嗚呼、何と云う事だ。ツンはデレの為に在らず。デレ自体も、其れだけで至高の存在なのだ。
爽はこれまで、ツンをデレのための一過程、引き立て役だと侮っていた。あのラノベのキャラクターしかり。爽の不用意な発言から、川端はそれを見抜いていた。だからこのプリンを勧めたのか。
あの強烈な酸味がもう一度口に広がった瞬間、爽は予想以上の感動を覚えていた。思っていたよりも、自らがツンを求めていたことに気付いたのだ。ツンは、決してデレの前にあるのではない。デレも、ツンの後にあるのではない。どちらも至高、どちらも主役。その極端なまでに逆ベクトルの属性が奇跡的に手を取り合った瞬間にこそ、ツンデレは存在しうるのだ!
ツンとデレの狭間で、ジョットコースターのような味覚の落差に翻弄された爽が、あっという間に空になった容器の前にスプーンを静かに置いた時、その心は穏やかに全てを受け入れていた。川端に対する意地も、些細なことに思えた。
気付けば、雨は止んでいた。窓の外を見ると、嘘みたいに穏やかな海が、爽の内面を映すかのように広がっていた。
突如、爽の視線に人影が割り込んだ。それは――店内にただ1人だけ居た男性客、その人だった。
「ふふん、どうだった? ツンデレのお味は」
「川端先輩……」
その名前を口にした途端、爽は胸の奥をギュッと掴まれたような錯覚に囚われた。
いけ好かない口調はそのままだったが、普段の彼からは考えられないくらい垢抜けた恰好をしていたのだ。眼鏡は外され、髪は整えられている。服装も爽やかだ。
胸の痛みは、錯覚ではなかったかもしれない。
爽は動揺を気取られぬようにそっぽを向きながら「座ったらどうです?」と口をとがらせた。川端は黙って爽の向かいに腰を下ろした。
こんな急に、しかもガラッとイメージを変えて。さぞや反応を楽しんでいるだろうと川端をチラッと見ると、なぜか困ったような顔で頭をかいていて、それがまた爽にはどうしようもなく可愛らしい仕草に見えた。
ああもう、こんなの……ずるい。卑怯だ。せめていつもみたいに、余裕たっぷりの憎たらしい顔をしてよ。そんな、自分も緊張しているみたいな空気を出されたら。
私は、どういうリアクションを取ったら良いの。
川端は緊張の面持ちのまま、口を開いた。
「……レポートのことだけど」
「実は私、そういうのとても苦手なんです」
爽はフワフワした気持ちから逃れたくて、一息にそう言った。え、と力なく呟いた川端に、爽は続けて、
「だから、口頭でもいいですか。それも、忘れるといけないから今すぐに! ここはクーラーが効き過ぎなので、どこか他でお茶でも飲みながら!」
もちろん先輩の奢りですからね、と大声を出したことを恥じらって小さな声で付け加えると、ようやく川端はいつもの調子を取り戻したらしく、
「今のデレは……良い! 夏目君もやればできるんじゃないか」
「うるさいです!」
あと、いい加減にその「君」付けは腹が立つから止めて、と爽が苦言を呈すると、川端は極々自然な調子で「じゃあ、爽」と言ったため、今度は爽が沈黙してしまった。
店を出ると、むっとするような暑さが2人を襲った。しかし、涼しい店内に長い時間居たせいか、その暑さはどこか安心できるものだった。
あんなに激しく雨が降った後だというのに、空模様はカフェに入る時とほとんど変わっていない。ただ一点――空に架かった、鮮やかな虹を除いて。
爽の秘密は、無類のお菓子好きということ。川端も、彼自身の「秘密」を爽に打ち明けた。その真剣な表情が自分のためのものであることが、爽にとってはこの上なく心地よかった。
1つ目の秘密。夏目は無類のお菓子好き。
2つ目の秘密。川端には好きな子がいる。
3つ目――。
川端の申し出に爽がコクンと頷いたその時から、虹の架かった空は「2人の秘密」になった。
了
登場人物の夏目ですが、「爽」と書いて「さやか」と読ませます。