サンドリヨンは水鏡で踊る
私の名前は灰野麻衣香。友達からはサンドリヨンと呼ばれている。
両親を亡くして性悪な継母と二人の姉と暮らす娘の物語といえば有名だろう。家事を一人でこなす娘に、継母たちはえんどう豆をかまどのなかにぶちまけて夜通し拾わせたりしたものだから、灰の中へ寝なければならなかった。それで、灰被り、サンドリヨンと呼ばれた。サンドリヨンというのはフランス語で、英語だとシンデレラという。わざわざフランス語をチョイスするあたり、私のクラスメイトはかなりマニアックな人たちだと思う。
話は変わるが、私はこの夏失恋した。
先輩が読みたがっている本が邦訳される気配もなく、残念そうにしていたので思わず言ったのだ。
「原本ならうちにあるんです。訳してきますよ」
勢いで言ってしまったのだけれど、電子辞書片手に少しづつ訳して、ファイルをアップして落としてもらって、メールでやりとりして、楽しかった。本当に楽しかったのだ。自分勝手だと思ったけれど、会いに行って、玉砕した。訳したのはフランス語の本だった。
そうして夏休みに入り、片付ける課題も早々に無くなって、私は読書に逃げた。無造作に親の本棚から借りてきた本を積み上げて、ベッドの上で読んだ。ひたすら読んでいると、グリム童話の本が出てきた。当然のように灰被りの物語も出てきた。魔法でガラスの靴とドレスと馬車を得た灰被りは王子様と結ばれて、めでたしめでたし。幸せになるヒロイン。
私の幸せって、なんだっけ。高校生の身で考えるなら、まずは進学、あるいは就職だろうか。進学…………。
…………ああ、考えが元に戻ってきてしまった。
先輩と同じ大学。
憧れだけではないのだ。もともと翻訳に興味があって、文学部に進むつもりでいたし、近辺で一番専門的に学べそうな大学はあそこなのだ。夏休みの今、オープンキャンパス中に訪ねておきたい場所なのだ。だけど、だけど、だけど。
「どうしよう……」
高校一年でそこまで決めなくてもいいんじゃないか。別に来年でも、
「でも行きづらくなったら困るしなあ」
この際遠方に出てみてもいいし。
「でも……」
最大の問題は、オープンキャンパスは明日だということだ。
夜まで悩んで、両親に行ってくると宣言した。なにかこう、コメントがあるかと思ったら、父は読みかけのアメコミへ、母はドイツ作家の幻想文学へ、早々に戻ってしまった。
いくら何でも気にしすぎなのでは。
あきれた私の顔を反抗的と思ったのか、お説教の金切り声がまだ終わらない。
「割った陶器のお皿の分、そうね家の壁が汚れてきたから全部掃除しなさい! 終わるまで中に入らないでね汚れが移ったら大変!」
「いいわね、サンドリヨン!」
「さっさとはじめなさいサンドリヨン!」
私は灰だらけの服でたたき出された。本当に、気にしすぎだ。こんな夢をみるなんて。このまま耐えていれば、舞踏会が開かれて魔法のガラスの靴で王子様と結ばれるのだろうか。姉たちが思い切り背中を押したのでドアの前で倒れたまま考える。
たっぷり時間をかけて起き上がると、もう日が沈んでいることが分かった。道を歩く人影はなく、空には三日月が浮かんでいる。そもそも掃除用具はあるのかと庭へ向かおうとすると、馬車の音が聞こえてきた。馬の蹄が石畳にあたる音と、石畳を踏みしめる車輪の音。馬車ってこんなに早いのか、すぐに間近へ走ってきた。
「すみません、私を乗せていってくださいませんか」
とっさに走って行って声をあげると、馬車は止まり、手綱を持つ男が振り向いてくれた。
「どこまで行きたいのだね」
「できるだけ遠くまで」
「金はあるかね」
「いいえ」
「それなら、市場に出してもいい」
市場とは奴隷市場なのだろう。それでも私は、物語とはちがう結末を見たかった。不思議なくらいにここから離れたかった。
「それでもいいから、乗せてください」
男が息を吐く音がした。
「単なる家出ではなさそうだね、たまに声をかけて来る若者がいるんだよ。さあ乗った」
荷運びの馬車を手伝いながら三日三晩で荷台は空になり、もう一山越えたところで荷受けがあるのでそこまで乗せてもらえることになった。急ぎの注文とかで、夕方には街を出て森に入り、半月が明るく見えるようになるころ開けた場所に着いた。今夜はここで野営することになり、私はここ数日間の仕事である水汲みに出かけた。男たちによれば、すぐそこに湖があるらしい。
湖には先客がいた。
「こんばんは」
声をかけてきたのは物腰やわらかな男だった。汚れひとつない白い服を着て、胸元には青い宝石が光っている。まるで貴族のような若い男。
「こんばんは。水を汲んでもかまいませんか」
「どうぞ。僕の湖の水はきれいだろう」
「あなたの湖?」
「そうだよ。僕はここに住んでるんだ」
こんな人気のない所に? 一人で?
辺りに建物は見当たらないし、明かりもない。ここから向こう岸は見えないうえに舟も浮いてはいない。
「僕を知らないってことは旅人なのかな?」
「ええと」
振り向くと野営地から煙が上がっている。ここはさくっと話して帰してもらおう。
「父も母も亡くなって、継母とはそりが合わなくて。それで、家を出ることにしたんです」
木のバケツで水を汲みながら答えた。
「君は、待つのは嫌いなのか」
「ええ、たぶん」
「それはよかった」
「そうですか?」
黒髪をゆらして、男は笑っていた。
「ねえ、月が沈むころにもう一度おいで。きっと気に入るから」
豆のスープと黒パンの夕食が済んで、皆明日も早いからと寝てしまった。
湖の貴族の話はなぜかする気にならず、私も見張りの男に挨拶して馬車に引っ込んだ。だってあやしい話だし。夜に一人で森を歩くのは怖いし。
あやしい話に、好奇心が勝った。
見張りの男が寝入ったすきに、こっそり馬車を抜け出して湖へ。
「来てくれてうれしいよ」
「月明りって案外明るいんですね」
かなり西に傾いてはいたけれど、ここまでの道を照らしてくれるのに十分だった。
「そうだね、だけどそれだけ見えると見えにくくもなるんだよね」
また、よく分からないことを言う。
「見ててね、もう月が沈む」
男が懐からなにか取り出すと、湖は明るさを失くした。そして湖の明るさと引き換えに、男の持つなにかが明るくなった。細くて透明なそれの中を、金色の光がゆっくりと巡っている。
「ガラスのペンだよ。これが僕の道具でね」
空中にガラスペンをかざすと、文字を書くように滑らせていく。空中には金色の文字が浮かんで、書き続けると金色の文字は私の男の周りを巡りだす。
「僕は湖の魔法使いなのさ。さあ行こうか」
魔法使いが手を差し出して、私はその手をとった。
そうして、湖の中程まで歩いてきた。
水面を踏むたびに金色の波紋が現れて、私たちは湖を歩いているのだ。私はずっと手を引かれ、魔法使いの足元に現れる波紋の動きを追っていたのだけれど、ふいに上を見てごらんと声がかかった。
顔を上げると、空は明るかった。それは星が集まってできた大きな河で、青く冷たい珠で、赤く燃える火で、白く輝く光だった。
「すごい……」
湖の周りにはただ暗い森があって、その中で星の光だけを受けて湖が輝いていた。水面に見えるのは、輝く星空そのものだった。水鏡。なにもない平らな水面に風景が鏡のように映りこむことをそう言ったはずだ。ここは舞踏会ではないし、魔法使いがドレスと靴をくれたわけではないけれど、踊りたくなった。
空に湖に輝く星の中で、灰だらけのスカートをひるがえしてステップを踏み、金色の波紋を作り出す。
静かな水鏡の上で、一人星に包まれて回るのを、魔法使いがやわらかな笑みを浮かべて見ていた。
そんな夢をみた。オープンキャンパスはというと、最初に集められた講堂でのガイダンスがもうすぐ終わろうとしている。この後は自由行動となっているので、まっすぐフランス文学研究室を訪ねようと思う。
校舎を移動して、西館の三階にその部屋はあった。明るい清潔感のある校舎だが人通りはまばらで、三階まで来るとインクと古書の独特のにおいで満たされていた。
二つ目の部屋の前にたどり着いた。ノックをすると、どうぞ、とやわらかな声が返ってきた。
失礼します、と部屋をのぞき込むと、黒髪の男がガラスのペンを握ってこちらを見ていた。
サンドリヨンは湖の魔法使いに訊ねた。
「フランス文学研究室はこちらでしょうか?」