卒業
卒業
人はあたしの事、なんの悩みもなく幸せそうだって思うだろうか。
「お父さんもお母さんもお医者様なんて、羨ましいな」
そんなことをよく言われたんだ。
その度心の中で反論してきたの。
(あたしが毎日冷たいご飯を温めて一人っきりで食べる寂しさなんて、
あなたにはわからないでしょ!)
言葉にできないけど、あたしにはあたしの寂しさや辛さがあった。
でも外から見れば幸せいっぱいの甘やかされたお嬢様に見えたのかもね。
柚花の事だってそうだ。
年の離れた弟くんの話は聞いていて、
可愛くて愛くるしくてそんな兄弟がいるなんて羨ましかったの。
でも現実はそれだけじゃないのよね。
そんなに単純なものじゃなかったね。
柚花の家の事を想う時、あたしの胸は言いようのない感情が渦巻くんだ。
どんな気持ちだっただろう、
想像すると涙がいっぱい溢れてくるの。
大好きなお母さんが傷つけられて、痛いほどの心の痛みや叫び。
たくさんのいろいろな感情はどんなに抑えようとしても
身体の外に飛び出して行ってしまう。
それでも、柚花はなんとか自分の人生を歩くために前を向いたんだね。
大好きな人と離れて暮らす事を選んだんだ。
たくさん芽生えた感情は、
離れて暮らすうちに違う形になるんだろうか。
それはわからないよね。
ただ、胸を張って前を見据えて生きてゆこうとしている柚花を、
あたしは応援したい。
様々な気持ちを抱えたまま転校してきてあたしに出会ったけど、
あたしはあの子のどこまでを見ていたんだろうなって思う事があるよ。
感じていたかなって思う。
笑顔が大好きだから、いつまでもその笑顔を見ていたいから。
北風は冷たいムチみたいにそこらじゅうをビシビシ叩いてるみたいだった。
冬の日は寒いって相場は決まってるのに、
寒い朝はがっかりしちゃうの。
そしてその日も、うんと寒くて凍えそうだったの。
手袋の中に寒さがしみわたって手も足も、凍っちゃいそうだった。
空のかなたから、白くて小さなものがちらちら舞って来た。
ほんの少しの間、それが雪だってわかんなかったよ。
お正月にちょっと顔を見せて、どっかに消えちゃってたからね。
柚花はほっぺを真っ赤にして、遠くの方からかけてきた。
「先輩たち、卒業しちゃうのね」
そう、みんなそれぞれの新しい道をゆくんだよね。
卒業、言い表せない寂しいような気持ち。
体育館は、少しだけ緊張の糸が張ってるように感じたな。
寒かったのもあるけどさ。
キンとしていつものザワザワも違ってるみたいだった。
卒業生のお父さんやお母さんもたくさん集まってきていた。
中にパパの姿が見えた。
あれ、ママもいる。
学校の行事にはほとんどと言っていいほど
来た事がないママも来るんだな、やっぱり。
卒業って区切りだもんね。
子供の成長を祝ってあげたいだろうし、人生の中で何回もあるもんじゃないもんね。
突然、会場の中がすっと音が消えてスローモーションに変わった気がした。
卒業生の入場だった。
みんな、緊張してる。
がらにもなく、沢岡翔も水嶋保もかたくなってるね。
たもっちゃん、右足と右手が一緒に出てるよ。
あ、今ちゃんと歩き出した、良かった。
あたしまで、肩こっちゃうよ。
みんなが一回り大きくなったように見えるのはなんでかな。
肩幅が広く、胸が厚い。
大人の男の人になったみたい。
女子の先輩もおとなのお姉さんの顔をしてる。
一人ずつ名前を呼ばれると、壇上に上がってこちらを向いて、
一言言ってから校長先生の前に歩み出て卒業証書を受け取るんだ。
長くて、不思議な時間が流れている。
『沢岡、翔』
兄貴の名前が呼ばれた。
「はい」
大きくてはきはきした通る声、舞台脇の階段を上る。
こちらに向きを変えると
「ぼくは、将来医者になってたくさんの人に喜んでもらえるようになりたいと思っています」
まっすぐ前を見て、遠い遥かかなたの自分を見つめるように。
校長先生からは、『期待しているよ、君ならできる』そんな言葉を受けていたようだった。
『水嶋、保』
いつもと違うたもっちゃんだった。
「はい」
元気な低い男の子の声。タタタと階段を上がる。
たもっちゃん、そんなに早く上っちゃだめなんじゃないの?
こっちを向いて大声をあげた。
「ぼくは、大きくてでっかい人間になりたいと思います。
ここまで育ててくれた、支えてくれたすべての人に感謝しています、ありがとうございました!」
たもっちゃん大きくて、とでっかいって意味一緒じゃないか、ばかだなぁ。
そう思って見ていたあたしの目から涙がこぼれ落ちちゃったよ。
どうしてだろう、中学生と高校生ってものすごくかけ離れて思えちゃうのはさ。
兄貴もたもっちゃんも、遠いとこに行っちゃうんだって思うののはさ。
誰も、きっと変わることなんかないのにね。
卒業って言葉は、こんなにも特別に思えちゃうんだ。
ものすごく手の届かない場所に行っちゃった気がするよ。
小さい頃からいつでも一緒に遊んできた兄貴とたもっちゃんとあたし。
何をするにも一緒だったね。
年の差なんてなかったよ、あたしたち。
それでも、兄貴が一番先に走っていくのを、たもっちゃんとあたしが追いかけてきたんだよね。
でも、たもっちゃんは兄貴と一緒にあたしよりずっと先に行っちゃったね。
どうやったら追いつくのかわからないよ。
それでも、あたしはあたしの道を歩いて行かなくちゃいけないんだよね。
一人残された気がしているけど、そうじゃないんだよね。
送る歌は、涙がこぼれて歌えなかったんだ。
こんなにあたし泣いちゃうはずじゃないのに。
柚花も目を赤くしている。声が震えてる。
一緒じゃなくなるわけじゃないって思ってるのに、涙は止まる事がなかった。
たくさんの拍手の中を三年生は卒業していった。
胸に飾られている紫色のランの花がゆれていてきれいだな。
さっきまで気がつかなかったよ。
主役のいなくなった体育館は普段のザワザワに戻っている気がしたのは、あたしだけなのかなぁ。
寂しさは、消えなかった。
となりで、柚花が
「まだ、一年間は私がそばにいるんだからね」
やわらかい微笑みに、こころから嬉しいなって思うよ。
ありがとう、柚花。
そうだよね、兄貴もたもっちゃんもそれぞれ自分の一歩を歩き出したんだよね。
あたしの中学生活はまだまだたくさん残ってるし、
いっぱい楽しまなくちゃ損しちゃうよね。
柚花とすごせる大切な一年。
一生の中で中三は一度きりだもん。
まあ、なんだってそうだけどさ。
自分の将来のことも進む道も、まだまだ見えてこないけどさ。
でも、それでも大切な時間がたくさん広がっている。
まだ一年残っている、じゃなくてもう一年しか残ってないんだよね。
大切にしよう、人生で一度しかないこの時間を。
校庭には、ちらちらしていた雪も止んだみたいで
雲のすきまから青空がのぞいていた。
そこから、スポットライトのように暖かい光が校庭の土の上に降りてきている。
その、スポットライトに照らされるみたいに、
たもっちゃんが赤いリボンのついた卒業証書の入った筒を握って立っていた。
「みわ~~、今日、俺んちで卒業パーティーするぞ~」
兄貴が隣で笑っている。
後ろのほうでパパとママ、水嶋パパママが話している。
気がつけば、校庭のそこここで卒業生や父兄がかたまって話をしているんだ。
「ゆずかちゃんも、おいで~」
兄貴の声にきゃってあたしに抱きついた柚花。
真っ黒い瞳であたしに迫るんだもんな。
「いいの?」
ってさ。
いいも悪いもたもっちゃんの家でやるんでしょ?
「いいに決まってるよ」
ちっちゃな柚花があたしをぎゅっと抱きしめただけなのに、
妙に苦しくておかしいの。
今日は、きっとたくさんの楽しい想いが待っているんだね。
きみの震える気持ちが腕から身体から伝わって来るよ。
たくさんの気持ちを抱えて、
それでも夢を追いかけて大好きな人に心ふるわせながら生きている。
きみに負けないように、しっかりと胸を張って生きて行こう。
たくさんの気持ちも感情も糧にかえて、大きく成長しよう。
さあ、行こうよ。手をつないで、たくさんの夢や希望に向かって。
いつだって力いっぱいの直球ガールと、
たまに何考えてるんだかわかんない変化球ボーイズと。
あたしは、あたしの明日に向かって
胸を張って自分の力を信じてボールを投げよう。
たくさんの暖かい光に包まれても、
寒い北風に吹かれても自分を見失わないように。
そうだ、春になって緑が芽を出し始めたら、
あの柚花の好きなイチョウの木に会いに行ってみようかな。
柚花と一緒に。
たくさんの希望を溜め込んでさ。