大きなイチョウの木の下 2
「ありがとうございます!」
そう言うと駆け出した。
走りながら、あたしの頭が動き出したのがわかった。
お父さんに暴力にあっていた柚花のお母さん。
それを苦しんで見ていなくちゃいけない柚花。
そんな事、考えた事もなかった。
あんなに明るかった裏にそんな気持ちを抱えていたなんて。
駆け下りる階段の上から、
面白がってるみたいに声が追いかけてきた。
「あんたさぁ~、人の家の前でうろうろするのやめなよね~、
不審者で通報されちゃうよ~」
あたし?
そういえば、インターホンの前でかなりうろうろしてたかもしれないな。
不審者で通報されて捕まっちゃったところが頭の中で浮かんで、
ドラマのように音楽まで流れちゃったあたしの妄想を
『違う!違う!』って振り払いながら階段を駆け下りた。
206号室から階段を下りるとマンションの駐車場で、
横に畑の中にのびる道が続いていた。
そこを、さっき上から見た赤い屋根の家へ走った。
目と鼻の先に石でできた門があってまわりは生垣がおおっている。
ここに柚花がいるのかな、
柚花『出てきて!!』心の中で強く願ってみる。
柚花に会いたい、柚花の顔が見たい。
そう胸の奥でもう一度叫んでみた。
「公園で遊ぼうか~」
声が聞こえた。
声、柚花の。
建物の中から出てきたのは本当に柚花だった。
だから、きっとあたしたちは絶対どこかでつながってるって確信しちゃったの。
現れた影は顔を上げて、あたしを見た。
「み、わ?」
いつもの口調でゆったりと柚花がこっちを見ながら驚いた顔。
あたしは彼女にかけよってぎゅっと抱きしめたかったけど
恥ずかしくて手を上げただけだったんだ。
「やあ!ひさしぶり!元気だった?」
そうじゃないよ、すごく会いたかった。
会いたくて死にそうだったよ。
それなのに、手なんか上げて話すあたしは
心と身体がばらばらだよ。
胸の中がどんなに震えてるか言葉にしたかったのに。
「どうして、ここ、わかったの?」
「いやさ、野村をぎゅうぎゅう絞め上げてさ、吐かせたのよ」
あたしは両手で首を絞めるまねをして見せてから、
親指を立てて見せた。
「ふふふ、絞めたんだ。かわいそうに野村先生」
笑った、柚花の笑顔、なつかしいその表情。
この笑顔があたしは見たかったんだよ。
良かった、ここまで来た甲斐があるよ。
柚花は家の中に何か言いに行くと、あたしの前に立って歩き出した。
目の前に夢じゃなくて柚花がいる。
「美羽にね、あの夜あってからね。考えたんだ。
美羽みたいに正直に生きてみようかなって」
前をあるく柚花は空を見上げて、
ふたまた地蔵のこんもりとした林を指差した。
「ほら、あそこに大きなイチョウの木があって小さい時からね、
なにかあると大きな幹にぎゅっと抱きついていると、聞こえて来るんだ」
あたし達は二人で一緒に声をあげた。
「なにが?」
「なにがかって?」
チャーミングにウィンクした柚花は、
抱きしめてキスしたいぐらいに可愛かった。
ばかか、あたし。
「こころの声、自分の」
脇の小道からふたまた地蔵の境内みたいなところに出られて、
意外にもひろい空間が広がっていて
あたしはちょっとびっくりした。
柚花がさっき言ってたイチョウの木は
神社の裏に高く空にむかって立っていたからすぐにわかった。
全体が黄色く色づいて、たまにふわふわとゆれている。
日のさしているところは明るい黄色、
手前の短い枝は黄緑色でこの色の配色にあたしは目をうばわれた。
小さな柚花がいて、目の端に赤い鳥居。
大きなイチョウの木々の黄緑と濃い黄色。
神社は小さいけれどなんだか本当にそこに神様なんかがいて、
あたしたちを見つめているようにも思えてくる。
心のシャッターが何度も押されているのがわかった。
今、この瞬間が好き。たまらなく大好きだ。
小さい時から、柚花は何度もこのイチョウの木に
自分の心の声を聞く為に抱きついてたのかな?
のほほんと暮らしていたあたしなんかとは比べものにならない位、
悲しいこと辛い事あったんじゃないのかな?
そんな事考えただけで、きゅうっと胸が熱くなっちゃうよ。
「まさこ姉ちゃんになんか、聞いたんだ」
柚花が、あたしの顔を見て何かを感じ取ったみたいだった。
だめだ、いろんな事考えれば考えるほどあたしは変な顔してる、
もっと余裕のある表情見せなくちゃ柚花が考えちゃうのに。
「DVだって?」
「うん」
うなずいちゃった。
頭の中をDV、って言葉がからまわりしてるよ。
自分の人生に係わる事のないと思ってた言葉。
「まさこ姉ちゃんは、母さんの妹で小さい頃はいつもくっついて遊んでもらってたの。
母さんのこと大好きだからね、
あんな風にさわいじゃうんだよね。
大好きな人の悲しい顔なんて見たくないものね」
柚花は、いろんな事を話し始めようとしているみたいだった。
封印していた何かが解けたように、包み隠さず。
あたしはそれを、遠くの方を見ながらただ聞いている。
どんな顔して柚花を見たらいいかわかんない。
柚花はお父さんの突然の事故で、
小さい頃はお母さんのお兄さんと住んでたんだって。
家は農家だから柚花も畑仕事なんか手伝ったりした。
柚花にとって、お母さんはたった一人の家族だったんだ。
その後柚花が小学生になるとお母さんはきちんとした会社に就職して、
さっきのまさこ姉ちゃんがいたマンションに住んだ、柚花も一緒に。
それから今の人とお母さんが結婚して一緒に住む事になるんだけど、
その人は、普段はとっても優しくて温厚な人なの。
でも、お酒をたくさん飲むと人が変わっちゃうんだって。
何度か、隣の部屋でお母さんが殴られるのを目にした。
ある時、お母さんが頬をはたかれて泣き出したのを見て、
柚花は言いようのない感情を抱いた。
大好きなお母さんを傷つける人、
大切なお母さんを悲しませる人。
柚花の中で何かが変わった。
その人が許せなかった。
その時から、その人の前でかたくなになっちゃって、ギクシャクしだした。
柚花は『あの人』って言った。
あたしは、手で顔をおおいたかった。
悲しすぎるよ、許せないよ、そんな事。
耳をおおいたかったけど、柚花は遠くの方を見ながら
やわらかい表情のままだったから
あたしも顔を上げていたの。
黄色いイチョウの葉っぱがいくつか落ちてくるのを眺めた。
空は真っ青に澄んでキラキラと未来を指さしているように感じた。
悲しみを包み込んで黄色くなったイチョウの葉は、舞いながら落ちてゆく。
そして大きなイチョウの木は、わかっているよと言って頼もしくそこに立っている。
この大きなイチョウはたくさんの柚花の言葉を聞いて、
優しく彼女を抱きしめてきたんだね、きっと。
ここにいると、優しい気持ちに包まれる。
そうして、何度か家を飛び出したのが数年前で。
でも、今二歳になる弟が生まれた時、その人はお酒を辞めると誓った。
で、新しい場所で新しい生活を始めたのが、柚花の転校理由な訳。
だけど、あの日、あたしのとこに電話してきたあの夜、
再びお母さんがキッチンで泣いているのを見た。
部屋には、酔いつぶれて眠る男の人。
お母さんの頬が赤く痛々しい。
どうして?どうして?
そんな言葉があふれて、家にいられなくなって外に飛び出した。
あの晩、何かを言いたくて言えなくて、
あたしは柚花をわかってあげられなくて、なにも役に立つ事できなかったよね。
一人で考えて一人で悩んで。
ごめんね、ごめんね柚花。
「こんなに、素直に本当の気持ち言えちゃうなんてね。
美羽に話してる自分がうそみたいだわ。
こんな事話せる人なんて一生いないだろうなって思ってたもの」
こっちを向いてにっこり微笑む柚花の笑顔は、
やわらかくて綿毛のようにふんわりとあたしの心をくるんで温めた。
「あたし、何にもできなくて、
何も言ってあげれなくって。はがゆいよ」
不思議そうに首を傾けて目を大きく開いて、
柚花の顔は笑った。
「ここまで、来てくれたじゃないの。
そんなにわたしの事心配してくれてるじゃないの。
その気持ちだけでわたしどんなに勇気をもらったかしら」
瞳がうるんでいる。
イチョウの木はあたし達の話を黙って聞いていたけど、
突然ビュッと冷たい風が通り抜けてザワワと黄色い葉っぱをゆらして
何かを呟いたように思えた。
「たぶん、母さんはあの人のもとに戻ると思うの、今回もね」
イチョウの葉っぱのざわめきの中での思いもかけない言葉に、
あたしは聞き返したかった。
「病気なんだって、アルコール中毒なんだって。
その人に強い意志があれば克服できるんだって」
またも、あたしのわかんない事がのしかかってきちゃったよ。
アルコール中毒?克服するって?
「母さんは、それを支えてみようって思ってる。
わたしは、無理だわ。一緒には住めない」
なにがどうなって、柚花が何を言ってるのか理解不明。
ああ、あたしの脳ミソってどうしてこう
肝心なときにクエスチョンマークで一杯になっちゃうんだろう。
ただ頷くだけのあたし、情けないよ。
「きっとね、もうすぐわたし学校にも行けるようになると思う」
なんで?
本当に学校に来れるの?
あたしには、すごくすごく嬉しい知らせのはずなのに手放しでは喜べないよ。
大丈夫なの?柚花が幸せに思えるの?
なんて言葉を選んで良いのかわからなくて
あたしは黙ったままイチョウの木を見上げた。
黄金色の中でまだ黄緑色の冬支度に取りかかってない葉っぱたちが、
なんだかあたしに似て見えた。
これからどうなっていくのか、どうしたらいいのかわからない。
黄金色に身をそめたイチョウの葉のように、
柚花はまっすぐ自分の行くべき場所に飛んでいけるんだろうか。
どんな風に乗っていけば、幸せが待っているんだろう。
「子どもなんだね」
「うん、まだまだ自分一人で生きていけないこども」
あたし達は、本当に双子のように同じことを考えていた。
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