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幸せの基準は神の産物である。

作者: 安孫子太郎

幸せの基準なんてものは、本当に人それぞれである。

何を喜びとし、何を不幸とするのか。常に正しい軸は無く、一人ひとりが、異なる軸を中心にコマのように回り続けている。その廻る速度、振れ幅もまた異なるものであり、誰もが共鳴することなどほぼ皆無だ。


そういった事実が介在する世の中で、

民主主義的に全てを足並み揃え、抜きん出たものを潰していくことは誠に愚かなことである。


さて、幸せの基準が似た物同士がくっつくことが良いかどうかの話に移りたい。

例えば、恋人同士であれば、価値観、考え方が近いほうがより幸福を得られるかどうかの話題をしよう。


目に見えやすき部分でいえば、趣味、習慣が似ている。好きなこと、好きな物が似ている。こういったことが挙げられる。


似ていることが悪いわけが無く、良いことであるのは事実ではあるが、それは目に見える部分が同じなだけであり、それを全てと思い込むのはいささか早合点である。


目に見えぬ類似点というものもある。これは、どう説明したらよいのか難しいところだ。


一見、全然、似合ってないような二人でもうまくいっている夫婦などが居る。

なぜ、あの二人のは結婚したのだろうか。間違いとしか思えない。


こう、周囲からは見られたとしても、そこには目に見えぬ部位の作為が働いている。

それを読み解いていくことは難しい。また、そのような行為はナンセンスだ。


目に見えぬ世界を言葉で解説することほど、野暮なものは無い。

視覚化したところで、言葉が当てはまらないのだ。

言葉なんて、人類がコミュニケーションのために作り上げたツールでしかなく、所詮は人間が作り上げたもの。神により構築された我々の体内に広がる宇宙の意志に、その言葉というツールを使用したところで限界があるのは当然のことであろう。


何となく好きだとか、何となく良いとか。そういう感覚は大切に生きていきたい。



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