『裁き』と『間引き』
ミノル「世界には裁きが必要です。なぜならば「裁」と「栽」と言う字の二つが非常に似通っていることを公理として出発した場合、その結論にたどりつくのは自然だからなんです!!もちろん公理です!公理だから証明できない!公理を証明しろという未開の野蛮人どもは細切れにしてサイコロステーキにでもしてしまえばいい!そして食中毒を起こすのが奴らの関の山ですから!とにかく、裁と栽の字が何故似ているのか。結論から言うと私たちが思っているほどには、実は似ていないのです。確かに四角形にこの二つの漢字を当てはめた場合、その裁・栽の字は27分の20ぐらい一致しているものと思われます。しかしそれはあくまで面積に重みを与えない時での話。実はその残りの27分の7が非常に大きな意味を持ちます。衣と木の違いです。木とは人間の住の根幹を支えるものですから、衣食住のうち二つをこの漢字で賄っていることになります。では、この共通部分に食の字を当てはめた時に、それは漢字として成立するのか。いや、しない。なぜならばゴミ箱を孕ませたときに、そのゴミ箱の中身を喰う人間はいないからです。この二つの共通部分は実は母親のイメージを持ってみなすことができますから、食の部分は実は二つを合わせることで生まれる。私の知り合いの共感覚者にこの文字を舐めさせたところ、栽の字はミルクの味、裁の字はモルヒネの味がしたとのことです。当然です。このことからも人間の共通無意識にこのようなイメージがいつの間にか刷り込まれ、その面積としては小さいながらも大きな部分が、漢字のイメージを決定付けているのです。そういうことを考えると、27分の20の残りのさらに27分の7を取り除いた、729分の140が何かと言うと、タイポグラフィーの分野でしばしば提唱されるカーニング……隙間、に当たります。古来からマキシコ式忍術のとある流派には、無から有を見出すという禁忌に試みた男がいました。その男はリンドに移り住み、0=1の方程式の証明を試みました。これはオイラー方程式への唯一の反証となりうるため、これを証明してしまった瞬間、世界は崩壊する。しかしアレフ3を空間に拡張しようとした男に比べれば、彼の行いは児戯にも等しい。瘴気に戻った彼の著作『官能カーニング』によれば、文字のバランスを決めるのはその隙間だということです。社会タイポグラフィー地震研究の第一人者であるアレクサンドル・ビネガー・ジョーの友達によれば、カーニングは文字と文字の間ではなく、文字そのものの間にも存在しうるということが証明されました。この発見はネイチャー誌で大きく取り上げられ、人類の重大な発見のうちの一つに数えられましたが、数えられませんでした。しかしそのマキシコ式忍術の男は、失意のままレイプされ、後に半分が自殺しました。そういう歴史的反省があるからこそ、裁判と栽培の間に関連性を見出すという愚行は犯してはならない、という原理主義者が跋扈していました。彼らはあらゆる関連性を憎みます。彼らの敵はすなわち、統合失調症患者です。統合失調症は古来から精神分裂病と言う名称で親しまれてきましたが、その症状に特徴的なのが思考のフルーツポンチと言うやつです。思考が全て繋がる。すなわち、何かと何かの間には必ず関係性があり、それを絶つことはできなった。だからこそ全てのものにつながりを見出し、それは常人と言う名の奴隷からは荒唐無稽なものに見えてしまったことでしょう。とにかく、繋がりを憎むということは、単純を好み、社会の純粋な姿を導きだというとする素朴なプラトン主義に乗っ取った理想主義者です。しかしユートピアを訳すとどこにもない場所となるように、そのような理想はどこにもありませんでした。結局社会と言うのは単純なメカニズムのもと人々が動いているのではなく、多元主義的な側面を持つということを再確認したということによれば、彼らの失敗も肯定的にとらえることができるでしょう。第二次世界大戦でナチスが行った人体実験に次のようなものがありました。鏡に向かってお前は誰だ、ということを問いかけるということです。そこに捕まった英国人の捕虜は、間違って「Who are you?」と聞くところを「How are you?」と鏡に聞いてしまったそうです。もちろん鏡は「Pretty good.」と答えます。その結果を聞いたゲッペルスは烈火の如く怒り狂い、その捕虜を殺してしまったそうです。後世にはこの物語は美化され、白雪姫として語り継がれました。しかし白雪姫の林檎の栽培と、白雪姫を裁くということが同様の物語のプロセスの中で語られるのは、非常に奇妙な話です。社会において裁くということは、間引きでもあります。社会において犯罪や汚職が多発するのは、人が多いからという説もあります。サイコパス。その割合は1から2%です。そう。腐ったリンゴは捨てなければならない。こういう意味では、裁くことによって社会の奴隷たちを栽培する。厳密に言えば、裁きは間引きなのです。当時の裁判官たちには、この意識が欠けていた。間引きは、余計なものが生えて来なければ行う必要はありません。すなわち、0から1が生まれるはずがないのです。1から2を再生産した結果、2をまた1にした。しかし当時の最高裁判決における死刑の控訴棄却を見る限り、この意識が決定的にかけていたと判断せざるを得ない!確かに、1=2と0=1は等価に見えるが、そうではない!かの研究者もそこで躓いたに違いないが、それは間違いだった!なぜならば、1から2は生まれるが、0から1は生まれない。この当然のことを無視してしまったがために第三次世界大戦を招いた可能性すらあるのです。ここは人類の生殖という大きなテーマに突入しそうなので、ここで留めておきましょう。とにかく、裁と栽の字は思ったより違っていて、思ったよりつながりがある。日本の古代から伝わる漢字ゲシュタルト、これをクールジャパンとして海外に発信していかなければ、日本が生き残る道はないのです。私は死を考えたこともあった。しかし死ねなかった。何故だろうか。死のうとすると、死にたくなくなるからだ。それが産み落とされた私である宿命だ。だからこそ私を間引くという考え方は、合理的なのかもしれない。狂人であれ、常人であれ、自分で自分を間引くことは絶対にできない。間引きの下になされる自殺はない。自殺は常に、逃げだからだ。だからこそ、彼は常に裁きを求めていたのかもしれない。」




