第二話『ストレンジャー』
「えっ・・?」
手を握った途端、低く響く老婆の声に疑問の声をあげる間もなく、ショウの右手は電流が走ったような突然の痛みに襲われた。
「痛ッッッッ!!痛ぁぁぁぁぁぁ!」
老婆の手が不気味に青く光る。手を伝って押し出される謎の青い光体は、ショウの右腕を徐々に包んでいく。年端の行かない14歳の少年が、等間隔で流れるその激痛のリズムに、目蓋や口を開いて顔を歪めた。
ガスッ!
余りの痛覚に、目の前の斑点混じりでシワシワの老婆の手を、ショウは重い鞄を持った左手で思い切り、腕を叩き落すように払いのけた。
「くっ…は…くっ…はっ…」
右腕を包んだ激痛は突き抜けるように脳に痛覚を教え、ショックの余波が肺に浸透し、ショウは一時的な呼吸困難に陥った。老婆の手を逃れて、痛みに耐えながら背を向けて数歩下がると、ブロック塀の横にあった灰色の電柱に体を預け、その場で倒れこむと、過呼吸を繰り返す。
「かっ…はぁっ!…はぁ!…くはぁ!かはッ…!」
少年の味わった激痛は深刻なものだった。斬りつけられたり、殴られたりといった外傷は何も無いというのに、青い光体に触れられた腕の血管は内部破裂を起こし出血し、腕を支える筋肉の細かな繊維がブツッブツッと捻り斬られるような残痛は、さっきまで満足げに笑っていたショウの黒い眼に薄らと涙を浮かべさせた。
「ヒッヒッ…お礼が丁寧になりすぎたかねぇ?ヒッヒッ、今度はゆっくりやるからねえ…、遠慮しないで受け取ってくださいよ。学生さん、ジュル…」
身を包んだ上物の和服とは裏腹に、舌なめずりをしながら低く響く老婆の声。オレンジ色の夕焼けに黒い影が伸び、ゆっくりとショウに向かってにじり寄る。ニヤリと笑う口元とギラリと光る目以外は、先ほどの人の良さそうな老婆となんら変わりが無い。それが逆に不気味さを煽った。
「あ…あ…っ!」
殺されるッ!
ショウ少年は、ヒタヒタと近寄る老婆に生命の危機を感じた。
残る痛覚もまだ消えない内に、ショウ少年は傷ついた右手をぷらんとたらしながら、左手で鞄を首にかけると、今まで歩いてきた道を全力で逆送した。
「ヒッヒッ…往生際の悪い学生さんだ…」
老婆は不気味に呟くと、少年の走る後を追った。
――――――――
「はぁっ…!はぁっ…!」
ショウは必死に走った。生まれてから味わった事の無い痛みに耐え、不気味で奇怪な微笑みを浮かべて追いかける老婆の影に怯えながら。
ビュウッ、ビュウッ
季節は春を迎えたというのに、振り切る向かい風が寒く感じる。
それもそのはず、ショウの全身にはいつの間にか恐怖に精製された水滴が流れ出していた。学生服の中の長袖のYシャツにグッショリと滲む汗は、ショウの体温を奪い、震える寒気を覚えさせた。首にかけた教材の入った重い鞄は、必死に走る内に摩擦で首の皮を削り、ショウの首からは少々の出血が見える。
ブロック塀の続く住宅地を駆ける内に、ショウは左右に小道の続くT字路に出た。
右に行けば学校に続く人通りの少ない通学路、左に行けば駅に続く人通りの多い大通り。右か?左か?迷ってる場合ではない!ショウは後ろに迫る老婆の影を思い出し、迷う事も無く、ただ感じたままに左に進もうとした。
ドンッ!
「うわっ!」
「きゃッ!」
左に曲がろうとしたショウは、ほぼ同じタイミングで右の小道から出てきた人影と思い切り衝突した。恐怖に我を忘れ、走るスピードも緩めないショウと真正面から衝突した人影はアスファルトの小道へドタッと倒れこんだ。
「す、すいません」
「痛ぁ…!ちょっと気をつけてよッ!」
全力疾走の必死さが残る大量の汗を顔に浮かべながら、衝突して倒れた人影に寄り、ショウは首に鞄をぶら下げながら、頭を下げて謝った。奇怪な老婆から逃げ出し、汗に滲むガクラン姿のショウ目の前には、見慣れた制服姿の女子が居た。
「「あ…」」
瞬間、二人の声が重なる。
「アカネ先輩ぃ!?」
「い…井沢君っ!?」
沈みかけた夕日をバックに、まさかの遭遇を驚く二人。
薄ら青ざめたショウの必死な表情と、尋常ではない量の汗が額に滲んでいるのを見て、アカネはすぐさま立ち上がると、苛立ちと嫌悪感を露にし、眉をひそめショウに厳しい態度でこう言った。
「あのねえ井沢君。君の熱心さは凄いと思うんだけど、女の子の帰り道を狙うなんていうのは感心しないよ?私、そういうの嫌いだから。もう二度としないでね」
「えっ・・・?えっ!?ガーンッ!」
ショウ少年、ここでまさかのストーカー扱い。アカネの大いなる誤解であった。
自分の命を付けねらう老婆から必死になって逃げてきたというのに、このアカネの言葉と目に見える嫌悪感は、体に残った痛みと相まってショウの心をズタズタにした。
「い、いやっ。ち、違うんですよアカネ先輩ぃ」
痛みに堪えながらも、必死の弁解をしようと、思わずショウは左手でアカネの腕をガッと強く掴んだ。アカネはその行動に少し驚いたが、すぐさま美人顔に広がる苛立ちの表情を見せて、冷静にショウを罵った。
「井沢君?なに、この手?…早く離してよ。じゃないと人を呼ぶわよ、この変態」
「あ、あっ…い、いやっ、そういうことじゃ。ぐっ、待ってください…」
「離してよ、いいから。離しなさいよ変態!本当に人を呼ぶわよ!」
「…う、ううう…」
アカネは、いつもの温厚で優しい態度を完全に苛立ちへと変えた。冷ややかな二つの黒い眼で、まるで汚いものでも見るような眼差し。これには流石の何度踏みつけられても蘇る雑草の男、ショウも何も言えなかった。事前の調べで知っていたのだ。こうなったアカネに、もう何を言っても無駄な事を。しかし、ショウは振り払おうとするアカネの腕を離す事は出来なかった。ここで手を離したら、二度とアカネに会えない気がしたからだ。
「ヒッヒッ、追いついたよ学生さん」
ショウの背筋にヒヤリと冷たい物を感じさせる悪魔の声。
必死の逃走で差を離したと思っていたショウは、老婆が十歩足らずの場所に近づいているのを知って、恐怖の余りパニックになった。
「ひぃっ!で、でた!」
「さっ、そんな嫌な顔しないで…どうか、お礼を受け取ってください…」
「お婆さん…?知り合いなの?」
T字路に影を落としながら現れた老婆は、どす黒い物を隠した優しげな言葉を投げかけながら、ショウ達に向かってゆっくりとにじり寄る。
「う、うわああああ!」
「ちょっ、ちょっと何っ!」
ニコニコと優しげな老婆の顔に、ショウ少年は思わず先輩アカネの腕を引っ張って走り出していた。T字路の小道の右、学校へと続く道へ猛然とダッシュした。
「ヒッヒッ、本当にあの学生さんは活きがいいねぇ…嬉しくなるよ。壊れた右腕が痛いだろうに、ああも健気に必死に走るなんて、最近稀な見上げた根性だよ。まあ…それでこそ壊し甲斐もあるってもんだがね…ヒッヒッヒッヒッ」
夕日が完全に沈む頃、老婆は白足袋を履いた足でポンッと大地を蹴ると、老婆の体は重力の縛目を解き、空中に躍り出た。
―――――――
「ちょっ、ちょっと痛い!井沢君!離してよ!」
「ごめんなさい先輩!でも走って!」
走る間に日が落ちて、街頭が明かりを照らし始めると、辺りはいつの間にか夜になっていた。
自分達の通う学校へとたどり着いたショウとアカネは、硬く閉じられた表門を見て、裏門へと周った。裏門は常時開閉式の勝手口があり、そこからなら校舎へ逃げ込めるとショウは思った。校舎の中なら警備員もいるし、あの老婆もそう簡単には入れないと思ったからだ。
二人が裏門に回ると、夜の帳にぼんやりと輝く街灯の合間に、裏門の灯りが見える。門の奥にうっすらと見える砂の校庭には、さっきまで青春の汗を流していた運動部の生徒たちも帰り、コーチをする先生たちも居なかった。ショウは、嫌がるアカネを無理矢理引っ張って、静まり返った校舎の中へと進もうとした。
「何だ君達!待ちたまえ!」
「す、すいません!忘れ物をしたんで!」
裏門で警備をしていた学校の雇った警備会社の制服姿数人の制止を振り切って、ショウとアカネは校舎を駆け抜けた。
「忘れ物なら仕方ないな」
「いいんですか?いくら生徒さんといっても時間外ですよ…」
「いいんだよ。たかが中学生の一人や二人じゃないか。やる事はたかが知れてるよ」
「そうだな。別に犯罪者が逃げ込んできたわけじゃないし。面倒事は御免だよ」
「はあ…」
二人の姿に呆れる警備員達だったが、まあこの学校の制服を着ているので、とりあえず追わない事にした。外部から金で雇われた彼らが、生徒たちへ余計な詮索をして、学校側から苦情なりなんなりを五月蝿く言われたくなかったからだ。
「もし…警備員さん」
警備員達が配置に戻ろうとした時、優しげな顔をした老婆が一人裏門へと現れた。
「ああ、来客の方ですか。残念ですが先生方はもう一人も居ませんよ」
「いえ…ここに二人連れの若い学生さんが来なかったかなと思いまして」
「学生?ああ、さっきの児童達の親御さんですか。それなら校舎に居ますよ」
「ほほ…そうですか。やはり」
「私どもで探しましょうか?校舎は暗くて危険ですし」
「ご親切にどうも…。でもその必要は無いです。お気持ちだけ受け取っておきますよ」
「へっ?は、はぁ」
「こんなに親切にしてくれた警備員さん達には、何かお礼をしなくちゃねぇ…」
老婆は優しく穏やかな表情でニヤリと笑うと、青色の光体を掌に浮かべて警備員の体に触れた。校舎の静けさは一変し、辺りは悲鳴に包まれた。
―――――――
「ひぃ…ふぅ…」
「はぁ…はぁ…」
その頃、ショウとアカネは逃げ込むように図書室へ向かっていった。不思議な事に、鍵を閉めたはずの図書室の扉は、ショウが前に立つと、まるで自動ドアのように開いた。木製の貸し出し棚、本を読む机を通り過ぎ、等間隔で十列に並んだ本棚の一つにたどり着くと、二人は荒く乱れた呼吸を直しながら、本棚を背にして疲れきって床に座り込んだ。
「ちょ、ちょっと…もう離してよ」
「は、はっ。すいません…」
「こ、こんな所まで連れてきて、なんなのよ井沢君!せ、説明してちょうだいよ!」
「そ、それが。その。あの婆さんがいきなり…痛ッ!」
ショウの思わぬ腕力にただ連れられて抗う事も出来ずに全力疾走を繰り返し、深呼吸を繰り返すアカネは、少し乱れた髪形を直しながら、顔を真っ赤にしてショウに憤りをぶつけた。事情を説明するためにショウは、頭の中を整理すると、今まで忘れていた右手の激痛を思い出した。
「い、痛ぁぁ痛ァッ…!」
「どうしたの井沢君?えっ…どうしたのその手!!」
痛みを訴えるショウの尋常ではない姿を見て、アカネは気付いた。ガクランの袖から見えるショウの右手が、通常の肌色から、余りにも生々しい赤紫色に変色しているのを。
「怪我!?大丈夫なの井沢君!」
アカネはさっきまで嫌悪感に歪んでいた自分の顔など忘れて、心配そうにショウに近寄ると、ガクランと長袖のYシャツの袖を捲し上げて、赤紫色に変色したショウの右手に外傷があるかどうか見た。
「えっ・・・?」
無い、どこにも無い。切り傷、擦り傷どころか打身一つ、痣一つ無い。
ただアカネが気付いたのは、中学生男子ショウ少年のまだ柔らかな皮が隙間なくパンパンに膨らみ、それが大量の内出血によるものだという事だけだった。
「い、井沢君病気?・・・なにこれ見た事もないわ!」
アカネは赤紫色に変色した奇妙な光景に目を疑った。図書委員の他に、保健委員を兼任していた良く頭の回る彼女でも、ショウのこの症状は理解が出来なかった。とりあえず自分の手には負えないと思ったアカネは、携帯をおもむろに取り出した。
「とにかく病院・・・!救急車を呼ぶから!」
携帯をかけるアカネの指が震える。
しかし次の瞬間、図書室のドアが大きな音をたてて開く。
ドカッッ!
アカネは扉が壊れるような大きな音に驚き、思わず携帯を床へ落としてしまった。
「ヒッヒッヒッ、学生さぁーん。お待たせしたのう。さあお礼をしてあげようかねぇ」
本棚を挟んで、図書室へ進入する老婆の声が今度は高く細く響く。ショウは気を失うほどの痛みに耐えていたが、その声を聞いて、再び右腕の激痛を忘れ、恐怖が己を包むのを感じた。
バッ!
「!?モガモガ…!」
ショウは、落とした携帯を探すアカネの口を左手で塞ぐと、老婆に見つかるまいと本棚を背に息を殺して潜んだ。
「ここなんじゃろ?ヒッヒッ…息を抑えて声を殺して隠れてもダメダメ。私が壊した右手が、標的への発信機になっておるんじゃ。ヒッヒッ、学生さん。観念して出てきたほうが、いっそ私も楽でいいんじゃがのう」
ズルッ…ズルッ…
誰が出て行くものか。震える体でショウは、何かを引きずりながら迫る、老婆の足音の恐怖に怯えながら、憧れの先輩アカネを守ろうと、必死に息を殺した。しかし、ショウに口を塞がれたアカネは、手を振り切ろうと体を左右に振って暴れた。
ドンッ!バサバサバサッ!
瞬間、暴れるアカネの腕が本棚を強く叩くと、ショウ達が背にした本棚がググッと揺れると、その反動で、納められていた蔵書が逆側の通路へとバサバサと散らばる。
「おやぁ?おかしいねえ。誰も居ない図書室なのに、本が勝手に落ちたねえ?ヒッヒッ、なあに怖がる事はないよ、学生さん。そこなんだろぅ…」
ズルッ…ズルッズルッ…
しまった!とショウが思う暇もなく、音に気付いた老婆の何かを引きずる足音が次第に迫ってくる。どこか逃げ道は…。ショウは顔面に脂汗をたらしながら、右へ左へ目をやって、必死に逃げ道を探した。だが、並んだ本棚の通路は図書室の扉から見て一本道であり、どこから逃げても老婆の居る位置からは丸見えだった。
「ヒッヒッ、ここかなぁ?」
本棚の一列目にたどり着いた老婆の掌が青く輝く。ゆっくりと老婆が右手を本棚に置くと、青い光体が本棚を包んだ、次の瞬間
パァンッ!ドガァンッ!ドグシャアァァァァッ!!
破裂・・・?発破・・・?耳を劈く弾ける音と、ミシミシと耐え切れなくなった木材が砕けるような音を同時に立てて、青い光に包まれた本棚は、木片を辺りに撒き散らしながら、その場で爆発した。棚に納められていた本は、外へ吐き出されると空に舞い、次第に、けたたましい破裂音とともにバラバラに砕け散った。
「おやぁ?ここじゃなかったみたいだねえ」
老婆は、今度はケタケタと笑い、ゆっくりと隣の本棚へ移動した。
ズルッズルッと不気味な老婆の足音が近づき、二列、三列と自分たちの居る場所に向かって、けたたましい発破音とともに破壊されていく本棚。
それは、ショウとアカネの顔に血の気をひかせるには十分な物であった。
「おやぁ?ヒッヒッ、ここでもないのかな。まったく隠れるのが上手いねえ学生さん」
パァンッ!ドガァンッ!ドグシャアァァァァッ!!
「…!」
「あ、ありえない…なんなのあの人。井沢君、説明してよ!」
必死に息を殺す二人だったが、ショウの顔は絶望感に青ざめ、学校では優等生で通っているアカネでさえ狼狽し、その冷静さを失っていた。老婆の足音と破壊の音は確実に二人へ近づいており、ついに身を隠す本棚も、あと一つとなっていた。
「ヒッヒッ、さあ、最後だよ。おとなしく出てくれば一瞬で壊してあげるよ。本棚の下敷きになって死ぬのが良いか、私に一瞬で壊されるのが良いか。学生さん、良く考えるんだねえ」
ショウは本棚越しに聞こえる老婆の声に生きた心地がしなかった。こんな事に巻き込まれて、憧れのアカネ先輩を連れての淡い青春の妄想も、無限に拡大する期待を覚えた週末も、今、この一瞬で消えてしまうのか。生命が消えゆく焦燥感、泡の様に消えてなくなる未来、その突然の事実に愕然とするショウは、ふと、隣に居た憧れの先輩を見た。
アカネの顔は恐怖に震え、不安に怯えていた。
ショウは悔しかった。非力で無責任な自分が、いざ守ろうと思っても、憧れの人一人守れないことが余りにも悔しかった。自分が先輩を巻き込みさえしなければ、自分が先輩を好きにならなければ。憧れのこの人を、こんな危険にあわせることも無かっただろう。
アカネの顔を見たその瞬間、ショウは臆病な自分の体に最後の鞭をいれ、力の入らない激痛の走る右手を杖にして立ち上がり、恐怖に震える左手で拳をグッとつくると、最後の盾である本棚を前にして、己の内に密かに沸きあがり始めた悔しさと憤りに、その心を決めた。
「アカネ先輩!僕が本棚を倒したら逃げてください!」
「えっ・・・井沢君!?」
ショウは、足を踏ん張り、疲労した体に残った力を込めると、左手の拳を本棚に思い切りぶち当てた。ふいをつかれたアカネの目には、一瞬、ショウの顔面の黒い眼が輝くような気がした。
ドォォォォォンッ!!!
ショウの左手が本棚の中央を叩くと、震動で本棚は逆側に倒壊した。
「うっ!」
倒壊する木造の棚と納められた重い蔵書達に襲われて、老婆はなす術も無く本棚の下敷きになった。巻き上がる大量の埃と、無機質なクリーム色の図書室の壁が二人の目に見えると、ショウは強くこう言った。
「今だ!逃げてアカネ先輩!」
顔中汗にまみれたショウが、大きな声をあげてアカネに指示する。
その声、その表情はまるで、暗い青春に耐えていた夕方の彼とは見違えるようであった。
「駄目よ!井沢君!あなたも一緒に逃げなきゃ!」
口を大きく開けて、ショウよりも大きな声でアカネはそう言うと、ガクランの袖ごとショウの左腕を掴み、倒れた本棚の横の通路をショウを連れて走り出した。しつこく言い寄られ、何度も迷惑をかけられたアカネだったが、彼女は彼女なりに後輩を守ろうと必死だったのだ。
だが…
「おーまーえーらーッ!!」
ドォォォォンッ!
倒れた本棚を青い光が包むと、そこからとてつもない爆発音とともに、人影が現れる。腰の曲がった体を包む上物の着物が所々破け、温厚そうで気品の高そうな落ち着いた表情は、頭から流れる流血と憎悪に満ちた笑顔に歪み、沸々と浮き上がる血管と怒りに満ちた老婆が、ショウ達の前へと現れた!
「ぜぇっ、ぜぇっ。まんまと不意をつかれたよ…ヒャッヒャッ、だがね、学生さんを怖がらせようと思って警備員の死体を持ってきて良かったよぉ!こいつらが居なかったら流石の私も、とっさに能力を使えなかったからねぇ!」
「ッ!!」
ショウとアカネの目に驚愕の光景が飛び込んでくる。
老婆の手には、あちこち無残に朽ち果てた人間の上あごがあった。その先を見ると、警備会社の制服姿。そう、それは裏門の警備をしていた警備員の死体だった。死体の腹は醜く焼きただれ、人の肉が焦げる異臭とともに、大きな穴が開いていた。老婆は倒れこむ本棚の前に死体を滑り込ませ、それを盾にしたのだ。
「ヒャッヒャッ!さあ、学生さん。ついに追い詰めたよ。お礼の時間だ。最後まで良い声で鳴いておくれ。私の耳をさぞ満足させてくれよぉ!」
バッ!
自分達の場所まで飛び込んでくる奇怪な老婆の姿に、恐怖の余り怯えすくんだショウとアカネは、ろくな反応をすることも出来ずに、ただその場にて絶望感に打ちひしがれ立ち尽くした。
殺される・・・!そう二人が思った瞬間であった。
「ビンゴォ!!」
何もない図書室の通路から、飛び込む一筋の声が聞こえた。