Ⅲ.諦めの悪い所は嫌いじゃありません
美しく染め抜かれた絹糸の様な長い髪が、朝日に透けて薔薇色の光沢を放つ。それらはブラシにより丁寧に梳かれ、もつれのない直線の川となる。やがて三本に分けられた川はお互い均等に絡み合い、そして最終的にまた一つの川へと収束する。それらを束ね、今日の気分に合わせた菜の花色のリボンで結べば――長かったロゼの朝支度もようやく完了である。
――何でこの一連の流れをやってるのが可愛い女の子じゃなくてオッサンなんだ……
起き抜けにそんな光景を見せつけられて、寝覚めの印象は最悪なものになった。
「顔色が優れんな。どこか具合でも悪いのか」
「いや、大丈夫……おれの感性の問題だから」
腰掛けた椅子からこちらに半身をずらしておれの身を案じるロゼに、おれは左手を掲げて平気である事を示した。
「ああ、それからベッド。ゴメンな、貸してもらって。綿の入った布団ってスゴイな! 中に潜った途端寝ちゃったもん、おれ」
今も腰まで掛かっている掛布団をボフボフと叩くと、ロゼは僅かに口角を上げて「そうか」とだけ答えた。
昨日歩き通しで疲弊していたおれを案じてか、ロゼはわざわざ自分のベッドを空けてくれた。布団に入った途端急転直下で眠りに落ちたためロゼがその後どうしたかは分からないが、おそらく木の床で雑魚寝を強いられる事になったのだろう。つくづく申し訳なく思う。
早く右腕を治してこの恩に報いたい。今は殊更その思いが強く胸の中にある。
何故ならば、今、この部屋の中には『それ』を実現できるかもしれない可能性がぎっしりと詰まっているからだ。
環境は整った。後は――
「アベル」
「えっ? なに?」
先への期待感からついつい上の空になっていた。意識を戻してロゼの話に集中する。
「俺は今から今日の依頼人の所へ向かう。夜半過ぎまでは戻らないからここで待っているように。飯はイザベラに言い含めてあるから酒場で食べるといい」
そう言うと、ロゼは自分の側頭部に手を回し、おもむろに髪を一本引き抜いた。
「それから、人工精霊を置いていく。もし仮に何かあったら精霊を通して俺に連絡しろ。今日の行動範囲なら俺とも連絡が取れるはずだ」
「人工……精霊? 何それ」
「後で分かる」
ロゼは眼前の文机にある自身の日誌を手に取ると、最後の白紙のページを破り取った。それを人型の形に千切ると、先程抜いた髪の毛の先端をヒトガタの頭部中心に当てる。
「Func Make_Tulpa 24. GO.」
何らかの呪文を唱えると、手にした髪の毛がぴくり、と一瞬動いた。次の瞬間、髪の毛は針の様にヒトガタの頭部を貫くと、刺繍するかのごとくヒトガタの両面を行き交い、頭部の中心にピンク色の「●」を形作った。
けれど、それきり何の動きも無い。だが、ロゼは落胆するでも無く机の上にヒトガタを置くと、席を立った。
「最後に。昨晩も話したが……俺が指定した場所の本は読むな。分かっていると思うが、そこは魔導書の区画だ。昨日魔法の異常性を見ているお前なら、迂闊に触れていいものでないと分かるな」
「……うん」
「分かっているならそれでいい。じゃあ、行ってくる」
ロゼの後姿が入口から消え、扉が最後まで閉まる所を見届けると、おれはこの部屋に入って右側一面に配置されている本棚をぐるりと見渡した。
その本棚はきっちりと天井までの高さがあり、壁面全てを覆い隠していた。そしてその内部にはみっちりと本が詰め込まれ、ただでさえそう広くない室内をさらに圧迫感のある空間にしている。
閉所恐怖症なら敬遠する空間だろうが、おれは昨日この部屋を見た瞬間歓喜の声を上げ、ロゼに訝しげな目線を向けられてしまった。
魔法を知る手掛かりになる、という思いももちろんあったが、おれは単純に本を読むことが大好きだった。
労働に日々を費やされ碌な娯楽も与えられなかったおれにとって、本は何よりの癒しだったのだ。もちろん、親から買い与えられたものじゃない。それらはかつて生きていた祖父さんの残したものだった。
もっとも、農村部で字を読める人間などごくごく限られた存在しかいない。その限られた存在というのが今は亡き祖父と――祖父から字を学んだ姉さんだった。
◆◆◆
『アベル、あなたは聡い人になりなさい』
姉さんがかつて何度もおれに言い聞かせていた言葉だ。
おれがいた村では、文字の読み書きを覚える暇があるならまず鍬を握れ、という考えが一般的な思想だった。そんな環境だったから、大人ですら本を読める人間というのはごく一握りしか存在しなかった。
その一握りであったおれの祖父さんは、姉さんに一通りの知識を教えた後、老いでこの世を去ったそうだ。おれに文字を教えている時に姉さんがそう話してくれた。
話を聞く限り祖父さんは教養ある人物だったみたいだが、親父は祖父さんとはまるで正反対の人間だった。「教養なんざクソ食らえ、それより明日のメシだ」といった具合で、何かと祖父さんに反発していたらしい。
おれは、その考え自体は間違っていないと思うし、教養は日々の生活が成り立ってこそ身に付くという事も理解しているつもりだ。
だけど、それが祖父さんの寵愛を受けた姉さんを虐げる理由になっていいはずがない。
農作業で酷使され、痩せ細りながらも合間を縫っておれに文字を教える姉さんは、幼かった自分にもとても痛々しく映った。
一度どうしてそこまで無理を押して文字を教えるのか尋ねてみたことがある。すると姉さんは『あなたに幸せを見つけて欲しいから』と答えた。何も知らなくては幸せを見つける方法も分からない。知識があって初めてそれは見えるのだ、と。
『じゃあ、姉さんはもう幸せを見つけたの?』
そう聞くと、姉さんは少し悲しそうな笑顔を浮かべた。
『私は……もう見つけられなくなっちゃった。だからアベル、あなたにだけはそれを見つけてほしいの』
それから少しして姉さんは病に倒れ、2日間床に伏した後におれ達の前から『いなくなった』。
◆◆◆
「……」
少し嫌な事を思い出してしまった。
この境遇に置かれた今なら分かる。姉さんはおれと同じように、「いらないもの」と判断されて捨てられたのだと。けれど、感傷に浸ったところで姉さんが戻ってくる訳でも無い。願わくは、おれと同じように誰か親切な人に拾われていると信じたい。
……気持ちを切り替えよう。
おれはロゼが『禁止区画』に指定した位置の前に立ち、今までロゼが唱えた呪文が無いか背表紙を目で追った。
そしてそれに近い呪文の表題をその列の中に発見する。
『Heal』
「治療する」。ただの単語だ。そのままの意味で考えるなら、これは傷を癒す魔法なんだろう。
ただ、ロゼが唱えた呪文は『Heal_Ex』。『Ex』という言葉が追加されていた。この本と別物なのかどうか、今の段階では分からない。
とりあえず、まずは『覚えよう』。
おれはその本の上部に指を掛け引っ張り出すと、ページを捲り……めく……
――クソ、軽く流し読みする事さえ出来ないのか。
右腕が無いというのはつくづく不便だ。
床にあぐらをかき、本をその上に載せる。仕方が無いので脚で本の両端を固定し、左手で一枚一枚ページを捲っていくことにした。パラ読みより遥かに時間は掛かってしまうが、仕方ない。
本文のページを開いた。そして、文章の固まりごと『記憶する』。
次のページを開き、また同じように『記憶する』。
この単純な作業を最後まで繰り返す。
――いつもなら「パラ読み」であっという間に終わるんだけどなぁ……
農作業中は休む事など許されなかったから「それ」で記憶し、寝る前に内容を反芻して楽しんでいたが……まあ今は十分時間もあるし、たまにはこうやってゆっくり読書するのも有りかもしれない。
もちろん、禁止区画内の本を全部読むとなると相当な時間がかかる。ロゼが帰ってくる前に出来る限りの内容は『記憶』しておきたい。それまで内容の『理解』は二の次だ。
そうしてロゼの文机を背に黙々とページを捲り続けること少し、丁度一冊目を読み終わろうとしたその時――
『人格情報のトレースが完了しました。タルパ、起動します!』
突如、後方からやたら元気のいい女の子の声が響いてきた。
「えっ!?」
訳が分からず、声のした文机の方向を振り返ると――ロゼが置いたヒトガタから数㎝上の位置に、10歳くらいの女の子が浮かんでいた。腰ほどまでのこれまたピンク髪をそのまま降ろし、白く柔らかなそうなドレスを身に纏っている。特筆すべきはその大きさだ。見た感じ、大人の手の平程の大きさしかない。それを一言で形容するなら、人はこう呼ぶだろう。
「妖精……?」
『正確には人工精霊ですよ、アベル』
すかさず言葉を返され、更に驚く。しかし、その言葉の中には少し前に耳にした単語があった。
「人工精霊……お前が、そうなのか?」
『はい! 私、ヒトガタを依代にマスターの魔力で顕現した人工精霊、タルパと申します。以後、お見知りおき下さいませ』
タルパは屈託のない笑顔で答えるとドレスの裾をつまみ、礼儀正しくぺこりと頭を下げた。
人(?)にそんな仰々しく挨拶されるなんて初めての事なので、何だかこちらの方が気恥ずかしくなってしまう。
「いいって、おれ相手にそんな畏まらなくても」
『いいえ、人と繋がる上で挨拶は大事な事ですから』
そう言い、柔らかく微笑むタルパ。
見た目は幼いのに、その所作にはどこか気品を感じさせるものがあった。
しかし、ふと思う。
――このふわふわしたピンク髪の女の子を作ったのって、オッサンなんだよな……
『そういう趣味なの?』
ダメだ。イザベラの発言が頭の中に響く。
タルパが悪い訳じゃないが、オッサン作と思うだけでどうにも彼女に対する気持ちは醒めてしまった。
しかし、厄介なことになった。まさか『人工精霊』とやらがこんな意思を持った存在だったとは。これでは当初考えていた目的が達成出来なくなってしまう。
何とかこの精霊を懐柔できないかとタルパに目を向けたところ、タルパは先ほどの笑みを消し、ある一点を見据えたまま無表情で固まっていた。その目線の先にあるのは――おれの脚の上にある魔導書だ。
――やばい。
背中に嫌な汗が伝う。タルパは先ほどロゼを『マスター』と呼称していた。そう呼ぶからには、主の意向にはきっと忠実なはずだ。
『アベル……それは魔導書ではありませんか?』
きた。やっぱりタルパはロゼと交わした約束を知っている。
タルパはヒトガタから離れると、おれの目前、目線より少し高い位置に留まりおれを見下ろしてきた。
『マスターからの言伝は聞いていますね? 指定された本は読むな、と。――どうしてあなたがそれを手にしているんですか?』
タルパは淡々と問うが、その問いかけには有無を言わせぬ圧力を感じさせた。
「えーと……好奇心? 読むなと言われると余計読みたくなるというか……」
半笑いを浮かべてその場凌ぎの言葉を述べると、タルパはみるみる内に眉を吊り上げていく。
『あなたは……! マスターの忠言を無視して人の持ち物に手を付けるなど、あなたに掛けた信頼を裏切る行為ですよ? 軽く笑って済まされる行いではありません!』
この人工精霊とやら、かなりお堅い性格のようだ。ちょっとやそっとの説得では折れてくれそうにない。
――仕方ない、捕まえるか。
ロゼに感づかれる前に手早く本の暗記は済ませておきたい。一度覚えてしまえば後はこっちの物なのだ。だから、今タルパの存在はここで排除する必要がある。丁度ベッド下に手頃な箱を発見したおれは、そこにタルパを詰め込むべく片手を伸ばした。一瞬驚愕の表情を浮かべたタルパをあっさり包み込み、後は箱に詰め込むだけ――だったのだが。
「あれっ」
引き戻した手には何もなかった。それ以前に、タルパを包み込んだ時、そこにあるべき手応えというものが全く感じられなかった。まるで、元々そこに何もないかのように。
『……何の冗談でしょうか?』
タルパは依然変わらぬ位置に、満面の笑顔を浮かべて佇んでいる。――こめかみに青筋を立てた状態で。
『論で立ち行かぬなら拳で封殺しようという考えですか? ……愚者の行いですね。精神体である私に物理的干渉が及ぶ筈がありませんのに』
――マジですか。
色々難しい事を言っているが、つまり「タルパには触れられない」という事だ。それじゃあ捕まえようもない。
「あはは……おれ魔法についてはからきしだからさ。ああ、でもおれがタルパに触れられないって事は、タルパもおれに触れられないって事だよな?」
『ええ、そうなりますね』
「あー、そっか、そっかー……それじゃ仕方ない」
おれは立ち上がると読み終えた本を所定の位置に戻した。
『ああ、分かって頂けたのですね。良かった、アベルが素直な御方で……』
そして次の魔導書を棚から取り出した。
『えっ』
そしてまた床にあぐらをかくと、本の両端を脚で押さえ読書を再開した。
『ちょっ、ちょっと! 話を聞いていましたかアベル!』
気にする事は無い。今聞こえているのは『季節外れの渡り鳥の囀り』だ。少しけたたましいが、雑音だと思えば本の暗記に支障はない。
『何故こちらを向かないのですか! 私の声は聞こえている筈です!』
覚えた。次のページ。
『き、聞こえていますよね……?』
覚えた。次。
『お、お願いです……返事をして下さい……』
次。
『う、う゛ぅ……! どうして返事してくれないんですかあ……!』
次。
『うわあああん! マスタぁー! アベルが言い付けを守らないんですぅ!』
次。
『……』
次。
『……』
次。
『”何をしている?”』
次のページを捲ろうとした所で、聞き覚えのある重低音が響いた。
思わず手を止めてタルパの方を振り向くと、しかめっ面をしたタルパがこちらの方を睨んでいた。元々可愛い顔なのでそんな表情をしても怖くもなんとも無いが、その口から発せられているのは――紛れもなく、ロゼの声だった。
『”何をしているのか、と聞いている”』
「ろ、ロゼ……?」
『”精霊を通して連絡出来ると、出掛けに話しただろう。まさか精霊自ら連絡を取って来るとは思わなかったがな――で、お前は何をしている?”』
「……」
ここで誤魔化しても後々追及される事は目に見えている。だったら今、自分の正直な思いを打ち明けておきたい。
「……魔導書を読んでた。右腕を取り戻す方法が魔法にあるんじゃないかって思ったんだ。勝手に読んだ事は謝るよ。でもおれ、このまま役立たずの存在でいるのは我慢ならないんだ……! おれもみんなの為に何かしたい。だけどそれは今のままじゃ駄目なんだ。だったら、後はもう奇跡に縋るしか無いだろ?」
『”……”』
ロゼは黙っておれの言葉を聞いている。
「頼む……おれに『挑戦』させてくれ。目の前に可能性があるかもしれないのに、それをみすみす見逃すなんて真似はしたくないんだ」
ロゼは、長い溜息を吐くとおれを諭すように語り掛けた。
『”お前は、魔法を万能の奇跡と勘違いしていないか? 現に俺はお前の腕の傷は治したが、お前の腕の再生にまでは至らなかった。その事実があってなお、無駄な挑戦をするのか?”』
「無駄かどうかはおれが決める! まずは知らなきゃ、それが無駄かどうかも分からないじゃないか!」
やはりロゼはおれの魔法習得に否定的だ。
だけど、今度は譲らない。ここでロゼを押し切らなければ、おれが魔法を習得する道は更に困難になる。
おれの言葉を受けてロゼは暫く黙り込むと、ぽつりと言葉を漏らした。
『”その好奇心の強さと強情さ……お前は確かに魔法使い向きな気質だな”』
それはおれの決意を肯定するような口振りだった。
「ロゼ、それって」
『”前言撤回する。そこにある本は好きに読め”』
「や……やった!」
『”ただし、呪文を口に出して唱えるのは禁止だ。最悪――いや、確実にお前が死ぬ”』
「……分かった。約束する」
一部制限はあるが、これでロゼからのお墨付きは貰えた。まずは一歩前進だ。
『”では、もうあまり時間も取れないのでな。これで失礼する”』
そう言い、ロゼはタルパとの繋がりを断った――かに思えた。
『”いや待て。好きに読めとは言ったが、俺の日誌は読むな。それだけは守れ”』
「えっ、あ、うん」
『”じゃあな”』
若干慌てた声で追伸を残し、今度こそロゼからの連絡は途絶えた。
余程見られたくないような内容なんだろうか。――気になる。
『マスターの意向とあらば、仕方ありませんね。あなたの本音も伺えてよかっ――アベル? どこへ行くんですか?』
ロゼとの繋がりが途絶えたタルパはまた本来の人格に戻ったようだ。しかし、今はそれよりも優先すべき事柄がある。
おれは立ち上がり、ロゼの机の上に置いてある日誌を先頭から真っ先に開いた。
――えーと何々、『お父様、本日ここで暮らし始めてから
『駄目ですーーー!!』
まだ碌に目を通さない内に、タルパはおれの体をすり抜け最短距離で日誌の前に立ち塞がった。どかそうにもタルパに触れる事は不可能なので、こうなってしまってはもう日誌の本文を見る事は不可能に近い。
「ちょっとくらいいいだろ? ほら、見るなと言われると見たくなるんだって」
『駄目ですっ! これだけは死守しないといけないんです!』
日誌を様々な方向に動かすが、その動きにもタルパは執拗に付いてくる。
「というかタルパ、魔導書の時もこうやって本文隠せば見られずに済んだのに」
『わ、忘れていたんです! あなたが唐突にあんな行動取るからいけないんじゃないですか!』
――この精霊、想定外な反応には弱いのか。いい情報を貰った。
結局、日誌の内容はタルパに阻まれ、読むことは出来なかった。――ただし、一、二ページを除いて。
開いたページを見れば、内容の理解は別としてその文章の『形』は覚えられる。
差し当たって、今日寝る前にこの内容を思い出すとしよう。寝しなに物語を思い出すなんて久々だな、と若干の懐かしさを覚えながら、おれは引き続き魔導書の暗記に努める事にした。