夜越し再び
祖父ちゃんが軽トラを運転しながらボクに聞いた。
「杓子様は夜でも見えるんか?」
「夜は見た事がないから分からない。でも、近くに居るっていう感じはあるんだ」
「そうか、倉木さんが間に合ってくれりゃいいがの」
そうだ、倉木さんがいないと結界が張れない。
倉木さんは村の東側にいっていたはずだ。もちろん最初に例の地蔵を確認しているだろうから、佐伯さんの電話を受けた時には神社からだいぶ離れた場所のはずだ。
また不安と恐怖がボクを飲み込もうとしていた。
ヘッドライトに照らされた鳥居が見えてきた。
電話を受けてから10分も経っていないだろう。
「よし、颯太着いたぞ」
ジャリジャリと玉砂利を踏んで軽トラが留まった。
その直後、ガリガリッ、ドンッという大きな音に振り返ると、道路の側溝に車が脱輪して電信柱に追突していた。
その助手席のドアが開いて、倉木さんがよろめきながら近づいてくる。
「お、お待たせしました」
「倉木の!大丈夫かや!」
「問題ありません。物置へ急いでください」
祖父ちゃんの声に、顔をしかめながら笑った倉木さんのこめかみには血が流れている。
「佐伯の叔父貴が出てこんが大丈夫かや」
「シートベルトはしていたので大丈夫でしょう」
それを証明するようにクラクションが短く鳴った。
「おぅ、大丈夫のようじゃ、よし颯太いそげ」
ボクらは駆け込むように倉庫に入った。
倉木さんはジャージの上下だったが、元よりそんな事は関係ない。前回と同じよう酒を飛ばして結界を張った。
「すぐに新聞紙を貼るように。6:00から6:30の間に出て来てください」
「颯太、何が何でも戻ってこい!」
「大丈夫、颯太君が強いのは前回で分かっています。自分を信じてください」
ぼくが言葉を返す間もなく戸が閉められた。
ボクは急いで新聞紙を貼りつけた。
前回音がし始めたのは夜中の1時頃だった。
今は夜8時を少々回ったところだ。
1時間ほど後、遠くでガリガリという音がするのが聞こえた。
一瞬ドキッとしたが、側溝に落ちた車を撤去しにきたのだろう。
かすかに人の声も聞こえる。
近くに人が居るというだけで、こんなにも心強いものなのだろうか。
そういえば、小学生のころの暗くなった帰り道で、人家の明かりが見えるだけでほっとしたものだ。所詮人間なんて1人でなど生きられはしない。
そんな事を考えているうちに全く音が聞こえなくなった。
不安は不安だが、前回より落ち着いていられた。
日の出の時刻も調べてあるし、時計も何種類か持ってる。
時計の極め付けは佐伯さんが持ってきてくれた砂時計だ。計れるのは5分だが僕にとってはありがたい。
歯の治療で使っているマウスピースも持っていたので装着した。これで歯茎を折るような事はないだろう。
結界を張るのは慌ただしかったものの、他の準備は前回とは比べ物にならないほど整っている。
しかし、ボクが落ち着いていられるのは、“開き直り”というか“諦め”というか、一旦は死を覚悟したという部分が大きかった。
もし僕が死んでも後の事は祖父ちゃんがやってくれるだろう。
それに夜越しが失敗してもしばらくの間は誰も魅入られる事がないのだ。
人が死を受け入れるとはこういった事なのかもしれない。
憂いがなく、意味があれば、死というものを少しだけ受け入れやすくなるのだろう。それは覚悟と通じるものなのかもしれない。
それでも死ぬのは嫌だけど。
『おまえ、強くなったな』という佐々木課長の言葉が思い出された。
『行ってみようかな、本社・・・』
ふと外の雰囲気が変わるのが分かった。
時計をみると12:00。
前回より1時間早い。
しかし、気配を感じる。それは戸の方からじっと見つめられているような感覚だ。
やはり怖い。
自分が強くなったと思った事を謝ってしまいたいくらいだ。
ボクは念じた
ボクは強くなった、強くなった、強くなった
できる、できる、できる
「あなたは強くなった」
それはすぐ隣から聞こえた。
『ひッ』
何とか声が出るのは抑えたが、前回の恐怖が蘇った。
アパートに残された痕跡が脳裏に浮かんだ。
声は続いて聞こえた。
「ヒオシにふさわしい」
「願いをかなえる」
「ヒオシの願いをかなえる」
ボクの頭は混乱の中で回転を始めた。
ヒオシってなんだ?
前回の夜越しでも聞いた“ニエ”と“ヒオシ”。
ニエは贄と書き、まさに生贄と同じく神への捧げものだろうと思われた。
しかし、ヒオシについては祖父ちゃんも知らなかったしはっきりしなかった。
倉木さんが言うには、江戸時代にこの地域で大規模な一揆があり、その頭目が“ヒオシ”と呼ばれていた記録があるそうだけど、記録は少ないし、杓子様の言い伝えにはヒオシという言葉がないという事だ。
だから“ヒオシ”という言葉はボクの聞き間違いだと思っていた。
だが、今はっきりと聞いた。
「ヒオシ」
そして壁を叩く音が聞こえ始めた。
それに併せて気配も周囲を動き始めた。
ボクが怖かったのは祖父ちゃんに似せた声だ。
あの声はもう二度と聞きたくない。
やがて物置全体が異様な音を立て始めた。
みしッ、ぎぎッ
今にも壁が倒れて天井が落ちてくるんじゃないかという音だ。
音の事は聞いていたし、ボクは倉木さんを信頼している。
それに建物につぶされて死ぬくらいなら腐って死ぬより“マシ”だ。
ボクの脳裏に、大丈夫だと言ってくれた倉木さんの真剣な顔が浮かんだ。
まさにその時。
「颯太君、倉木です。結界が不十分でした。じきに結界は破られます。今のうちに逃げましょう。早く出て来てください」
腰を浮かしたボクは思った。
これは本当に倉木さんなのかと。
「颯太君、済みません。急いだせいで西の部分が弱かったのです。西から杓子様が入り始めたら戸を開けて出て来てください」
倉木さんの声だ。しかも結界を急遽張った事も知っている。
本当に倉木さんなんじゃないのか?
混乱するボクの左側、つまり倉庫の西側から音が聞こえた。
それは小さな「カリカリカリ」という音だった。
それに続いて「ぎッぎぎッ」という音が聞こえる。
これって杓子様が結界を破ろうとしている音なんじゃ?
更に「とん」という音が床で鳴った。
ボクは心臓を掴まれたような気分だった。
その音は少しづつボクに近づいているのだ。
ボクの頭の中では声が響いていた。
『ライトで照らせ』『確認しろ』ボクの頭でもう1人のボクが叫んでいる。
でも動けなかった。
真っ暗な部屋の中、ライトの丸い光に照らされた杓子様を見たらボクはどうなってしまうだろう。
死んだ方がマシだ。そう思った。
死を恐れて生まれたボクの恐怖心は死を超えてしまったのだ。
そうこうしているうちにも音は近づく。
しかし、ボクのすぐそばで音は途絶えた。
『やっぱり杓子様の仕業だったんだ』
祖父ちゃんの声も聞こえた。
「颯太、早ぅ出てこい、お父ぅとお母ぁが迎えにきとるぞ」
佐伯さんの声。
「何をしている、お前のせいで皆が苦しんでいる。お前が助かっても誰かが身代わりにならねばならんのだ、それでも助かりたいのか」
ボクは耳をふさいでいた。
でもその声は小さくなるどころか大きく聞こえるのだった。
その後は誰だかわからない男の野太い声や、甲高い女の声がボクを罵った。
暫く耐えていると全く音がしなくなった。
歯を食いしばって震えながら時計をみると3:30だった。
日の出は4:36分。あと1時間だ。
あと1時間、ボクは石になろう。
何があってもこのままでいよう。
それから30分くらい後だろうか。
戸が小さく叩かれ、か細い声が聞こえた。
「一緒に来て」
アヤさんの声だった。
杓子様はアヤさんを知っている。ボクに関係する人間としてアヤさんを知っている。
「私と一緒に行こう、助けて颯太君」
「これだけお願いしても来てくれないの?」
「お願い、お願い、お願い、お願い・・・」
アヤさんを知っているという事は、杓子様は少なくとも姿を現す前日以前にボクを発見していたという事になる。
どこからボクを見ていたのだろう。
アヤさんに危害が及ぶかもしれないという不安と同時に怒りが込み上げてくる。
でも、ボクにできるのは何もしない事なのだ。
もう迷わないし、怖くもない。
祖父ちゃんを、倉木さんを、佐伯さんを信じ、自分を信じてる。
時計を見ると4:00で止まっていた。
ライトも点かない。
けど大丈夫だ。
そうだ、ボクは一人じゃない。
そしてボクは夜明けを迎えた。
戸の隙間から入る光は、それは微かであろうと砂時計を見るには十分だった。
暗闇で一晩耐えたボクにとっては希望の光なのだ。