【ミロク伝】 サンザ
天保7年(1836年)
折しも天保の飢饉が最大規模となった年である。
天保の飢饉といえば江戸三大飢饉の一つであり、その規模と被害から「てんぽ」という言葉が「大変な」という意味を示すようになったともいわれる。
各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、幕府直轄領である甲斐国で発生した百姓一揆(天保騒動または甲州騒動)は、甲斐国一国規模であったという。
一揆の鎮圧は各所で成果を上げていた。
一時はその数で勢力を誇った一揆軍であったが、所詮は無宿人に率いられた農民と流人の集まり、正規軍には到底及ばなかったのだ。
しかし、その中で幾度も鎮圧軍を退けた一揆勢があった。
その一揆勢は暴徒ではなく一揆の作法に乗っ取った行動を示していたが、その中に“サンカ”と呼ばれる者共が協力していたため、サンカを恐れる役人の上訴により危険な一揆勢として厳しい攻撃を受ける事となってしまった。
一揆勢の主力は高い戦闘力と機動力を持つ流民の集団。
ある地域の確保と自治を主張し、鎮圧軍の侵入に激しい抵抗を示した。
しかし、農民は早々に投降しており、一揆勢との共闘は偶然の一致であったのかもしれない。
残ったのは山を守る流民の集団と鎮圧軍との激しい戦いだった。
◇*◇*◇*◇*◇
「あそこぞ!」
叫んだ兵士の指す先、大木から見下ろしていた男は紛れもなく、ヒオシと呼ばれる流民の首領だ。
その男は、長身にして端正な顔は女子を思わせるほど白かった。
しかし、それは陽が当たらぬ場所の植物のように、儚さと艶やかさを感じさせた。
この男が約100年ほど前に姿を消した青年武士だろうとは誰も知らなかった。
「射てまえ!!」
射かけられた矢を避けた身体は、身を隠す林の中ではなく、兵が散開する地に跳んだ。
空と表現しても良い高さから両手両足で着地した姿は獣のように見えた。
「な、なにをしておるか!かかれッ!」
「相手は穢人じゃ!殺れ!」
わっと群がる様にミロクに向かう槍、刀。
しかし、槍は空を刺し刀は地を打つ。
「と、跳んだぞ!」
ミロクは軽々と殺陣の外へ身を翻した。
「あのように高く跳ぶとは・・・やはり物の怪か」
「叔父上、ここは私が」
「おぉ、サンザ!」
サンザと呼ばれた若武者は討伐軍を指揮する松岡の甥、助左衛門である。三人兄弟の兄が伝左衛門、仁左衛門である事から三番目の左衛門、サンザと呼ばれていた。
身長は三尺九寸(177㎝)の偉丈夫で、太い眉と張った顎はこの男の体の頑強さを現していたが、鼻筋はとおり目元は涼しく、近隣の婦人衆には美丈夫三左と持て囃されていた。
太平の世とされる江戸時代、地方役人の三男では名を残す機会も得られまいが、時代が時代なら一角の者になったであろう若武者である。
騎馬で参加したサンザの得物は三尺七寸の大太刀。徒士で戦うには大きすぎるが、サンザが持つとまるで違和感がなかった。
つぃ、とサンザが前に出るや兵たちは左右に避けた。
ミロクとサンザの間は四間(7mほど)離れて対峙した。
ミロクも上背ではそれほど劣らぬが、色白で女のような細い線は、サンザの前では柔弱にすら見える。
しかし、呻くように聞こえたのはサンザの声だった。
「弓をもて」
兵たちはどよめいた。
相手は穢人とはいえ首領であるし、得物は刀一振りのみ。
兵たちはろくな武装もない一揆勢を殲滅するのに気が倦んでいたのか、助左衛門の大太刀を見たいのか、何より、一騎打ちで敵の首領と闘う“武士”を期待していたのであろう。
それが刀戦を避けて弓を使うというのだから兵たちに落胆の色が見えるのも当然であった。
「早く、弓をもて」
サンザに弓が手渡される。
「お主」
ミロクの涼しい声が響き、視線がサンザのそれとぶつかった。
「お主、分かるのか」
「分かるもなにも、人外を討つのに人の道理はいるまい」
ミロクは俯くようにして小さく笑った。
「つまらぬ事を聞いてよいか」
「言うてみい」
「人外とは、我らの卑しさゆえか」
「否、我ら武士にとって卑しさとは義なき事のみ。我が申した人外とはお主の力よ」
「サンザと申したな、良き男振りよな」
「弱音を言わせてもらえば、お主が人であった頃に立ち合いたかったものよ」
「ふっ」
ふははははは
張りつめた戦場の空気に二人の哄笑が響いた。
ミロクは刀を八相に構えた。
「参る」
サンザは声もなく矢を射った。
連続で射つこと四矢、ミロクがやや退りながら全てを叩き落とした時、抜刀したサンザが目前に迫っていた。
ガキぃッ!
ミロクは純粋に驚いていた。
サンザの打ち込みはこれまで経験した事もないほどの衝撃だ。
さらに打ち込まれる大太刀と共にサンザの言葉が響く。
「皆の者!弓を構えよッ!」
今度こそミロクは本気で驚いていた。
この男、我の力を冷静に見ている。
これほどの力量があれば勝機があると考えるのが普通だ。しかし、あわよくばなどとは考えない。
この胆力と剣圧、そして冷徹な判断。
そこには己の功名も面子もない。
ミロクは長く忘れていた冷たい汗を感じた。
このサンザなる男、生まれる時代を間違えたか。
「恐ろしい奴め」
「お前が言うか!」
なおも大太刀を打ち込むサンザが吠えた。
さらに数合打ち合った後、ひときわ強力な一撃がミロクを襲う。
ミロクが見せたわずかな隙をサンザは見逃さなかった。
ミロクの腰辺りを正面から蹴った。
傍からは優勢に見えたサンザではあったが、“少しでも手を緩めれば一突きでやられる”それを強く意識すればこその攻勢だったのだ。
蹴ったサンザが後方へ跳びながら叫んだ。
「放てッ!」
しかしミロクの跳躍が早かった。
兵達が放った矢は空しくミロクの残像をすり抜けていった。
それを見下ろしたミロクの目が見開かれる。
サンザが弓を引いていた。
「ヒオシよ!もらったぞ!」
もとよりミロクは二の矢から身を隠すべく大木の後方へ向けて跳んでいたのだが、サンザの矢はその時を与えなかった。
ミロクにできるのは身体を捻って急所を外す事だけだった。
左の脇腹に矢を突き立てたミロクが籔に落ちた。
「やったぞ!」
歓声が上がり、兵士たちが籔へ走り寄る。
「油断すな!」
サンザの声と同時に籔が揺れた。
“ざんッ”
籔から飛び出した影が兵2名を斬って走った。
射線上にサンザがいるので矢を放てない兵をしり目に、刀を真っすぐに突きだしてサンザに向かう。
大太刀の長さを打ち消す突き。
元より相討ち上等の突進だ。
「助左衛門殿!」
叫ぶ兵達の後ろで籔がもう一度揺れた。
「馬鹿者!左じゃ!!」
叫んだサンザは突き出された刀を弾くように払った。
払われて2間(3.6m)ほど横へ跳んだのは顔に青痣がある男だった。
脇差も抜いて二刀に構えている。
『 囮か。しかし、こいつもかなりできる 』
痣の男がジリジリと位置を変え、相対するサンザは自然とヒオシとの戦いから切り離された。
サンザの後方では叔父の声と兵の喊声に交じって、金属同士がぶつかる音、布を引きちぎるような音が聞こえる。
サンザは自分から前に出るが、痣の男は距離を取って退いた。
「ちっ、こやつ己の仕事を心得ておるわ!」
「サンザ!そやつは儂に任せろ!」
叔父が騎馬を寄せて叫んだ。
ミロクを討ち取るのはサンザでなければ無理と判断したのだろう。
サンザは叔父と入れ替わるように後方へ駆けた。
そこには信じられない光景があった。
配下の兵は誰一人として残ってはいなかった。
あるのは死体、兵士の骸だ。
その中から刀を杖に立つ者がいる。
ミロクだ。
「お主の兵どもはなかなかやるものだな」
身体の左半分を赤黒くに染めながら口調は涼しげですらあった。
サンザは大太刀を握りしめ大股で歩きながら吠えた。
「お主、なぜそこまで戦う!」
ミロクはあくまで穏やかだった。
「気に入らぬからよ」
「なんだと?」
「お主もそうであろうが」
男子と生まれ、身を鍛え、剣を磨き、それをどうした
お主の刃の先にあるのは何だ
この呆けた太平の世に
武士よりも民が身を焦がさねばならぬこの時代に
生まれた事を悔やんでいるだろう、ならば我が僅かばかりでも鬱憤を晴らさせてやろう。
「来いッ!」
「おぉッ!!」
もとよりサンザは死ぬつもりだった。
これだけの兵を失っては、叔父はただでは済むまい。
「松岡家は終いじゃ・・・」
しかし、この男だけは斬る。
勝つは無理でも相討ちなら・・・
青痣の男が気になるところだが、叔父とて種田流槍術の使い手だ。むざむざやられはすまい。
ヒュンッ
聞きなれた弓の音と同時にミロクの胸を矢が貫いた。
「う、くはぁっ」
ミロクの声と共に矢は引き抜かれた。
「がはっ」
次の声と共に大量の赤黒い液体が吐き出される。
対峙する2人を取り囲むように現れたのはおよそ200の兵。
「来たか!」
松岡の声は息も絶え絶えだった。
一瞬の隙をついて痣の男がサンザに迫る。
「待てッ!!」
ミロクの声に痣の男は横に避けた。
あまりの威勢に取り囲んだ兵も怯んだ。
「無念じゃ」
ミロクは一言残して倒れた。
その平原に風が吹く。
それは一筋の突風といえた。
思わず腕をかざして風を避ける。
そして風が止んだ時、それはそこに居た。
「な、なんだ・・・あれは」
松岡の視線の先には白い煙のようなものが蠢いていた。
それは次第にはっきりとした人の形となり、「ぼぼぼぼ・・・」と不思議な音を立て始めた。
高さは8尺にも及ぼうかと思われた。
痣の男が怯えた声がやけにはっきり聞こえた。
「ヤナ様・・・」




