夜越し
正装した倉木さんの「任せてください」という言葉が頼もしかった。
必要なものは一通り準備してきたと言うので、早速神社に向かう事になった。
時刻は午後2時半を過ぎている。
倉木さんは皆にあれこれ言いながら、物置の内側に新聞を糊で貼り、またその上から貼り、床も天井も全て新聞で覆った。倉木さん曰く紙なら何でもいいらしい。
四隅に札を貼って盛塩が置かれ、中央には“ござ”が敷かれた。
その上に木の台が置かれ、手際よく榊や札などが飾り付けられる。
その前に座ったボクにお札とライトが渡され、横には毛布と携帯用の簡易トイレが置かれている。
倉木さんは酒を指で飛ばして何か唱えながら壁際を何周かしたあと、ボクにもお酒を飛ばして更に唱え、榊を振った。
「私たちがここを出たら、戸の内側にも新聞紙を貼ってください。明日の朝まで、声を発しない事、飲食せぬ事、眠らぬ事、以上を守ってください。もし外から声を掛けられても応えてはなりません。激しい音がしても外に出てはいけません。家族の声をまねたり、火が燃える音や建物がつぶれるような音を出して、魅入った者が外に出るように仕向けるそうです。ところで時計は持ってますか?」
「は、はい、あの、スマホがあります」
「良いでしょう。ただ、音が鳴らないようにしてください。通話はもちろんメールも控えてください。夜っぴきうろついた杓子様は、日の出から朝五ツ(8:00)までの間は山に戻ると伝えられています。早く村から出たいのはやまやまですが、前回は日の出直後に逃げて失敗しています。明日の日の出は5:17ですから、6:00から6:30の間にここから出てください」
「は、はぃ」
声にならなかった。
「大丈夫です。この中には絶対に入ってこれません。この結界は内側からしか解けないのです。ですから朝になっても私たちが外から声を掛けたり戸を開けたりする事はありません。必ず颯太君から出て来てください」
「は、はぃ」
やはり声にならなかった。
「気を強く持ってください。夜明けまでに鳥居のところへ車をつけておくので一気に村から出られます。良いですね?」
「はぃ」
「颯太」
祖父ちゃんの声も遠いように聞こえた。
「これを持っておけ」
手渡されたのは祖父ちゃんの時計だった。
「わしはな、この時計を巻いとる時に何度も危ない目にあってきた。だが、聖岳で滑落した時も、天竜川で流された時も、わしは助かった。だからこれを腕に嵌めとけ。わしもそこに居る。お前と一緒に夜を過ごして、闇を耐えるんじゃ」
「うん、ありがと、祖父ちゃん」
ボクは泣きながら時計を腕に嵌めた。
「もう4:00を過ぎています。私たちは出ましょう。颯太君、我々が出たら、ライトを点けて新聞紙を貼る、そして明日の朝6:30まで頑張って下さい。闇が恐ろしい時は目をつぶって。いいですね、声や音に惑わされないで下さい。」
「颯太君がんばれよ」
みんなが声をかけてくれる。
「颯太、わしも一緒に頑張るからな」
祖父ちゃんの声を最後に戸が閉じられた。
内部は真っ暗になった。
この時点でパニックを起こしそうだった。
慌ててライトを点けて、新聞紙を貼り付ける。
戸の内側にも貼ってあったので、ボクが貼ったのは戸の隙間の部分だけだ。
新聞紙を貼り終わって落ち着くと、むしろライトを点けた方が恐怖が大きくなるのが分かった。
ライトを消すと、戸の隙間から差し込む太陽の光が、新聞紙を通してほのかに感じられる。
少し落ち着いてくると外の音が聞こえた。
雀だろうか、小鳥の鳴き声が聞こえる。
そうだ、外はまだ十分に明るい時間なのだ。
よし、落ち着こう。
色々と思いをめぐらした。
社会人になって1年、失敗ばかりだった。
ボクは何もできなかった。
仕事でもプライベートでも。
弱いボクは何もできなかった。
自分が良いと思った事も、正しいと思った事も。
ボクを信じてくれた人にも、ボクに期待してくれた人にも。
だから今回は耐えてやる。
やがて隙間からの光も途絶えた。
完全な暗闇。
さっきの決意もどこへやら、気が狂いそうだ。
倉木さんの言葉を思い出して、目をつぶって耐えた。
どれくらい経っただろう。
極度の緊張のせいか意識が朦朧としてきた。
その朦朧とした意識に逃げ込もうとする自分がいる。
眠っちゃだめだ。
時間を確認しようとしてボクは吐きそうになった。
スマホのバッテリーは切れている。
時間が確認できなければ外に出るタイミングが分からないじゃないか。
なんで、いつも・・・、なんでボクは・・・
そうだ、時計!
祖父ちゃんの時計を思い出した。
祖父ちゃんの「わしもそこに居る」という言葉が思い出されて心強かった。
操作が分からないのでライトで照らすと、 時刻は夜中の1時過ぎ。
あと5時間、このまま何事もなく過ぎれば・・・
ぴしっ
木の鳴る音がした。
ボクは慌ててライトを消したが、それは順番にボクの右、後ろ、左、前の順に聞こえた。
次に同じ順番で壁を手で叩くような音がし始めた。
何周かすると音は消えたが、物置の外壁沿いに何かが動いているのを感じた。
ボクは嗚咽が漏れないように両手で口を押えていた。
心で叫んだ。
助けて助けて助けて助けて・・・
「助けてあげる」
不意に横から声が聞こえた。
『ひっ!』
息が止まりそうになった。
その声は確かにすぐそばから聞こえた。
しかし気配は物置の外周を回っている。
ボクは涙と鼻水を流しながら歯を食いしばって目を強く閉じた。
“とん”
戸が外から叩かれた。
「開けて」
若い女の人の声、若いというか少女のような声だった。
ボクは歯を食いしばって耐えた。
「ニエではない」
「ヒオシ」
ニエ?ヒオシ?
ボクは恐怖の中で冷静に疑問を感じている自分に気付いた。
この声は杓子様なのだろうか。
「人間の苦悩から放たれる」
「ヒオシは力を授かる」
「時が無い。もうすぐ・・・」
このような声がしばらく続いて途切れ、あの声が聞こえた。
「てんぽ、てんぽうかか、えにおしとと、てんぽぽぽぽ・・・」
耳を両手でふさいでもその音は聞こえた。
ボクの心が叫んだ。
『やめてくれ、やめてくれぇぇ!!』
ジャンパーを頭かぶるようにして時計を確認するとさっきと同じく1時を指していた。
『!?・・・止まってる?どうして?』
混乱するボクに追い打ちをかけるように、ライトの光も見る間に弱くなって何度か瞬いたかと思うと、ふっと消えてしまった。
明らかに何らかの力が影響しているとしか思えなかった。
頬が痺れるように震え、血の気が引くのが分かった。
どうすればいい?
6:30から7:00の間に出なきゃいけないのに、時間が分からないでどうすればいい!?
次第に僕の呼吸は荒くなっていった。
ふと外の気配が消えた。
それからどれくらい経っただろうか。
何の気配も感じないのに手の震えが止まらない。
コンコンコン
戸が叩かれた。
「颯太?大丈夫か?杓子様は室屋に帰りなさったぞ、はよ出てこい、もう安心じゃ」
祖父ちゃんの声が聞こえた。
ボクは立てなかった。
正座していたせいか、腰から下の感覚が無いほど痺れていたのだ。
もしかすると腰が抜けているのだろうか。
戸まで這うように進んだ。
「早ぅ、ここを開けてくれ。時がない」
ここで気づいた。祖父ちゃんの声に似てるけど違う。
そういえば、戸の隙間から光を感じない。
つまりまだ夜が明けてないという事だ。
“声を似せて戸を開けさせようとしている”という事実がとてつもない恐怖だった。
恐ろし過ぎて、その場で膝を抱えて小さくなった。
怖い怖い怖い
助けて助けて助けて
ボクは小さくなって消えてしまいたかった。
小さくなって空気とすら触れていたくなかった。
どんどん小さくなりたくて全身を強張らせて震えていた。
助けて、祖父ちゃん・・・
はっと思い出した。
昔、祖父ちゃんから聞いた神社の方角の事を。
「いいか颯太、神社というの南を向いとる。これは“天子南面す”と言われるからじゃ。例外もあるようじゃが、この村の神社も全部が南を向いとるわな」
ボクは幸運に感謝していた。
“この物置の戸は東向きだ”
つまり日の出と共に陽が当たるはずだ。倉木さんは日の出は5:17だと言っていた。
それから43分、つまり2,580秒かぞえて出ればいい。
ぴったりは数えられないけど、6:00から6:30の間だから30分の余裕がある。
少し多めに数えればいいだろう。
ボクは3,500秒数える事にした。
小学生のころ、時計を見ずに1分を計るという遊びが一時的に流行ったことがあって、ボクは誰よりも得意だった。その時の数え方が、テレビ時報を頭に描いて、一定のリズムを刻むという方法だった。
目をつぶってテレビ時報の画面を描き、頭の中でリズムを刻む。
感覚がこれ以上ないほど張りつめていたせいだろうか、しばらくして、外の雰囲気が変わるのが分かった。
その時、ガタンという音と小さな悲鳴のような声が聞こえ、戸の隙間にうっすらと陽の光を感じた。
ボクは数え始めた。
リズムはともかく、数え間違いだけは避けたい。右手は1秒を左手は10秒を数え、100秒は足の指を使う。
ボクの頭の中には時報の画面しかなかった。
恐怖も喉の渇きも全てを忘れて没頭した。
むしろ3,500秒を数え終わった時の方が緊張していた。
しかし、迷っている猶予はない。
戸の新聞をはがすと隙間から入り込む細い光がオレンジ色の光線のようだった。
ボクは戸を一気に開けて光に包まれた。
その後の記憶はない。
*-*-*-*-*-*
僕が出てきたのは6時10分だったそうだ。
ボクは皆に抱きかかえられて車の後部座席に乗せられ、祖父ちゃんが抱きしめて守ってくれたらしい。
車の移動は10分程度だが、何事もなく村の外、つまり結界を出る事ができた。
集まってくれた人の中には拍子抜けした人もいたらしく、杓子様が本当にいるのか疑う声もあったらしいが、物置の内側を見て全員が凍りついた。
盛り塩と札は黒く変色し、榊は全て枯れていた。
そして、物置の東側、つまり戸がある側の新聞は、建物に覆いかぶさるような人の形に黒く変色していたという。
ボクが持っていた祖父ちゃんの時計もライトも内部が真っ黒になって壊れていたらしく、今回使用した札や榊と一緒に処分したという事だ。
この話をボクは病院で聞いた。
ボクは脱水症状で入院したのだが、全身に線維筋痛症を疑われるほどの筋肉痛があったし、強く歯を食いしばったせいで歯茎が3本折れていた。
数日で筋肉痛は改善したが、歯の治療は暫くかかりそうだ。
以上が、ボクが杓子様に魅入られ、逃れた顛末だ。
そして、それが祖父ちゃんの家に行けなくなった理由でもある。
これによってボクは会社を1週間ほど休まざるを得なかった。
会社には屋根からの転落事故と説明したが、迷惑をかけたのは間違いないし、会社に行くのが憂鬱になりそうだ。
そして、10日後、出社したボクを待っていたのは、異動の内示だった。
異動先は東京本社。
ボクは思わずつぶやいた。
どうして?